三菱電機半導体量産専門工場・北伊丹工場の新設と、西条・高知への量産設備の拡大

電子部品を外から買うか、自ら量産するか——重電と家電の会社が「電子産業のコメ」に投じた四半世紀

時期 1959年8月
意思決定者(推定) 関義長(社長)・進藤貞和 社長
論点 半導体の内製化と量産設備の拡大
概要
1959年8月、三菱電機は半導体の量産専門工場として北伊丹工場(兵庫県)を新設した。米ウエスチングハウス社の試作品をもとに中央研究所が国産IC第一号「モレクトロン」を商品化する2年前である。以後、1972年の半導体事業部の設置、1981年の福岡半導体工場、1984年の西条工場(愛媛県)、1985年着工の高知工場と設備を積み増した。重電と家電で立つ会社が、電子部品の内製と量産に資源を割いた経営判断。
背景
電源開発と家庭電化のブームで三菱電機は工場を建て続け、1959年には売上高・利益とも創業以来の最高を更新していた。そこへ関義長社長が、提携先の米ウエスチングハウス社から一センチ角ほどのICの試作品を持ち帰る。話が新聞に載ると株価が一時暴騰するほど、まだ製品でも市場でもない部品に期待が集まっていた。
内容
研究所の試作が商品になる2年前に、半導体だけを量産する北伊丹工場を建てた。1970年ごろからの米国メーカーの攻勢で国産各社が赤字に沈んでも撤退せず、1972年4月に半導体事業部を設置。初代事業部長のマレーシア工場案は退け、国内の設備で対抗する道を選んだ。1981年に福岡半導体工場、1984年に西条工場を一部完成させ、1985年には高知工場に着手した。
含意
1989年には1メガDRAMで業界2位まで来たが、その利益は半導体の有税償却に削られていた。1986年の日米半導体協定で価格を下げて量産効果を狙う戦略が封じられ、韓国・台湾勢の追い上げで汎用メモリの採算は崩れる。四半世紀の設備投資は、1998年2月の汎用DRAM撤退へつながった。
筆者の見解

商品より先に、設備を建てるということ

国産IC第一号となる「モレクトロン」が世に出たのは1961年で、量産専門の北伊丹工場はその2年前に建っていた。用途も需要も定まらない部品に、商品より先に量産の設備を用意したことになる。半導体を電子産業の「コメ」と呼んだ進藤貞和氏の言い方には、当たれば重電も家電も電算機もそれを土台に組み立てるという読みがあり、米国勢の攻勢で国産各社が赤字に沈んだ1970年代前半にも降りなかった理由は、そこにあったとみられる。

ただ、着手の早さがそのまま優位にはならなかった。参入から18年たった1977年でも半導体の売上高は年約400億円で、うち2割は社内向けである。西条・高知への積み増しが実った1989年の業界2位も、半導体の有税償却が経常利益の伸びを削りながらの2位であった。商品より先に設備を建てる型の投資は、当たれば規模で勝ち、外れれば償却だけが残る。三菱電機の半導体はその両方を順に経験したとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

電源開発と電化ブームのただ中で

1959年の三菱電機は、売上高が前年同期比で16%、利益金が35%伸び、いずれも創業以来の最高を更新していた。証券市場では成長株と呼ばれて株価が上がり、業界誌は「驚異的業績発展」と書いた。電力各社は1958年度から5年間で1000万キロワット近い電源開発を計画しており、発電機や送電機の需要はなお膨らむとみられていた[1][2]

勢いは、工場を建て続ける会社の姿にも表れていた。朝鮮戦争後のデフレを切り抜けた三菱電機は、1954年に静岡工場を設け、1956年に名古屋製作所の家庭電器部門を独立させたあと、1959年の北伊丹工場、1960年の鎌倉製作所、1962年の京都製作所と相模製作所へと、重電・電子・家庭電器の各分野で設備を広げていく。1968年3月期には売上高1321億円・利益36億円と、いずれも創業以来の最高に達した[3][4]

一センチ角の試作品

1959年ごろ、関義長社長が提携先の米ウエスチングハウス社から土産を持ち帰った。一センチ角ほどの、きらきら光るひげの生えた薄い板である。同社が試作した集積回路(IC)で、将来こういうものが大いに盛んになると言われたという話が新聞に載ると、三菱電機の株価は一時暴騰した。まだ製品でも市場でもない部品が、それほどの期待を集めていた[5]

関社長はそのサンプルを中央研究所の研究員に見せ、同じものをつくるよう命じた。研究所は機能を調べ、材料を分析し、製法を考案して、1961年に「モレクトロン」の名で商品化する。進藤貞和氏はこれを国産ICの第一号と記した。着手が早かったため、三菱電機のICは1970年ごろまで国産メーカーの先頭を走った[6]

決断

商品になる前に建てた量産工場

1959年8月、三菱電機は半導体の量産専門工場として北伊丹工場を新設した。研究所の試作が「モレクトロン」として商品になる2年前である。既存の製作所の一角を割くのではなく、半導体だけを量産する工場を建てたところに、電子部品を自社で賄う体制への構えが表れていた。この工場は後の高周波光デバイス製作所などにつながる[7]

先行は長くは続かなかった。1970年ごろから、日本の十倍の規模で生産していた米国メーカーが日本市場へ販売攻勢をかける。アポロ計画が一段落して米政府が防衛予算を削り、供給余力が生じたためであった。価格の低下も著しく、国産メーカーは軒並み赤字に陥る。それでも進藤貞和社長は、半導体は電子産業の「コメ」であり、技術革新は激しくリスクは高いが将来性があるとみて、1972年4月に半導体事業部を設けた[8]

低い労賃ではなく、国内の設備で受けて立つ

初代事業部長の樫本俊弥取締役は、マレーシアに工場をつくりたいと意気込んでいた。米国メーカーの低価格の一因が、手間のかかる組み立て工程を労賃の安い東南アジアへ移したことにあったからである。進藤社長はこれに反対した。言葉が違えば図面から変えねばならず、手作業もやがて自動化されるとみたためで、実際その二、三年後には自動化機械が次々に開発された。ただし半導体の規模はなお小さく、1977年の売上高は年約400億円、うち2割は社内向けであった[9][10]

三菱電機はこの規模から設備を積み増した。1981年9月に北伊丹製作所福岡半導体工場を新設し、1984年には空前のICブームで国内のIC生産額が2兆円に達する公算と報じられるなか、同年に西条工場(愛媛県)を一部完成させ、翌1985年には高知工場の建設に着手する。西条の用地は臨海部で、社内には塩害を心配して反対する声が強かったが、進藤社長は「人間が月に行く時代に塩ぐらい防げないわけはない」と押し切った[11][12][13]

結果

協定が変えた価格の仕組み

拡大の先で待っていたのは、需要の崩れと通商摩擦であった。1985年の不況は第一次石油ショック後の1975年不況に匹敵し、半導体の生産はピーク比で三割強落ち込む。原因はメモリー市況の崩壊にあった。日本勢の安値輸出を米国側が問題視した結果、1986年7月に日米両政府は日米半導体協定の締結で合意する。成長期のハイテク産業の貿易が政府の管理下に置かれたのは、これが初めてであった[14]

協定は市場の仕組みそのものを変えた。日本メーカーは米政府が算定した公正市場価格を下回る価格では対米輸出できなくなり、価格を引き下げて需要を刺激し、その結果として量産効果に期待する戦略を取れなくなる。設備を積み増して単価を下げるという投資の前提が、ここで崩れた。三菱電機は1983年に米国へ半導体工場を設けていたが、進藤氏は摩擦を少しでも和らげようとしたと振り返っている[15][16]

業界2位という到達点

それでも設備の積み増しは、いったんは順位に表れた。1989年6月、天野順介常務取締役は証券アナリスト向けの講演で、半導体は1メガDRAMで業界2位にあり、4メガ、16メガの製品にも対応できる態勢を整えたと述べている。重電の工場を半導体の工場へ転換させたとも語った。1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円、経常利益931億円と、いずれも過去最高であった[17][18]

ただし、その利益の中身には半導体の重さが残っていた。当期利益324億円は経常利益ほど伸びず、天野常務は体質改善のために半導体の有税償却をかなり行ったことが主因だと説明している。1990年代に入ると、技術導入から出発した韓国勢とOEM生産を基盤とする台湾勢が力をつけ、4メガDRAMでは韓国の三星電子が世界最大とみられるまでになる。メモリー中心の経営は行き詰まり、三菱電機が汎用DRAMから降りるのは1998年2月であった[19][20][21]

出典・参考

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