古河機械金属車載型クレーンのユニックの全株式取得と佐倉工場の開設
黒字が10年続く会社を36億円で買えるのか──非鉄の縮小に追われた古河鉱業は、なぜ100%の取得にこだわったか
- 概要
- 1987年3月、古河鉱業が車両搭載型クレーンで約40%の市場シェアを持つ株式会社ユニックの全株式を36億円で取得した買収。売り手は阪和興業・日商岩井・東食の3商社で、ユニックは1986年3月期に売上高122億円、経常利益7億3000万円を上げ、黒字が10年近く続いていた。
- 背景
- 1985年末に1ドル160円だった円相場は1986年末に125円前後まで進み、金属価格も下がって非鉄業界では休山・閉山が相次いだ。古河鉱業は足尾製煉所を1987年4月に別会社へ移すなど非鉄部門の縮小を迫られ、機械部門を厚くする相手を探していた。
- 内容
- 古河鉱業は削岩機で培った油圧の技術者が十分でなく、輸出への偏りも懸念していた。国内販売の比率が高いトラッククレーンへ入る手段としてユニックを選び、3商社が求めた51%の一部残留を受けずに全株式を取得した。同年10月に製造部門を譲り受け、千葉県佐倉市の佐倉工場とした。
- 含意
- 業績の悪い相手を救済する型が多かった当時のM&Aのなかで、黒字の優良企業を売り手の判断で丸ごと引き受けた事例にあたる。ユニックは現在も古河ユニックを中核とする機械3部門の一角を占め、佐倉工場には2018年末までに90億円が投じられた。
救済ではなく、育った会社を値のついた状態で買う
買い手が最初に確かめたのは、価格でも技術でもなく、売り手の本気であった。奥村豊副社長は、経常利益7億3000万円を上げている会社をなぜ手放すのかと山一証券へ重ねて問うた。14年前に自分が調べたまま見送った赤字会社が、商社3社の手で1,300人を300人へ減らし小型クレーンへ絞った末に、シェア約40%を持つ黒字会社となって戻ってきた。1987年のM&Aは業績の低迷した相手を救済する型が多く、育った会社を値のついた状態で買う例は目立った。
ただ、36億円という値づけは、買い手が製品や販売網ではなく土地と設備を見て値踏みしたことも示している。売却価格は千葉県の工場用地4万坪の地価にほぼ相当すると説明され、佐倉工場にはその後2018年末までに90億円が投じられた。買った額の2倍を超える資金が、後から必要になったことになる。それでも、非鉄の縮小に追われていた古河鉱業にとって、油圧の技術者と国内向けの販路を一度に得たこの取得が、機械で立つ会社への道を残したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
円高と非鉄の縮小、鉱山から機械への移行
1985年末に1ドル160円だった円相場は、1986年末には125円前後で推移していた。金属価格も下がり、非鉄業界では休山・閉山・縮小が相次ぐ。古河鉱業も円高と海外非鉄市況の低迷を受け、同社の象徴であった足尾製煉所を1987年4月に別会社へ移すところまで追い込まれた。足尾銅山を閉じてから14年が過ぎ、非鉄部門を合理化して機械部門へ移ることが急務となっていた[1][2]。
機械部門で古河鉱業が持っていたのは、鉱山で使う削岩機を中心とする掘削の機械であった。奥村豊副社長によれば、油圧の技術者はいくらかいたものの十分とはいえず、輸出への依存の高さも懸念材料だった。国内販売の比率が高いトラッククレーンへ入れば、業界に無用の混乱を与えずに参入でき、輸出依存度も引き下げられる。買う相手に求めたのは、この二つに同時に答えられる会社であった[3]。
会社を率いる側の顔ぶれも、鉱山から機械へ移りつつあった。1980年6月に清水兵治前社長へ代わって昇格した西川次郎氏は、古河鉱業では初の技術者出身の社長である。北海道帝国大学工学部鉱山科を1937年3月に卒業して入社し、久根と足尾の鉱業所長を経た人物で、古河グループの本家の名に恥じない企業にすることを自らの課題に挙げていた。買収の翌年にあたる1988年の年頭には、会長として非鉄業界は存亡の年になると書いた[4][5]。
14年前に見送った赤字会社
古河鉱業とユニックの縁は、14年前にさかのぼる。経理部長だった奥村豊氏は、ボウリング場向けのボーリング機械で得た利益を借金の返済だけに充てるのは惜しいと考え、機械部門を伸ばす提携先はないかと山一証券に相談した。紹介されたのがユニックである。赤字ではあるが技術は良いとみて調べたところで話は止まり、代わりに阪和興業・日商岩井・東食の3商社が各1億5000万円を出資して共同経営に入った[6]。
引き受けた当時のユニックは、帳簿を調べると100億円を超す不良債務を抱えていたと、阪和興業の北茂社長は明かした。3商社は1977年に希望退職を募って販売会社を分離し、1,300人の従業員は300人まで減った。収益率の低い大型クレーンから退き、小型クレーンに絞り込む。すると翌年から黒字基調へ転じ、1985年4月には20億円の累積債務を土地の売却で清算して、新会社としてユニックを設立した[7]。
決断
黒字が10年続く会社を、なぜ売るのか
1986年3月、山一証券が古河鉱業へ持ち込んだのは、その建て直されたユニックであった。車両搭載型クレーンで約40%の市場シェアを持ち、1986年3月期は売上高122億円に経常利益7億3000万円、黒字は10年近く続いていた。奥村豊副社長は、これだけ黒字が出ているのに相手は本当に売る気があるのかと、仲介の山一証券へ重ねて確かめた。山一証券は、こういう例は珍しいが決してきずものではないと笑って応じた[8]。
売り手の答えははっきりしていた。3商社を代表して阪和興業の北茂社長は、商社の共同経営には限界があると語った。この先4、5年はうまくやっていける見通しはあるものの、厳しい時代にメーカーが生き残って大きくなるには技術開発力が要り、商社にはその気風がない。ユニックの将来を考えればメーカーに面倒をみてもらう方がよく、いい相手がいれば嫁に出そうと考えた、と。上場も検討したが、金と時間がかかると判断した[9]。
51%の提案を受けず、全株式を取る
価格は36億円で決まった。新会社であるため売却価格は千葉県の工場用地4万坪の地価にほぼ相当すると、阪和興業の岡上雄行取締役は価格の根拠を述べた。古河鉱業はこの価格をすんなりのみ、1986年秋にはスイスでフラン建てのワラント債を発行して買収資金を早々と調達した。遅くとも同年11月にはかたがつくというのが、奥村豊副社長の見込みであった[10]。
交渉は長引いた。儲けているのになぜ売るのか、売るとしても上場して高い株価をつけたあとでよいのではないかという声が3商社の内部から出て、資材調達の既得権をどう確保するか、買収後に経理処理の問題が出た場合に3社がどう責任をとるかでも調整が続く。1987年1月末、古河鉱業はこれまでの合意事項で早くまとめてもらわなければ困ると3社へ伝え、場合によっては再考もありうるという強い意向を示した[11]。
3商社は売却後も株主として残ることを望み、過半数の51%でどうかと提案した。古河鉱業はこれを受けず、全株式の取得を譲らない。奥村豊副社長は、100%にこだわったのは企業体質の改善ができないと考えたためと答えた。当時のM&Aは、実質的に経営の主導権をとっても株式の取得は20%か30%に抑える例が多く、100%の資本移動を伴うこの買収は珍しい部類に入った[12]。
結果
佐倉工場の開設と商号の変更
1987年3月、古河鉱業は東京都港区の株式会社ユニックを買収した。同年10月には製造部門を譲り受け、千葉県佐倉市の佐倉工場に改めた。買われた側は静かであった。生え抜きの岩尾純取締役は、多少の不安はあるが苦しくなって身売りするわけではないと述べ、正式契約の数日前に株主が変わるだけで中身は変わらないと社員へ説明したところ、実際に動揺はあまりなかったと語った[13][14]。
買収の翌年から、会社の形も改まった。1988年6月に定款の目的へ不動産の売買・賃貸・仲介・管理を加え、1989年10月には商号を古河鉱業株式会社から古河機械金属株式会社へ変え、授権株式数を4億株から8億株へ増やした。足尾銅山の閉山から16年、社名から鉱業の二文字が消えるまでには、機械の側に稼ぐ事業を積み上げる時間が要った[15]。
36億円で買った事業に投じた90億円
ユニックは古河機械金属に残った。現在は古河ユニック株式会社を中核とするユニック部門として、古河産機システムズの産業機械部門、古河ロックドリルのロックドリル部門と並ぶ機械3部門の一角を占めている。製品はユニッククレーンにとどまらず、ミニ・クローラクレーン、船舶用のオーシャンクレーン、ユニックキャリアまで広がった[16]。
2017年12月、古河機械金属は佐倉工場を拡張し、2018年末までに90億円を投じて塗装と油圧機器製造のラインを新設して生産性を2割高める計画を明らかにした。モデルチェンジに伴う国内販売の増加への対応に加え、塗装の品質を上げ、海外工場へ出す油圧部品の製造能力を増やす狙いがあった。1987年に36億円で買った会社の工場へ、その2倍を超える額を1年余りで投じた計算になる[17]。
- 日経ビジネス 1987年4月27日号
- 日経ビジネス 1980年12月1日号
- 鉱山 1988年「新春酔夢」(古河鉱業会長 西川次郎)
- 鉱山 1988年「新年を迎えて」(中小鉱業対策推進中央本部 本部長 今井文忠)
- 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
- 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【事業の内容】
- 日本経済新聞(2017年12月13日)