1968年2月、兵庫県神戸市兵庫区下沢通5丁目4番地[1]に東亞医用電子株式会社が設立された。親会社にあたる東亞特殊電機株式会社(現TOA株式会社)が製造する血球計数装置の販売を専業とする小規模な会社で、[2]自社製品を持たず機器の利益は親会社へ落ちる構造での出発だった。設立を主導した中谷太郎氏は、人間ドックが広まり健康な人も検査を受ける予防医学の到来を訪米で見て[3]、血液という健康情報を測る機器に大きな需要を読んだ。東亞特殊電機の出資には頼らず中谷氏らの個人出資で別会社[4]として興したのは、本業の電機事業から離れて多角化の一本を自前で立てる狙いからであった。
販社専業の事業構造は4年で改められた。1972年2月、東亞医用電子は親会社東亞特殊電機[5]の医用電子機器開発製造部門の営業を譲り受け、機器の開発・製造・販売を一貫して担う体制へ移った。他社の製品を売る立場では、広がる検査自動化の需要を収益に変え切れないという判断であった。主力の自動血球計数器は、赤血球や白血球の数を技師が顕微鏡で数えていた作業を機械に置き換えるもので、1964年に大阪大学医学部の協力で国産化[6]された国産第一号機にさかのぼる。輸入されていた米コールター社製に対し、小さな病院でも採算が取れる価格と手厚い保守で対抗し、[7]機器設計から試薬まで自前で抱える体外診断機器メーカーへの道に入った。
1973年5月、兵庫県加古川市に加古川工場が新設され、営業・生産[8]・研究開発の各部門が集約された。神戸本社から独立した主力工場を得て、メーカーとしての量産能力が固まった。自動血球計数器は熊本労災病院への納入を皮切りに全国の病院へ広がり、1979年の時点で国内シェア[9]は約75%に達した。1982年の市場調査では、全自動型のCC-700・CC-800が国産首位の約41%、半自動型のCC-120・CC-108が約43%を占め、[10]米コールター社や三菱化成・日本テクニコンといった内外のメーカーがひしめく市場で、東亞医用電子は血球計数の分野で抜きん出た位置にあった。[11]
血球計数器は機械だけでは完結せず、血液を希釈し溶血させる試薬を使って測る。東亞医用電子は希釈液・溶血剤・洗浄剤といった試薬や検体容器まで自前で商品化し[12]、機器という装置と試薬という消耗品をひと組で売る形をとった。販売は一県一代理店制を敷き、[13]メーカーとして保守と試薬供給に直接あたることで、装置を据え置いたあとも検査のたびに試薬が継続して売れる収益の型を作った。1978年には試薬の専用工場を兵庫県夢前町に新設し、機器の生産を担う加古川工場と合わせて、[14]装置と消耗品の双方を内製する体制をそろえた。
1978年2月、製品ブランドを『Sysmex』[15]に改めた。システムと医療を組み合わせた造語で、自動化された検査システムを名に込め、のちに社名へ昇格する素地が用意された。製品の面では、技師の手作業を前提とする半自動機から、検体をかけるだけで測り終える全自動機への切り替えが1970年代の末から進んだ。[16]1983年の秋には全自動の血球計数装置『Eシリーズ』4タイプを一度に投入し、1台1,850万円から3,750万円までの価格帯で、[17]小さな診療所から大病院まで検査量の異なる需要に品揃えで応えた。機器の性能を上げることと試薬を継続して売ることが、収益を押し上げる両輪になった。
世界の血球計数器は米コールター社が首位を占めており、東亞医用電子はこの先行企業を追って早くから海外へ出た。欧州では1972年にドイツへ駐在所を置き、[18]1980年10月にドイツ現地法人トーア メディカル エレクトロニクス ドイチュラント(現シスメックス ヨーロッパ エスイー)を設立して欧州事業の足場とした。[19]米国へは1977年に北米駐在所、1979年に米国現地法人を構え、[20]医療機器大手のバクスター社を販売代理に得て北米の拠点とした。[21]現地で試薬を生産し機器は日本から運ぶ分業に、欧米で一国一代理店を結ぶ販売網を重ね、輸出比率は1990年度に4割を超えた。[22]
研究開発と生産の拠点づくりも、海外への展開と並んで進んだ。1986年4月、神戸市西区に神戸工場(現テクノパーク)を新設して研究開発部門を移し、[23]電気・機械・化学・光学などにまたがる技術者を一カ所に集めた。1991年2月には兵庫県小野市に小野工場を設けて検体検査試薬の生産を集約し、[24]1993年3月にはテクノセンター(現テクノパーク)本館を加えて研究開発・物流・情報システム・サービスの各部門を束ね、[25]神戸が機能の中核になった。研究開発費は売上高の約15%に達し、全社員のおよそ2[26]割が開発に携わる人と技術への重い投資が、製品の更新を支えた。
1988年に社長へ就いた橋本禮造氏は、就任にあたって二つの長期目標を掲げた。一つは血球計数器で世界一になること、もう一つは血球計数器以外の新規分野が売上に占める割合を10年で1割から4割へ引き上げることである。[27]免疫化学検査や尿検査の自動化、血液ガス・電解質の分析へと品目を広げ[28]、血液検査の総合専門メーカーをめざす道筋を示した。世界の体外診断機器市場はロシュ・アボット・シーメンスら欧米の巨大企業が握る寡占で、その隙間を突いて血球計数器という一分野で世界シェアを取りに行く構えである。販社から始まった東亞医用電子は、創業から20年で開発・製造・販売を自前で担う体外診断機器メーカーへ姿を変え、海外と研究開発の土台を築いた。
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|---|---|---|---|---|
| 1968〜1989年血球計数装置の販社から開発製造一貫体制へ転換した創業期 | 東亞医用電子を神戸で設立 | ★★ | ||
| 東亞特殊電機の医用電子機器開発製造部門を譲受 | ★★ | |||
| 加古川工場を新設 | ★ | |||
| ブランドを「Sysmex」に変更 | ★ | |||
| 欧州子会社を設立 | ★ | |||
| 機器と試薬をセットで売る「計数結果を売る会社」への業態設計 血球計数器を国産化した東亞医用電子(現シスメックス)が、機器を売り切るのではなく、機器(ハード)と専用試薬(消耗品)をセットで売り、据え置き後も検査のたびに試薬が継続して売れる『計数結果を売る会社』へと業態を設計した判断。今日の高収益・リカーリングモデルの型である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 神戸工場に研究開発部門を移転 | ★ | |||
| 1990〜2010年「シスメックス」へ社名変更しグローバル体外診断機器メーカーへ転換した時代 | 東亞医用電子に形式吸収合併 | ★ | ||
| ドイツ代理店デジタナ社を子会社化 | ★★ | |||
| 大阪証券取引所二部に上場 | ★ | |||
| 家次恒 | 家次恒氏が社長に就任しグローバル直販経営に着手 | ★★★ | ||
| 家次恒 | 社名をシスメックスに変更し本社を移転 | ★ | ||
| 家次恒 | 中国・子会社(希森美康医用電子)を設立 | ★ | ||
| 家次恒 | 東京証券取引所・大阪証券取引所一部指定、中央研究所新設、フランス子会社設立 | ★ | ||
| 家次恒 | 国際試薬を子会社化 | ★★ | ||
| 家次恒 | アール・エー・システムズを子会社化 | ★ | ||
| 家次恒 | シーエヌエーを子会社化 | ★ | ||
| 2011〜2024年個別化医療への布石とコンパニオン診断事業の本格化 | 家次恒 | 韓国代理店を子会社化 | ★ | |
| 家次恒 | 理研ジェネシス資本参加、加古川アイ スクエアを開設 | ★ | ||
| 家次恒 | 理研ジェネシスを完全子会社化 | ★★ | ||
| 家次恒 | カスタマートレーニング・サポート拠点を拡張開設 | ★ | ||
| 浅野薫 | 浅野薫氏が代表取締役社長CEOに就任、家次恒氏は代表取締役会長へ | ★★★ |
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事実根拠:出所(シスメックス)