日本国有鉄道東海道新幹線の広軌別線建設と在来線改良案の不採用

在来線の改良を積み増すか、標準軌の新線を別に敷くか——鉄道斜陽論のなかでの選択

時期 1959年4月
意思決定者(推定) 十河信二・島秀雄 総裁・技師長
論点 幹線輸送力の増強方式と建設資金
概要
1959年、日本国有鉄道が東海道本線の輸送の行きづまりに対し、在来線の改良ではなく標準軌の別線を新設する方式を採り、十河信二総裁と島秀雄技師長のもとで東海道新幹線の建設に着手した経営判断。
背景
東海道本線は全営業キロの約3%にすぎないのに旅客輸送量の約25%を担い、1957年には東京・新橋間で片道210本と複線の限界に近づいていた。戦時中の弾丸列車計画で確保した用地の約25%と長大トンネルが沿線に残されていた。
内容
運輸省の幹線調査会が広軌別線を適当と認め、所要資金1725億円で1959年4月に起工した。年5.75%の世界銀行借款8000万ドルを得たうえで、建設費は2926億円へ改訂された。
含意
開業後の輸送実績は当初の想定を上回り、新幹線の収支は1966年度に単年度の黒字へ転じた。一方でこの時期の設備投資は全体として外部資金への依存を深め、利子と減価償却費が国鉄財政を圧迫した。
筆者の見解

五案が出そろった時点で、安い道は残っていなかった

東海道線増強調査会の五つの案が、狭軌の併設から広軌電鉄まで、どれも1000億円を越えると分かった時点で、国鉄に安上がりな道は残っていなかった。同じ桁の資金を投じるなら、狭軌の線路に列車をさらに詰め込む改良ではなく、標準軌の別線を敷いて時速200kmで走らせる。十河総裁が幹線調査会の第1回で、戦前に始まった広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと述べたのは、その比較を先に済ませていたからだとみられる。

建設費は当初の1725億円から2926億円へ1.5倍に膨らみ、三河島事故のあとには他の線区の改良をなおざりにしているという非難を浴びた。ただし新幹線そのものは1966年度に単年度の黒字へ転じ、1970年度には1174億円の利益を出しており、国鉄財政の悪化をこの一線に帰することはできない。利子および債務取扱諸費が5年で4.2倍に膨らんだ事実が示すのは、新幹線を含む設備投資の速度に自己資金が追いつかず、外部資金でその差を埋めたことであった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

一本の複線に集まった輸送

東海道本線の営業キロは590kmで、国鉄の全営業キロの約3%にすぎなかった。ところが旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%に達し、その増加率も全国鉄の平均を年々上回っていた。沿線には全国土の約16%の面積に全人口の43%が集まり、工業生産額と国民所得は全国の約70%を占めていた。日本の経済活動が最も濃く集まる地帯を、一本の複線が引き受けていた[1][2]

列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を越え、1957年には東京・新橋間で片道210本に達した。複線の鉄道で片道200本を越える本数は限界点に近く、速度も安全の確保も難しくなる。国鉄は1956年に全線電化を終え、待避線の増設や信号保安設備の改善を重ね、1958年11月には日帰りのできる特急電車こだま号を東京・大阪間に走らせた。それでも1960年代に輸送力が行きづまることは明らかであった[3][4]

弾丸列車計画の残したものと五つの増強案

根本的な改良の構想は、戦時中に一度立てられていた。東京・下関間を国際標準軌間の別線で結び、東京・大阪間を約4時間半で走らせる弾丸列車計画がそれで、1943年から1944年にかけて戦局の悪化により工事はすべて止まった。ただし用地は全体の約25%まで確保し、長大トンネルの掘削もある程度進んだところで中断していた。狭軌による制約から鉄道を解き放つという構想が、未完のまま沿線に残されていた[5][6]

国鉄が改良計画の調査を本格的に始めたのは1956年で、この年の5月に本社へ東海道線増強調査会を置き、技師長が会長にあたった。増強案は狭軌併設、狭軌別線、広軌10駅、広軌23駅、広軌電鉄の5案に絞られたが、いずれも当時としては1000億円を越える投資を必要とした。国鉄内部の判断だけで決められる規模ではなく、東京・大阪間の高速道路計画とも関わるため、国政の場で扱うのが妥当と考えられた[7][8]

決断

時速250kmという見通しと広軌別線案

1957年5月25日、国鉄の鉄道技術研究所は創立50周年を記念して東京銀座の山葉ホールで公開講演会を催した。この席上、東京・大阪間を最高時速250kmの電車により3時間で結ぶ可能性が、確信をもって紹介された。当時の常用速度は時速160km程度が最高とされており、この見通しは冒険を含むものとして危険視もされた。それでも講演会は国鉄の内外に反響を呼び、十河信二総裁は内部の意見をまとめ、計画の実施へ踏み切る方向へ進んだ[9][10]

十河総裁は1957年7月2日、運輸大臣の宮沢胤勇氏に東海道本線の増強への配慮を要請し、同月29日には本社に幹線調査室を置いて大石重成氏を室長にあてた。政府は8月30日、閣議決定に基づき運輸省に日本国有鉄道幹線調査会を設置し、大蔵公望氏を会長、委員35人で審議に入った。十河総裁は第1回の調査会で委員の一人として、戦前に始まった広軌新幹線を下回る輸送力増強計画では間に合わないと述べ、暗に広軌別線案を主張した[11][12]

世界の三馬鹿という嘲笑と答申

反対論は強かった。新幹線方式は過剰投資であるばかりでなく、むだな投資であるという意見が出され、伸び始めた自動車の輸送力に期待して線路の増強そのものが要らないとする見方もあった。高速の別線は航空機と競争するむだな投資であり、その資金はむしろ混雑の緩和にふり向けるべきだという議論も行われた。なかには計画を戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ、世界の三馬鹿と嘲笑する者もあった。底には先進国に広がる鉄道斜陽論があった[13][14]

幹線調査会は1957年11月22日、東海道線への新規線路の建設は喫緊であると認める答申第1号を提出した。第1分科会は1958年3月27日に広軌別線を適当と認め、第2分科会は4月2日、所要資金と利子の合計1948億円は国内で調達でき、運賃の引上げは要らないと結論した。7月7日に運輸大臣の永野護氏へ答申書が出され、1959年3月31日に第31回国会が建設費を承認、4月20日に新丹那トンネル東口で起工式が行われた[15][16]

結果

世界銀行からの8000万ドルと1.5倍に膨らんだ建設費

開業後の経営を円滑にするには低利の資金が絶対の条件とされ、年5.75%の世界銀行借款による方針が打ち出された。世銀の借款は後進国の開発を目的としており、日本のような国への借款が認められるかは疑問視されていたが、名神高速道路の建設費で借款が実現していたことから、成立の可能性は高いと判断された。1961年5月2日、十河総裁とブラック世銀総裁が8000万ドルの借款契約に調印し、同時に交わした覚書によって日本政府は国際的に新幹線を完成させる義務を負った[17][18][19]

当初の所要資金は1725億円で、利子および債務取扱諸費を加えて1972億円とされた。1959年末に工事費の不足がはっきりしたが、交渉中の世界銀行に対する信用の問題があり、総額予算はそのままにして1960年度の工事契約が進められた。不足額は1961年12月に1218億円へ達し、国鉄は総額2926億円への増額改訂を世界銀行へ説明した。直接工事費の増加分802億円は、物価の騰貴と設計協議による計画の変更によるものであった[20][21][22]

開業と輸送実績

モデル線では1962年10月27日に時速200km、1963年3月30日には256kmを記録した。切取と盛土の延長は274kmに及び、土工量は3500万立方mに達し、建設工事では211人が殉職した。十河総裁は1963年5月に退任し、開業を迎えたのは第5代総裁の石田禮助氏であった。1964年10月1日、東京・新大阪間515kmが開業し、この日の各始発列車はいずれも定時に終着駅へ到着した[23][24][25]

列車は1日60本、ひかりが4時間、こだまが5時間で走り、輸送力はそれまでの特急・急行の約3〜4倍となった。1日約6万人だった輸送人員は1965年度に約8万5000人へ増え、累計は1965年3月19日に1000万人、1967年7月13日に1億人を数えた。1970年3月から9月までの大阪万国博覧会の期間には総客数900万人、1日平均27万人を運んだ。開業前に最も恐れられていた衝突事故は、この間1件も起こらなかった[26][27]

新幹線の収支と国鉄財政

新幹線の収支は、原価計算方式でみると1965年度が収入549億円に対し経費678億円で、128億円の損失であった。それが1966年度には収入892億円・経費728億円となり、164億円の利益へ転じた。利益はその後も1968年度493億円、1969年度788億円と伸び、1970年度には収入2086億円・経費911億円で1174億円に達した。開業から2年で単年度の黒字となった[28]

一方、新幹線を含む国鉄の設備投資は、全体として外部資金への依存を深めていた。投資規模は1967年度に3673億円と1955年度の約7倍へ膨らみ、外部資金の調達額も1955年度の243億円から1967年度3634億円へ増えた。利子および債務取扱諸費は1960年度の240億円から1965年度に1012億円へ4.2倍となり、利子と減価償却費からなる資本関係費用は1960年度から1967年度までに3.2倍に膨らんだ。営業費の増加2.4倍を上回る伸びであった[29][30]

出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和34年度

この決断を下した社長 十河信二

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