創業者の荻野義夫氏は早稲田大学理工学部で電気工学を学び、戦時中は陸軍科学研究所でテレビジョンや光電話[1]の研究開発にあたった技術将校だった。終戦で兵器開発の職を失った荻野氏は、医学と電子工学を結びつける事業に将来を見いだす。1951年8月、医療関係に顔の広い陸軍軍医出身の松崎陽氏を初代社長に迎え[2]、わずか12名で東京都文京区に日本光電工業を設立した[3]。会社設立の目的に医理学機器と電気・光関連機器の研究製造を掲げ、医学と工学の結合という理念を骨格に据えた医療電子機器専業メーカーの源流である。
資金面では、陸軍科学研究所で光電話研究の先任だった野村恭雄氏が物心両面で支え[4]、後に日本光電の生みの親とも呼ばれた。社名は、荻野氏が大学や研究所で扱った光電効果や電子光学[5]にちなみ、発起人の話し合いから『光電』に『日本』と『工業』を冠して決めた。社長の実務は荻野氏が代行し、自らの土地家屋に加え親族や知人の不動産まで借入の担保に差し入れて運転資金を工面する綱渡りの船出だった。補聴器の製造販売を糊口の手段にしながら、本来の目的である医用電子機器の開発に少しずつ資源を割く創業期が始まった。
創業当初の収入源は、トリオ電気研究所から引き継いだ『トリオ補聴器』の製造販売だった[6]。1949年制定の身体障害者福祉法で国庫補助の対象となった補聴器に経営の重点を置き、各県との契約や試聴テストで販路を広げたが、米軍放出部品を使う装置は性能が不安定で、現地調整に工具一式を持ち歩く労力の重い商いだった。1952年8月にトリオ補聴器が厚生大臣賞を受けて販路[7]は東京都など全国へ広がったものの、福祉法頼みでは利益が伸びず、補聴器で糊口をしのぎながら本来の医用電子機器の開発に資源を振り向けた。
本来の目的である医用電子機器では、設立4か月後の1951年12月に世界初の8チャンネル[8]全交流直記式脳波装置ME-1Dを完成させ、翌1952年に国立下総療養所へ納めた。電池式が常識だった脳波計を商用交流で連続記録できるようにした成果である。並行して1951年11月には、恩師である植村操慶大教授の依頼から世界初の電気眼底(脳内)血圧計CAP METERを試作し、特許第1号として出願[9]、通産大臣の発明実施化試験費の交付も受けた。糊口の補聴器と世界初の自社開発機が同居する姿が、創業期の日本光電だった。
1956年は経済白書が『もはや戦後ではない』[引用元]と記した年で、医用電子機器産業もこの頃に基盤を形づくった。同年6月、創業以来の実質的な経営者だった荻野義夫氏が正式に社長へ就き、9月には全社員[10]に向けて経営理念『私はこう考える』を発表した。資本に乏しい会社が人の1.1倍働いて、その蓄積で理想の場を築くという考え方を社員と分かち合った。1957年に携帯型心電計、1960年に日本初の多用途監視記録装置(ポリグラフ)、1964年に世界初の生体情報モニタと[11]、生体計測機器の国産化を社内で連続して成し遂げた。
高度成長を支えた原動力は、真空管からトランジスタへの電子技術の転換だった。1958年に主要部品の多くをトランジスタへ置き換え[12]、小型軽量の医用電子機器を相次いで商品化した。生産力と知名度が高まるなか、創立10周年にあたる1961年9月に資本金を5500万円へ増資し、同年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場して[13]、公開市場での資金調達の基盤を整えた。[14]ME機器の専業メーカーとしては初の上場である。創立10周年の記念誌で荻野社長は、医用電子機器の総合メーカーとして一応の形が整ったと述べた。設立から10年で売上高は約30倍、従業員数は約16[15]倍に伸びていた。
1960年代の高度成長期は、トランジスタから集積回路へ進むエレクトロニクスの発展と、戦後に流入した米国の進んだ電子技術を背景に、ME機器市場が広がった時期である。1962年5月に群馬県の富岡工場(後の日本光電富岡)[16]を設けて量産拠点とし、大学医学部の所在地を軸に全国の営業所・出張所網を整えた。電子工業の主流転換に合わせて新組織を発足させ、トランジスタ式の心電計や4チャンネル脳波計を投入する[17]。製品の規格化を進める標準化委員会を置き、全国規模でアフターサービスを担える体制づくりにも着手した。
医用電子工学が学問として体系化された時期でもあった。1962年11月に医学界・工学界・産業界の有識者が日本ME学会を設立し、荻野義夫氏は設立準備委員会から加わって、学会の目的に工学への医学・生物学的知見の応用を盛り込むよう主張[18]した。海外への進出も創業2年目から方針に掲げ、国際会議での論文発表や製品展示を重ねた。国内では生産・販売の近代化と研究体制の整備を進め、1982年1月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えされた[19]。二部上場から一部まで21年を要した歩みに、薬事規制への対応を積み上げる医療機器専業メーカーの堅実な拡大が表れている。
1973年10月の石油危機は、十数年続いた高度成長を終わらせ、史上空前の不況のなかで専業メーカーにも深刻な経営危機をもたらした。売上高はほぼ5年で2倍のペースで伸びていたが、1972年8月期から収益最重点と企業体質の強化を掲げて減量経営に入っていた矢先の打撃だった。1974年8月期は大幅な欠損で無配に再び転落し[20]、富岡製作所の人員整理にまで及んだ。生き残りをかけ、販売力の強化・在庫削減・原価低減・人件費の圧縮などを骨子とする『危機突破2-4作戦』を打ち出して[21]、徹底した合理化に取り組んだ。
1976年8月期に入った第26期、荻野社長は5年後の創立30[22]周年へ向けて、借金ゼロ・東証一部上場・2割配当・年3回賞与の復活を掲げる『0、1、2、3計画』を打ち出した。減量経営で原材料や人件費の上昇を吸収し、新製品の利益寄与もあって同期に3年ぶりの復配を果たす。以後の数年は業績が急回復し、社内で第2期黄金時代と呼ぶ声も出た。1979年7月期には売上高が初めて100億円を超え[23]、無借金と年3回賞与を先に満たした。残る2割配当は1981年、東証一部上場は1982年に達成し、掲げた4目標をすべてかなえた。
海外では現地メーカーのブランドで売られることが多く、ソ連や中国に比べ欧米市場での伸びも自社ブランドの知名度も振るわなかった。1976年に米国心臓協会(AHA)の年次大会へ心電計などを出展して好評を得たことから、米国でのシェア拡大が世界市場での地位に直結すると見て、自社ブランドの直販とアフターケア網の整備を急いだ[24]。1979年11月、ロサンゼルス近郊のトーランスに[25]、初の海外販売会社・日本光電アメリカ(NKA)をわずか3名で設立した。脳波計は後に米国でシェア7割を占め、世界一の地位を支える拠点へ育った。
1981年6月には埼玉県の鶴ヶ島工場を設けて生産能力[26]を広げ、1985年2月にはフランクフルト近郊にドイツ子会社・日本光電ヨーロッパを設立して欧州市場[27]へ進んだ。北米・欧州・日本という医療機器の世界三大市場のうち、成長著しい米欧の2極の販売拠点を、1980年代のうちに押さえた。脳波計から始まった単一カテゴリの専業メーカーが、地域ごとに異なる薬事規制と医療制度に対応する現地法人を順に置きながら、生体計測機器の国産化メーカーから世界市場で売るグローバル企業へ移る助走を、この時期に終えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1961年「医学と工学の結合」を理念に創業──補聴器で食いつなぎ世界初を世に出す | 日本光電工業を設立し医理学機器・電気光関連機器の研究製造を開始 | ★ | ||
| 本社・工場を新宿区西落合へ移転 | ★ | |||
| 主要部品の真空管からトランジスタへの置き換えと、小型ME機器への転換 1958年、日本光電工業は高感度の前置増幅器など一部を除き、従来の真空管の大部分をトランジスタへ置き換えることに成功した。同じ年の初めには創立10周年までを計画年度とする初の中期計画『第1次3カ年計画』を実施し、7月には10部門制へ組織を改めている。従業員83名規模の専業メーカーが、主力の心電計・脳波計の中身をまとめて入れ替えた技術転換であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所二部に上場 | ★ | |||
| 1962〜1988年トランジスタ化と高度成長、石油危機を生き延びた専業メーカーの試練 | 富岡工場を設立 | ★ | ||
| 無配転落下での減量経営「危機突破2-4作戦」と、復配目標「0、1、2、3計画」の設定 1973年10月の石油危機の前後、日本光電工業は二度の無配に沈んだ。荻野義夫社長は1974年8月に始まる第24期に『危機突破2-4作戦』を掲げ、人員削減と経費圧縮を進めながら、並行して営業拠点の分社化に着手した。1976年8月には創立30周年へ向けた『0、1、2、3計画』を掲げ、1977年7月期に3年ぶりの復配を果たした。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 子会社(日本光電アメリカ)を設立 | ★ | |||
| 鶴ヶ島工場を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所一部に指定 | ★ | |||
| 子会社(日本光電ヨーロッパ)を設立 | ★ | |||
| 1989〜2014年海外展開とM&A時代──50カ国超の販売ネットワーク | 荻野和郎 | 中国上海で合弁会社を設立(2008年完全子会社化) | ★ | |
| 荻野和郎 | 呼称を「日本光電」と決定 | ★ | ||
| 荻野和郎 | 川本工場を設立 | ★ | ||
| 荻野和郎 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 荻野和郎 | NKUSラボを設立 | ★ | ||
| 荻野和郎 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 荻野和郎 | フィレンツェ子会社を設立 | ★ | ||
| 荻野和郎 | ベネフィックスを子会社化 | ★ | ||
| 荻野和郎 | 日本バイオテスト研究所を子会社化 | ★ | ||
| 鈴木文雄 | ニューロトロニクスを買収 | ★ | ||
| 鈴木文雄 | デフィブテックを買収 | ★★ | ||
| 2015〜2025年荻野博一在任中の「BEACON 2030」とコロナ需要急増 | 鈴木文雄 | 富岡生産センタ完成 | ★ | |
| 鈴木文雄 | オレンジメッドを設立・取得 | ★ | ||
| 荻野博一 | 所沢に総合技術開発センタを開設 | ★ | ||
| 荻野博一 | 国内販売子会社11社を吸収合併 | ★ | ||
| 荻野博一 | アンプスリーディを買収 | ★ | ||
| 荻野博一 | 子会社を再編、持株会社体制に移行 | ★★ | ||
| 荻野博一 | 持株会社を商号変更し人工呼吸器事業を新会社に承継 | ★ | ||
| 荻野博一 | アドテック親会社のニューロアドバンスドを買収 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本光電工業)