21名の薬業家が出し合った10万円で始まった会社が、106年後に選んだのは、新薬候補を買い足すことではなく親会社を持つことであった。自社開発品が手薄で、海外の臨床開発を1本しか走らせられず、共同開発した薬で3倍の販売差をつけられている——2004年時点の弱さは、資金を一度投じれば消える種類のものではない。稼ぐ力そのものを別の資本の下に移さなければ、次の新薬の順番が回ってこないという計算が働いたとみられる。単独では競争劣位に立つ、と認めるところから設計された合併であった。
ただ、この判断が機動的に見えるのは、大日本製薬が創業から一人の支配者を持たなかったからかもしれない。寄り合いで生まれた会社には、守るべき創業家も、譲れない単独主義もなかった。裏を返せば、過半の株式を渡すことへの抵抗も薄かった。10年間は過半を保有し続けるという住友化学の約束を、当時の関係者が身元保証と呼んだのは、守られる立場に転じた自覚があったからでもあろう。合併が生んだ体力は4年後に26億ドルの買収へ向かい、その先で会社は別の重さを背負うことになる。