重要な意思決定
18849月

藤田組が小坂鉱山を買収(同和鉱業の創業)

背景

長州藩との関係を活かし藤田組が鉱山経営に参入

藤田組の創業者・藤田伝三郎氏は、長州藩出身者(明治政府関係者)との関係を活かし、西南戦争時の協力や東海道線(大阪〜京都)・琵琶湖疏水などの土木工事受注を通じて業容を拡大した。1881年に兄弟3名の出資(総額6万円)で藤田組を設立し、藤田伝三郎氏が3万円(出資比率50%)、藤田鹿太郎氏と久原正三郎氏がそれぞれ1.5万円(同25%)を拠出した。明治時代には「西の藤田組」として広く認知される存在となった。

1884年9月18日、明治政府は藤田組に対して官営小坂鉱山(秋田県)の払い下げを決定し、藤田組は鉱山経営に参入した。小坂鉱山は明治21年まで国内トップの産出量を誇る大規模銀山であった。開発資金については、元長州藩主の毛利家から20万円の借入金を確保し、井上馨氏の口添えによって融資が実現した。従来の土木事業は日本土木会社に譲渡し、藤田組は鉱山業を主体とする資源会社へと業態転換した。

決断

閉山方針の撤回と久原房之助による事業継続の決定

小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した黒色鉱石(黒鉱)を産出する特異な鉱山であり、これらを分離するための新しい製錬技術の確立が不可欠であった。取得当初は比較的製錬が容易な土鉱から銀を採掘できたが枯渇が予想され、黒鉱の製錬技術が鉱山の寿命を決定する要因となった。鉱山取得から10年が経過しても技術は確立されず、赤字が続いたため、融資元の毛利家が閉山を指示し、1900年に藤田組は閉山方針を決定した。

閉山処理のため現場責任者に就任した久原房之助氏(藤田伝三郎氏の一族)は、事業継続を主張して毛利家への説得を開始した。しかし毛利家の閉山意志は固く、久原氏は明治政府の有力政治家・井上馨氏(長州出身)に相談して事業継続の支持を取り付けた。この結果、毛利家は小坂鉱山の閉鎖撤回を認め、事業継続が決定した。久原氏は懸案であった黒鉱の処理技術について、海外の製錬方法を参考にしつつ独自の改良を進めた。

結果

黒鉱自溶製錬の成功により小坂鉱山が国内生産額1位に

1902年、久原房之助氏は黒鉱自溶製錬試験に成功し、1904年には製錬所を稼働させて本格生産を開始した。黒鉱自溶製錬は必要な燃料が少なく製錬コストを大幅に低下させる利点を持っており、小坂鉱山の経営採算を一変させた。黒鉱から金・銀・銅を効率的に分離回収することが可能となり、産出量は飛躍的に増加した。この技術は世界的にも類例が乏しく、藤田組が独自に確立した製錬法であった。

黒鉱自溶製錬の実用化により、1906年時点で日本国内の全鉱山における生産額において、小坂鉱山は足尾銅山・別子銅山などの競合鉱山を抑えて国内1位となった。閉山方針の決定から6年で国内トップの鉱山に再建されたことで、藤田組の経営基盤が確立された。この製錬技術の蓄積は、後の同和鉱業における電子材料・環境リサイクル事業の技術基盤となった。