古河市兵衛氏は、主家の小野組が破綻したのち、独立して再起を図った[1]。1875年8月に新潟県の草倉銅山を譲り受け、経営に着手した[2]。草倉銅山と付近の赤柴鉱山は官に没収されたまま放置されており、志賀直道氏の資本協力を得て払下げを受けた[3]。第一国立銀行頭取の渋沢栄一氏も援助に加わった[4]。同じ年には山形県の幸生銅山を開発した[5]。古河機械金属はこの1875年8月の草倉銅山経営開始をもって創業とする[6]。次に手を伸ばしたのが足尾銅山で、1877年2月に栃木県の同銅山を譲り受けた[7]。足尾銅山は1872年に新政府から民間へ払い下げられており、産銅量が減り続けた末の廃鉱同然の山だった[8]。
足尾銅山は16世紀後半から採掘され、1610年以降は徳川幕府の直轄支配となり、1684年の産銅量は1,500トンに達していた[9]。しかし幕末から明治初期にはほぼ閉山状態で、古河市兵衛氏が買収した当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった[10]。これを反転させたのが富鉱の発見で、1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を掘り当てた[11]。古河市兵衛氏は大直利の発見以降、産銅の各工程と輸送方法に西洋の先端技術を次々と入れて生産量を伸ばし、足尾銅山は1884年に国内1位の産銅量を記録して、その地位を大正前期まで保った[12]。
足尾の増産と並行して古河市兵衛氏の買鉱は他県へ及び、1885年には秋田県の院内銀山・阿仁銅山・太良鉛山と加護山製錬所の一括払下げを官から受けて、新しい機械設備を入れて開発に入った[13]。1888年には不老倉鉱山を、1891年には山形県の永松銅山を相次いで手に入れた[14]。銅の増産と品質向上のため1888年から足尾の通洞の鑿進を急ぎ、1890年には足尾間藤に水力発電所を設けて排水と捲揚機を電化した[15]。この発電所はわが国の水力発電の先駆けにあたる[16]。電気は水車や蒸気機関に代わって坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送の主動力となり[17]、1896年には通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成した[18]。
掘った鉱石を売れる銅に変える工程も自前で組み替え、製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設けて、新式の水銅長方形熔鉱炉を築いた[19]。1893年にはベセマ式製錬を採用して操業に入り、鉱石から粗銅の仕上げまで32日を要していた工程が2日に縮んだ[20]。1894年9月には福岡県の下山田炭鉱を譲り受けて石炭事業へ進み[21]、この下山田炭鉱への電力応用がわが国の炭坑動力電化の始まりとなった[22]。1894年と1896年には福岡県の牛隈、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑もあわせて買い、下山田、塩頭、目尾には新坑を開いた[23]。1898年には本所熔銅所内に伸銅工場を建て、銅線の製造を始めた[24]。
1900年には足尾銅山に機械工場を建てて機械事業へ進み、鉱山で使う機械を外部から買わずに掘る現場の隣で作った[25]。電源の手当ても続き、1898年に大谷川の電源開発へ着手して1904年に別倉発電所が完成し[26]、1906年6月には栃木県日光市に細尾発電所を建てた[27]。細尾第一発電所の竣工によって、日光から足尾へ豊富な電力が供給された[28]。1898年には静岡県の久根鉱山も買い取った[29]。事業の拡大に伴い、1905年3月には個人経営から会社組織へ改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立して古河虎之助氏が社長に就いた[30]。
足尾銅山の急速な近代化は、渡良瀬川流域にわが国初の公害事件を生んだ[31]。採鉱、選鉱、製錬で出る廃水、廃石、からみに含まれる有害物質と、製錬排煙の亜硫酸ガスで裸地化した松木地区から流れ出す土砂とが複合した被害である[32]。足尾は狭い山間にあり、渡良瀬川の最上部に位置するため、被害は他の銅山より深刻になった[33]。1890年8月の大洪水で下流域の農作物被害が出て鉱害問題が表面化し、1891年12月の第二回帝国議会では田中正造氏が質問に立った[34]。1892年8月、藤岡町、野木村、部屋村、生井村と鉱業主の古河市兵衛氏との間に示談契約が結ばれ、古河市兵衛氏は示談金の支払い、洪水対策、廃水処理対策を引き受けた[35]。廃水処理では1893年と1894年に米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に入れ、各選鉱所に沈澱池を設けた[36]。
渡良瀬川の治水対策は不備のままで、1896年9月の大洪水は下流域に破堤氾濫を起こし、1890年8月を上回る農作地被害をもたらした[37]。農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を発し、古河市兵衛氏は本山、通洞、小滝への沈殿池と堆積場の設置を急いだ[38]。命令が古河に温情的だという非難が田中正造氏らから出て操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣が足尾銅山鉱毒調査会を設けた[39]。政府は同年5月13日に第二回、その2週間後の5月27日に第三回の予防工事命令を出した[40]。第三回は交付後7日以内の着工、工事ごとに最小30日・最大180日の竣工期限、遅れれば鉱業を停止するという30項目の内容だった[41]。古河市兵衛氏は約100万円を投じ、1897年11月22日に工事を完了させた[42]。
煙害は解けず、1897年の脱硫塔建設、1915年の希釈法導入、1918年の電気集塵法導入と手を打っても解決には至らないまま、1901年3月に第四回、1903年7月に第五回の予防工事命令が下った[43]。1907年には鉱夫の待遇改善への不満から大規模な暴動が起き、本山の所長宅などが焼き討ちに遭った[44]。1911年11月には組織を改めて古河合名会社とし[45]、1914年からは足尾製作所で一般鉱山機械の製作を始めた[46]。産銅は伸び、1916年の年間産銅量は14,000トンを超え、足尾町の人口は38,428人へ増えた[47]。1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立させ、資本金2,000万円の古河鉱業株式会社を設立した[48]。
1918年4月に古河合名会社の鉱業部門を分離して発足した古河鉱業は、第一次世界大戦後の好況のなかで新規の事業と既設の事業に相次いで資本参加し、旭電化工業・横浜護謨製造・大阪製煉・東亜ペイント・日本電線製造・古河電気工業・富士電気製造の経営権を握った[49]。1919年には和歌山県で飯盛鉱山を開発し、国内有数の硫化銅鉱山とした[50]。ところが大戦後の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と重なった[51]。古河鉱業は1921年11月に古河商事を合併し、資本金は設立時の2,000万円から2,250万円へ増えた[52]。同じ1921年には足尾鉱業所の事務所を足利市へ売却した[53]。
経営権を握った先のうち、古河電気工業と富士電気製造は足尾銅山の設備から伸びた事業である[54]。創業者の古河市兵衛氏は足尾の開発にあたり、国内で初めての水力発電所を設け、外国から取り入れた鑿岩機を日本人の体力に合うよう作り替えた[55]。この鑿岩機の製作が古河鉱業の機械部門の始まりとなり、そこから電線、さらに電気機械へと関係先を増やした[56]。掘るために内製した発電と機械が、鉱山の外で別会社の本業となった[57]。古河鉱業自身も足尾の工場で一般の鉱山機械を作り、鉱山用にとどまらない需要に応じた[58]。
1933年3月、古河鉱業は金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名会社へ譲渡し、石炭部門だけを残して古河石炭鉱業株式会社と改称した[59]。譲渡を受けた古河合名会社は、古河鉱業合名と名を改めた[60]。銅山から出発した会社が、7年11か月にわたって足尾銅山を持たない石炭会社になった[61]。手元に残ったのは、1894年以降に福岡県で買い集めた牛隈・下山田・勝野・沓抜・塩頭・目尾などの炭鉱である[62]。1939年には大峰・峰地の両炭鉱と、野田炭砿合資会社が持つ全鉱区を買い取った[63]。1941年2月、古河石炭鉱業は古河合名会社を合併し、同時に古河鉱業株式会社へ改称した[64]。存続したのは古河石炭鉱業の側で、譲り渡した金属部門を再び抱えた[65]。
1942年4月、足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた[66]。同年9月には増資して資本金を5,000万円とし、株式の一部を公開した[67]。1944年8月には東亜化学製煉株式会社の大阪製煉工場を買収して化学部門へ進み、同年12月に栃木県小山市へ小山工場を建てた[68]。化学部門は自社と他社が産する硫化鉱を原料に硫酸を作り[69]、大阪の工場では酸化チタンと、船底塗料の材料になる亜酸化銅も製造した[70]。一方の足尾銅山は、1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動を受け、無計画な乱掘に至る[71]。この時期に河鹿鉱床のような巨大鉱床の発見はなく、見つかったのは小規模な鉱脈だけである[72]。
戦後、工場設備と鉱山現場は荒廃し、占領下の経済法規による制約も加わった[73]。それでも足尾では1948年に重液選鉱法を、戦後の国内鉱山で初めて実用化した[74]。1946年12月、新海英一氏が社長へ就いた[75]。1949年5月に東京証券取引所第一部へ上場し、1950年2月には群馬県高崎市に高崎工場を建設した[76]。1951年には資本金を5億円へ増やし、同年9月期に売上高73億円・利益7億8,000万円を計上して4割の配当を行った[77]。1952年3月期は売上高約100億円、利益10億円を見込んだ[78]。同年には北海道の雨竜炭鉱を買収し、埋蔵量2,000万トン以上とされる6,500カロリーの粘結炭の鉱区を手に入れた[79]。
1955年3月期の売上高は80億5,000万円で、生産比率は金属部門が35%、石炭部門が57%、機械部門が8%だった[80]。金属部門の数字には化学と発電が含まれる[81]。古河鉱業は鉱業を中心に、機械・化学・発電を一つの会社で営んだ[82]。金銀銅は足尾製錬所で他社からの買鉱と合わせて粗銅にし、その先の精製を古河電気工業と日光電気精銅所へ委託した[83]。機械部門は鑿岩機と空気圧縮機を作り、化学部門は硫酸・酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉を製造し、発電部門は足尾銅山と自社工場向けの日光発電所で余った電力を他社へ売った[84]。1955年3月に資本金は13億円へ増えた[85]。足尾製錬所は1954年に自熔製錬法を導入し、1956年から自熔製錬を始めた[86]。
1961年以降、古河鉱業は石炭部門の合理化に入り、不採算の炭鉱を別会社へ移した[87]。1962年末頃から縮小を始め、直営5か所だった炭鉱は2か所まで減った[88]。1963年には足尾製作所を機械事業部へ改編して事業部制を採り、翌1964年には化学部門に化成本部を置いた[89]。1965年、石炭部門で石油の販売を始めた[90]。1968年3月期の売上高は199億円強で、売上比率は銅39%、石炭14%、酸化チタン6%、硫酸他12%、機械20%、石油9%である[91]。楢原良一郎社長のもと、従業員は4,876名、資本金は55億3,000万円を数えた[92]。1968年度は13億6,000万円の設備投資を予定し、その多くを金属部門の合理化へ向けた[93]。
1970年1月、下山田炭鉱を閉山して石炭採掘事業から撤退した[94]。1894年9月に古河市兵衛氏が譲り受け、石炭事業の始まりとなった炭鉱である[95]。撤退にあたっては国から10億円を借り入れた[96]。石炭の減少を埋めたのは機械で、1963年頃に手がけ始めたボーリング機械の需要が伸び、1972年3月期は売上高370億円のうち機械部門が180億円を占めるまでになった[97]。1950年代から1956・57年頃にかけて石炭60〜65%、金属25%、機械10%程度だった構成比は、1972年に機械65%、金属25%、残りが化学と燃料へ変わった[98]。足尾銅山には鉱量が残っていたが、銅価がトン当たり35万円まで下がり、採算が合わなくなっていた[99]。1972年11月に採鉱停止を発表し、1973年2月28日に足尾銅山を閉山した[100]。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/5715/manifest.json https://the-shashi.com/api/5715/history.json https://the-shashi.com/api/5715/timeline.json https://the-shashi.com/api/5715/executives.json https://the-shashi.com/api/5715/shareholders.json https://the-shashi.com/api/5715/financials.json https://the-shashi.com/api/5715/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/5715/segments.json https://the-shashi.com/api/5715/regions.json https://the-shashi.com/api/5715/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1875〜1918年草倉から足尾へ──電力・製錬・機械を自前で持った銅山会社 | 古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)の経営を開始し創業 | ★★ | ||
| 足尾銅山(栃木県)を譲り受け経営を開始 | ★★★ | |||
| 下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け石炭事業へ参入 | ★ | |||
| 足尾銅山に機械工場を設置し機械部門へ参入 | ★ | |||
| 個人経営から会社組織に変更し古河鉱業会社を設立 | ★★ | |||
| 組織変更により古河合名会社を設立 | ★ | |||
| 日本初のさく岩機を製作 | ★ | |||
| 古河合名会社の鉱業部門を独立させ古河鉱業を設立 | ★★ | |||
| 1919〜1973年古河石炭鉱業への改称と、石炭・銅からの二重の撤退 | 日光電気精銅所を現物出資し古河電気工業を設立 | ★★ | ||
| 金属部門を古河合名会社へ移管し商号を古河石炭鉱業に変更 | ★ | |||
| 古河合名会社と合併し商号を古河鉱業に変更 | ★★ | |||
| 足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立 | ★ | |||
| 増資により株式の一部を公開 | ★ | |||
| 東亜化学製煉大阪製煉工場を買収し化学部門へ参入 | ★ | |||
| 東京証券取引所第一部に上場 | ★ | |||
| 群馬県高崎市にさく岩機部門の高崎工場を建設 | ★ | |||
| 足尾製錬所に日本初の自熔製錬設備が完成 | ★★ | |||
| 小山工場でクローラショベルの生産を開始 | ★ | |||
| 下山田炭鉱を閉山し石炭採掘事業から撤退 | ★★ | |||
| 福島県いわき市にいわき工場、東京都日野市に日野研究所を建設 | ★ | |||
| 足尾銅山の閉山と、機械部門への主力の移行 1972年から1973年にかけて、古河鉱業が1877年以来96年営んだ足尾銅山を閉山し、14年ぶりの85億円増資と定款変更によって機械部門と電子材料へ資金と事業目的を振り向けた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 栃木県壬生町に建設機械部門の壬生工場を建設 | ★ | |||
| 1974〜2005年足尾閉山から16年後の商号変更──古河機械金属のさく岩機とユニック | 車載型クレーンのユニックの全株式取得と佐倉工場の開設 1987年3月、古河鉱業が車両搭載型クレーンで約40%の市場シェアを持つ株式会社ユニックの全株式を36億円で取得した買収。売り手は阪和興業・日商岩井・東食の3商社で、ユニックは1986年3月期に売上高122億円、経常利益7億3000万円を上げ、黒字が10年近く続いていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 商号を古河鉱業から古河機械金属に変更 | ★★★ | |||
| 油圧ブレーカ製造の Gougler Industries(米国)を買収 | ★ | |||
| 銅製錬会社 Port Kembla Copper(オーストラリア)を設立 | ★ | |||
| 建機部門を分離し生産を古河建機、販売を古河建機販売へ移管 | ★★ | |||
| 古河建機を日立建機との合弁会社化し日立古河建機に商号変更 | ★★ | |||
| 日光発電事務所の水力発電事業を会社分割し事業譲渡 | ★ | |||
| 鋳造品事業を古河キャステックへ営業譲渡 | ★ | |||
| 金属製錬事業を会社分割し古河メタルリソースを新設 | ★ | |||
| 日立古河建機の株式を日立建機へ譲渡し建設機械事業から撤退 | ★★★ | |||
| 日立古河建機株式の譲渡による建設機械からの撤退と、主要6事業の分社 2002年3月期から3期続けて最終赤字を出した古河機械金属が、2004年10月に日立古河建機の株式を日立建機へ譲渡して建設機械から降り、翌2005年3月に産業機械・開発機械(ロックドリル)・ユニック・金属・電子・化成品の主要6事業部門を会社分割して事業持株会社体制へ移った再編。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2006〜2026年連結営業利益130億円へ──機械事業への集中と小名浜製錬株の売却 | 燃料事業を会社分割し古河コマースへ承継 | ★ | ||
| 塗料・化成品製造のトウペを連結子会社化 | ★ | |||
| 古河コマースの株式を宇佐美鉱油へ譲渡し燃料事業から撤退 | ★ | |||
| トウペの株式を日本ゼオンへ譲渡し塗料事業から撤退 | ★★ | |||
| 中戸川稔 | 金属粉体製造の山石金属を買収 | ★ | ||
| 中戸川稔 | 東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(古河機械金属)