クラレ国産技術による合成繊維ビニロンの企業化と、ポバールからの一貫生産体制の構築

技術は買うものか、自前で立てるものか——石灰石と水からつくる繊維に、倉敷レイヨンはなぜ社運を賭けたか

時期 1949年10月
意思決定者(推定) 大原總一郎 社長
論点 合成繊維への参入と技術の自給
概要
倉敷レイヨンは1949年10月、富山工場の原料ポバールから岡山工場のビニロン繊維までを結ぶ一貫生産設備の建設に着手し、翌1950年11月に工業生産を始めた。京都大学で生まれた国産技術を、社内の多数が賛成しない段階で企業化した大原總一郎社長の判断である。
背景
戦後の合成繊維は海外から技術を買うのが本流で、東洋レーヨンは米デュポンのナイロンに向かった。倉敷レイヨンが持っていたのは、1935年から続けたポリビニルアルコール系繊維の研究だけで、原料は石灰石・石炭・水と国内で採れるものに限られていた。
内容
1949年、繊維産業審議会の答申を受け、ナイロンは東洋レーヨン、ビニロンは倉敷レイヨンを担当会社とする「合成繊維工業の育成」が閣議で承認された。資本金2億5000万円の会社に対し所要資金は14億円規模で、大原總一郎社長は日本興業銀行に自ら融資を頼み込み、15行・総額14億1000万円の協調融資を得た。
含意
ビニロンは衣料に入れず苦戦し、日本合成繊維・東洋紡績・鐘淵紡績は試験生産を打ち切った。倉敷レイヨンはレーヨン部門の利益を注ぎ込んで耐え、1954年の高強度タイプで産業資材に居場所を得た。より大きな果実は原料のポバールにあり、50年後に液晶偏光板フィルムの母材となった。
筆者の見解

賛成が少ないうちに始めるということ

資本金2億5000万円の会社が、14億1000万円を15行から借りて一つの繊維に賭けた。この一事だけで、大原總一郎社長の判断が当時どれほど常識から外れていたかが分かる。技術導入がもてはやされ、国産技術は評価されない時代であった。にもかかわらず自前の技術を選べたのは、石灰石と水と電力しか使わないという原料構成が、外貨の乏しい国では他社の真似できない条件になると読んでいたからだとみられる。10人のうち1人か2人が賛成するときに始めよという言葉は、勇ましい標語ではなく、賛成が集まった時点でその事業はもう自社の持ち物ではなくなる、という冷めた計算に近い。

ただし、賭けた対象そのものは外れている。ビニロンは衣料の主役になれず、学生服とモンペと作業着に押し込められたまま、後発の日本合成繊維も東洋紡績も鐘淵紡績も試験生産から降りていった。倉敷レイヨンが助かったのは、レーヨン部門の利益という別の稼ぎがあり、それを注ぎ込み続けられたからにすぎない。そして実を結んだのは繊維ではなく、繊維のために作った原料のポバールで、それが液晶偏光板の母材として花開くまでには50年を要した。自前の技術を選ぶという判断は、外れ方まで含めて長い時間で採点されるものだといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

技術を買う会社と、買えない会社

戦後の合成繊維は、技術を海外から買うところから始まった。米デュポンが100億円の研究費を投じて完成させたナイロンの資料は、三井物産ニューヨーク支店から東洋レーヨンへ送られ、同社は生産の本格化にあたって1951年に正式な技術導入へ踏み切っている。倉敷レイヨンにその道はなかった。手元にあったのは、1935年から続けてきたポリビニルアルコール系繊維の調査研究と、戦災で焼けた試験設備の記憶であった[1]

倉敷レイヨンのビニロン研究は戦前にさかのぼる。1935年から工業化の調査研究を続け、1940年6月には岡山工場研究所内に原料ポバールと繊維の小規模試験設備を置いて試験生産を始めていた。研究は1945年6月の空襲で焼失して中断したが、終戦後いち早く復元され、1948年4月には倉敷工場の試験工場が生産を開始している。企業化の判断は、この十数年の蓄積の上に置かれた[2]

国が繊維に描いた陣立て

政府の側にも合成繊維を育てる意思があった。1948年に復興五カ年計画へ合成繊維が組み入れられ、翌1949年には繊維産業審議会に合成繊維臨時部会が設けられて「合成繊維工業急速確立の件」が商工大臣へ答申された。輸出拡大には合成繊維の育成が欠かせず、資本と技術を集中して経済単位の工場を急いで建てる、という方針である。当面の主力はナイロンとビニロンの二つに絞られた[3]

1949年8月、ナイロンは東洋レーヨン、ビニロンは倉敷レイヨンを担当会社とする「合成繊維工業の育成」が閣議で承認された。国が二社に一つずつ持ち場を割り当てた形で、倉敷レイヨンは自社技術のほうを引き受けた側に立った。もっとも、割り当てられたのは役割であって資金ではない。技術導入がもてはやされる時代に国産技術は評価されず、企業化の負担は会社が自力で背負うほかなかった[4]

決断

10人のうち1人か2人が賛成するとき

大原總一郎社長は、社内の多数が賛成しない段階でビニロンの企業化に踏み切った。本人は新規事業に着手する目安をこう語っている——10人のうち1人か2人が賛成するときに始めるべきで、5人も賛成したらもう遅く、7人8人が賛成する仕事はとうの昔に手遅れになっている。同時代の記事はこの決断を、創業家の持ち物である会社が社長の道楽に引きずり込まれた、という辛口の見方でも伝えていた[5]

判断の芯は、技術を自分の手のうちに置くことにあった。大原總一郎社長は後年、社内報で、模倣や他人の知識の買収によって自社の水準を更新する方法を過大評価したくない、真に頼むべきものは自らのうちにある力だけであることを忘れれば将来の一切の希望を放棄したのと同じ結果になる、と書いている。石灰石・石炭・水という国内で採れる原料だけで繊維をつくれる点も、外貨の乏しい国では意味を持っていた[6]

資本金の6倍を借りる

企業化に要する資金は14億円規模で、当時の資本金2億5000万円をはるかに超えていた。大原總一郎社長は日本興業銀行大阪支店の日高輝支店長のもとへ足を運び、外国技術ではなく自社で開発した技術による合繊の企業化である点を理由に融資を懇請している。ところが「社運をかけて企業化する」という決意の表明が裏目に出た。社運をかけるほどの事業なら自己資金で賄うべきで銀行借入に頼るのはおかしい、という筋論が共同融資に加わる銀行の側から出てきた[7]

融資は、資金の使い道を辿ることで通った。日高輝氏が倉敷レイヨンの仙石襄専務と対策を練るうち、ビニロンプラントの発注先が神戸の中日本重工業であると分かる。共同融資の大半は三菱系企業へ還元されると三菱銀行本店に直訴して内諾を得たうえで、その年の10月、興銀を幹事とする15行・総額14億1000万円の協調融資がまとまった。1949年10月、富山工場のポバールから岡山工場のビニロンまでを結ぶ一貫生産工場の建設が始まった[8]

結果

衣料で負け、産業資材で残る

1950年11月、岡山工場でビニロンの工業生産が始まった。しかし製品は衣料に向かなかった。発色が悪くくすんだ色しか出せず、吸湿性が高いために洗濯をすると縮む。1950年代に学生服として広がったほかは、モンペや一部の作業着にとどまり、木綿の代用品とは呼べなかった。同じ時期、東洋レーヨンのナイロンはストッキングや衣料用織物へ販路を広げ、1953年9月期には化繊業界首位の座を確保している[9]

苦難は長く、この不振に見切りをつけた日本合成繊維・東洋紡績・鐘淵紡績は試験生産を打ち切った。倉敷レイヨンはレーヨン部門があげた利益をすべてビニロンに投入して踏みとどまり、1954年、従来より強度が3割高いビニロンを生むポバールの新重合法を得る。ここで漁網・ロープ・セメント補強材といった産業資材に居場所が開けた。1955年3月期の売上高は57億7000万円、資本金は15億円まで増えていた[10][11]

繊維ではなく、原料が残った

果実は繊維の側ではなく原料の側に実った。ビニロンのために1950年に世界へ先駆けて工業生産を始めたポバールは、1958年に市販が始まり、1962年には中条工場で国産天然ガスを原料とする生産に移った。そのポバールを原料としたフィルムは、当初ワイシャツの包装材として立ち上がったものの需要は伸びず、1980年代には生産拠点の倉敷工場でも撤退が取り沙汰されるところまで落ちていた[12]

転機は2000年ごろに訪れた。整然と並ぶポバールの分子構造が、特定方向にだけ光を通す偏光板の素材に適していたためで、液晶ディスプレー向けに需要が一気に拡大する。劣等生の素材を作り続ける競合は少なく、クラレはシェア首位へ躍り出た。2012年の時点でポバール関連商品はクラレの営業利益の9割を稼ぎ、50年を耐えた素材が主力に変わった[13]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「倉敷レイヨン」の項
  • 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 私の履歴書 経済人16「日高輝」(日本経済新聞社、1981年)
  • ダイヤモンド 1956年5月26日号「化繊」
  • 週刊東洋経済 2012年3月13日号「【特集 「素材」革命!】3 通信・IT 60年前の劣等生素材 液晶向けで大化け クラレのポバール」
  • クラレ「製品はじめて物語(ビニロン・ポバール)」

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