日本光電工業無配転落下での減量経営「危機突破2-4作戦」と、復配目標「0、1、2、3計画」の設定
二度の無配に沈んだ医用電子機器の専業メーカーは、縮小の3年をどう抜けたか
- 概要
- 1973年10月の石油危機の前後、日本光電工業は二度の無配に沈んだ。荻野義夫社長は1974年8月に始まる第24期に「危機突破2-4作戦」を掲げ、人員削減と経費圧縮を進めながら、並行して営業拠点の分社化に着手した。1976年8月には創立30周年へ向けた「0、1、2、3計画」を掲げ、1977年7月期に3年ぶりの復配を果たした。
- 背景
- 創立20周年の1971年まで売上高は5年で倍のペースで伸びていたが、ニクソン・ショックと変動相場制への移行、ME機器市場への新規参入激増で環境が一変した。1973年7月に終わる第22期は長期ストライキも重なって2,700万円の赤字となり、十数年ぶりの無配へ転落した。
- 内容
- 「収益最重点と体質の強化」を最重点課題に置き、販売力強化・在庫削減・製品整理・原価低減・人件費効率化・経費節減・組織簡素化の7項目を実行した。富岡製作所ではレイオフに踏み切る一方、1974年8月から1976年10月にかけて全国の営業拠点を10地域10社の販売子会社へ分離独立させた。
- 含意
- 縮小と販売網の組み替え、新製品の投入を同時に進めた3年を経て、1977年7月期に復配へ戻った。1979年7月期には売上高が初めて100億円を超え、「0、1、2、3計画」の四つの目標は1982年1月の東証一部指定ですべて達成された。
削る3年に、何を掲げるか
この3年を石油危機に追われた減量経営の一例として読むと、要点を落とす。日本光電工業の無配は石油危機より先に始まっており、最初の転落は1973年7月に終わる第22期、長期ストライキと競争激化による2,700万円の赤字であった。「危機突破2-4作戦」が目を引くのは、大幅な人員削減を進めた同じ1974年8月に、福岡営業所を切り出して販売子会社の設立へ着手した点にある。縮める手と、売る仕組みを組み替える手が同時に動いていた。
もっとも、その両手打ちがすぐ効いたわけではない。第24期は経常損益が1億1,100万円の赤字となって無配に再転落し、富岡製作所ではレイオフにも至った。復配を掲げた第25期も経常利益は計画の半分近くにとどまった。荻野社長が「0、1、2、3計画」を掲げたのは、その二度の失敗のあとであった。削ることしか言えなかった3年の末に、借金ゼロ・上場・配当・賞与という取り戻す順番を示せたことが、回生の分かれ目だったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
5年で倍という成長の速度
日本光電工業は1951年8月、東京都文京区駒込坂下町で、陸軍科学研究所で電子光学を扱っていた荻野義夫氏ら10名足らずの有志が資本金80万円で興した会社である。創業から3カ月で世界初の電気眼底血圧計を試作し、以後は脳波計や心電計を軸に医用電子機器の専業として伸びた。1952年7月に本社と工場を新宿区西落合へ移し、1961年11月には東京証券取引所市場第二部へ株式を上場している[1][2]。
成長の速度は同業のなかでも際立っていた。創立15周年の1966年に16億円だった売上高は、20周年の1971年には36億円へ達し、5年でおよそ倍という歩みを重ねている。真空管からトランジスタへの切り替えを早い時期に済ませていたことも、小型化と量産に有利に働いた。ところが、その勢いが鈍り始めたのは、皮肉にも20周年を迎えた1971年8月であった[3][4]。
石油危機より先に来た無配
1971年8月、米国はヨーロッパ主要国と日本に変動相場制への移行を迫るドル防衛策を発表し、日本は1973年2月に変動相場制へ移った。一方で、福祉国家の建設をめざす国の施策に押されME機器の市場は多様化と大型化が進み、新規企業の参入が激増して競争は熾烈になっていた。日本光電工業は1971年末に4事業部制を導入し、新製品開発、販売網の強化、サービス体制の充実、生産合理化、管理体制の強化に取り組んだ[5]。
打撃は石油危機より先に届いた。競争の激化に加えて春季賃上げ交渉にからむ長期ストライキが生産と販売を止め、1972年8月に始まる第22期は2,700万円の赤字決算となり、十数年ぶりの無配へ転落した。会社は同じ期の初めから「収益最重点」「企業体質の強化」を掲げ、人員と経費の削減、在庫の圧縮、製品整理、不良資産の発生防止に着手していた。みずから減量に転じた矢先の赤字であった[6][7]。
決断
「危機突破2-4作戦」の7項目
1973年10月の石油危機は、その途上を直撃した。ただし数字にすぐ表れたわけではなく、1974年7月に終わる第23期は物価上昇とモノ不足への懸念で購買力が一時的に増したため、売上高73億円・経常利益2億円と増収増益になり復配にこぎつけている。会社はこれを一時のものとみていた。予想どおり、1974年8月に始まる第24期はスタートから業績が振るわず、見通しの立たない状態であった[8][9]。
荻野義夫社長はここで「危機突破2-4作戦」を打ち出した。「収益最重点と体質の強化」を最重点課題に据え、販売力の強化、在庫削減と仕入れ規制の強化、製品整理と開発業務の重点化、生産の効率化とコスト低減、人件費の効率化、経費の徹底した節減、業務の整理と組織の簡素化という7項目を並べている。骨子は大幅な人員削減と経費・在庫の圧縮、原価の低減、そして販売価格の改訂であった[10][11]。
縮小と同時に進めた販売網の組み替え
実行は痛みを伴った。群馬県富岡市の富岡製作所ではレイオフに踏み切り、分社化も進めている。それでも第24期の落ち込みは止まらず、売上高は前期の73億円から71億4,100万円へ減り、経常損益は1億1,100万円の赤字、当期損益も7,100万円の赤字となって無配へ再び転落した。総需要抑制策とME機器の100%資本自由化が重なり、赤字から脱することはできなかった[12][13]。
もう一方の柱は、売る仕組みの組み替えであった。作戦を始めた1974年8月、福岡営業所を分離独立させて日本光電九州を設立し、以後1976年10月までに全国の営業拠点を順に切り出して10地域10社の販売子会社へ改める。国内販売網の再編強化を狙った措置で、拠点ごとに採算の責任を負わせる独立採算制への移行でもあった。縮めるだけではなく、売り手を分けて自立させる手を同時に動かしていた[14][15]。
結果
復配までの二期
1975年8月に始まる第25期は、売上高75億7,000万円・経常利益2億3,000万円を掲げ、復配をめざす背水の陣であった。決算は売上高76億6,300万円と計画を上回ったものの、経常利益は1億2,850万円にとどまって計画を大きく下回る。前期からの繰越欠損は解消したが、復配には届かなかった。日本経済そのものが後半に回復の兆しを見せながら長期不況から抜け出せずにいた時期でもあった[16]。
1976年8月、欠損を脱した第26期の期首に、荻野社長は5年後の創立30周年へ向けた目標として「0、1、2、3計画」を掲げた。0は借金ゼロ、1は東証一部上場、2は2割配当、3は年3回の賞与復活を指す。命名を発案したのは井原氏であった。数字を四つ並べただけの標語だが、削ることばかりだった3年のあとで、何を取り戻すのかを社員に示す言葉になっていた[17]。
四つの目標の達成まで
第26期は、国内販売拠点の子会社化と製品別事業部制の導入を続けた。売上高は76億6,100万円とほぼ前期並みにとどまったが、原材料や人件費の上昇を減量経営と合理化で吸収し、新製品の寄与もあって経常利益は2億4,200万円と前期から1億1,300万円増えている。1割の配当を行い、3年ぶりの復配を果たした。以後の数年は業績が急に伸び、社内には「第2期黄金時代」と呼ぶ声も出た[18][19]。
回復は数字で追える。第27期は売上高87億1,300万円・経常利益5億9,500万円、1979年7月に終わる第28期は売上高116億7,200万円と初めて100億円を超え、経常利益は14億5,500万円と前期の2倍を上回った。これで無借金と年3回賞与が先に実現する。残る2割配当は創立30年の1981年7月期に、東証一部への指定は1982年1月4日に果たされ、掲げた四つはすべてかなった[20][21]。
- 電子技術で病魔に挑戦 : 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)
- 日本光電工業 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 会社年鑑(1976年版・1986年版)