日本軽金属ホールディングス の歴史

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創業 1939年
母体 古河電気工業+東京電燈
創業地 東京市芝区田村町
創業
1939年3月、古河電気工業と東京電燈が共同で出資し、東京市芝区田村町に日本軽金属を設立した。前年11月に下付された設立認可書は、政府が準国策会社として援助と特典を与える代わりに相当の義務を負わせると定めている。古河電工は電線材料としてのアルミニウムを求め、東京電燈は電力の大口需要家を探していた。1940年10月に蒲原工場でアルミニウム、1941年9月に清水工場でアルミナの生産を始め、1949年5月に東京証券取引所へ上場する。2012年10月には株式移転で日本軽金属ホールディングスを設立し、事業会社を傘下へ置いた。
決断
電力の値段が事業の前提であり、その前提が崩れたとき製錬から退いた。1952年10月にカナダのアルミニウム・リミテッドから資本と技術を受け入れし、技術とボーキサイトの調達先を確保して国内首位に戻る。ところがアルミニウム1トンの生産にはアルミナ工程を含めて1万6,000キロワット時を要し、第一次石油危機で電気代が1キロワット時あたり4円から8円へ上がると、1トンあたり6万4,000円の費用増になった。1975年3月に製錬の拡張計画を撤回して加工への垂直統合へ転じ、1985年4月には苫小牧の生産を全面停止して、自家水力発電を持つ蒲原だけが国内に残る。以後は買い入れた地金を板・押出・箔・化成品へ加工して売る側に立った。
現況
四つの事業のどれもが売上と利益の四分の一ずつを占める、突出のない構成である。2026年3月期の連結売上高は5,854億円、営業利益は256億円。アルミナ・化成品、地金が売上1,835億円で利益99億円、加工製品、関連事業が1,776億円で60億円、箔、粉末製品が1,130億円で77億円、板、押出製品が1,112億円で57億円と並ぶ。地域別では日本が4,536億円と8割弱を占める。原料から加工品まで工程ごとに会社を並べた構成は、商品が事業部の内側で止まりやすい。2001年の横串チームの設置は、その縦割りを跨いで開発を市場単位でまとめ直すために入れた。
競合
アルミニウム製錬から退いた会社が、電力そのものは手元に残した。第一次石油危機のあと国内の製錬各社は設備を止め、日本軽金属も1985年4月に苫小牧を全面停止する。それでも自家水力発電を持つ蒲原工場だけは動かし続け、電力を多く要する工程を国内に置いた。母体の古河電気工業が銅線から光ファイバへ移り、余剰のアルミ合金の出口としてサッシへ参入したYKKが住宅建材で伸びる一方、日本軽金属は2010年4月に新日軽の全株式をLIXILへ譲渡し、建材から降りている。電力と化成品という川上を握り続けたことが、加工4事業を横断して商品を作る起点になっている。
日本軽金属ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2003年3月期2026年3月期

設立ストーリー 電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社(1939〜1945) (1939年〜)

軍需が呼び込んだアルミニウム製錬の国産化

日本にアルミニウム製錬業が成立したのは昭和に入ってからである[1]。アルミニウム製品そのものは明治中期から使われ、食器などの加工業は大正期に都市の中小企業として育っていた[2]が、地金は輸入に頼っていた。航空機の発達にともない軍部が国産化を強く求め、1934年に日本電気工業がアルミニウムの国産化に成功した[3]。翌1935年には三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資による日本アルミニウム[4]が発足し、輸入ボーキサイトを用いるバイヤー法[5]で製錬に着手する。1936年までに日本曹達・日満アルミニウム・住友アルミニウム製錬を加えた5社[6]が相次いで操業を始めた。国産の明礬石などから生産を試みた企業もあったが、企業として成功したのは日本アルミで品質も優れていたため、各社ともボーキサイト原料へ転換し、国産原料の開発は放棄された[7]

    • [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
    • [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
    • [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
    • [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
    • [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
    • [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
    • [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した

日華事変が始まると航空機資材としてのアルミニウムの必要はさらに高まり、政府は1938年に第一次アルミニウム増産計画[8]を実施した。この時期、古河電気工業は電線材料としてのアルミニウムを求めており[9]、東京電燈は電力の大口消費者を探していた[10]。両者の利害は、軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家の要請と重なった[11]。日本軽金属の創立計画は1938年4月以来この2社の提携[12]によって進められ、同年11月に下付された設立認可書[13]は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方、相当な義務を負わせることを規定していた。目的は、長期化する日華事変で年々枯渇する国内非鉄金属資源に代えて、大量生産方式による低廉なアルミニウムを豊富に供給する[14]ことにあった。

もっとも、認可時に約束された特典はそのまま残らなかった[15]。同業既設会社の反対や内閣の更迭といった情勢の変化を経て、1939年3月に軽金属製造事業法案が議会へ提出された[16]ため、特典的な性格は崩れ、大量生産を担う国策的な会社という位置づけだけが残って他社との差はなくなった。同法により軽金属事業は自由企業としては存在しえなくなり[17]、政府が妥当と認めれば重点的な取扱いを受けられる仕組みへ変わった。既定計画はそのまま進められ、1939年3月30日の創立総会[18]をもって、資本金1億円の日本軽金属が発足した[19]。発行株式200万株のうち、東京電燈系の東電証券が50万2,890株[20]、古河電気工業が50万株を引き受けた。一般公募は10万株にとどまり[21]、残りは賛成人・縁故者と財閥系の会社や加工業者が持った。発起人総代を務めた東京電燈社長の小林一三氏[22]が、初代社長に就いた。

    • [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
    • [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
    • [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
    • [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
    • [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
    • [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した
    • [19]創立総会時の資本金は1億円だった
    • [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
    • [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
    • [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
    • [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
    • [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
    • [8]1938年 政府が第一次アルミニウム増産計画を実施
    • [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
    • [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した
    • [19]創立総会時の資本金は1億円だった
    • [9]古河電気工業は電線材料としてアルミニウムを求めていた
    • [10]東京電燈は電力の大口消費者を探していた
    • [11]軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家的要請と合致した
    • [12]創立計画は1938年4月以来、東京電燈と古河電工の提携により進められた
    • [13]1938年11月下付の設立認可書は、準国策会社として援助と特典を与える一方で相当な義務を負わせると規定
    • [14]設立の目的は枯渇する国内非鉄金属資源に代わる低廉なアルミニウムの大量供給
    • [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
    • [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
    • [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
    • [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
    • [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
    • [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した

電力を自前で抱え、海外の技術で設備を組む

資本金1億円・年産能力5万トン[23]という規模は、当時としては超大型の企業であった。アルミニウム製錬は膨大な電力を消費するため[24]、同社は発足直後から電源の確保に動く。1939年7月、東京電燈の傍系であった富士川電力を合併して波木井発電所を取得[25]し、その後に富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設[26]して、出力11万キロワットの自家用発電設備[27]を確保した。本店は東京市芝区田村町の東京電燈のビルに置かれ[28]、そこから工場の建設が始まった。発電所の建設と製錬工場の建設は並行して進み、電力と製錬が同じ会社のなかで同時に立ち上がった。

工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものにする方針で設計された[29]。アルミナ工場の設計はドイツ人技師のチーデマン氏[30]に依頼した。電解ではノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約[31]を結び、3万2,000アンペアの大型電解炉[32]は上部構造をケミスク社、下部構造をセーリー氏が受け持つ形で設計された。1939年5月6日に蒲原、6月17日に新潟、7月22日に清水[33]と、各工場が相次いで地鎮祭を迎えた。蒲原工場は1940年10月に一部操業を開始し、1943年9月に付属工場を含む年産3万6,000トンの全設備を完成[34]させた。新潟工場は1941年1月に一部操業を始め、1942年5月に年産1万8,000トンの設備[35]を仕上げた。

    • [29]工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものとする方針で設計された
    • [31]電解工場はノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を締結
    • [32]セェリー氏に3万2,000アンペアの大型電解炉の設計を依頼
    • [35]新潟工場は1941年1月に一部操業、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を完成
    • [30]アルミナ工場の設計をドイツ人技師チーデマン氏に依頼した(のちに副社長)
    • [33]蒲原1939年5月6日・新潟6月17日・清水7月22日に地鎮祭を挙行した
    • [34]蒲原工場は電解4棟の最後が1943年3月に操業し、付属工場を含む全設備は同年9月に完成した

設備能力を上回った最盛期と、原料の途絶による終戦

清水工場は1941年6月に第1系列を完成させて操業に入り、1943年3月にアルミナ製造能力年産10万トンの設備を完了[36]した。これでアルミナからアルミニウムまでを自社で通す三工場一貫の態勢[37]が整う。1943年7月以降の1年間[38]、最盛期には設備能力をはるかに上回る生産実績をあげた。生産は1940年度の2,361トンから年を追って増え、1941年度1万6,874トン、1942年度3万1,726トンと伸びた[39]。同社の生産は1943年度の5万3,896トンで頂点に達し[40]、同年度の内地生産11万4,057トンのおよそ47パーセントを占めた。太平洋戦争期のアルミニウム工業は、五大重点産業の一つに指定[41]された。

頂点は長く続かなかった[42]。戦局の激化にともない原料ボーキサイトの移入が杜絶[43]したため、1944年7月以降の生産は急激に減退[44]し、やがて原料のストックも底をついた。そこで国産の明礬石からアルミニウムを生産する計画[45]を立て、同年10月に2億円へ増資[46]してアルミナ設備の増設と改良を行ったが、未完成のまま終戦を迎えた[47]。海上輸送に依存する原料調達という弱点は、会社の設計そのものに初めから組み込まれていたものである。世界最高水準の設備と自前の電力を揃えても、ボーキサイトが着かなければ電解炉は動かなかった。

生産禁止令と賠償指定のもとで塩と肥料を作る

終戦による打撃は、アルミニウム製錬業でとりわけ大きかった[48]。生産設備が全面的な賠償指定を受けたため[49]、本格的な製錬の再開までに2年8か月[50]を要した。工場の戦災被害が軽微だった[51]ことは救いで、1945年11月には廃機体などを溶かしてアルミニウムの生産を再開[52]した。並行して設備の一部を改良利用し、塩・肥料・人造黒鉛・カーバイドの製造[53]にあたって苦境を脱した。1944年10月の増資で進めていたアルミナ設備の増設は、未完成のまま残された[54]。賠償指定が解けるまで、その設備が誰のものになるかも定まらなかった。

1948年4月、待望のボーキサイト輸入が実現[55]し、戦後初めての本格的なアルミニウム生産が始まった。もう一つの課題は用途の側にあった[56]。航空機を主とした軍需材か家庭用品に限られていた需要[57]を、どの分野へ振り向けるかである。翌1949年2月、企業再建整備計画に基づいて資本金をいったん7,500万円へ減額[58]し、同月中に3億円、同年12月に6億2,000万円と積み増した。株式は1949年5月に東京証券取引所などへ上場[59]を果たした。1950年4月には横浜護謨・古河電工と提携して日本ゼオンを設立[60]した。

    • [48]終戦による打撃はアルミニウム製錬業の場合とくに影響が大きかった
    • [50]製錬の再開までに2年8か月を要した
    • [55]1948年4月 ボーキサイト輸入が実現し本格的なアルミニウム生産を再開
    • [56]需要をどの分野へ転換し新用途を開発するかが課題であった
    • [57]軍需材と家庭用品に限られた需要を他分野へ転換し新用途を開発することが課題だった
    • [49]生産設備が全面的な賠償指定を受けた(アルミニウムは指令第3号の禁止品目には含まれなかった)
    • [51]工場の戦災被害が軽微だった
    • [52]1945年11月 廃機体等によりアルミニウムの生産を再開
    • [53]設備の一部を改良利用して塩・肥料・人造黒鉛・カーバイドを製造した
    • [54]1944年10月の増資によるアルミナ設備の増設改良は未完成のまま終戦を迎えた
    • [58]1949年2月 企業再建整備計画により資本金を7,500万円へ減額、3月に3億円へ増額
    • [60]1950年4月 横浜護謨・古河電工と提携し日本ゼオンを設立
  • 有価証券報告書
    • [59]1949年5月 東京証券取引所などに株式を上場

アルミニウム・リミテッドの資本参加

アルミニウム生産の稼働率は年を追って上がり、1950年度には年産1万6,000トンを突破した[61]。朝鮮動乱を契機に需要はさらに増え、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン[62]と伸びて、国内生産量の約60パーセント[63]を占めた。一方でアルミニウムは国際商品であり[64]、技術・原料の両面で外に頼らざるをえない事情も抱えていた。カナダのアルミニウム・リミテッド(のちのアルキャン)との資本および技術の援助契約は1952年3月に調印され、同年10月1日に外資法上の認可[65]を得た。翌1953年4月にアルミニウム・リミテッドから新株式の払込を受けて資本金は12億4,000万円[66]となり、同年6月には技術調査団が来日[67]して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。

    • [61]1950年度のアルミニウム生産は年産1万6千屯を突破した
    • [62]1950年度に年産1万6,000トンを突破、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン
    • [63]国内生産量の約60%を占めた
    • [64]アルミニウムの国際性に鑑み技術・原料面の向上を図った
    • [66]1953年5月 新株式の払込により資本金12億4,000万円となった
    • [67]1953年6月 アルミニウム・リミテッドの技術調査団が来日し清水・蒲原両工場と発電設備を調査
    • [65]契約は1952年1月29日にリミテッド、3月19日に日本軽金属が署名し、10月1日に外資法上の認可を得た

提携の狙いは資金ではなかった。のちに副社長の松永義正氏は、17年前にアルキャンと提携した主目的は技術向上と原料の確保[68]にあったと述べ、原料確保に関する問題はまったくないと説明した。実際、マレーシアとオーストラリアに両社共同の鉱区[69]を持ち、アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区は日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発[70]する運びとなった。調査団の助言に基づく設備改良を経て業績は向上し、1953年度には生産高2万5,000トンを記録[71]して売上高・純利益とも戦後最高となった。1955年3月期の売上高は39億円[72]だった。

    • [61]1950年度のアルミニウム生産は年産1万6千屯を突破した
    • [62]1950年度に年産1万6,000トンを突破、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン
    • [63]国内生産量の約60%を占めた
    • [64]アルミニウムの国際性に鑑み技術・原料面の向上を図った
    • [66]1953年5月 新株式の払込により資本金12億4,000万円となった
    • [67]1953年6月 アルミニウム・リミテッドの技術調査団が来日し清水・蒲原両工場と発電設備を調査
    • [71]1953年度に生産高2万5,000トン、売上高・純利益とも戦後最高
    • [72]1955年3月期の売上高は39億円
    • [65]契約は1952年1月29日にリミテッド、3月19日に日本軽金属が署名し、10月1日に外資法上の認可を得た
    • [68]松永義正副社長がアルキャン提携の主目的を技術向上と原料確保にあったと説明
    • [69]マレーシアとオーストラリアに日本軽金属とアルキャンの共同鉱区を保有
    • [70]アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区を日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発

台所から住宅と自動車へ広がった需要

高度成長期のアルミニウムは、需要の中身そのものが入れ替わった[73]。1958年ごろの時点では、アルミニウム需要のうち鍋・釜などの日用品が24パーセント以上[74]を占めていた。この構成のままなら所得が増えても需要の伸びは頭打ちになったはずだが、技術開発による新規用途の開拓が構成を変えた[75]。1968年度の実績では、サッシ中心の土木建築部門が20.3パーセント、乗用車中心の陸運部門が21.2パーセント[76]、これに家庭電化製品などの電機・通信機部門を加えた三部門で50パーセントを超えた。日用品の比率は6パーセントへ下がった[77]。アルミニウム需要全体は10年で7倍となり、1968年度の製品総使用量は89万トン[78]に達した。

    • [73]技術開発による新規需要の開拓で需要構成が変化した
    • [74]10年前の時点で日用品がアルミニウム需要の24%以上を占めた
    • [75]技術開発による新規需要の開拓が需要構成を変えた
    • [76]1968年度は土木建築20.3%・陸運21.2%、電機通信を加えた三部門で50%超
    • [77]日用品の比率は6%へ低下した
    • [78]アルミニウム需要は10年で7倍、1968年度の製品総使用量は89万トン

供給側の設備も膨らんだ[79]。1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内生産量の40パーセント[80]を占め、首位を保った。1968年3月に新潟工場の増設1万9,500トンが完成[81]し、生産能力は蒲原工場の11万トンと合わせておよそ17万トンとなった。電力は富士川水系の6水力発電所と清水・新潟両工場構内の火力発電所で総合最大出力約19万1,000キロワット[82]を持ち、1960年11月には中部電力との共同出資で清水共同発電を設立[83]して15万キロワットのうち5割の供給を受けた。1963年10月にはいすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立[84]し、輸送機器の分野へ進出した。

    • [79]1968年3月の新潟増設で生産能力は約17万トンへ拡大した
    • [80]1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内の40%を占めた
    • [81]1968年3月 新潟工場の増設1万9,500トンが完成し能力は約17万トンとなった
    • [82]自家発電の総合最大出力は約19万1,000キロワット
    • [83]1960年11月 中部電力との共同出資により清水共同発電を設立、15万kWの5割を供給
  • 有価証券報告書
    • [84]1963年10月 いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立

1969年8月、松永義正副社長はアナリスト向けの講演[85]で強気の見通しを語った。1975年度の総需要は200万トンに達し[86]、業界全体の生産能力を当時の約4倍へ増強する必要があるという読みである。同社は200万トンのうち3分の1のシェアを確保する方針を掲げ、1975年度の生産能力を60万〜70万トンとする計画[87]を示した。当時の蒲原・新潟両工場を合わせた17万トンの4倍である[88]。すでに工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場[89]を建設中で、1975年度までの設備資金は約1,500億円[90]に達する見込みだった。『50パーセント以上を自己資金によりまかなう方針』[引用元](証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号)として、資金コストの低さを競争力の要と位置づけていた。

    • [85]証券アナリストジャーナル誌上に載った松永義正副社長の講演要旨
    • [86]1975年度の総需要を200万トンと予想し、業界の生産能力を約4倍に増強する必要があるとした
    • [87]200万トンのうち3分の1のシェア確保を掲げ、生産能力60万〜70万トンを計画
    • [88]蒲原・新潟両工場を合わせた能力17万トンの4倍の生産能力が必要とされた
    • [89]工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中だった
    • [90]1975年度までの設備資金は約1,500億円に達する見込みだった
    • [73]技術開発による新規需要の開拓で需要構成が変化した
    • [74]10年前の時点で日用品がアルミニウム需要の24%以上を占めた
    • [75]技術開発による新規需要の開拓が需要構成を変えた
    • [76]1968年度は土木建築20.3%・陸運21.2%、電機通信を加えた三部門で50%超
    • [77]日用品の比率は6%へ低下した
    • [78]アルミニウム需要は10年で7倍、1968年度の製品総使用量は89万トン
    • [85]証券アナリストジャーナル誌上に載った松永義正副社長の講演要旨
    • [86]1975年度の総需要を200万トンと予想し、業界の生産能力を約4倍に増強する必要があるとした
    • [87]200万トンのうち3分の1のシェア確保を掲げ、生産能力60万〜70万トンを計画
    • [88]蒲原・新潟両工場を合わせた能力17万トンの4倍の生産能力が必要とされた
    • [89]工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中だった
    • [90]1975年度までの設備資金は約1,500億円に達する見込みだった
    • [79]1968年3月の新潟増設で生産能力は約17万トンへ拡大した
    • [80]1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内の40%を占めた
    • [81]1968年3月 新潟工場の増設1万9,500トンが完成し能力は約17万トンとなった
    • [82]自家発電の総合最大出力は約19万1,000キロワット
    • [83]1960年11月 中部電力との共同出資により清水共同発電を設立、15万kWの5割を供給
  • 有価証券報告書
    • [84]1963年10月 いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立

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日本軽金属ホールディングスの沿革1939〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1939〜1945年電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社(1939〜1945)古河電気工業と東京電燈の共同出資により日本軽金属を設立★★★
蒲原工場でアルミニウム地金の生産開始★★
清水工場でアルミナの生産開始★★
1945〜1973年塩と肥料で食いつなぎ、カナダのアルミニウム・リミテッドを迎えて首位に戻る(1945〜1973)東京証券取引所などに株式上場
カナダのアルミニウム・リミテッドとの資本および技術の援助契約の締結と、同社による増資新株の引き受け

1952年、日本軽金属がカナダのアルミニウム・リミテッド(後のアルキャン)と資本および技術の援助契約を結んだ経営判断。契約書は1月29日に相手方、3月19日に日本軽金属が署名して成立し、外資法上の正式認可は10月1日に大蔵・通産両省から発表された。翌1953年4月30日に増資新株の払込を受けて資本金は12億4,000万円となり、同年6月には技術調査団が来日して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。

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いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立★★
北海道苫小牧にアルミニウム製錬工場を着工★★
1974〜1990年電気の缶詰と呼ばれた製錬が電力費の高騰で採算を失い、加工へ転じるまで(1974〜1990)日軽アルミを吸収合併★★
アルミ製錬の拡張計画の撤回と、減量経営・垂直統合への転換

1975年3月期に売上高1,165億6,200万円に対して経常赤字54億2,800万円を計上して無配へ転落した日本軽金属が、1969年に描いた年産60万〜70万トンのアルミ製錬拡張計画を撤回し、国内製錬の休廃止による減量と、圧延・加工を厚くする垂直統合へ転じた経営判断。1974年10月の日軽アルミ吸収合併に始まり、1975年6月に社長へ就任した松永義正氏が全社へ広げた。

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日軽圧延を吸収合併★★
新潟工場で40年間続いたアルミニウム製錬を終了★★
銀座の本社ビルをリクルートへ売却★★
建材部門を集約し新日軽を設立★★
ニッカル押出から押出材の生産部門を譲受
苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止★★★
日軽化工と日軽苫小牧を吸収合併
苫小牧の製錬工場をすべて休止★★
新日軽が東京証券取引所市場第二部に上場
1991〜2026年5期連続赤字から横串の組織へ転じ、素材の会社から部品の会社へ変わるまで(1991〜2026)大信軽金属を吸収合併
東洋アルミニウム株式を追加取得し関連会社化★★
東洋アルミニウムを吸収合併★★
新日軽を株式交換により完全子会社化★★
横串チームの設置と、事業部の縦割りからグループ横断の開発体制への転換

2001年4月、副社長から社長に就いた佐藤薫郷氏が、縦割りの事業部を横断する『横串チーム』を設け、自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4つの市場ごとにグループ各社を束ねるマトリクス型組織へ日本軽金属を組み替えた経営判断。5期連続の連結赤字からの再建策の中核に置かれた。

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事業の一部を日軽金アクトなど3社へ営業譲渡・承継★★
東海アルミ箔を子会社化
事業の一部を承継した日軽エムシーアルミを子会社化
名古屋・福岡・札幌の各証券取引所の上場を廃止
新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡★★★
石山喬株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し上場★★
岡本一郎東京証券取引所プライム市場へ移行
岡本一郎東洋アルミニウム株式の譲渡と箔事業統合の基本契約を締結★★
岡本一郎品質不適切行為に関する特別調査委員会の報告書を公表★★
岡本一郎自動車部品事業を統合し日軽金ALMOが発足★★
岡本一郎箔事業の経営統合を中止し統合基本契約を解約★★
朝来野修一朝来野修一氏が社長に就任
出典・参考

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