1869年 藤田組商会を創業

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長州萩出身・元奇兵隊の藤田伝三郎が、1869年に大阪で藤田組商会を興し、井上馨ら長州人脈で官需を取り込んだ。1884年9月に官営小坂鉱山の払下げを受けて鉱山業に参入、久原房之助の黒鉱自溶製錬(1902年)で閉山寸前から逆転、戦後1945年12月に同和鉱業へ改称した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 藤田伝三郎は1841年に長州萩の醸造業の家に生まれ、奇兵隊出身の経歴を持って維新後の大阪へ出た。1869年に同郷の井上馨・山県有朋ら明治新政府の長州人脈を足場に藤田組商会を興し、新政府軍向け軍靴・軍服の納入で初期資本を蓄積、1881年には兄弟3名で藤田組合名会社を組織して土木建築・運輸業へ事業領域を広げた大阪財界の中核となる商人として頭角を現した。
  • 1884年9月、明治政府の「工場払下概則」の改正で官営事業の民間払下げが本格化する局面で、藤田組は秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受けて鉱山業へ参入した。開発資金は旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れて確保し、1881年の院内銀山・阿仁銅山払下げを受けた古河市兵衛と並ぶ明治期の鉱業王の出発点となった。
  • 取得後10年経過しても黒鉱製錬の技術が確立せず融資元の毛利家から閉山指示が出たが、現場の久原房之助が井上馨の支援で事業継続を勝ち取り、1897年6月に銚子第一発電所で水力発電、1898年1月に黒鉱乾式製錬、1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業を相次いで実現、1906年には小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位となる逆転を果たした。
  • 1899年5月に岡山児島湾干拓事業に着手し鉱業以外の長期固定資産投資を始動、1912年に伝三郎が72歳で没した後は息子3名が藤田組を継承した。1937年の日中戦争以降の戦時統制下で1944年2月に本店を大阪から東京へ移転、1945年12月に商号を同和鉱業株式会社へ変更して藤田家の同族財閥色を薄め、1949年7月に東京証券取引所に株式上場した。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

藤田伝三郎は長州人脈を足場に新政府軍納入の官需商人として藤田組商会を発足、1884年の官営小坂鉱山払下げで鉱山業へ参入し、1899年の児島湾干拓で農業基盤の固定資産を蓄積する事業分散戦略を採った。1912年の伝三郎没後は息子3名が継承、戦時統制を経て1945年12月に同和鉱業へ商号変更、藤田同族財閥から独立鉱山会社へ転じた。

1869 藤田組商会発足
1881 藤田組合名会社化
1884.9 鉱山業参入
1899.5 児島湾干拓着手
1912 創業者没・息子継承
1945.12 同和鉱業へ商号変更
資金調達 どう資金を工面したか?

1869年の藤田組商会発足は新政府軍納入の運転資金から出発し、1884年の小坂鉱山取得時の開発資金は旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れて確保した。1885年の藤田組合名会社は資本金100万円規模で発足、1899年の児島湾干拓は藤田組の自己資金で着手、1945年の同和鉱業発足を経て1949年7月の東京証券取引所上場で公開企業の資金調達基盤を整えた。

1869 軍需納入で資本蓄積
1884.9 毛利家から20万円借入
1885 資本金100万円規模で合名会社
1899.5 児島湾干拓を自己資金で
1949.7 東京証券取引所上場
製品サービス 何を作って売ったか?

創業期の主力は新政府軍向け軍靴・軍服の納入と土木建築請負で、1884年以降は小坂鉱山の銀・銅・亜鉛・鉛の鉱産物が中軸となった。1902年の黒鉱自溶製錬確立で量産体制が整い、1906年には小坂が国内産銅額一位、1919年には豊崎圧延工場で金属加工に進出、戦時期は重要産業統制下の非鉄金属供給を担う体制で1949年上場期を迎えた。

1869 軍靴・軍服の納入
1873 土木建築・運輸へ拡張
1884.9 鉱山業(小坂)開始
1897.6 銚子第一発電所
1898.1 黒鉱乾式製錬
1902.6 黒鉱自溶製錬
1906 小坂が国内産銅一位
1915 花岡鉱山買収
1916 柵原鉱山形成
1919.3 豊崎圧延工場で金属加工
主要顧客 誰に売ったか?

創業期の主要顧客は陸軍省・大蔵省ほか明治新政府の官需で、土木建築は政府発注の橋梁・道路・港湾を引き受けた。1884年以降の鉱山部門は国内外の銅商社・伸銅業者が主要顧客となり、1937年の日中戦争以降は軍需用非鉄金属の重要産業統制下で陸海軍・軍需省が事実上の主要顧客となった。戦後は電線・伸銅業者と電力・通信事業者が再編後の主軸顧客となった。

1869 陸軍省・新政府官需
1884 国内外の銅商社
1937 重要産業統制下の軍需
従業員数 誰と作っていたか?

1869年の藤田組商会発足時は数十名の体制から出発し、1884年の小坂鉱山取得時の鉱山労働者は数百名規模であった。1902年の自溶製錬確立後は小坂の坑夫・製錬工が急増、1906年の国内一位達成時には数千名規模に拡大、戦時期の同和鉱業は全国鉱山合計で1万名超の体制を擁し、1949年の上場期もこの規模で再出発した。

1869 数十名
1884 鉱山労働者数百名
1906 数千名規模
1944 全国合計1万名超
設備投資 どこで作っていたか?

1884年の小坂鉱山取得から、1897年6月の銚子第一発電所で水力発電、1898年1月の黒鉱乾式製錬炉、1902年6月の黒鉱自溶製錬炉と段階的な近代設備を導入した。1899年の児島湾干拓堤防工事、1915年の花岡鉱山取得・1916年の柵原鉱山形成で鉱山資産を分散、1919年の豊崎圧延工場、1944年の本店東京移転、1949年上場期までに大阪本社+秋田鉱山+岡山鉱山+東京本店の拠点配置を築いた。

1884.9 小坂鉱山取得
1897.6 銚子第一発電所
1898.1 黒鉱乾式製錬炉
1899.5 児島湾干拓堤防
1902.6 黒鉱自溶製錬炉
1915 花岡鉱山取得
1919.3 豊崎圧延工場
1928.4 豊崎伸銅所独立
1944.2 本店を東京へ移転

DOWA 創業地の主な拠点全国 の地理(藤田組商会 → 同和鉱業本店(東京移転後))

日本地図 1869年 藤田組商会 大阪府大阪市東区高麗橋(現 大阪市中央区高麗橋) 創業地(大阪での新政府軍納入事業の本拠) 1884年 小坂鉱山 秋田県北秋田郡小坂村(現 秋田県鹿角郡小坂町 官営払下げで取得した鉱山業参入の基幹資産 1885年 藤田組合名会社 大阪府大阪市東区高麗橋 兄弟3名で組織した法人本社(大阪 1899年 児島湾干拓事業地 岡山県児島郡(現 岡山市南区・玉野市の児島湾沿岸) 鉱業以外の長期固定資産投資として着手した干拓事業地 1919年 豊崎圧延工場 大阪府西成郡豊崎町(現 大阪市北区豊崎) 金属加工事業へ進出した拠点(後のDOWAメタル) 1944年 同和鉱業本店(東京移転後) 東京都(戦時下移転先) 戦時統制下で大阪から東京へ移転した本店

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1869〜1873年 なぜ長州出身の藤田伝三郎が大阪で起業に踏み切ったのか?

長州藩奇兵隊出身の藤田伝三郎が、維新後に大阪へ移って同郷の井上馨・山県有朋ら長州人脈との関係を足場に、新政府軍向け軍靴・軍服の納入で藤田組商会を1869年に発足させ、官需と新政府の御用商人ネットワークで初期資本を蓄積した経緯がある。

藤田伝三郎は1841年に長州萩の醸造業の家に生まれ、奇兵隊に身を投じて維新の動乱期を過ごした。維新後、同郷の井上馨・山県有朋・伊藤博文ら明治新政府の中枢に登った長州出身者との人脈を足場に、1869年に大阪へ出て藤田組商会を興し、新政府軍向けの軍靴・軍服の納入を主たる事業として発足させた。

明治初年の大阪は薩長閥が政府御用商人の供給網を再編する時期にあり、伝三郎は同郷ネットワークを通じて陸軍省・大蔵省の官需を取り込んだ。1873年からは兄の鹿太郎・久原庄三郎の家業を再編して藤田組商会を拡張、土木建築・運輸業へ事業領域を広げ、1881年には伝三郎が中心となって兄弟3名で藤田組合名会社を組織し、1885年には資本金100万円規模の合名会社として法人形態を整えた。

1884年9月 なぜ1884年に官営小坂鉱山の払下げを受けられたのか?

1880年の「工場払下概則」と1884年の改正で官営事業の民間払下げが本格化し、長州閥との関係を持つ藤田組が政府の払下げ方針の主要受け皿となり、1884年9月に秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山を年賦27万余円で取得して鉱山業に参入した。

明治政府は1880年の「工場払下概則」で官営事業の民間払下げ方針を打ち出し、1884年に同概則を改正して払下げ条件を緩和した。前田正名・松方正義ら大蔵省の方針のもと、政府は財政再建のため官営鉱山・工場の民間移管を本格化させ、藤田組はこの政策転換の主要な受け皿となった。

1884年9月、藤田組は秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受けた。小坂鉱山は江戸期から続く銀山で、明治政府が直営で近代化を進めていたものの、金・銀・銅・亜鉛・鉛が複雑に混在する黒鉱の製錬技術が確立せず採算が悪化していた。藤田組の取得後も製錬技術の確立は難航し、開発資金は旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れる形で確保したと藤田組史に記録される。1881年の院内銀山・阿仁銅山の払下げを受けた古河市兵衛と並ぶ明治期の鉱業王の出発点となった。

1899〜1912年 なぜ藤田伝三郎は児島湾干拓に着手したのか?

鉱山収益の蓄積を背景に、伝三郎は1899年5月に岡山県の児島湾干拓事業に着手し、近代日本最大級の干拓地造成に資本を投じた。鉱業に偏った藤田組の事業ポートフォリオを農業基盤の固定資産で補完する経営判断であった。

児島湾は岡山県の瀬戸内海沿岸に広がる遠浅の海域で、江戸期から干拓構想が断続的に検討されていた。1899年5月、藤田伝三郎は政府から児島湾干拓の許可を受けて事業に着手し、藤田組の資金で堤防築造・排水工事を進めた。1902年には第一区干拓地の造成に着手し、以後数十年にわたる長期事業として藤田組の経営の柱の一つに位置づけられた。

鉱山経営は資源価格と製錬技術に収益が左右され変動が大きく、伝三郎は児島湾の干拓地造成という土地資産の蓄積で経営リスクの分散を図った。並行して大阪財界では大阪商法会議所の運営に深く関わり、関西経済人クラブの源流となる財界人ネットワークを大阪で組織化した。1912年に藤田伝三郎が72歳で没した後、息子の徳次郎・平太郎・彦三郎らが藤田組を継承し、児島湾干拓は同和鉱業を経て戦後まで継続された長期事業として残った。

1890年代〜1902年 なぜ閉山寸前の小坂鉱山が黒鉱自溶製錬で復活できたのか?

取得から10年を経ても黒鉱の製錬技術が確立せず融資元の毛利家から閉山指示が出された局面で、現場責任者の久原房之助が井上馨の支援を取りつけて事業継続を勝ち取り、1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功して鉱山経営を逆転させた。

小坂鉱山は黒鉱の製錬技術の壁で長期赤字が続き、融資元の毛利家から正式な閉山指示が出される事態に至った。閉山処理のため小坂に着任した久原房之助は事業継続の必要性を強く主張し、同郷の長州出身者である井上馨の個人的な支持を取りつけて閉鎖指示の撤回を実現した。

久原は1897年6月に小坂の銚子第一発電所で水力発電を立ち上げ、1898年1月に黒鉱乾式製錬の操業を開始、1902年6月にはついに黒鉱自溶製錬の操業に成功した。1906年には小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位となり、閉山寸前からの逆転劇は藤田組の経営哲学の原点として社内に長く語り継がれた。後に久原は藤田組を離れて1905年に日立鉱山を取得し、久原財閥(後の日産コンツェルン)を興すが、小坂で培われた製錬技術は藤田組に残り、戦中の同和鉱業の中核資産として継承された。

1937〜1949年 なぜ1945年12月に同和鉱業へ商号変更されたのか?

1937年の日中戦争以降の戦時統制で藤田組の鉱業部門が国策会社的性格を強め、1944年2月に本店を大阪から東京へ移転、1945年12月に商号を同和鉱業株式会社へ変更して藤田家の同族財閥色を薄める再編が実行され、1949年7月に東京証券取引所に上場した。

1937年の日中戦争開始以降、軍需用銅・亜鉛・鉛の安定供給が国策となり、藤田組の鉱業部門は重要産業統制下に置かれた。藤田組合名会社は事業部門ごとの法人分離を進め、鉱業部門を中核とする再編が戦時期を通じて段階的に進行した。1944年2月、本店を創業以来の大阪から東京へ移転し、戦時統制下の中央官庁との関係強化を図った。

1945年12月、商号を同和鉱業株式会社へ正式変更し、藤田家の同族財閥色を薄める再編が完了した。戦後の財閥解体は藤田組も対象となったが、同和鉱業は中堅鉱山会社として独立を保ち、1949年7月に東京証券取引所に株式上場を果たして公開企業として再出発した。1884年の小坂鉱山取得から数えて65年、藤田組の鉱業部門が独立法人として上場するまでに長州人脈・官営払下げ・黒鉱自溶製錬・戦時統制という4つの時代の節目を通過した経緯となる。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

有価証券報告書沿革

1884年9月の官営小坂鉱山払下げを同社が創業の起点として有価証券報告書沿革に記録している

「藤田組が明治政府から小坂鉱山の払い下げを受ける(創業)」
有価証券報告書沿革

1902年6月、久原房之助の指揮下で黒鉱自溶製錬の操業に成功、閉山寸前の小坂鉱山が逆転する転機となった

「小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始」
有価証券報告書沿革

1899年5月、藤田伝三郎が鉱業以外の固定資産投資として児島湾干拓事業に着手、藤田組の長期事業として位置づけられた

「岡山の児島湾干拓事業に着手」
有価証券報告書沿革

1944年2月、戦時統制下で創業以来の大阪本店を東京へ移転、中央官庁との関係強化を図る再編

「本店を大阪から東京へ移転」
有価証券報告書沿革

1945年12月、藤田家の同族財閥色を薄める再編が完了し、藤田組から同和鉱業株式会社へ商号を変更

「商号を同和鉱業株式会社に変更」
有価証券報告書沿革

1949年7月、戦後の取引所再開を機に東京証券取引所に株式上場、1884年の小坂鉱山取得から65年を経て公開企業として再出発

「東京証券取引所に株式を上場」

参考文献

  • 藤田組史
  • DOWA社史
  • 有価証券報告書
  • 工場払下概則 1880
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書 第122期