上場以来初の無配に沈んだ1993年の経営再建——VHS偏重の体質を改めるリストラと社長直属「新風事業」

勝ちすぎたVTRの成功が生んだ開発偏重の体質を、坊上卓郎社長はどう改めようとしたか

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時期 1993年3月
意思決定者 坊上卓郎 社長
論点 成功体験からの脱却と事業構造の立て直し
概要
1993年3月期、日本ビクターは連結で約430億円の最終赤字、単体で約261億円の経常赤字を計上し、1960年の上場以来初めて無配へ転落した。坊上卓郎社長は前年来の大規模なリストラと、社長直属の「新風事業」による個性派開発企業への転換を進め、VHSの成功が固めたVTR偏重の体質からの脱却を図った経営判断である。
背景
VHS規格の世界標準化で急成長した反面、その成功体験がVTRを偏重し開発技術を重んじる体質を作り、生産技術や部品事業の立ち遅れを招いた。100億円を超える特許収入が業績を下支えしたため、同社は効果的なリストラに長く手をつけられずにいた。
内容
1年で640億円分の在庫を圧縮し、出向・契約社員の更新見送りを中心に社員を3000人減らして1万5000人体制とした。VTR工場を集約し、1994年3月までに約250億円の固定費を削減する。並行して坊上社長は社長直属プロジェクトへ開発の最優先権を与え、マーケットインを掲げる新風事業を立ち上げた。
含意
技術力を生かした個性派開発企業への転身を掲げたが、既存事業の改革の遅れと急速な円高が行く手を阻んだ。VHSに代わる主力を確立できないまま、同社は長期の低迷と2008年のケンウッドとの経営統合へと向かい、成功体験の重さを映す一例となった。
筆者の見解

勝ちすぎた成功という重荷

この判断の中心にあるのは、VHSという一つの規格で世界を制した成功が、次の事業を育てる力をむしろ奪っていたという逆説である。特許収入が赤字を覆い隠し、開発陣の自負が生産技術や商品企画への投資を後回しにさせた。坊上社長のリストラと新風事業は、その成功が固めた体質をほどく試みであったとみることができる。好調なうちにではなく、上場以来初の無配という痛手を受けてから体質へ手を入れた点に、決断の遅れと難しさがうかがえる。

1976年のVHS規格戦争の勝利が同社を頂点へ押し上げ、その勝ち方が生んだ体質が、十数年後の低迷を用意した。1993年に始めた再建は主力の交代までは届かず、同社はデジタル化の波にも乗り切れないまま、2008年にケンウッドとの経営統合で独立会社としての歴史を閉じた。一つの技術で勝ちすぎた企業が、その記憶をどう手放すか——日本ビクターの歩みは、成功体験の重さという、電機産業にとどまらない問いを今日へ投げかけている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

VHSの成功が固めた開発偏重の体質

日本ビクターは、独自に開発したVHS方式のビデオテープレコーダーを1976年に世へ送り出し、親会社の松下電器や他社を巻き込んで世界標準を築いた。この成功が同社を急成長させた反面、社内にはVTRを偏重し開発技術を重んじる体質が根を張った。VHSの成功体験こそがVTR偏重・開発技術志向の体質を作り上げ、製造業の足腰となる生産技術や部品事業の立ち遅れを招いた——1993年の日経ビジネスは、ビクター不振の病根をそこに見ていた[1][2]

その体質を長く温存させたのが、VHS規格の提唱者として各社から得る特許使用収入であった。1986年の円高不況の後も営業利益は低迷したものの、100億円を超える特許収入が業績を下支えしたため、同社は効果的なリストラに手をつけられずにいた。もっとも、その収入も1988年度の166億円をピークに減り続け、1993年度は84億円まで落ちる見通しとなった。過去の蓄積に頼れる余地は、確実に細っていた[3][4]

「本来の姿」を取り戻す改革の模索

危機感は、赤字転落の前から社内で高まっていた。1990年に社長へ就いた坊上卓郎氏は、売上の83%をAV機器が占め、なかでもビデオが47%、輸出比率が56%に達する偏った収益構造を、世界的なAV不況の直撃を受けた原因とみていた。坊上社長は1992年2月、細分化していた事業部を七つの事業本部へまとめ、社内資本金を各本部へ割り振って独立採算へ近づけた。ビデオの特許収入をあてにする体質を改め、各部門へ自力で稼ぐ責任を負わせるねらいであった[5][6]

機器の価格下落から抜け出すもう一つの道として、坊上社長はソフト事業への多角化にも活路を求めた。同社は米ハリウッドの映画プロデューサー、ローレンス・ゴードン氏と1989年に映画製作会社を共同で設立し、1992年の時点で6作目の製作に入っていた。ハードだけでなく映像や音楽のソフトも併せて世へ出せる点を、総合電機メーカーにない強みと坊上社長はみていた。ただ、映画事業は収益の柱には育たず、機器の不振を埋めるには至らなかった[7]

決断

上場以来初の無配と大規模リストラ

1993年3月期、日本ビクターの業績は限界へ達した。単体の売上高は前年比15.4%減の5131億円、経常損益は約261億円の赤字へ転落し、1960年の上場以来初めて無配へ落ち込んだ。連結の最終損益も約430億円の赤字を計上している。設備投資は実質100億円まで絞られ、モルガン・スタンレー証券の山本高稔氏が「この規模の企業としては新製品の金型代で消えてしまう規模」と述べるほど、どん底の決算内容であった[8][9][10]

坊上社長は、前年8月に打ち出した合理化を軸に、なりふりかまわぬ縮小へ動いた。わずか1年で国内外あわせて640億円分の在庫を圧縮し、自然減・出向・契約社員の更新見送りで社員を3000人減らして1万5000人体制とした。横須賀・横浜・伊勢崎に分かれていたVTR工場を2工場へ集約し、年100億円規模の売上があったハードディスク駆動装置事業からも撤退した。経理担当の金子信一常務は、1994年3月までに約250億円の固定費を削り「外科手術は終わる」と語った[11][12]

社長直属「新風事業」と個性派への転換

縮小と並行して、坊上社長は手術後の体力となる新規事業を育てた。各事業本部がばらばらに研究開発を進めてきた反省から、製品化の見込める技術を社長直属プロジェクトへ移し、開発の最優先権を与えた。ここから生まれた製品群を同社は「新風事業」と呼び、セガ・エンタープライゼスと組んだ家庭用ゲーム機ワンダーメガ、動画CD対応のDVカラオケ、ハイビジョン対応のW-VHSなどを世へ送り出した。坊上社長は「スピードもの作り」と「マーケットイン」を掲げ、ユーザーの要求から外れた製品を出さない開発への転換を促した[13][14]

新風事業の先頭を走ったDVカラオケは、滑り出しが好調であった。平均単価は300万〜400万円と高いものの、発売から1993年3月末までに約1万2000台を納入し、新規契約数でレーザーディスク方式のカラオケと肩を並べた。開発の段階から営業部員がスナックやカラオケボックスへ足を運び、置ける大きさをメジャーで測るほど利用者の声を集めた。営業が開発の初期から加わるのは、同社では初めての試みであった[15][16]

結果

改革の遅れと円高が阻んだ再建

掲げた転換の一方で、既存のテレビ・ビデオ部門の体質改善は遅れた。開発への自負が生産技術を軽んじる体質につながり、松下やソニーが電子部品の実装や生産の自動化、原価低減を競った時期に、ビクターでは「生産技術部門に長い間優秀な人材が配置されなかった」と技術者が証言した。据え置き型VTRは高級・中級機種に偏り、量販店の価格競争に追いつけなかった。カメラ一体型でも、1986年に先駆けた小型機を1989年発売のソニー「TR55」へ短期間で奪われ、以後は目立つ製品を出せずにいた[17][18]

急速な円高が、リストラの効果をさらに削った。当時のビクターでは1ドルにつき1円の円高が年間20億円のコスト増となり、1993年度が平均106円で推移すれば140億円の負担増、前年度に削った固定費110億円を上回る計算であった。生産の海外移転は雇用に直結するため、思うようには進まなかった。合理化で単体の収益はいったん改善し、1995年3月期から3期は連結でも小幅な黒字へ戻したが、VHSに代わる主力を確立できず、1998年3月期には再び赤字へ沈んだ[19][20]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年6月14日号「再起なるか日本ビクター VHSの成功で袋小路に 技術生かした個性派への道探る」
  • 日経ビジネス 1992年9月28日号「編集長インタビュー 坊上卓郎氏[日本ビクター社長]独自商品でコツコツ単打狙い 新テクノロジー登場に備え」
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
  • 日本ビクター 会社年鑑(連結業績)