ニフコ日英物産と米ITWの合弁による日本工業ファスナーの設立
技術を借りるか、売り先の広さを取るか——販売地域を極東に限って始めた日米合弁
- 概要
- 1967年2月、貿易商社の日英物産と米国イリノイ・ツール・ワークス(ITW)が資本金48,000千円で日本工業ファスナー(現ニフコ)を設立した。出資は日英物産60%・ITW40%で、あわせてITWと技術援助契約を結んだ。
- 背景
- 日英物産を率いた小笠原敏晶氏は、ベルクロの技術導入とマジックテープの命名、米ハートウェル社との提携によるナイラッチ販売と、海外の技術を持ち込んで国内で売る商売を重ねていた。米国では留め具の金属からプラスチックへの置き換えが進んでいた。
- 内容
- プリンストン大学大学院への留学中に知り合ったITW経営陣から工業用ファスナーの日本展開を持ちかけられ、合弁で会社を興した。ITWは技術提供の対価にロイヤリティを、日英物産は経営ノウハウの対価にマネージメント・フィーを取る取り決めであった。
- 含意
- 技術を借りる代わりに、販売地域は日本・台湾・香港・韓国に限られた。設立10年で売上高は約30倍に伸び、無借金経営に達した一方、この地域の線引きは以後の海外進出を長く縛った。
借りた技術と、引かれた線
この合弁の要点は、技術と市場を交換した点にある。プラスチック製ファスナーの特許も量産の技術も持たない貿易商社が、先行する米国企業から一式を借り受け、日本の自動車と家電の量産に間に合わせた。対価はロイヤリティだけではなく、売ってよい地域を極東に限るという線引きでもあった。日本市場が伸びるあいだ、その線引きは費用として意識されにくい種類のものであったとみられる。
借りた側は10年で追いついた。ニフコは自社開発とトヨタ・日産自動車・ソニーとの共同開発で特許を積み、1976年末には契約条件をみずからに有利な方向へ改定させている。それでも地域の線は残った。1979年の講演で小笠原社長が挙げた販売可能な地域は、日本・台湾・ホンコン・韓国の4つであった。この線が完全に外れるまでに、設立から35年を要した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
海外の技術を持ち込んで国内で売る商売
小笠原敏晶氏がニフコの母体となる貿易商社・日英物産を創立したのは1953年5月、22歳のときであった。ロンドン大学で学んだ語学を武器に葉たばこの輸入などを手がけ、外貨規制のもとで扱い量を伸ばした。1960年にはスイスのベルクロと合弁会社を設け、面ファスナーを「マジックテープ」と名づけて国内に売り出す。新幹線のヘッドレストカバー向けの採用を取りつけたのがその初期の成果であった[1][2]。
留め具そのものを扱い始めたのは1964年である。米ハートウェル社と技術提携し、プラスチックファスナー「ナイラッチ」の製造販売に入って工業用ファスナーに先べんをつけた。マジックテープの権利は後にクラレへ売却し、その資金で小笠原氏は米プリンストン大学大学院へ留学する。技術を外から買い、名前をつけ、売り先を開き、次の商材へ移るという商売の型が、この時期に固まっていた[3][4]。
金属からプラスチックへという米国の変化
留学先で得た縁が会社の形を決めた。小笠原氏はプリンストン大学大学院の政治学科に籍を置き、同大の理事長を務めていたITWの経営者と知り合う。「工業用ファスナーを本格的にやらないか」と誘われたのが、1967年の設立に直結した。政治家を志しての留学が、結果として部品メーカーの創業につながっている[5]。
誘いに乗った判断の根拠は、日米の差にあった。当時の日本では留め具のほとんどが金属製であったのに対し、米国ではプラスチック製への置き換えが進んでいた。日本でもいずれ同じ変化が来ると読み、事業化を決めたと小笠原氏は後に語っている。実際、軽くてさびず取り付けが容易だという評価は日本の自動車メーカーから返ってきた[6][7]。
決断
出資6対4と、極東に限られた売り先
1967年2月、日英物産が60%、ITWが40%を出す合弁会社として日本工業ファスナーが設立された。資本金は48,000千円で、あわせてITWとのあいだに技術援助契約を結んでいる。出資比率で主導権を残しつつ、プラスチック製ファスナーの特許と量産の技術は相手から借りるという組み立てであった。1970年12月には商号を株式会社ニフコへ改めた[8][9]。
借りた技術には値札がついていた。設立当時の取り決めでは、ITWは技術提供の対価としてロイヤリティを、日英物産は経営ノウハウの対価としてマネージメント・フィーを取る。あわせて契約は販売のテリトリーを定め、ニフコが売ってよい地域は日本・台湾・香港・韓国に限られた。世界のプラスチックファスナー市場のうち、日本を含む極東だけを受け持つ会社として出発した[10][11]。
借り手から対等な相手へ
契約の条件は固定ではなかった。業績が伸びて双方の信頼が厚くなったことを受け、1976年末の契約更新でニフコに有利な改定が行われている。あわせて、トヨタ自動車・日産自動車・ソニーとの共同開発や自社開発の技術が増え、ITWへ払うロイヤリティ自体が減っていった。技術を一方的に借りる関係から、自前の開発を持つ相手へと立場が動いていた[12]。
資本の側も整理された。1977年10月、資本金6億円のニフコと資本金4億円の日英物産が合併し、新社名をニフコ、資本金を10億円とした。母体であった貿易商社を製造会社が吸収する形で、外資の比率は35%となる。合併に伴う変則決算をはさみ、1979年7月に東京証券取引所市場第2部へ上場した[13][14]。
結果
10年で売上30倍、シェア8割
立ち上がりは早くはなかったが、伸びは急であった。売上高は1969年の2億4000万円で軌道に乗り、4年後の1973年には27億9300万円に達する。石油ショックで1974年から2年は伸び悩んだものの、1976年は前年比4割強の増収に戻り、1978年9月期は77億円に届く見通しとなった。設立からの10年で売上高は約30倍に膨らんだ計算になる[15][16]。
中身も濃かった。税引き後利益は売上高の1割前後を保ち、1973年から1976年にかけて戸塚工場と名古屋工場を建てたにもかかわらず、1977年秋からは無借金となる。製品はねじやナットに代わる小さな部品で、1台の日産セドリックに276個、トヨタカローラに140個、日立のカラーテレビに57個が使われた。需要先は自動車が60%、家電が35%、工業用ファスナーの国内シェアは8割に達していた[17][18]。
上場と、枠の内側での海外進出
合併と変則決算を越えたあとの数字も伸びた。単体の売上高は1978年9月期の70億円から1979年9月期81億円、1980年9月期112億円へ増え、経常利益は18億円・19億円・28億円と続く。当期純利益も9億円から14億円へ伸びた。設立から13年で、株式公開に耐える規模と収益の安定を備えた部品メーカーになっていた。1984年3月には東京証券取引所市場第1部へ指定される[19][20]。
海外へ出る動きも、契約の枠の内側から始まった。1985年1月に韓国亀尾市へ合弁会社Korea Industrial Fastener Corporationを設け、1986年11月には米国オハイオ州にITW-Nifco Inc.をITWとの合弁で設立している。韓国は1979年の講演で挙げられたテリトリーの一つであり、米国はITWの本拠にあたる。日本の自動車メーカーの海外生産に付いていく形をとりながら、相手の領分には合弁で入るという順序が保たれた[21][22]。
- 日経ビジネス 1978年5月8日号「ニフコ『技術とアイデアで食べてる会社』」
- 証券アナリストジャーナル 1979年8月号(17巻8号)小笠原敏晶講演「ニフコ/ユーザーのニーズに積極対応」
- 週刊東洋経済 2008年4月12日号「長老の智慧 その1 小笠原敏晶 事業家人生を振り返る 強運こそが成功に導く」
- ニフコ 公式サイト「沿革」
- ニフコ 有価証券報告書【沿革】
- 公益財団法人 小笠原敏晶記念財団「設立者 小笠原敏晶」