日本光電工業の無配は石油危機より先に始まっており、最初の転落は1973年7月に終わる第22期、長期ストライキと競争激化による2,700万円の赤字であった。危機突破2-4作戦が目を引くのは、大幅な人員削減を進めた同じ1974年8月に、福岡営業所を切り出して販売子会社の設立へ着手した点にある。縮める施策と、売る仕組みを組み替える施策が同時に進んでいた。
ただ、その両手打ちがすぐ効いたわけではない。第24期は経常損益が1億1,100万円の赤字となって無配に再転落し、富岡製作所ではレイオフにも至った。復配を掲げた第25期も経常利益は計画の半分近くにとどまった。荻野社長が0、1、2、3計画を掲げたのは、その二度の失敗のあとである。削減することしか言えなかった3年の末に、借金ゼロ・上場・配当・賞与という取り戻す順番を示せたことが、回生の分かれ目だったのだろう。