日本軽金属ホールディングスアルミ製錬の拡張計画の撤回と、減量経営・垂直統合への転換
需要は伸びたのに、なぜ製錬から退いたのか——1キロワット時4円という前提の崩壊
- 概要
- 1975年3月期に売上高1,165億6,200万円に対して経常赤字54億2,800万円を計上して無配へ転落した日本軽金属が、1969年に描いた年産60万〜70万トンのアルミ製錬拡張計画を撤回し、国内製錬の休廃止による減量と、圧延・加工を厚くする垂直統合へ転じた経営判断。1974年10月の日軽アルミ吸収合併に始まり、1975年6月に社長へ就任した松永義正氏が全社へ広げた。
- 背景
- 1969年時点の日本軽金属は、1975年度のアルミ総需要を200万トンと見込み、その3分の1を取るために生産能力を蒲原・新潟合計17万トンの4倍へ引き上げる計画を持っていた。需要見通しそのものは外れなかった一方、第一次石油危機で電気代が1キロワット時あたり4円から8円へ跳ね上がり、地金1トンあたり6万4,000円のコスト増となった。
- 内容
- 高コストの国内製錬工場を休廃止し、アルミ地金の生産を1974年の31万8,000トンから1979年の21万4,000トンへ縮めた。地金は海外製錬の拡大でまかない、圧延・二次加工・三次加工を厚くする「富士山型」の垂直統合を進めた。従業員は3社合計1万500人から7,500人へ減り、松永社長は3年間、自らの給与を全額返上した。
- 含意
- アルミの需要は現に伸びたにもかかわらず、電力価格という一つの前提が崩れただけで国内製錬は競争力を失った。1979年3月期に5年ぶりの黒字へ戻したものの、売上高2,211億円に対して累積欠損229億円が残り、減量の代価は長く貸借対照表にとどまった。
需要が伸びた産業からの退却
1969年8月に松永義正副社長が示した1975年度200万トンという需要見通しは、外れていない。アルミの需要は現に伸び、日本の需要は世界第2位に達した。外れたのは1キロワット時4円という電力価格の前提だけであり、それが8円になった時点で、地金1トンあたり6万4,000円の差は製錬技術の改良では埋まらなくなった。60万〜70万トンへ能力を積む判断は当時の条件では合理的で、誤算は電力という一点にあったとみることができる。
ただ、誤算を電力の一点に絞る整理は、減量をやり切った側から振り返った後知恵でもある。従業員は3社合計1万500人から7,500人へ減り、役員12人が退き、松永社長は3年間給与を返上した。「あの頃は、私が日軽金の葬式を出すことになるのではないかと思った」という述懐は、その整理には収まらない。1979年3月期の黒字も税引き利益3,000万円にとどまり、累積欠損229億円は残ったままであった。需要が伸びた産業から退く作業は、数字が示すよりも遅く進んだといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
1975年度200万トン、その3分の1というシェア構想
1969年8月20日、日本証券アナリスト協会の企業分析第2部会で講演した松永義正副社長は、1975年度のアルミニウム総需要を200万トンと見込み、そのうち3分の1のシェアを確保したいと述べた。必要な生産能力は60万〜70万トンで、蒲原・新潟両工場を合わせた当時の17万トンの4倍にあたる。需要量の25%を輸入に頼る需給を前提に、業界全体でも能力を約4倍へ増やす必要があるという見立てであった[1]。
拡張はすでに動いていた。工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中で、年産32万トンのアルミナ工場と50万キロワットの共同火力発電所の工事も並行していた。1975年度までに要する設備資金は約1,500億円と見積もり、その50%以上を自己資金でまかなう方針であった。借入依存度を下げれば地金1トンあたり6,000〜7,000円のコスト節減になるという計算で、資金コストの低さを競争力の源とみていた[2][3][4][5]。
需要は伸びた。狂ったのは電力の値段
この需要見通しそのものは外れなかった。アルミニウムの需要は1968年度までの10年間に年平均21%で伸び、GNPに対する弾性値は2に達していた。需要構成も変わり、サッシ中心の土木建築、乗用車中心の陸運、家庭電化製品を含む電機・通信機の3部門で5割を超え、鍋釜などの日用品は6%へ落ちていた。日本のアルミ需要はその後も伸び続け、世界第2位に達している[6][7][8]。
崩れたのは電力価格の前提であった。アルミは1トンの生産に、アルミナ製造工程を含めて1万6,000キロワット時の電気を使う。第一次石油危機で電気代は1キロワット時あたり4円から8円へ跳ね上がり、これだけで1トンあたり6万4,000円の負担増となった。もともと電力代の高い日本の製錬各社は技術改良で生産性を国際最先端まで高め、海外へ技術を輸出してもいたが、エネルギーコストの急騰は技術では吸収できなかった[9][10]。
決断
資本回転率0.4から0.3へ
石油危機以前でも、地金1トンを生産するにはアルミナ工場に10万円、製錬工場に30万円、発電所に15万円で計55万円の投資を要し、地金価格1トン20万円に対する資本回転率は0.4にすぎなかった。石油危機後は設備投資コストがほぼ倍増し、地金単価が32万円へ上がっても回転率は0.3へ下がった。苫小牧工場も、当初は地金年産40万トン・アルミナ120万トンの予定が、実績は地金13万トン・アルミナ36万トンにとどまった[11][12]。
1973年下期の総資本利益率は0.38%まで落ち、同じ時期に2.12%へ上げた新日本製鉄と対照をなした。日本経済新聞社のNEEDSによる企業の総合評価でも441社中430位で、かつて兜町で「お軽、勘平」と並び称された高収益企業の面影はなかった。国内では電力単価の高騰と公害規制の強化で新増設がきわめて難しくなり、中山一郎社長は「海外精錬に重点を置く」(日経ビジネス 1974/9/16)方針を示していた[13][14][15]。
1974年10月の垂直統合と、無配転落
1974年10月1日、日本軽金属は日軽アルミを吸収合併し、日軽圧延とニッカル押出の営業権を譲り受けた。公正取引委員会の審査期限が切れたことによる自動承認での成立であった。鉄鋼が一貫体制で規模を広げたのに対し、アルミは製錬・圧延・加工が分かれたままであった。川手一郎副社長は合併の目的を「資本の効率的な再配分を行い、総資本利益率の向上を図る」(日経ビジネス 1974/9/16)と説明している[16][17][18]。
翌1975年3月期、売上高1,165億6,200万円に対して経常赤字54億2,800万円を計上し、日本軽金属は無配へ転落した。新入社員を半年間の自宅待機とし、希望退職を募り、役員報酬をカットした。赤字はこの期で終わらず、経常赤字は1976年3月期206億円、1977年3月期121億円、1978年3月期48億円と続いた。1969年に描いた60万〜70万トンの製錬能力構想は、ここで断たれた[19][20]。
結果
最古参の社長と、国内製錬の縮小
1975年6月、松永義正氏が社長に就任した。1937年に前身の富士川電力へ入社し、1939年に日本軽金属へ移った最古参で、経理畑を歩いてきた人物である。のちに松永社長は当時を「あの頃は、私が日軽金の葬式を出すことになるのではないかと思ったもんです」(日経ビジネス 1979/8/13)と振り返っている。1976年1月からは3年間、「社員に苦労を強いているのに自分が楽はできない」として自らの給与を全額返上した[21][22][23]。
松永社長は就任以来、副社長時代に始めた垂直統合を全社へ広げた。コストのかさむ国内の製錬工場を休廃止し、1974年に31万8,000トンあったアルミ地金の生産を、1979年には年間21万4,000トンまで縮めた。減った分は海外製錬の拡大でまかない、付加価値の高い圧延部門と、アルミサッシやアルミ缶などの加工部門を厚くする。製錬を頂点に裾野を広げる「富士山型」の垂直統合を完成させるという構想であった[24][25]。
減量の実務と、5年ぶりの黒字
減量は人にも及んだ。1974年10月の合併時に日軽金・日軽圧延・日軽アルミの3社合計で1万500人いた従業員は、1979年には7,500人へ減った。役員12人が退任し、管理職以上の給与もカットした。人事部に「月夜の晩ばかりではないぞ」という電話がかかる場面もあったが、争議が長引くことはなく、合理化に伴うストライキも起きなかった。松永社長自身が何度も組合と交渉を重ね、希望退職者の再就職先にも配慮したためである[26][27][28]。
1978年に入って業績は回復に向かった。1979年3月期は経常段階で2億3,600万円の赤字を残したものの、税引き利益は3,000万円ながら5年ぶりの黒字となった。翌1980年3月期は経常利益65億円と、過去最高益を見込む水準まで戻る見通しであった。ただし1979年3月期末の累積欠損は売上高2,211億円に対して229億円あり、日本軽金属グループ全体では約400億円に達していた。赤字の垂れ流しが止まった段階であった[29][30]。
- 証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第9号「日本軽金属の現状と将来」(松永義正 副社長 講演要旨・1969年8月20日 企業分析第2部会)
- 日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」
- 日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」
- 日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」