国内で有力鉱山を買収
主力の小坂鉱山における鉱脈枯渇を見据えた新規鉱山の取得
藤田組の主力であった小坂鉱山(秋田県)は、1884年の官営払い下げ以来、黒鉱自溶製錬技術の確立を経て1906年には国内全鉱山中で生産額第1位を達成するまでに成長していた。小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した黒鉱を産出する特異な鉱山であり、藤田組が独自に確立した製錬技術が競争力の源泉であった。しかし、取得から30年が経過する中で、長年の大規模採掘に伴う鉱脈の品位低下が進行しており、将来的な枯渇が見込まれる状況にあった。藤田組は主力鉱山の鉱量減少に備え、国内における有力鉱山の取得を本格化する方針を打ち出した。
取得候補となったのは、秋田県の花岡鉱山と岡山県の柵原鉱山であった。花岡鉱山は銅・鉛・亜鉛を産出する非鉄金属鉱山であり、小坂鉱山と同じ秋田県北部に立地することから製錬インフラの活用が期待された。一方の柵原鉱山は硫化鉱を豊富に産出する鉱山であり、当時は農業用肥料の原料として硫黄の需要が高まっていたため、安定的な収益が見込まれた。藤田組は非鉄金属と硫化鉱という異なる鉱種の鉱山を取得することで、単一鉱山・単一鉱種への依存を脱却する方針を採った。
花岡鉱山と柵原鉱山を相次いで取得し鉱山群を拡充
1915年4月に藤田組は、小林清一郎氏が保有する花岡鉱山(秋田県)の買収を決定し、128万円で鉱山本体および花岡から大館までの鉄道を取得した。ところが、買収直後から採掘していた鉱床の品位が低下したため、藤田組は新たな鉱床の探索に注力した。1916年に「堂屋敷大鉱床」と呼ばれる大規模鉱床を発見したことで状況が一変し、花岡鉱山は藤田組において小坂鉱山に次ぐ規模の主力鉱山としての地位を確立した。
1916年9月には、岡山県の柵原鉱山の取得にも着手した。吉井川流域の南和気村を中心に、個人や小規模な会社が保有する11の鉱山を次々と買収し、これらを「柵原鉱山」として一体的に運営する体制を構築した。柵原鉱山では硫化鉱が豊富に存在し、肥料などの化学品原料として出荷された。花岡鉱山と柵原鉱山の取得により、藤田組は小坂鉱山のみに依存する経営構造から脱却し、秋田県と岡山県に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制へと移行した。