第1章 年〜年

古河機械金属:古河市兵衛の草倉銅山経営と足尾銅山の譲受

1875年〜小野組破綻からの再起と、廃鉱同然だった足尾の買収

古河市兵衛氏は、主家の小野組が破綻したのち、独立して再起を図った。1875年8月に新潟県の草倉銅山を譲り受け、経営に着手した。草倉銅山と付近の赤柴鉱山は官に没収されたまま放置されており、志賀直道氏の資本協力を得て払下げを受けた。第一国立銀行頭取の渋沢栄一氏も援助に加わった。同じ年には山形県の幸生銅山を開発した。古河機械金属はこの1875年8月の草倉銅山経営開始をもって創業とする。次に手を伸ばしたのが足尾銅山で、1877年2月に栃木県の同銅山を譲り受けた。足尾銅山は1872年に新政府から民間へ払い下げられており、産銅量が減り続けた末の廃鉱同然の山だった。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [1]古河市兵衛は主家小野組の破綻後、独立再起を図った
    • [3]官に没収放置されていた新潟県草倉銅山および付近の赤柴鉱山の払下げを、志賀直道の資本協力を得て受けた
    • [5]1875年に山形県幸生銅山を開発した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1875年8月、古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)を譲り受け、経営を開始した
    • [6]古河機械金属の創業は1875年8月の草倉銅山の経営開始である
    • [7]1877年2月に足尾銅山(栃木県)を譲り受けた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [4]第一国立銀行頭取の渋沢栄一の援助を得て、新潟県草倉銅山の経営に着手した
  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [8]明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、1872年に民間に払い下げられた。産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた

足尾銅山は16世紀後半から採掘され、1610年以降は徳川幕府の直轄支配となり、1684年の産銅量は1,500トンに達していた。しかし幕末から明治初期にはほぼ閉山状態で、古河市兵衛氏が買収した当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった。これを反転させたのが富鉱の発見で、1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を掘り当てた。古河市兵衛氏は大直利の発見以降、産銅の各工程と輸送方法に西洋の先端技術を次々と入れて生産量を伸ばし、足尾銅山は1884年に国内1位の産銅量を記録して、その地位を大正前期まで保った。

  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [9]足尾銅山は16世紀後半に佐野氏により採掘され、1610年以降徳川幕府直轄支配となり、1684年の生産量は1,500トンに達した
    • [10]幕末から明治時代初期にかけてほぼ閉山状態となり、古河市兵衛の買収当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった
    • [11]1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を発見した
    • [12]古河市兵衛は大直利の発見以降、産銅システムの各工程と輸送方法に西洋の先端的な技術を取り入れて生産量を増やし、1884年に国内1位の産銅量を記録して大正前期までその地位を確保した
参考文献[1]-[12]
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [1]古河市兵衛は主家小野組の破綻後、独立再起を図った
    • [3]官に没収放置されていた新潟県草倉銅山および付近の赤柴鉱山の払下げを、志賀直道の資本協力を得て受けた
    • [5]1875年に山形県幸生銅山を開発した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [2]1875年8月、古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)を譲り受け、経営を開始した
    • [6]古河機械金属の創業は1875年8月の草倉銅山の経営開始である
    • [7]1877年2月に足尾銅山(栃木県)を譲り受けた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
    • [4]第一国立銀行頭取の渋沢栄一の援助を得て、新潟県草倉銅山の経営に着手した
    • [8]明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、1872年に民間に払い下げられた。産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた
    • [9]足尾銅山は16世紀後半に佐野氏により採掘され、1610年以降徳川幕府直轄支配となり、1684年の生産量は1,500トンに達した
    • [10]幕末から明治時代初期にかけてほぼ閉山状態となり、古河市兵衛の買収当初の産銅量は年間100トンにも満たなかった
    • [11]1881年に鷹之巣直利、1884年に横間歩大直利を発見した
    • [12]古河市兵衛は大直利の発見以降、産銅システムの各工程と輸送方法に西洋の先端的な技術を取り入れて生産量を増やし、1884年に国内1位の産銅量を記録して大正前期までその地位を確保した

1885年〜間藤の水力発電とベセマ式製錬、足尾に建てた機械工場

足尾の増産と並行して古河市兵衛氏の買鉱は他県へ及び、1885年には秋田県の院内銀山・阿仁銅山・太良鉛山と加護山製錬所の一括払下げを官から受けて、新しい機械設備を入れて開発に入った。1888年には不老倉鉱山を、1891年には山形県の永松銅山を相次いで取得した。銅の増産と品質向上のため1888年から足尾の通洞の鑿進を急ぎ、1890年には足尾間藤に水力発電所を設けて排水と捲揚機を電化した。この発電所はわが国の水力発電の先駆けにあたる。電気は水車や蒸気機関に代わって坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送の主動力となり、1896年には通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成した。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [13]1885年に官より秋田県下の院内銀山、阿仁銅山、太良鉛山および加護山製錬所の一括払下を受け、斬新な機械設備をもって開発に着手した
    • [14]1888年に不老倉鉱山(秋田)、1891年に永松銅山(山形)を相次いで買収した
    • [15]銅の増産と品質の向上を図って1888年より足尾の通洞の鑿進を急ぐとともに、足尾間藤に水力発電所を設置して排水および捲揚機を電化した
    • [16]足尾間藤の水力発電所はわが国における水力発電の嚆矢である
  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [17]1890年に間藤の水力発電の運転を開始し、水車や蒸気機関に代わって電気が坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送等の主動力として利用された
    • [18]1896年に通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれ、基幹坑道が完成した

掘った鉱石を売れる銅に変える工程も自前で組み替え、製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設けて、新式の水銅長方形熔鉱炉を築いた。1893年にはベセマ式製錬を採用して操業に入り、鉱石から粗銅の仕上げまで32日を要していた工程が2日に縮んだ。1894年9月には福岡県の下山田炭鉱を譲り受けて石炭事業へ進み、この下山田炭鉱への電力応用がわが国の炭坑動力電化の始まりとなった。1894年と1896年には福岡県の牛隈、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑もあわせて買い、下山田、塩頭、目尾には新坑を開いた。1898年には本所熔銅所内に伸銅工場を建設し、銅線の製造を開始した。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [19]製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設け、新式の水銅長方形熔鉱炉を築造するなど設備の改善を行った
    • [20]1893年にベセマ式製錬を採用して操業を開始した結果、従来鉱石より粗銅仕上まで32日間要したものが、わずか2日間で生産できるようになった
    • [22]下山田炭坑に電力を応用したことはわが国炭坑動力電化の始まりであった
    • [23]1894年と1896年に福岡県下の牛隈、下山田、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑を買収し、このうち下山田、塩頭、目尾には新坑を開いて新設備を加え操業を開始した
    • [24]1898年、本所熔銅所内に伸銅工場を建設し、銅線の生産を開始した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した

1900年には足尾銅山に機械工場を建設して機械事業へ進み、鉱山で使う機械を外部から買わずに掘る現場の隣で作った。電源の手当ても続き、1898年に大谷川の電源開発へ着手して1904年に別倉発電所が完成し、1906年6月には栃木県日光市に細尾発電所を建てた。細尾第一発電所の竣工によって、日光から足尾へ豊富な電力が供給された。1898年には静岡県の久根鉱山も買い取った。事業の拡大に伴い、1905年3月には個人経営から会社組織へ改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立して古河虎之助氏が社長に就任した。

  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [25]1900年、足尾銅山に機械工場を建設し、機械事業へ進出した
    • [27]1906年6月、栃木県日光市に細尾発電所を建設した
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [26]1898年に大谷川電源開発に着手し、1904年に別倉発電所が完成した
    • [29]1898年に静岡の久根鉱山を買収した
    • [30]1905年、事業の発展に伴い個人経営から会社組織に改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立し、社長に古河虎之助が就任した
  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [28]1906年に細尾第一発電所が竣工し、豊富な電力が日光から供給された
参考文献[13]-[30]
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [13]1885年に官より秋田県下の院内銀山、阿仁銅山、太良鉛山および加護山製錬所の一括払下を受け、斬新な機械設備をもって開発に着手した
    • [14]1888年に不老倉鉱山(秋田)、1891年に永松銅山(山形)を相次いで買収した
    • [15]銅の増産と品質の向上を図って1888年より足尾の通洞の鑿進を急ぐとともに、足尾間藤に水力発電所を設置して排水および捲揚機を電化した
    • [16]足尾間藤の水力発電所はわが国における水力発電の嚆矢である
    • [19]製錬用コークスを自給するため東京砂村に深川骸炭所を設け、新式の水銅長方形熔鉱炉を築造するなど設備の改善を行った
    • [20]1893年にベセマ式製錬を採用して操業を開始した結果、従来鉱石より粗銅仕上まで32日間要したものが、わずか2日間で生産できるようになった
    • [22]下山田炭坑に電力を応用したことはわが国炭坑動力電化の始まりであった
    • [23]1894年と1896年に福岡県下の牛隈、下山田、勝野、沓抜、塩頭、目尾の各炭坑を買収し、このうち下山田、塩頭、目尾には新坑を開いて新設備を加え操業を開始した
    • [24]1898年、本所熔銅所内に伸銅工場を建設し、銅線の生産を開始した
    • [26]1898年に大谷川電源開発に着手し、1904年に別倉発電所が完成した
    • [29]1898年に静岡の久根鉱山を買収した
    • [30]1905年、事業の発展に伴い個人経営から会社組織に改め、資本金500万円の古河鉱業会社を設立し、社長に古河虎之助が就任した
    • [17]1890年に間藤の水力発電の運転を開始し、水車や蒸気機関に代わって電気が坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送等の主動力として利用された
    • [18]1896年に通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれ、基幹坑道が完成した
    • [28]1906年に細尾第一発電所が竣工し、豊富な電力が日光から供給された
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1894年9月、下山田炭鉱(福岡県)を譲り受け、石炭事業へ進出した
    • [25]1900年、足尾銅山に機械工場を建設し、機械事業へ進出した
    • [27]1906年6月、栃木県日光市に細尾発電所を建設した

1890年〜渡良瀬川の鉱毒と、資本金2,000万円の株式会社化

足尾銅山の急速な近代化は、渡良瀬川流域にわが国初の公害事件を生んだ。採鉱、選鉱、製錬で出る廃水、廃石、からみに含まれる有害物質と、製錬排煙の亜硫酸ガスで裸地化した松木地区から流れ出す土砂とが複合した被害である。足尾は狭い山間にあり、渡良瀬川の最上部に位置するため、被害は他の銅山より深刻になった。1890年8月の大洪水で下流域の農作物被害が出て鉱害問題が表面化し、1891年12月の第二回帝国議会では田中正造氏が質問に立った。1892年8月、藤岡町、野木村、部屋村、生井村と鉱業主の古河市兵衛氏との間に示談契約が結ばれ、古河市兵衛氏は示談金の支払い、洪水対策、廃水処理対策を引き受けた。廃水処理では1893年と1894年に米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に入れ、各選鉱所に沈澱池を設けた。

  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [31]足尾鉱毒事件はわが国初の公害事件であった
    • [32]足尾銅山における鉱害は、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、からみ)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であった
    • [33]足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとした
    • [34]1890年8月の渡良瀬川の大洪水による下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化し、1891年12月の第二回帝国議会で田中正造から鉱害問題に対する質問がなされた
    • [35]1892年8月に藤岡町、野木村、部屋村、生井村と足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛との間に示談契約が結ばれ、古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策を行った
    • [36]廃水処理対策として、1893年と1894年に渡り米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に導入し、さらに沈澱池を各選鉱所に設けた

渡良瀬川の治水対策は不備のままで、1896年9月の大洪水は下流域に破堤氾濫を起こし、1890年8月を上回る農作地被害をもたらした。農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を発し、古河市兵衛氏は本山、通洞、小滝への沈殿池と堆積場の設置を急いだ。命令が古河に温情的だという非難が田中正造氏らから出て操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣が足尾銅山鉱毒調査会を設けた。政府は同年5月13日に第二回、その2週間後の5月27日に第三回の予防工事命令を出した。第三回は交付後7日以内の着工、工事ごとに最小30日・最大180日の竣工期限、遅れれば鉱業を停止するという30項目の内容だった。古河市兵衛氏は約100万円を投じ、1897年11月22日に工事を完了させた。

  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [37]明治29年9月に再び発生した大洪水によって渡良瀬川下流域では破堤氾濫が生じ、明治23年8月の洪水以上の農作地被害がもたらされた
    • [38]農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を古河に対して発し、古河は本山、通洞及び小滝にそれぞれ沈殿池と堆積場の設置を急ぎ実施した
    • [39]予防工事命令が古河に温情的であるという非難が田中正造らによって強く主張され、足尾銅山の操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられた
    • [40]政府は1897年5月13日に第二回予防工事命令を発し、そのわずか2週間後の1897年5月27日に第三回予防工事命令を発した
    • [41]第三回予防工事命令は、命令書交付後7日以内の着工と、工事毎に竣工期限が最小30日、最大でも180日とされ、遅延した場合は鉱業を停止するという、30項目に及ぶ具体的な工事内容の命令であった
    • [42]古河は約100万円の巨費を投じて工事を1897年11月22日に完了させた

煙害は解けず、1897年の脱硫塔建設、1915年の希釈法導入、1918年の電気集塵法導入と対策を講じても解決には至らないまま、1901年3月に第四回、1903年7月に第五回の予防工事命令が下った。1907年には鉱夫の待遇改善への不満から大規模な暴動が起き、本山の所長宅などが焼き討ちに遭った。1911年11月には組織を改めて古河合名会社とした。それでも産銅は伸び続け、1916年の年間産銅量は14,000トンを超え、足尾町の人口は38,428人へ増えた。鉱害の補償も労務の不満も、増え続ける産銅量が生む収益の内側で処理できる費用にとどまっていた。

  • 日光市「足尾銅山の歴史」
    • [43]煙害防止については明治30年に脱硫塔の建設、大正4年に希釈法の導入、大正7年に電気集塵法を導入するなど対策を講じたが抜本的な問題解決には至らず、明治34年3月に第四回予防工事命令、明治36年7月に第五回予防工事命令が発令された
    • [44]1907年、鉱夫の待遇改善への不満に端を発した大規模な暴動事件が発生し、本山の所長宅などが焼き討ちにあった
    • [46]大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も大正5年には38,428人に達した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [45]1911年11月、組織を変更し古河合名会社とした

古河鉱業会社は銅を掘る工程の外側へも投資を広げ、運ぶ経路と加工の工程を内製化し、さらに海外の資源までを保有していった。1909年には足尾銅山の付随事業として足尾鉄道を設立し、同じ年に日光精銅所を建設した。1910年には朝鮮平安北道に亀城鉱業所を、マレー半島にゴム園を開設して海外進出の第一歩とした。日光精銅所の銅線は裸銅線市場で圧倒的な地位を占め、古河合名会社は1917年頃までに中小の電線会社を系列化した。1914年からは足尾製作所で一般鉱山機械の製作を始め、1915年に好間炭坑、1916年に川井山銅山と水島製錬所を買い取った。1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立させ、資本金2,000万円の古河鉱業株式会社を設立した。

  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [47]明治42年に足尾銅山の付随事業として足尾鉄道を設立し、同年に日光細尾発電所が完成、また日光精銅所が建設された
    • [48]明治43年に朝鮮平安北道に亀城鉱業所を、またマレー半島にゴム園を開設して海外進出の第一歩を印した
    • [50]大正3年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
    • [51]大正4年に好間炭坑(福島)、大正5年に川井山銅山(山口)および水島製錬所(岡山)を買収した
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [49]裸銅線市場における日光電気精銅所の地位は依然として圧倒的なものであり、大正6〜7年頃までに中小の電線会社を系列化していった古河合名の発展はこれに支えられていた
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [52]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
参考文献[31]-[52]
    • [31]足尾鉱毒事件はわが国初の公害事件であった
    • [32]足尾銅山における鉱害は、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、からみ)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であった
    • [33]足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとした
    • [34]1890年8月の渡良瀬川の大洪水による下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化し、1891年12月の第二回帝国議会で田中正造から鉱害問題に対する質問がなされた
    • [35]1892年8月に藤岡町、野木村、部屋村、生井村と足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛との間に示談契約が結ばれ、古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策を行った
    • [36]廃水処理対策として、1893年と1894年に渡り米独両国から粉末銅鉱採取機を本山と小滝に導入し、さらに沈澱池を各選鉱所に設けた
    • [37]明治29年9月に再び発生した大洪水によって渡良瀬川下流域では破堤氾濫が生じ、明治23年8月の洪水以上の農作地被害がもたらされた
    • [38]農商務省は1896年12月25日に第一回予防工事命令を古河に対して発し、古河は本山、通洞及び小滝にそれぞれ沈殿池と堆積場の設置を急ぎ実施した
    • [39]予防工事命令が古河に温情的であるという非難が田中正造らによって強く主張され、足尾銅山の操業停止を求める声が高まり、1897年3月に内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられた
    • [40]政府は1897年5月13日に第二回予防工事命令を発し、そのわずか2週間後の1897年5月27日に第三回予防工事命令を発した
    • [41]第三回予防工事命令は、命令書交付後7日以内の着工と、工事毎に竣工期限が最小30日、最大でも180日とされ、遅延した場合は鉱業を停止するという、30項目に及ぶ具体的な工事内容の命令であった
    • [42]古河は約100万円の巨費を投じて工事を1897年11月22日に完了させた
    • [43]煙害防止については明治30年に脱硫塔の建設、大正4年に希釈法の導入、大正7年に電気集塵法を導入するなど対策を講じたが抜本的な問題解決には至らず、明治34年3月に第四回予防工事命令、明治36年7月に第五回予防工事命令が発令された
    • [44]1907年、鉱夫の待遇改善への不満に端を発した大規模な暴動事件が発生し、本山の所長宅などが焼き討ちにあった
    • [46]大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も大正5年には38,428人に達した
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
    • [45]1911年11月、組織を変更し古河合名会社とした
    • [52]1918年4月、古河合名会社の鉱業部門を独立して、古河鉱業株式会社を設立した(資本金2,000万円)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
    • [47]明治42年に足尾銅山の付随事業として足尾鉄道を設立し、同年に日光細尾発電所が完成、また日光精銅所が建設された
    • [48]明治43年に朝鮮平安北道に亀城鉱業所を、またマレー半島にゴム園を開設して海外進出の第一歩を印した
    • [50]大正3年から足尾製作所において一般鉱山機械を製作した
    • [51]大正4年に好間炭坑(福島)、大正5年に川井山銅山(山口)および水島製錬所(岡山)を買収した
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
    • [49]裸銅線市場における日光電気精銅所の地位は依然として圧倒的なものであり、大正6〜7年頃までに中小の電線会社を系列化していった古河合名の発展はこれに支えられていた

筆者考察

古河市兵衛が1877年に譲り受けた足尾は、年間の産銅量が100トンにも満たない廃鉱同然の山だった。それが1916年に14,000トンを超えるまでになったのは、1881年の鷹之巣直利と1884年の横間歩大直利という富鉱を掘り当てたからだけではない。1890年の間藤水力発電所、1893年のベセマ式製錬、1896年の基幹坑道、1900年の機械工場と、掘る・運ぶ・溶かす・作るの各工程を次々と内製化したからである。鉱山会社が発電所を持ち、製錬炉を築き、さらに鑿岩機を作る工場まで建てたのは、外から買っていては増産の速度に設備の手当てが追いつかなかったからにほかならない。

この内製化は、鉱害という費用も同じ会社に背負わせた。1890年8月の大洪水から1903年の第五回予防工事命令まで、古河は示談金と沈殿池と脱硫塔へ費用を投じ続け、1897年の第三回命令では約100万円を投じて7か月で工事を終えている。工程を外へ出していれば、廃水も排煙も他社の問題になっていた。自前で持つとは、収益も損害も一手に引き受けることである。1907年には鉱夫の待遇への不満から本山の所長宅が焼き討ちに遭い、増産の速度に現場の処遇が追いつかないことも表に出た。そして同じ40年のうちに、足尾で外国製の鑿岩機を作り替えていた工場が、のちに機械部門として会社を支える起点になった。

足尾銅山の年間産銅量 古河市兵衛の買収当初と1916年(トン)

100 買収当初 14,000 1916年
  • 買収当初の値は、年間100トンに満たなかった産銅量の上限として置いた。
  • 出所は日光市「足尾銅山の歴史」。

出典・参考

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出典・参考
  • 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
  • 古河電気工業 創業100年史(1991年)2章 古河鉱業と横浜電線の提携
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「古河鉱業」(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「古河鉱業」
  • 日光市「足尾銅山の歴史」

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