「住宅商社」化と機能別分社——脱土地経営への転換
就任5カ月で3つの専門子会社を設け、不得意分野は他企業の力を借りる「商社機能」に賭けた
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- 概要
- 1974年、社長に就いたばかりの坪井東氏が、わずか5カ月の間にツーバイフォー工法住宅・臨海土地造成・レジャーの3分野で専門子会社を設立し、不得意分野は他企業の力を借りる「商社機能」を軸にした経営へ転換した経営判断。
- 背景
- 高度成長期の土地本位経営が、金利と税金の急増で行き詰まっていた。前9月期の経常利益42億円に対し、支払金利は100億円を超え、重課税も重なった。土地の値上がりを待って売る従来型では、企業の活力が枯渇しかねなかった。
- 内容
- 1974年10月、三井物産・三井農林と三井ホーム(ツーバイフォー住宅)を、三井港湾開発を吸収して三井不動産建設(臨海土地造成)を設立した。レジャーは京成電鉄と折半出資のオリエンタルランドが中核となり、米ディズニー・プロダクションズからのノウハウ導入で基本合意に達した。
- 含意
- プレハブ大手ミサワホームの方式を研究し、他企業の資本・技術を借りて事業を進める「住宅商社」化を選んだ。この機能別分社は、のちに三井不動産販売・三井ホームを本体へ再吸収してグループ連結で開発を主導する体制の出発点となった。
分社と再吸収の往復が意味したもの
この機能別分社を、単なる子会社づくりとみると全体像を取り逃がすことになる。坪井が就任早々に打ち出したのは、土地を仕入れて値上がりを待つという不動産業の稼ぎ方そのものを疑い、専門機能を切り出したうえで他企業の資本と技術を束ねる「商社機能」を会社の中心に据える試みであった。江戸英雄の積極商法が土地を作り出す方向で活路を開いたのに対し、坪井の脱土地経営は土地への依存を薄める方向で活路を探った点に、二つの世代の違いが表れているとみることができる。「他人のフンドシ」という風評が付きまとったのは、その手法が当時の業界の常識から外れていたことの裏返しでもあった。
機能を分けて外部の力を借りる設計は、その後の三井不動産のグループ運営に長く影を落とした。三井不動産建設・三井ホーム・三井不動産販売という機能別会社は、時に外部資本も交えて分社され、やがて本体側へ取り込み直されていく。2002年の三井不動産建設売却と三井不動産販売の完全子会社化、2018年の三井ホーム完全子会社化は、その往復運動の到達点に当たる。分社と再吸収を行き来しながら、最終的にグループ連結で都心開発の主導権を握る体制がかたちづくられた原点を、1974年の坪井の3分社に求めることもできる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
金利と税金が利益を食う土地本位経営
「わが社にとって50年(昭和50年)は、金利と税金との闘いですよ」——三井不動産の永井正経理部長の表情はけわしかった。前9月期には普通法人税がおよそ21億円、土地譲渡に伴う重課税が2億2,000万円で、経常利益42億7,000万円の60%近くが一連の税金で持っていかれた。重課税は昭和44年1月以降に取得した土地の売買に課せられるが、三井不動産は44年以前に取得したものが比較的多いため、他社に比べれば負担はまだ軽い方であった。他社では重課税を含めた法人税等充当額が経常利益の65%以上を占め、なかには70%というところもあった[1]。
土地の売買を多くすれば、税金分がふえるだけである。坪井社長は「前9月期の経常利益42億円をかせぐのに、100億円を超える支払金利が必要だった」と述べ、この金利に加えて大幅な税金が重なれば企業の活力が枯渇してしまうと嘆いた。今3月期は埋め立て・浚渫部門を除いて売上高590億円ほどが見込めるが、税引き後利益で前期並みの19億円を維持できるかとなると「その自信は全くない」という。多額の借金で土地を取得し、値上がりを待って売る経営がまかり通っていた時代が去り、土地本位経営の行き詰まりが感覚の問題ではなく現実の決算上に表れていた[2]。
江戸英雄氏の積極商法が残した課題
三井不動産は、戦後の財閥解体期に「三井」の名称を残すのに奔走し、東京・日本橋室町界わいのビル管理会社でしかなかった会社を、埋め立て工業用地の造成、超高層ビル、デベロッパー事業と絶えず新規部門を開拓することで、三菱地所にようやく肩を並べる規模にまで仕立てあげた。その立役者が江戸英雄社長である。「業界最後の大番頭」と呼ばれた江戸氏は、私的利害を一つ越えた三井の栄光の回復に夢を託し続けた人物で、高度成長期の30年代から40年代にかけていち早く千葉県の臨海工業地帯の埋め立て造成に進出し、宅地開発・住宅建設へと事業を広げた[3]。
江戸氏は地価高騰について「いまの地価高騰は異常だ。住宅地の供給は本格的に取り組めば首都圏でもいくらでもふやせる。必ず鎮静化する」と語り、開発利益を得るのが目的だという臭いがつきまとう国内の都市再開発を嫌気して、海外での大規模開発への意欲ものぞかせていた。その積極商法は、埋め立てをめぐる利権や土地買い占めなどで社会的批判を浴びることもあった。1974年5月に坪井東氏が社長に就くと、環境は一変する。土地本位の経営構造に慣れ切ったことから来る土地への甘えを捨て、次の活路を見出さなければ経営を進められない情勢を、坪井氏は正面から受け止めた[4]。
決断
就任5カ月で設けた3つの専門子会社
坪井社長は1974年5月に就任して、わずか5カ月の間にツーバイフォー専門住宅、レジャー、埋め立て工事の3分野に子会社を設立した。1974年10月に三井不動産・三井物産・三井農林の3社で設けた三井ホーム(社長坪井東氏、資本金3億円)は、建設省から技術水準として認められオープン化されたツーバイフォー工法住宅の施工・販売を主眼にした会社で、三井物産が北米・カナダからのツーバイフォー角材を輸入し、三井農林が他部材を供給し、三井不動産が住宅販売の窓口を当面担う仕組みとした。従来のマンションなど分譲住宅の販売は三井不動産が受け持ち、ツーバイフォー住宅の販売は徐々に三井ホームへ移す考えで、5年後には年間2万〜3万戸の施工販売体制を作り上げることを目標にした[5]。
同じ1974年10月には、埋め立て・浚渫事業を行う三井不動産建設(社長喜谷慶一氏、資本金20億円)も設立した。この会社は三井不動産が分離した浚渫・埋め立て事業部門の営業譲渡を受け、子会社だった三井港湾開発を吸収合併して発足した。レジャー関係は、すでに京成電鉄との折半出資で設立していたオリエンタルランド(社長川崎千春氏、資本金10億円)が中核となった。同社は千葉県が浦安町地先に埋め立てた217ヘクタールの土地を利用して日本最大規模の都市近郊型レジャーランドを10年計画で作る構想を進め、うち約33ヘクタールのレジャー施設については米ディズニー・プロダクションズからノウハウ技術を導入することで基本的な合意に達していた[6]。
ミサワ方式に学んだ「商社機能」
これら一連の分社に込められたのが、一種の商社機能である。ツーバイフォー住宅にしてもレジャーにしても、プロジェクトの一切合財を三井不動産が手がけるのではなく、不得意な部門についてはその部門が得意な他企業と提携して一つの事業計画を完結させるやり方であった。三井不動産に蓄積されているノウハウはもちろん提供するが、デベロッパーとしての実績・信用力・技術開発力をコアに、同社がオーガナイザーの役割を果たすことで提携企業と利益を分かち合うという経営戦略である。坪井社長は「ツーバイフォー工法による住宅分譲に出るからといって、すべてを三井不動産がやることはない。この分野には今後、伸びそうな既存の企業で優秀なのが数多くある。これらの技術・資本の協力を求めればいい」と言い放った[7]。
こうした経営戦略を打ち出す裏には、参考になる見本企業があった。プレハブ大手のミサワホームである。ミサワホームは全国各地の住宅関係企業・非住宅関係企業と資本提携し、あるいは共同出資会社を設立して、プレハブ用部材の製造やディーラーの役割を果たすシステムを作り上げていた。その合弁会社でもミサワの出資比率は30〜50%が大半で、ミサワ側からは製造技術やブランドを提供すればよかった。ミサワホームの山本幸男専務はかつて「うちが、今のような方式を取ったのは、資金がなかったからですよ。借金をしないで事業を進めるには、他企業の資本の助けを借りるしかなかったというのが本音です」と語ったことがある。未知に等しい分野に最小限の投資で突撃する手だてとして、坪井社長は「ミサワ方式を参考にするのが一番」と、その経営戦略を相当程度研究していた[8]。
結果
「脱土地経営」の始動と試練
坪井社長が5カ月で3分野に子会社を設立したことで、三井不動産本社は身軽に動けるようになった。それぞれの専門分野を伸ばす一方で本体の体質改善・強化を進める意図がうかがえた。もっとも、脱土地経営とは土地から全く離れることではなく、土地のコロガシで利益を上げる経営をやめることであった。分譲住宅価格に占める地価のウエートが高い現状では、住宅部門を大きな柱に育てるにも土地との縁が切れるわけではなく、新規事業計画資金は株式の時価発行・転換社債を定期的に実施してまかない、長短借入金2,000億円の範囲内で資金回転の効率化を図る方針が置かれた[9]。
新戦略には試練も多かった。ツーバイフォー工法住宅の分野で三井不動産がヘゲモニーを握ろうとしたところ、同工法のオープン化が予想外に早かったのは同社にとって誤算だったのでは、という見方が同業他社から出た。一連の新戦略には、かつてミサワホームに冠せられたような「他人のフンドシで相撲をとる」「ヤドカリ商法」といった風評が出る恐れもあった。それでも、総需要抑制と住宅ローンの圧縮で住宅産業が不況の最中にあったため、三井不動産への提携申し込みは多く、優秀な住宅技術者・セールスマンの新規採用申し込みも相次いだ。不動産不況の長いトンネルの中で見出した自らの限界を知っての戦略として、その成否は見守る価値のあるものとなった[10]。
- 日経ビジネス 1975年2月3日号 ケーススタディ「三井不動産『住宅商社』化に見つけた不況突破口」
- 日経ビジネス 1973年1月8日号「江戸英雄三井不動産社長 "三井の栄光"夢みる日本最後の大番頭」