三菱電機米ウエスチングハウスとの技術・資本提携の復活と、「三菱」商号の存続

商号を失えば提携はない——ロイヤリティを払って技術系列に戻るか、自力で追いつくか

時期 1951年4月
意思決定者(推定) 高杉晋一 社長
論点 技術導入と商号の存続
概要
1951年4月、三菱電機は戦争で中断していた米ウエスチングハウス社との技術提携を復活させ、資本提携もあわせて正式に復活させた経営判断。前年から続いた「三菱」商号の存続運動と一体の決着であった。
背景
財閥解体で三菱商事が解散し販売機関を失い、集中排除法の指定と人員整理が重なった。戦時中に火力技術は欧米から引き離され、電源開発で戻ってきた需要に応える大容量機の技術が国内に残っていなかった。
内容
ウエスチングハウス社は三菱電機が分割され商号を失えば契約は結べないと通告した。高杉晋一社長は三井・住友と共同戦線を組んで吉田茂首相に陳情し、商号を守ったうえで、1年目25万ドルから始まるロイヤリティを負う条件で提携を復活させた。
含意
東芝=GE、三菱=WH、富士電機=ジーメンスという戦後重電の技術系列がこの時期に固まった。翌1952年には新三菱重工業も蒸気タービンでウエスチングハウス社と提携し、三菱グループ全体が同じ系譜に連なった。
筆者の見解

名前を守ることが、技術を守ることであった

高杉晋一社長が最後まで手放さなかったのは、工場でも人員でもなく「三菱」の三文字であった。ウエスチングハウス社が商号の存続を提携の条件として示した以上、社名を失うことは技術の断絶をそのまま受け入れるに等しい。分割の実施を引き延ばし、三井・住友と組み、吉田茂首相にまで持ち込んだ二年の運動は、のれんへの情緒的な執着ではなく、事業の再建に欠かせない条件を確保する行動として読める。

ただし、この判断が三菱電機にもたらしたのは自立ではなく、系列への復帰であった。1年目25万ドルに始まり4年目以降は売上高の3%へ移るロイヤリティは、稼ぐ前から確定する負担であり、資本の面でもウエスチングハウス社は筆頭株主として戻ってきた。それでも、14万5,000キロワット級と3万5,000キロワットの差を自力で埋める時間は当時の三菱電機になかったとみられる。代償を先に払い、電源開発の波にだけは乗り遅れないという順序をとったことが、8年後の「成長株」という評価につながったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

看板と販路を同時に失う

終戦時の三菱電機は、四製作所八工場に一研究所を加え、日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーの一つに数えられていた。だが空襲による被害は全施設の31%に及び、戦後は制限会社の指定、賠償指定、過度経済力集中排除法の指定と制約が重なった。とりわけ重かったのは三菱商事の解散で、従来の販売機関を一挙に失った同社は、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台などに営業所を置き直すところから出直した[1]

足元の収支も苦しかった。1949年5月、三菱電機は10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し、これをきっかけに重電各社へ合理化の動きが広がっていく。同じ月に東京証券取引所へ株式を上場し、財閥の後ろ盾を離れて自力で資本を集める会社となった。配当は1950年3月期にようやく復活したものの8分にとどまり、業界誌も「低率ながら」と条件を付けて伝える水準であった[2][3][4]

戦時中に開いた技術の差

需要の側は先に戻ってきた。傾斜生産方式のもとで鉄鋼・電力・肥料といった重点産業から機械の発注が出はじめ、1951年以降に本格化した電源開発が重電の受注を押し上げる。電気機械の生産額は1950年の238億円から翌1951年には533億円へ跳ね上がった。問題は、増えていく注文に応えるだけの技術が国内に残っていなかったことであった[5]

火力発電がその典型であった。戦時中に日本の火力技術が足踏みしている間に、欧米ではタービン容量14万5,000キロワット級の高性能機が実用化されていた。これに対し1952年に完成した築上発電所向けの国産設備は3万5,000キロワットにとどまり、立ち遅れは誰の目にも明らかであった。各社は海外技術の導入へ向かう。三菱電機にとっての相手は、1923年11月に技術提携契約を結び、戦時中の中絶を挟んで関係が途切れていた米ウエスチングハウス社をおいてほかになかった[6][7]

決断

商号を守れなければ提携はない

1950年に入ると、三菱電機にも企業の分割と社名の変更が迫った。ここで進路を決めたのは相手方の一言であった。ウエスチングハウス社は、三菱電機が分割され「三菱」の商号を失うようであれば技術契約は結べないと通告してくる。高杉晋一社長は後年、商号商標の使用禁止を「切り殺しておいて最後のとどめをさすようなもの」と振り返っている。技術提携の可否と商号の存続とが、一本の線でつながっていた[8]

高杉晋一社長は分割の実施を引き延ばしながら、三井・住友の両グループと共同戦線を組んだ。1950年4月、三井の山川良一氏・江戸英雄氏、住友の花崎利義氏とともに吉田茂首相と会い、社名の変更には三グループ合わせて15億円、間接の被害を含めれば150億円を要すると訴えている。首相からマッカーサー元帥への働きかけを経て、商号商標使用禁止令は同年5月末に一年の延期となり、さらに一年の延期を挟んで、1952年4月28日の講和条約発効とともに消滅した[9]

ロイヤリティを払って系列へ戻る

1951年4月、三菱電機は戦争で中断していたウエスチングハウス社との技術提携を復活させた。調印によって負ったロイヤリティは、1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上高の3%という条件であった。当時の業界誌は、この負担が加わってもなお「数年にわたるWH社の技術の蓄積を導入することによつて、品質やコストの面に受けるプラスの方がはるかに大きい」と評している[10][11]

復活したのは技術提携だけではなかった。資本提携も同時に正式復活し、ウエスチングハウス社は株主として三菱電機に戻ってくる。1955年9月には発行済4,800万株のうち200万株を保有する筆頭株主として名前が並んでおり、この提携が契約上の技術導入にとどまらず、資本の関係を伴うものであったことがわかる。翌1952年、高杉晋一社長は礼を兼ねて渡米し、ウエスチングハウス社を訪ねている[12][13]

結果

東芝はGEへ、三菱はWHへ帰る

この復活は三菱電機一社の事情にとどまらなかった。戦前から技術・資本の提携関係を持っていた三菱電機とウエスチングハウス社、富士電機とジーメンス社、東芝とGE社は、外資法の制定と前後してそろって旧来の関係を戻し、日立製作所も1953年にGE社から火力プラントの製造技術を導入している。戦後の重電各社は、それぞれの技術系列に帰るところから再出発したことになる[14]

三菱グループの内側にも同じ線が引かれた。新三菱重工業は1952年2月、蒸気タービンの製作についてウエスチングハウス社と技術提携を結んでいる。導入した技術を現場で消化する動きも進み、三菱電機は長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣した。同製作所からの海外出張は戦後これが最初で、九州電力向けに手探りで進めていた水素冷却方式のタービン発電機の開発を、次の段階へ運ぶ布石となった[15][16]

「成長株」と呼ばれるまで

提携の効き目がすぐに数字へ出たわけではない。朝鮮動乱の終結後にとられたデフレ政策で販売競争は激化し、1955年3月期の利益は4億4,000万円まで落ち、配当も1割8分へ下がっている。それでも、合理化による原価の低減と、ウエスチングハウス社との技術提携の強化によって生産される品質とが相まって、次の飛躍期の基盤は整いつつあった。同時代の記録は、この二つを並べて当時の三菱電機の立ち位置を説明している[17]

提携の復活から8年後、評価は明確に変わっていた。1959年の業界誌は、前年同期比で売上高16%増・利益35%増という数字を「三菱電機創業以来の最高記録」と伝え、証券市場が同社株を「成長株」と呼んで買い進めていると記している。その根拠に挙げられたのが電源開発であった。電力各社は1958年度から1963年度までの5年間に1,000万キロワット近い水力・火力の電源を開発する計画を立てており、大容量機を作れるかどうかが、そのまま受注の可否を分けた[18]

出典・参考

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