第2章 年〜年

古河機械金属:古河商事の破綻と古河石炭鉱業への後退

1919年〜営業部門の分社と、恐慌で破綻した古河商事の引き取り

古河合名会社は1917年に商号を合名会社古河鉱業会社へ改め、あわせて営業部門を独立させて資本金1,000万円の古河商事株式会社を創立した。翌1918年4月には鉱業部門も分離し、資本金2,000万円の古河鉱業株式会社を設立した。分離した鉱業会社は鉱区の手当てへすぐに動き、1919年に和歌山県の飯盛鉱山を開発して、わが国有数の硫化銅鉱山に育てた。飯盛が産する硫化鉱は、のちに自社の製錬所で硫酸の原料となった。第一次世界大戦は銅価の急騰を伴い、産銅を主軸に置く会社には鉱区も設備も広げやすい局面が続いていた。掘る事業と売る事業を1つの会社で抱える体制をやめ、それぞれに資本と責任を持たせる再編だった。

  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [1]大正6年、社名を合名会社古河鉱業会社に変更するとともに、営業部門を独立させて古河商事株式会社(資本金1,000万円)を創立した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [3]大正8年に飯盛鉱山(和歌山)を開発し、わが国有数の硫化銅鉱山とした
    • [4]硫化鉱は大部分を他社に売却するが、一部を大阪製錬所で硫酸の原料として製造する
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [5]第1次大戦は銅価の急騰期であった

大戦の好景気に乗って、古河鉱業株式会社は新規の事業と既設の事業に相次いで参画した。経営権を握ったのは、旭電化工業、横浜護謨製造、大阪製煉、東亜ペイント、日本電線製造、古河電気工業、富士電気製造である。足尾で外国製のさく岩機を導入し、日本人の体力に合うよう作り替えたところから、この会社の機械部門は始まった。その技術は古河電気工業の電線に関わり、さらに富士電気製造の電気機械へと広がった。初期から機械と化学の部門を確実に育てたことが、のちに炭鉱を閉じても従来どおり事業を続けられた要因になった。銅を掘って売る会社の資本が、銅を使う産業の側へ回り始めていた。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [6]この好景気に乗って新規の事業または既設の事業に参画し、その経営権を掌握した
    • [7]経営権を掌握したのは旭電化工業、横浜護謨製造、大阪製煉、東亜ペイント、日本電線製造、古河電気工業、富士電気製造等である
  • 経済時代 1972年
    • [8]足尾を開発した当時の古河市兵衛は、さく岩機などを外国から導入して日本人の体力に合うように開発した。外国製さく岩機の作り替えが古河鉱業の機械部門のはじめとなった
    • [9]足尾式さく岩機から始まった鉱山機械は、次に古河電工の電線に関係し、また富士電機の電気機械といったように広がった
    • [10]初期から機械化学その他の部門を確実に育成したことが、炭鉱を閉鎖しても従来どおりやっていけた要因である

大戦後の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と重なって、関係会社の古河商事が破綻した。古河鉱業株式会社は1921年11月に古河商事を合併し、資本金は2,000万円から2,250万円になった。4年前に営業部門として切り出した古河商事を、負債ごと本体へ引き取る合併であり、増えた資本金は250万円にとどまった。同じ1921年、足尾鉱業所は事務所を足利市に売却した。その後の十数年、国内情勢の波瀾を受けて事業には消長があったが、鉱業と石炭と機械を1つの会社が抱える体制そのものは動かなかった。大戦中に広げた出資と分社は好況が続くことを前提にした体制であり、恐慌はその前提を外した。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [11]戦後一般の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と相まって関係会社古河商事が破綻した
    • [12]1921年11月に古河商事を合併し、資本金2,250万円となった。1918年4月の設立時の資本金は2,000万円だった
    • [15]爾来国内情勢の波瀾を受けて事業に若干の消長もあった
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [13]大正6年に営業部門を独立させて創立した古河商事株式会社の資本金は1,000万円だった
  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [14]1921年に足尾鉱業所事務所を足利市に売却した
参考文献[1]-[15]
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [1]大正6年、社名を合名会社古河鉱業会社に変更するとともに、営業部門を独立させて古河商事株式会社(資本金1,000万円)を創立した
    • [13]大正6年に営業部門を独立させて創立した古河商事株式会社の資本金は1,000万円だった
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [3]大正8年に飯盛鉱山(和歌山)を開発し、わが国有数の硫化銅鉱山とした
    • [4]硫化鉱は大部分を他社に売却するが、一部を大阪製錬所で硫酸の原料として製造する
    • [6]この好景気に乗って新規の事業または既設の事業に参画し、その経営権を掌握した
    • [7]経営権を掌握したのは旭電化工業、横浜護謨製造、大阪製煉、東亜ペイント、日本電線製造、古河電気工業、富士電気製造等である
    • [11]戦後一般の好景気は急速に凋落し、経済恐慌と相まって関係会社古河商事が破綻した
    • [12]1921年11月に古河商事を合併し、資本金2,250万円となった。1918年4月の設立時の資本金は2,000万円だった
    • [15]爾来国内情勢の波瀾を受けて事業に若干の消長もあった
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [5]第1次大戦は銅価の急騰期であった
  • 経済時代 1972年
    • [8]足尾を開発した当時の古河市兵衛は、さく岩機などを外国から導入して日本人の体力に合うように開発した。外国製さく岩機の作り替えが古河鉱業の機械部門のはじめとなった
    • [9]足尾式さく岩機から始まった鉱山機械は、次に古河電工の電線に関係し、また富士電機の電気機械といったように広がった
    • [10]初期から機械化学その他の部門を確実に育成したことが、炭鉱を閉鎖しても従来どおりやっていけた要因である
    • [14]1921年に足尾鉱業所事務所を足利市に売却した

1933年〜金属鉱業部門の譲渡による石炭専業化と、戦時下の再統合

1933年3月、古河鉱業株式会社は金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名会社へ譲渡した。譲り受けた古河合名会社は古河鉱業合名会社と改称し、株式会社の側に残った石炭部門は古河石炭鉱業株式会社と改称して再発足した。創業以来の主軸だった銅が株式会社の手を離れ、1894年9月に下山田炭鉱を譲り受けて始めた石炭が、株式会社の唯一の採掘事業になった。譲渡されたゴム栽培事業は1910年にマレー半島へ開いたゴム園に始まるもので、海外の資源事業もあわせて合名会社の側へ移った。金属を合名会社へ寄せ、株式会社には石炭を残す配分であり、看板の掛け替えではなく事業の中身の入れ替えだった。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [16]昭和8年3月に金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名に譲渡した
    • [17]金属鉱業部門とゴム栽培事業を譲り受けた古河合名は古河鉱業合名と改称し、石炭部門は古河石炭鉱業株式会社と改称再発足した
    • [19]明治43年にマレー半島にゴム園を開設して海外進出の第一歩を印した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [18]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した

石炭に絞った会社は、炭鉱の鉱区を買い足す方向へ動き、1939年に大峰炭砿と峰地炭砿、および野田炭砿合資会社が所有する全鉱区を買収した。九州炭は原料用および発生炉用、常磐炭は一般用炭として売り先が分かれており、石炭は産地ごとに用途の定まった商品だった。1941年2月、古河石炭鉱業株式会社は古河合名会社を合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称した。合併の存続会社は古河石炭鉱業株式会社であり、8年前に手放した金属鉱業部門が株式会社の側へ戻り、あわせて資本金も増えた。分けて8年、戻して1つという往復の末に、銅と石炭と機械を1つの会社が抱える体制が復元された。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [20]昭和14年に大峰・峰地両炭砿ならびに野田炭砿(資)所有の全鉱区を買収した
    • [21]石炭は採掘選炭後、九州炭は主として原料用および発生炉用とし、常磐炭および北海道炭は一般用炭として販売する
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [22]1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [23]1941年2月の合併では古河石炭鉱業株式会社が存続し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [24]昭和16年2月、古河合名会社を合併し、資本金を増資した

1942年4月、足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた。同じ1942年9月には増資を行い、株式の一部を公開して資本金5,000万円とした。1944年8月には東亜化学製煉株式会社の大阪製煉工場を買収して化学部門へ進み、同年12月に栃木県小山市へ小山工場を建設した。化学部門は自社と他社の硫化鉱を原料に硫酸を製造し、あわせて酸化チタン、亜酸化銅、硫化鉄粉を手がけた。亜酸化銅は船底の塗料の材料であり、酸化チタンとともに、掘った鉱石をそのまま売るのではなく加工して売る製品だった。鉱山の付属設備だった工場も、鉱石の副産物だった硫化鉱も、それぞれ独立した事業として立て直された。

  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [25]1942年4月に足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた
    • [26]1942年9月に増資を行い、株式の一部を公開した。資本金は5,000万円となった
    • [27]1944年8月に東亜化学製煉株式会社大阪製煉工場を買収して化学部門へ進出した
    • [28]1944年12月に栃木県小山市に小山工場を建設した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [29]硫酸は自社および他社産の硫化鉱を原料として製造し、そのほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売した
  • 経済時代 1972年
    • [30]亜酸化銅は船底の塗料の材料になる。化学の主体は酸化チタンで大阪に工場がある
参考文献[16]-[30]
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [16]昭和8年3月に金属鉱業部門とゴム栽培事業を古河合名に譲渡した
    • [17]金属鉱業部門とゴム栽培事業を譲り受けた古河合名は古河鉱業合名と改称し、石炭部門は古河石炭鉱業株式会社と改称再発足した
    • [19]明治43年にマレー半島にゴム園を開設して海外進出の第一歩を印した
    • [20]昭和14年に大峰・峰地両炭砿ならびに野田炭砿(資)所有の全鉱区を買収した
    • [21]石炭は採掘選炭後、九州炭は主として原料用および発生炉用とし、常磐炭および北海道炭は一般用炭として販売する
    • [29]硫酸は自社および他社産の硫化鉱を原料として製造し、そのほか酸化チタン・亜酸化銅・硫化鉄粉等を製造販売した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [18]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した
    • [22]1941年2月に古河合名会社と合併し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [23]1941年2月の合併では古河石炭鉱業株式会社が存続し、同時に古河鉱業株式会社と改称した
    • [25]1942年4月に足尾の機械工場を足尾製作所として足尾鉱業所から独立させた
    • [26]1942年9月に増資を行い、株式の一部を公開した。資本金は5,000万円となった
    • [27]1944年8月に東亜化学製煉株式会社大阪製煉工場を買収して化学部門へ進出した
    • [28]1944年12月に栃木県小山市に小山工場を建設した
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [24]昭和16年2月、古河合名会社を合併し、資本金を増資した
  • 経済時代 1972年
    • [30]亜酸化銅は船底の塗料の材料になる。化学の主体は酸化チタンで大阪に工場がある

1945年〜乱掘の代償と、占領下で始まった立て直し

1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動が行われ、足尾銅山も増産を求められて、計画性を欠いた乱掘に至った。この時期には巨大な河鹿鉱床の発見がなく、掘り当たる鉱脈も小規模なものだけだった。戦後は工場設備も鉱山現場も荒廃し、そこへ占領下の経済諸法規による活動上の制約が加わった。1946年12月、社長に新海英一氏が就任した。1948年には重液選鉱法を、戦後のわが国の鉱山では初めて実用化し、品位の下がった鉱石から銅を回収する対策を講じた。戦時に掘り尽くした山から同じ量の銅を採り続けるには、選鉱の歩留まりを上げるほかに手が残っていなかった。

  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [31]1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動が行われ、足尾銅山も増産を求められて無計画な乱掘に至った
    • [32]この時期は巨大な河鹿鉱床の発見がなく、鉱脈も小規模のものだけだった
    • [35]1948年に重液選鉱法が戦後わが国の鉱山では初めて実用化された
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [33]戦後は工場設備や鉱山現場が荒廃し、占領下の経済諸法規による活動上の制約も受けた
    • [34]1946年12月に社長へ新海英一が就任した

戦後の会社が掲げた営業目的は、非鉄金属の採掘および製煉、石炭採掘、産業機械製造の三つだった。事業場は、銅を採り製煉する栃木県の足尾鉱業所と、硫化鉱と銅を採る静岡県の久根鉱業所に分かれていた。石炭は福岡県の大峯鉱業所と福島県の好間鉱業所で採った。資本金は1942年9月の増資以来5,000万円に据え置かれたままだった。金属は足尾製錬所で他社からの買鉱とあわせて粗銅にし、その先の電気銅への仕上げは古河電気工業と日光電気製銅所へ委託する分業だった。創業以来の銅と、1894年から積み上げた石炭と、足尾で起こした機械の三つが、荒廃を抱えたまま戦後へ持ち越された。

  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [36]営業目的は、1.非鉄金属採掘及製煉、2.石炭採掘、3.産業機械製造である
    • [37]事業場は足尾鉱業所(栃木県上都賀郡足尾町、銅採掘及製煉)、久根鉱業所(静岡県磐田郡佐久間村、硫化鉱及銅採掘)である
    • [38]事業場は大峯鉱業所(福岡県田川郡添田町、石炭採掘)、好間鉱業所(福島県石城郡好間村上好間)である
    • [39]1948年3月期から1949年3月期の資本金は50,000千円である
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [40]金・銀・銅は採掘後、足尾製錬所において他社からの買鉱を合わせて粗銅を製出し、これを古河電気・日光電気製銅所に委託する

1949年8月時点の株式分布では、大蔵大臣が75,420株、持株会社整理委員会が25,370株、戦時金融金庫が22,890株を持っていた。発行済株式100万株のうち、これら公の主体が持つ株は1割を超えていた。残る株は第一生命、朝日生命、日本生命、明治生命といった生命保険会社と、高井証券や山二といった証券会社に分かれて持たれた。過度経済力集中排除法の指定は1949年7月に解除されるまで続き、会社はあわせて特別経理会社と制限会社の扱いを受けた。株式は東京と大阪の両取引所に上場されていた。同族の資本が握る銅山会社という出自は、この時点で制度の側から断ち切られていた。

  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [41]昭和24年8月20日現在の大株主は、大蔵大臣75,420株、第一生命30,000株、朝日生命50,000株、持株会社整理委員会25,370株、高井証券50,000株、戦時金融金庫22,890株、明治生命21,500株、山二50,000株、日本生命40,000株である
    • [42]昭和24年8月20日現在の所有株式数の合計は1,000,000株である
    • [43]大株主には第一生命、朝日生命、日本生命、明治生命の各生命保険会社と、高井証券、山二の各証券会社が並ぶ
    • [44]昭和24年7月に集排指定解除。現在、特別経理会社、制限会社である
    • [45]上場市場は東京・大阪である
参考文献[31]-[45]
    • [31]1940年から1945年にかけて政府の非常時増産運動が行われ、足尾銅山も増産を求められて無計画な乱掘に至った
    • [32]この時期は巨大な河鹿鉱床の発見がなく、鉱脈も小規模のものだけだった
    • [35]1948年に重液選鉱法が戦後わが国の鉱山では初めて実用化された
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [33]戦後は工場設備や鉱山現場が荒廃し、占領下の経済諸法規による活動上の制約も受けた
    • [34]1946年12月に社長へ新海英一が就任した
    • [40]金・銀・銅は採掘後、足尾製錬所において他社からの買鉱を合わせて粗銅を製出し、これを古河電気・日光電気製銅所に委託する
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
    • [36]営業目的は、1.非鉄金属採掘及製煉、2.石炭採掘、3.産業機械製造である
    • [37]事業場は足尾鉱業所(栃木県上都賀郡足尾町、銅採掘及製煉)、久根鉱業所(静岡県磐田郡佐久間村、硫化鉱及銅採掘)である
    • [38]事業場は大峯鉱業所(福岡県田川郡添田町、石炭採掘)、好間鉱業所(福島県石城郡好間村上好間)である
    • [39]1948年3月期から1949年3月期の資本金は50,000千円である
    • [41]昭和24年8月20日現在の大株主は、大蔵大臣75,420株、第一生命30,000株、朝日生命50,000株、持株会社整理委員会25,370株、高井証券50,000株、戦時金融金庫22,890株、明治生命21,500株、山二50,000株、日本生命40,000株である
    • [42]昭和24年8月20日現在の所有株式数の合計は1,000,000株である
    • [43]大株主には第一生命、朝日生命、日本生命、明治生命の各生命保険会社と、高井証券、山二の各証券会社が並ぶ
    • [44]昭和24年7月に集排指定解除。現在、特別経理会社、制限会社である
    • [45]上場市場は東京・大阪である

筆者考察

1919年から1948年までの30年で、この会社は会社の形を三度作り替えた。営業部門を古河商事として切り出し、鉱業部門を古河鉱業株式会社として立て、1933年には金属を古河合名会社へ渡して古河石炭鉱業を名乗り、1941年にまた古河鉱業へ戻る。社名も資本金も持ち主の構成もそのつど動いたが、その中で動かなかったものが一つある。足尾で外国製のさく岩機を日本人の体力に合わせて作り替え、鉱山で要るものを掘る現場の隣で作るという習いである。1942年に足尾製作所が足尾鉱業所から独立したのは、その習いが鉱山の付属品でなくなった日にあたる。古河商事の破綻も、金属鉱業部門の譲渡も、この習いには手を触れなかった。

戦時の増産要求は、この会社に相反する二つの結果を残した。一つは足尾銅山の乱掘で、巨大な河鹿鉱床は見つからないまま、掘りやすい鉱脈から先に食い潰した。もう一つは化学部門で、1944年に買った大阪製煉工場が、硫酸と酸化チタンと亜酸化銅という、掘った鉱石を加工して売る製品をもたらした。硫酸も酸化チタンも、原料は鉱石でありながら、売り先は山の寿命とは関わりのない需要にひらけている。戦後に残ったのは、痩せた山と、山の外で売れる製品を作る部門である。のちに炭鉱を閉じ足尾を閉じてもこの会社が続いたのは、掘るものが尽きるより先に、掘ったものを加工する工程を手元に置いていたからだった。

出典・参考

6件
出典・参考
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
  • 株式会社年鑑 1950年版「古河鑛業」
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
  • 経済時代 1972年
  • 日光市「足尾銅山の歴史」

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