古河機械金属 の歴史

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創業 1875年
創業者 古河市兵衛
創業地 新潟県東蒲原郡
創業
1875年8月、古河市兵衛氏が新潟県東蒲原郡の草倉銅山を譲り受け、鉱山経営に着手した。主家の小野組が破綻したのちの再起で、志賀直道氏の資本協力と第一国立銀行頭取の渋沢栄一氏の援助を得ている。同じ年に山形県の幸生銅山を開発し、1877年2月には産銅量が年100トンに満たない廃鉱同然の足尾銅山を譲り受けた。1881年の鷹之巣直利、1884年の横間歩大直利という富鉱の発見で産銅は反転し、足尾は1884年に国内首位に立って大正前期までその地位を保つ。1885年には秋田県の院内銀山と阿仁銅山の払下げも受けた。1905年3月に古河鉱業会社を設立し、1918年4月には資本金2,000万円の古河鉱業株式会社となった。
決断
一度は金属を手放して石炭専業になり、最後は石炭も銅も手放した。1933年3月に金属鉱業部門を古河合名会社へ譲渡して古河石炭鉱業と改称し、7年11か月にわたり足尾銅山を持たない石炭会社になる。1941年2月に古河合名会社を合併して金属を取り戻したが、1970年1月には石炭事業の出発点だった下山田炭鉱を閉じて採掘から退いた。1972年11月には鉱量を残したまま足尾銅山の採鉱停止を決めた。穴を埋めたのはボーリング機械で、1972年3月期は売上370億円のうち機械が180億円を占めている。1987年3月には車載型クレーンのユニックの全株式を取得し、1989年10月に商号を古河機械金属へ改めた。掘る事業を二度やめたあと、掘るために作った機械のほうが社名の前半へ残った。
現況
売上の半分を占める金属事業は、鉱山も製錬所も持っていない。原料鉱石を海外から買い入れ、関連会社の日比共同製錬などへ委託して銅・金・銀・硫酸の供給を受け、これを販売している。2023年3月末には小名浜製錬との委託製錬契約を終え、保有する同社株式を三菱マテリアルへ譲渡した。2026年3月期の連結売上高は2,110億8,100万円、営業利益は112億9,900万円で、金属が売上1,030億6,700万円・セグメント利益37億9,000万円、ロックドリル・ユニック・産業機械の3部門が合計842億5,500万円・57億7,000万円である。6事業を分社した2005年から20年を経ても、機械事業で連結営業利益の80%以上という中期経営計画の目標には届かず、実績は51%にとどまっている。
競合
鉱山から出発した非鉄各社のうち、連結の中に製錬所を持たないのは古河だけである。三井金属は神岡の採掘を止めたあとも国内7か所の製錬所を残し、DOWAは原料の入口を鉱石から廃棄物へ替えて製錬を続けた。古河機械金属は1973年に足尾を閉じ、2003年8月に豪州のPort Kembla Copperを操業休止へ移し、2023年3月末には小名浜製錬との委託製錬も終えている。銅山の設備から伸びた電線と電機は、古河電気工業富士電機製造として社外で本業になった。原料も製錬所も外へ委ねたことが、地金の市況よりも建設と鉱山の機械需要で損益が動く会社を作った。
長期業績の推移 1950〜2026年
古河機械金属:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 草倉から足尾へ──電力・製錬・機械を自前で持った銅山会社 (1875年〜)

創業ストーリー(1)

小野組破綻からの再起と、廃鉱同然だった足尾の買収

古河市兵衛氏は、主家の小野組が破綻したのち、独立して再起を図った[1]。1875年8月に新潟県の草倉銅山を譲り受け、経営に着手した[2]。草倉銅山と付近の赤柴鉱山は官に没収されたまま放置されており、志賀直道氏の資本協力を得て払下げを受けた[3]第一国立銀行頭取の渋沢栄一氏も援助に加わった[4]。同じ年には山形県の幸生銅山を開発した[5]。古河機械金属はこの1875年8月の草倉銅山経営開始をもって創業とする[6]。次に手を伸ばしたのが足尾銅山で、1877年2月に栃木県の同銅山を譲り受けた[7]。足尾銅山は1872年に新政府から民間へ払い下げられており、産銅量が減り続けた末の廃鉱同然の山だった[8]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [1]古河市兵衛は主家小野組の破綻後、独立再起を図った
    • [3]官に没収放置されていた新潟県草倉銅山および付近の赤柴鉱山の払下げを、志賀直道の資本協力を得て受けた
    • [5]1875年に山形県幸生銅山を開発した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1875年8月、古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)を譲り受け、経営を開始した
    • [6]古河機械金属の創業は1875年8月の草倉銅山の経営開始である
    • [7]1877年2月に足尾銅山(栃木県)を譲り受けた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [4]第一国立銀行頭取の渋沢栄一の援助を得て、新潟県草倉銅山の経営に着手した
    • [8]明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、1872年に民間に払い下げられた。産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた

足尾銅山は16世紀後半から採掘され、1610年以降は徳川幕府の直轄支配となり、1684年の産銅量は1,500トンに達していた[9]。しかし幕末から明治初期にはほぼ閉山状態で、古河市兵衛氏が買収した当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった[10]。これを反転させたのが富鉱の発見で、1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を掘り当てた[11]。古河市兵衛氏は大直利の発見以降、産銅の各工程と輸送方法に西洋の先端技術を次々と入れて生産量を伸ばし、足尾銅山は1884年に国内1位の産銅量を記録して、その地位を大正前期まで保った[12]

    • [9]足尾銅山は16世紀後半に佐野氏により採掘され、1610年以降徳川幕府直轄支配となり、1684年の生産量は1,500トンに達した
    • [10]幕末から明治時代初期にかけてほぼ閉山状態となり、古河市兵衛の買収当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった
    • [11]1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を発見した
    • [12]古河市兵衛は大直利の発見以降、産銅システムの各工程と輸送方法に西洋の先端的な技術を取り入れて生産量を増やし、1884年に国内1位の産銅量を記録して大正前期までその地位を確保した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [1]古河市兵衛は主家小野組の破綻後、独立再起を図った
    • [3]官に没収放置されていた新潟県草倉銅山および付近の赤柴鉱山の払下げを、志賀直道の資本協力を得て受けた
    • [5]1875年に山形県幸生銅山を開発した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1875年8月、古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)を譲り受け、経営を開始した
    • [6]古河機械金属の創業は1875年8月の草倉銅山の経営開始である
    • [7]1877年2月に足尾銅山(栃木県)を譲り受けた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [4]第一国立銀行頭取の渋沢栄一の援助を得て、新潟県草倉銅山の経営に着手した
    • [8]明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、1872年に民間に払い下げられた。産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた
    • [9]足尾銅山は16世紀後半に佐野氏により採掘され、1610年以降徳川幕府直轄支配となり、1684年の生産量は1,500トンに達した
    • [10]幕末から明治時代初期にかけてほぼ閉山状態となり、古河市兵衛の買収当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった
    • [11]1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を発見した
    • [12]古河市兵衛は大直利の発見以降、産銅システムの各工程と輸送方法に西洋の先端的な技術を取り入れて生産量を増やし、1884年に国内1位の産銅量を記録して大正前期までその地位を確保した
創業ストーリー(2)

間藤の水力発電とベセマ式製錬、足尾に建てた機械工場

足尾の増産と並行して古河市兵衛氏の買鉱は他県へ及び、1885年には秋田県の院内銀山・阿仁銅山・太良鉛山と加護山製錬所の一括払下げを官から受けて、新しい機械設備を入れて開発に入った[13]。1888年には不老倉鉱山を、1891年には山形県の永松銅山を相次いで手に入れた[14]。銅の増産と品質向上のため1888年から足尾の通洞の鑿進を急ぎ、1890年には足尾間藤に水力発電所を設けて排水と捲揚機を電化した[15]。この発電所はわが国の水力発電の先駆けにあたる[16]。電気は水車や蒸気機関に代わって坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送の主動力となり[17]、1896年には通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成した[18]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [13]1885年に官より秋田県下の院内銀山、阿仁銅山、太良鉛山および加護山製錬所の一括払下を受け、斬新な機械設備をもって開発に着手した
    • [14]1888年に不老倉鉱山(秋田)、1891年に永松銅山(山形)を相次いで買収した
    • [15]銅の増産と品質の向上を図って1888年より足尾の通洞の鑿進を急ぐとともに、足尾間藤に水力発電所を設置して排水および捲揚機を電化した
    • [16]足尾間藤の水力発電所はわが国における水力発電の嚆矢である
    • [17]1890年に間藤の水力発電の運転を開始し、水車や蒸気機関に代わって電気が坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送等の主動力として利用された
    • [18]1896年に通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれ、基幹坑道が完成した

掘った鉱石を売れる銅に変える工程も自前で組み替え、製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設けて、新式の水銅長方形熔鉱炉を築いた[19]。1893年にはベセマ式製錬を採用して操業に入り、鉱石から粗銅の仕上げまで32日を要していた工程が2日に縮んだ[20]。1894年9月には福岡県の下山田炭鉱を譲り受けて石炭事業へ進み[21]、この下山田炭鉱への電力応用がわが国の炭坑動力電化の始まりとなった[22]。1894年と1896年には福岡県の牛隈、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑もあわせて買い、下山田、塩頭、目尾には新坑を開いた[23]。1898年には本所熔銅所内に伸銅工場を建て、銅線の製造を始めた[24]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [19]製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設け、新式の水銅長方形熔鉱炉を築造するなど設備の改善を行った
    • [20]1893年にベセマ式製錬を採用して操業を開始した結果、従来鉱石より粗銅仕上まで32日間要したものが、わずか2日間で生産できるようになった
    • [22]下山田炭坑に電力を応用したことはわが国炭坑動力電化の始まりであった
    • [23]1894年と1896年に福岡県下の牛隈、下山田、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑を買収し、このうち下山田、塩頭、目尾には新坑を開いて新設備を加え操業を開始した
    • [24]1898年、本所熔銅所内に伸銅工場を建設し、銅線の生産を開始した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した

1900年には足尾銅山に機械工場を建てて機械事業へ進み、鉱山で使う機械を外部から買わずに掘る現場の隣で作った[25]。電源の手当ても続き、1898年に大谷川の電源開発へ着手して1904年に別倉発電所が完成し[26]、1906年6月には栃木県日光市に細尾発電所を建てた[27]。細尾第一発電所の竣工によって、日光から足尾へ豊富な電力が供給された[28]。1898年には静岡県の久根鉱山も買い取った[29]。事業の拡大に伴い、1905年3月には個人経営から会社組織へ改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立して古河虎之助氏が社長に就いた[30]

  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [25]1900年、足尾銅山に機械工場を建設し、機械事業へ進出した
    • [27]1906年6月、栃木県日光市に細尾発電所を建設した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [26]1898年に大谷川電源開発に着手し、1904年に別倉発電所が完成した
    • [29]1898年に静岡の久根鉱山を買収した
    • [30]1905年、事業の発展に伴い個人経営から会社組織に改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立し、社長に古河虎之助が就任した
    • [28]1906年に細尾第一発電所が竣工し、豊富な電力が日光から供給された
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [13]1885年に官より秋田県下の院内銀山、阿仁銅山、太良鉛山および加護山製錬所の一括払下を受け、斬新な機械設備をもって開発に着手した
    • [14]1888年に不老倉鉱山(秋田)、1891年に永松銅山(山形)を相次いで買収した
    • [15]銅の増産と品質の向上を図って1888年より足尾の通洞の鑿進を急ぐとともに、足尾間藤に水力発電所を設置して排水および捲揚機を電化した
    • [16]足尾間藤の水力発電所はわが国における水力発電の嚆矢である
    • [19]製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設け、新式の水銅長方形熔鉱炉を築造するなど設備の改善を行った
    • [20]1893年にベセマ式製錬を採用して操業を開始した結果、従来鉱石より粗銅仕上まで32日間要したものが、わずか2日間で生産できるようになった
    • [22]下山田炭坑に電力を応用したことはわが国炭坑動力電化の始まりであった
    • [23]1894年と1896年に福岡県下の牛隈、下山田、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑を買収し、このうち下山田、塩頭、目尾には新坑を開いて新設備を加え操業を開始した
    • [24]1898年、本所熔銅所内に伸銅工場を建設し、銅線の生産を開始した
    • [26]1898年に大谷川電源開発に着手し、1904年に別倉発電所が完成した
    • [29]1898年に静岡の久根鉱山を買収した
    • [30]1905年、事業の発展に伴い個人経営から会社組織に改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立し、社長に古河虎之助が就任した
    • [17]1890年に間藤の水力発電の運転を開始し、水車や蒸気機関に代わって電気が坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送等の主動力として利用された
    • [18]1896年に通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれ、基幹坑道が完成した
    • [28]1906年に細尾第一発電所が竣工し、豊富な電力が日光から供給された
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した
    • [25]1900年、足尾銅山に機械工場を建設し、機械事業へ進出した
    • [27]1906年6月、栃木県日光市に細尾発電所を建設した
創業ストーリー(3)

渡良瀬川の鉱毒と、資本金2,000万円の株式会社化

足尾銅山の急速な近代化は、渡良瀬川流域にわが国初の公害事件を生んだ[31]。採鉱、選鉱、製錬で出る廃水、廃石、からみに含まれる有害物質と、製錬排煙の亜硫酸ガスで裸地化した松木地区から流れ出す土砂とが複合した被害である[32]。足尾は狭い山間にあり、渡良瀬川の最上部に位置するため、被害は他の銅山より深刻になった[33]。1890年8月の大洪水で下流域の農作物被害が出て鉱害問題が表面化し、1891年12月の第二回帝国議会では田中正造氏が質問に立った[34]。1892年8月、藤岡町、野木村、部屋村、生井村と鉱業主の古河市兵衛氏との間に示談契約が結ばれ、古河市兵衛氏は示談金の支払い、洪水対策、廃水処理対策を引き受けた[35]。廃水処理では1893年と1894年に米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に入れ、各選鉱所に沈澱池を設けた[36]

    • [31]足尾鉱毒事件はわが国初の公害事件であった
    • [32]足尾銅山における鉱害は、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、からみ)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であった
    • [33]足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとした
    • [34]1890年8月の渡良瀬川の大洪水による下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化し、1891年12月の第二回帝国議会で田中正造から鉱害問題に対する質問がなされた
    • [35]1892年8月に藤岡町、野木村、部屋村、生井村と足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛との間に示談契約が結ばれ、古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策を行った
    • [36]廃水処理対策として、1893年と1894年に渡り米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に導入し、さらに沈澱池を各選鉱所に設けた

渡良瀬川の治水対策は不備のままで、1896年9月の大洪水は下流域に破堤氾濫を起こし、1890年8月を上回る農作地被害をもたらした[37]。農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を発し、古河市兵衛氏は本山、通洞、小滝への沈殿池と堆積場の設置を急いだ[38]。命令が古河に温情的だという非難が田中正造氏らから出て操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣が足尾銅山鉱毒調査会を設けた[39]。政府は同年5月13日に第二回、その2週間後の5月27日に第三回の予防工事命令を出した[40]。第三回は交付後7日以内の着工、工事ごとに最小30日・最大180日の竣工期限、遅れれば鉱業を停止するという30項目の内容だった[41]。古河市兵衛氏は約100万円を投じ、1897年11月22日に工事を完了させた[42]

    • [37]明治29年9月に再び発生した大洪水によって渡良瀬川下流域では破堤氾濫が生じ、明治23年8月の洪水以上の農作地被害がもたらされた
    • [38]農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を古河に対して発し、古河は本山、通洞及び小滝にそれぞれ沈殿池と堆積場の設置を急ぎ実施した
    • [39]予防工事命令が古河に温情的であるという非難が田中正造らによって強く主張され、足尾銅山の操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられた
    • [40]政府は1897年5月13日に第二回予防工事命令を発し、そのわずか2週間後の1897年5月27日に第三回予防工事命令を発した
    • [41]第三回予防工事命令は、命令書交付後7日以内の着工と、工事毎に竣工期限が最小30日、最大でも180日とされ、遅延した場合は鉱業を停止するという、30項目に及ぶ具体的な工事内容の命令であった
    • [42]古河は約100万円の巨費を投じて工事を1897年11月22日に完了させた

煙害は解けず、1897年の脱硫塔建設、1915年の希釈法導入、1918年の電気集塵法導入と手を打っても解決には至らないまま、1901年3月に第四回、1903年7月に第五回の予防工事命令が下った[43]。1907年には鉱夫の待遇改善への不満から大規模な暴動が起き、本山の所長宅などが焼き討ちに遭った[44]。1911年11月には組織を改めて古河合名会社とし[45]、1914年からは足尾製作所で一般鉱山機械の製作を始めた[46]。産銅は伸び、1916年の年間産銅量は14,000トンを超え、足尾町の人口は38,428人へ増えた[47]。1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立させ、資本金2,000万円の古河鉱業株式会社を設立した[48]

    • [43]煙害防止については明治30年に脱硫塔の建設、大正4年に希釈法の導入、大正7年に電気集塵法を導入するなど対策を講じたが抜本的な問題解決には至らず、明治34年3月に第四回予防工事命令、明治36年7月に第五回予防工事命令が発令された
    • [44]1907年、鉱夫の待遇改善への不満に端を発した大規模な暴動事件が発生し、本山の所長宅などが焼き討ちにあった
    • [47]大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も大正5年には38,428人に達した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [45]1911年11月、組織を変更し古河合名会社とした
    • [48]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [46]大正3年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
    • [31]足尾鉱毒事件はわが国初の公害事件であった
    • [32]足尾銅山における鉱害は、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、からみ)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であった
    • [33]足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとした
    • [34]1890年8月の渡良瀬川の大洪水による下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化し、1891年12月の第二回帝国議会で田中正造から鉱害問題に対する質問がなされた
    • [35]1892年8月に藤岡町、野木村、部屋村、生井村と足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛との間に示談契約が結ばれ、古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策を行った
    • [36]廃水処理対策として、1893年と1894年に渡り米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に導入し、さらに沈澱池を各選鉱所に設けた
    • [37]明治29年9月に再び発生した大洪水によって渡良瀬川下流域では破堤氾濫が生じ、明治23年8月の洪水以上の農作地被害がもたらされた
    • [38]農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を古河に対して発し、古河は本山、通洞及び小滝にそれぞれ沈殿池と堆積場の設置を急ぎ実施した
    • [39]予防工事命令が古河に温情的であるという非難が田中正造らによって強く主張され、足尾銅山の操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられた
    • [40]政府は1897年5月13日に第二回予防工事命令を発し、そのわずか2週間後の1897年5月27日に第三回予防工事命令を発した
    • [41]第三回予防工事命令は、命令書交付後7日以内の着工と、工事毎に竣工期限が最小30日、最大でも180日とされ、遅延した場合は鉱業を停止するという、30項目に及ぶ具体的な工事内容の命令であった
    • [42]古河は約100万円の巨費を投じて工事を1897年11月22日に完了させた
    • [43]煙害防止については明治30年に脱硫塔の建設、大正4年に希釈法の導入、大正7年に電気集塵法を導入するなど対策を講じたが抜本的な問題解決には至らず、明治34年3月に第四回予防工事命令、明治36年7月に第五回予防工事命令が発令された
    • [44]1907年、鉱夫の待遇改善への不満に端を発した大規模な暴動事件が発生し、本山の所長宅などが焼き討ちにあった
    • [47]大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も大正5年には38,428人に達した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [45]1911年11月、組織を変更し古河合名会社とした
    • [48]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [46]大正3年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
創業ストーリー(4)

古河商事の破綻と、好況下で握った関係会社7社

1918年4月に古河合名会社の鉱業部門を分離して発足した古河鉱業は、第一次世界大戦後の好況のなかで新規の事業と既設の事業に相次いで資本参加し、旭電化工業・横浜護謨製造・大阪製煉・東亜ペイント・日本電線製造・古河電気工業・富士電気製造の経営権を握った[49]。1919年には和歌山県で飯盛鉱山を開発し、国内有数の硫化銅鉱山とした[50]。ところが大戦後の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と重なった[51]。古河鉱業は1921年11月に古河商事を合併し、資本金は設立時の2,000万円から2,250万円へ増えた[52]。同じ1921年には足尾鉱業所の事務所を足利市へ売却した[53]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [49]1918年4月に古河合名会社の鉱業部門を独立して古河鉱業株式会社を設立した。好景気に乗って新規の事業または既設の事業に参画し、旭電化工業・横浜護謨製造・大阪製煉・東亜ペイント・日本電線製造・古河電気工業・富士電気製造の経営権を掌握した
    • [50]1919年に飯盛鉱山(和歌山)を開発し、国内有数の硫化銅鉱山とした
    • [51]戦後一般の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と相まって関係会社古河商事が破綻した
    • [52]1921年11月に古河商事を合併し、資本金2,250万円となった。1918年4月の設立時の資本金は2,000万円だった
    • [53]1921年に足尾鉱業所事務所を足利市に売却した

経営権を握った先のうち、古河電気工業と富士電気製造は足尾銅山の設備から伸びた事業である[54]。創業者の古河市兵衛氏は足尾の開発にあたり、国内で初めての水力発電所を設け、外国から取り入れた鑿岩機を日本人の体力に合うよう作り替えた[55]。この鑿岩機の製作が古河鉱業の機械部門の始まりとなり、そこから電線、さらに電気機械へと関係先を増やした[56]。掘るために内製した発電と機械が、鉱山の外で別会社の本業となった[57]。古河鉱業自身も足尾の工場で一般の鉱山機械を作り、鉱山用にとどまらない需要に応じた[58]

  • 経済時代 1972年
    • [54]足尾式さく岩機から始まった鉱山機械は、次に古河電工の電線に関係し、また富士電機の電気機械といったように広がった
    • [55]足尾を開発した当時の古河市兵衛は日本で初めての水力発電所をつくり、さく岩機などを外国から導入して日本人の体力に合うように開発した
    • [56]外国製さく岩機の作り替えが古河鉱業の機械部門のはじめとなり、電線・電気機械へと広がった
    • [57]初期から機械化学その他の部門を確実に育成したことが、炭鉱を閉鎖しても従来どおりやっていけた要因である
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [58]1914年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [49]1918年4月に古河合名会社の鉱業部門を独立して古河鉱業株式会社を設立した。好景気に乗って新規の事業または既設の事業に参画し、旭電化工業・横浜護謨製造・大阪製煉・東亜ペイント・日本電線製造・古河電気工業・富士電気製造の経営権を掌握した
    • [50]1919年に飯盛鉱山(和歌山)を開発し、国内有数の硫化銅鉱山とした
    • [51]戦後一般の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と相まって関係会社古河商事が破綻した
    • [52]1921年11月に古河商事を合併し、資本金2,250万円となった。1918年4月の設立時の資本金は2,000万円だった
    • [58]1914年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
    • [53]1921年に足尾鉱業所事務所を足利市に売却した
  • 経済時代 1972年
    • [54]足尾式さく岩機から始まった鉱山機械は、次に古河電工の電線に関係し、また富士電機の電気機械といったように広がった
    • [55]足尾を開発した当時の古河市兵衛は日本で初めての水力発電所をつくり、さく岩機などを外国から導入して日本人の体力に合うように開発した
    • [56]外国製さく岩機の作り替えが古河鉱業の機械部門のはじめとなり、電線・電気機械へと広がった
    • [57]初期から機械化学その他の部門を確実に育成したことが、炭鉱を閉鎖しても従来どおりやっていけた要因である
創業ストーリー(5)

石炭だけの会社だった7年11か月と、化学部門の取得

1933年3月、古河鉱業は金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名会社へ譲渡し、石炭部門だけを残して古河石炭鉱業株式会社と改称した[59]。譲渡を受けた古河合名会社は、古河鉱業合名と名を改めた[60]。銅山から出発した会社が、7年11か月にわたって足尾銅山を持たない石炭会社になった[61]。手元に残ったのは、1894年以降に福岡県で買い集めた牛隈・下山田・勝野・沓抜・塩頭・目尾などの炭鉱である[62]。1939年には大峰・峰地の両炭鉱と、野田炭砿合資会社が持つ全鉱区を買い取った[63]。1941年2月、古河石炭鉱業は古河合名会社を合併し、同時に古河鉱業株式会社へ改称した[64]。存続したのは古河石炭鉱業の側で、譲り渡した金属部門を再び抱えた[65]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [59]1933年3月に金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名に譲渡し、石炭部門は古河石炭鉱業株式会社と改称再発足した
    • [60]金属鉱業部門とゴム栽培事業を譲り受けた古河合名は古河鉱業合名と改称した
    • [62]古河市兵衛は1894年と1896年に福岡県下の牛隈・下山田・勝野・沓抜・塩頭・目尾の各炭坑を買収した
    • [63]1939年に大峰・峰地両炭砿ならびに野田炭砿(資)所有の全鉱区を買収した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [61]1933年3月に金属部門を古河合名会社に移管し、古河石炭鉱業株式会社と改称。1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称
    • [64]1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [65]1941年2月の合併では古河石炭鉱業株式会社が存続し、同時に古河鉱業株式会社と改称した

1942年4月、足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた[66]。同年9月には増資して資本金を5,000万円とし、株式の一部を公開した[67]。1944年8月には東亜化学製煉株式会社の大阪製煉工場を買収して化学部門へ進み、同年12月に栃木県小山市へ小山工場を建てた[68]。化学部門は自社と他社が産する硫化鉱を原料に硫酸を作り[69]、大阪の工場では酸化チタンと、船底塗料の材料になる亜酸化銅も製造した[70]。一方の足尾銅山は、1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動を受け、無計画な乱掘に至る[71]。この時期に河鹿鉱床のような巨大鉱床の発見はなく、見つかったのは小規模な鉱脈だけである[72]

  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [66]1942年4月に足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた
    • [67]1942年9月に増資を行い、株式の一部を公開した。資本金は5,000万円となった
    • [68]1944年8月に東亜化学製煉株式会社大阪製煉工場を買収して化学部門へ進出し、1944年12月に栃木県小山市に小山工場を建設した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [69]硫酸は自社および他社産の硫化鉱を原料として製造し、そのほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売した
  • 経済時代 1972年
    • [70]化学の主体は酸化チタンで大阪に工場がある。硫化鉱を買ってきて一部は酸化チタンの原料に、他は硫酸とし、もう一つ亜酸化銅を生産する。亜酸化銅は船底の塗料の材料になる
    • [71]1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動が行われ、足尾銅山も増産を求められて無計画な乱掘に至った
    • [72]この時期は巨大な河鹿鉱床の発見がなく、鉱脈も小規模のものだけだった

戦後、工場設備と鉱山現場は荒廃し、占領下の経済法規による制約も加わった[73]。それでも足尾では1948年に重液選鉱法を、戦後の国内鉱山で初めて実用化した[74]。1946年12月、新海英一氏が社長へ就いた[75]。1949年5月に東京証券取引所第一部へ上場し、1950年2月には群馬県高崎市に高崎工場を建設した[76]。1951年には資本金を5億円へ増やし、同年9月期に売上高73億円・利益7億8,000万円を計上して4割の配当を行った[77]。1952年3月期は売上高約100億円、利益10億円を見込んだ[78]。同年には北海道の雨竜炭鉱を買収し、埋蔵量2,000万トン以上とされる6,500カロリーの粘結炭の鉱区を手に入れた[79]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [73]戦後は工場設備や鉱山現場が荒廃し、占領下の経済諸法規による活動上の制約も受けた
    • [75]1946年12月に社長へ新海英一が就任した
    • [77]1951年に資本金5億円に増額した
    • [79]1952年に雨竜炭砿を買収した。雨竜炭鉱の埋蔵量は2,000万トン以上といわれ、粘結性のある6,500カロリーの良質炭を産する
    • [74]1948年に重液選鉱法が戦後わが国の鉱山では初めて実用化された
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [76]1949年5月に東京証券取引所第一部に上場し、1950年2月に群馬県高崎市に高崎工場を建設した
  • 産業と産業人 1952年「古河鉱業」
    • [78]1951年9月期は73億円の売上で7億8,000万円の利益を計上し、4割配当を行った。1952年3月期の売上高は約100億円、計上利益は10億円絡みとなる見込み
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [59]1933年3月に金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名に譲渡し、石炭部門は古河石炭鉱業株式会社と改称再発足した
    • [60]金属鉱業部門とゴム栽培事業を譲り受けた古河合名は古河鉱業合名と改称した
    • [62]古河市兵衛は1894年と1896年に福岡県下の牛隈・下山田・勝野・沓抜・塩頭・目尾の各炭坑を買収した
    • [63]1939年に大峰・峰地両炭砿ならびに野田炭砿(資)所有の全鉱区を買収した
    • [69]硫酸は自社および他社産の硫化鉱を原料として製造し、そのほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売した
    • [73]戦後は工場設備や鉱山現場が荒廃し、占領下の経済諸法規による活動上の制約も受けた
    • [75]1946年12月に社長へ新海英一が就任した
    • [77]1951年に資本金5億円に増額した
    • [79]1952年に雨竜炭砿を買収した。雨竜炭鉱の埋蔵量は2,000万トン以上といわれ、粘結性のある6,500カロリーの良質炭を産する
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [61]1933年3月に金属部門を古河合名会社に移管し、古河石炭鉱業株式会社と改称。1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称
    • [64]1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [65]1941年2月の合併では古河石炭鉱業株式会社が存続し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [66]1942年4月に足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた
    • [67]1942年9月に増資を行い、株式の一部を公開した。資本金は5,000万円となった
    • [68]1944年8月に東亜化学製煉株式会社大阪製煉工場を買収して化学部門へ進出し、1944年12月に栃木県小山市に小山工場を建設した
    • [76]1949年5月に東京証券取引所第一部に上場し、1950年2月に群馬県高崎市に高崎工場を建設した
  • 経済時代 1972年
    • [70]化学の主体は酸化チタンで大阪に工場がある。硫化鉱を買ってきて一部は酸化チタンの原料に、他は硫酸とし、もう一つ亜酸化銅を生産する。亜酸化銅は船底の塗料の材料になる
    • [71]1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動が行われ、足尾銅山も増産を求められて無計画な乱掘に至った
    • [72]この時期は巨大な河鹿鉱床の発見がなく、鉱脈も小規模のものだけだった
    • [74]1948年に重液選鉱法が戦後わが国の鉱山では初めて実用化された
  • 産業と産業人 1952年「古河鉱業」
    • [78]1951年9月期は73億円の売上で7億8,000万円の利益を計上し、4割配当を行った。1952年3月期の売上高は約100億円、計上利益は10億円絡みとなる見込み
創業ストーリー(6)

下山田炭鉱と足尾銅山の閉山、機械65%への逆転

1955年3月期の売上高は80億5,000万円で、生産比率は金属部門が35%、石炭部門が57%、機械部門が8%だった[80]。金属部門の数字には化学と発電が含まれる[81]。古河鉱業は鉱業を中心に、機械・化学・発電を一つの会社で営んだ[82]。金銀銅は足尾製錬所で他社からの買鉱と合わせて粗銅にし、その先の精製を古河電気工業と日光電気精銅所へ委託した[83]。機械部門は鑿岩機と空気圧縮機を作り、化学部門は硫酸・酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉を製造し、発電部門は足尾銅山と自社工場向けの日光発電所で余った電力を他社へ売った[84]。1955年3月に資本金は13億円へ増えた[85]。足尾製錬所は1954年に自熔製錬法を導入し、1956年から自熔製錬を始めた[86]

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [80]1955年3月期の売上高は80億5,000万円、同期の生産比率は金属部門(化学・発電を含む)35%、石炭部門57%、機械部門8%
    • [81]生産比率の金属部門には化学と発電が含まれる
    • [82]鉱業を中心として機械・化学および発電事業を総合的に経営している
    • [83]金・銀・銅は採掘後、足尾製錬所において他社からの買鉱を合わせて粗銅を製出し、これを古河電気・日光電気製銅所に委託する
    • [84]機械部門は鑿岩機・空気圧縮機等を製作販売し、化学部門は硫酸のほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売、電力部門は足尾銅山および同工場の自家用水力発電所である日光発電所の余剰電力を他社に販売した
    • [85]1955年3月に資本金13億円となった
    • [86]1954年に自熔製錬法を導入し、1956年から自熔製錬を開始した

1961年以降、古河鉱業は石炭部門の合理化に入り、不採算の炭鉱を別会社へ移した[87]。1962年末頃から縮小を始め、直営5か所だった炭鉱は2か所まで減った[88]。1963年には足尾製作所を機械事業部へ改編して事業部制を採り、翌1964年には化学部門に化成本部を置いた[89]。1965年、石炭部門で石油の販売を始めた[90]。1968年3月期の売上高は199億円強で、売上比率は銅39%、石炭14%、酸化チタン6%、硫酸他12%、機械20%、石油9%である[91]。楢原良一郎社長のもと、従業員は4,876名、資本金は55億3,000万円を数えた[92]。1968年度は13億6,000万円の設備投資を予定し、その多くを金属部門の合理化へ向けた[93]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [87]1961年以降、石炭部門の合理化を進め、不採算炭鉱を別会社とした
    • [89]1963年に足尾製作所を機械事業部に改編して事業部制を採り、1964年に化学部門強化のため本部制を採用して化成本部とした
    • [90]1965年に石炭部門で石油販売業務を開始した
    • [91]1968年3月期は売上高199億円強。売上比率は銅39%、石炭14%、酸化チタン6%、硫酸他12%、機械20%、石油9%
    • [92]1968年時点の社長は楢原良一郎、従業員4,876名、資本金55億3,000万円
    • [93]1968年度の設備投資は13億6,000万円を予定し、金属部門を中心に合理化を図る
  • 経済時代 1972年
    • [88]1962年の暮頃から石炭部門の縮小を始め、第二会社を設けて、それまで5か所あった直営の炭鉱が2か所になった

1970年1月、下山田炭鉱を閉山して石炭採掘事業から撤退した[94]。1894年9月に古河市兵衛氏が譲り受け、石炭事業の始まりとなった炭鉱である[95]。撤退にあたっては国から10億円を借り入れた[96]。石炭の減少を埋めたのは機械で、1963年頃に手がけ始めたボーリング機械の需要が伸び、1972年3月期は売上高370億円のうち機械部門が180億円を占めるまでになった[97]。1950年代から1956・57年頃にかけて石炭60〜65%、金属25%、機械10%程度だった構成比は、1972年に機械65%、金属25%、残りが化学と燃料へ変わった[98]。足尾銅山には鉱量が残っていたが、銅価がトン当たり35万円まで下がり、採算が合わなくなっていた[99]。1972年11月に採鉱停止を発表し、1973年2月28日に足尾銅山を閉山した[100]

  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [94]1970年1月に下山田炭鉱を閉山し、石炭採掘事業から撤退した
    • [95]1894年9月に下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した
  • 経済時代 1972年
    • [96]1972年の増資の目的の一つは、石炭撤退時の国からの10億円の借入に充てることだった
    • [97]1963年頃からボーリング機械を始め、1972年3月期の売上げは370億円、そのうち機械部門が180億円、なかでもボーリング機械が110億円を占めた
    • [98]1950年代から1956・57年頃は石炭が全体の60〜65%、金属が25%、機械が10%くらいだったが、1972年は機械65%、金属25%、あとが化学とその他燃料関係となった
    • [99]足尾銅山は鉱量がかなりあるが、銅価がトン当たり35万円という安い価格であるため採算面で非常に困難な状況にある
    • [100]1972年11月に採鉱停止を発表し、1973年2月28日に閉山した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [80]1955年3月期の売上高は80億5,000万円、同期の生産比率は金属部門(化学・発電を含む)35%、石炭部門57%、機械部門8%
    • [81]生産比率の金属部門には化学と発電が含まれる
    • [82]鉱業を中心として機械・化学および発電事業を総合的に経営している
    • [83]金・銀・銅は採掘後、足尾製錬所において他社からの買鉱を合わせて粗銅を製出し、これを古河電気・日光電気製銅所に委託する
    • [84]機械部門は鑿岩機・空気圧縮機等を製作販売し、化学部門は硫酸のほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売、電力部門は足尾銅山および同工場の自家用水力発電所である日光発電所の余剰電力を他社に販売した
    • [85]1955年3月に資本金13億円となった
    • [86]1954年に自熔製錬法を導入し、1956年から自熔製錬を開始した
    • [100]1972年11月に採鉱停止を発表し、1973年2月28日に閉山した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [87]1961年以降、石炭部門の合理化を進め、不採算炭鉱を別会社とした
    • [89]1963年に足尾製作所を機械事業部に改編して事業部制を採り、1964年に化学部門強化のため本部制を採用して化成本部とした
    • [90]1965年に石炭部門で石油販売業務を開始した
    • [91]1968年3月期は売上高199億円強。売上比率は銅39%、石炭14%、酸化チタン6%、硫酸他12%、機械20%、石油9%
    • [92]1968年時点の社長は楢原良一郎、従業員4,876名、資本金55億3,000万円
    • [93]1968年度の設備投資は13億6,000万円を予定し、金属部門を中心に合理化を図る
  • 経済時代 1972年
    • [88]1962年の暮頃から石炭部門の縮小を始め、第二会社を設けて、それまで5か所あった直営の炭鉱が2か所になった
    • [96]1972年の増資の目的の一つは、石炭撤退時の国からの10億円の借入に充てることだった
    • [97]1963年頃からボーリング機械を始め、1972年3月期の売上げは370億円、そのうち機械部門が180億円、なかでもボーリング機械が110億円を占めた
    • [98]1950年代から1956・57年頃は石炭が全体の60〜65%、金属が25%、機械が10%くらいだったが、1972年は機械65%、金属25%、あとが化学とその他燃料関係となった
    • [99]足尾銅山は鉱量がかなりあるが、銅価がトン当たり35万円という安い価格であるため採算面で非常に困難な状況にある
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [94]1970年1月に下山田炭鉱を閉山し、石炭採掘事業から撤退した
    • [95]1894年9月に下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した

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沿革年表 1875〜2022年

古河機械金属の沿革1875〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1875〜1918年草倉から足尾へ──電力・製錬・機械を自前で持った銅山会社古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)の経営を開始し創業★★
足尾銅山(栃木県)を譲り受け経営を開始★★★
下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け石炭事業へ参入
足尾銅山に機械工場を設置し機械部門へ参入
個人経営から会社組織に変更し古河鉱業会社を設立★★
組織変更により古河合名会社を設立
日本初のさく岩機を製作
古河合名会社の鉱業部門を独立させ古河鉱業を設立★★
1919〜1973年古河石炭鉱業への改称と、石炭・銅からの二重の撤退日光電気精銅所を現物出資し古河電気工業を設立★★
金属部門を古河合名会社へ移管し商号を古河石炭鉱業に変更
古河合名会社と合併し商号を古河鉱業に変更★★
足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立
増資により株式の一部を公開
東亜化学製煉大阪製煉工場を買収し化学部門へ参入
東京証券取引所第一部に上場
群馬県高崎市にさく岩機部門の高崎工場を建設
足尾製錬所に日本初の自熔製錬設備が完成★★
小山工場でクローラショベルの生産を開始
下山田炭鉱を閉山し石炭採掘事業から撤退★★
福島県いわき市にいわき工場、東京都日野市に日野研究所を建設
足尾銅山の閉山と、機械部門への主力の移行

1972年から1973年にかけて、古河鉱業が1877年以来96年営んだ足尾銅山を閉山し、14年ぶりの85億円増資と定款変更によって機械部門と電子材料へ資金と事業目的を振り向けた経営判断。

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★★★
栃木県壬生町に建設機械部門の壬生工場を建設
1974〜2005年足尾閉山から16年後の商号変更──古河機械金属のさく岩機とユニック車載型クレーンのユニックの全株式取得と佐倉工場の開設

1987年3月、古河鉱業が車両搭載型クレーンで約40%の市場シェアを持つ株式会社ユニックの全株式を36億円で取得した買収。売り手は阪和興業・日商岩井・東食の3商社で、ユニックは1986年3月期に売上高122億円、経常利益7億3000万円を上げ、黒字が10年近く続いていた。

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★★★
商号を古河鉱業から古河機械金属に変更★★★
油圧ブレーカ製造の Gougler Industries(米国)を買収
銅製錬会社 Port Kembla Copper(オーストラリア)を設立
建機部門を分離し生産を古河建機、販売を古河建機販売へ移管★★
古河建機を日立建機との合弁会社化し日立古河建機に商号変更★★
日光発電事務所の水力発電事業を会社分割し事業譲渡
鋳造品事業を古河キャステックへ営業譲渡
金属製錬事業を会社分割し古河メタルリソースを新設
日立古河建機の株式を日立建機へ譲渡し建設機械事業から撤退★★★
日立古河建機株式の譲渡による建設機械からの撤退と、主要6事業の分社

2002年3月期から3期続けて最終赤字を出した古河機械金属が、2004年10月に日立古河建機の株式を日立建機へ譲渡して建設機械から降り、翌2005年3月に産業機械・開発機械(ロックドリル)・ユニック・金属・電子・化成品の主要6事業部門を会社分割して事業持株会社体制へ移った再編。

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2006〜2026年連結営業利益130億円へ──機械事業への集中と小名浜製錬株の売却燃料事業を会社分割し古河コマースへ承継
塗料・化成品製造のトウペを連結子会社化
古河コマースの株式を宇佐美鉱油へ譲渡し燃料事業から撤退
トウペの株式を日本ゼオンへ譲渡し塗料事業から撤退★★
中戸川稔金属粉体製造の山石金属を買収
中戸川稔東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行
出典・参考 6件
出典・参考
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
  • 産業と産業人 1952年「古河鉱業」
  • 経済時代 1972年
  • 日光市「足尾銅山の歴史」

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