関電工電気工事業整備要綱による7社統合と、関東配電の資本参加による関東電気工事の設立
発注する側の配電会社が設立時から株主として加わったことで、この会社は何を得て何を手放したか
- 概要
- 1944年9月、戦時統制経済のもとで政府が定めた電気工事業整備要綱に基づき、㈱協立興業社ほか7社の電気工事会社が統合され、これに関東配電株式会社(戦後の東京電力の前身)が参加して、資本金300万円の関東電気工事株式会社が設立された経営判断。
- 背景
- 電力の配電が地域ごとの配電会社に集約されていた戦時下では、その末端で屋内配線や配電線工事を請け負う事業者も地域単位でまとめる方針が国から示された。関東で工事を担っていた中小の同業各社は、統合に加わるか否かを自社では選べない立場にあった。
- 内容
- 本社は東京都赤坂区溜池2番地に置かれ、設立と同時に神奈川・埼玉・千葉・群馬・栃木・茨城・山梨・沼津の8支店を一斉に開設して営業を開始した。工事を発注する配電会社が、統合される同業者と並んで新会社の資本に加わった点に、この設立の特徴がある。
- 含意
- 発注元と株主が同じ相手になる関係は、1951年の電気事業再編成令で関東配電が東京電力へ組み替わったあとも切れなかった。2025年3月31日現在、東京電力パワーグリッド株式会社が46.35%を保有する筆頭株主である。
選べなかった株主と、選べた仕事
会社の出発点に創業者がいない例は珍しくないが、発注元が最初から株主として同席していた例はそう多くない。関東電気工事は、統合の相手も、資本を入れる相手も、営業の区域も自分では決めていない。決まっていなかったのは、与えられた区域のなかで何をどこまで請け負うかだけであった。1959年の大阪支社、1970年の土木工事と空調管工事、1979年の原子力関連工事は、いずれもその余白を使う判断にあたる。
与えられた関係は保護であると同時に制約でもあった。工事量が発注元の設備計画に従う以上、計画が縮めば受注も縮む。1990年代後半、電気事業の規制緩和で東京電力が設備工事の費用を抑えにかかったとき、関電工は電力会社系の同業のなかで最も依存度の高い会社として、自立を求められる側に立った。1984年の改称も、2000年代の同業各社への資本参加も、2012年の発電事業への進出も、この一点に対する応答にあたる。株主名簿の一行目は八十年変わらず、完成工事高の最大区分だけが配電線から屋内線・環境設備へ入れ替わった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
1944年9月の関東と電気工事業整備要綱
1944年9月は、太平洋戦争の戦局が本土への空襲を目前にした時期にあたる。資材も労務も国の配分に従うほかなく、電力の供給体制も地域ごとの配電会社へ集約されていた。関東一円の配電を担っていたのが関東配電株式会社で、その末端で屋内配線や引込線の工事を請け負っていたのは、各県に散らばる中小の電気工事業者であった。政府はこの年、電気工事業整備要綱を定め、分散した施工の担い手を地域単位で一社にまとめる方針を示した。関東電気工事株式会社は、この要綱の適用を受けて生まれた会社である[1]。
同じ要綱は各地で同じ作業を進めていた。九州では1944年12月に㈱営電社ほか13社が統合されて九州電気工事株式会社が生まれ、翌1945年3月までに三次にわたる統合で計19社を束ねている。統合される会社の数も時期も地域ごとに異なったが、電気工事という業種を配電の区域と重ねて一本にする考え方は共通していた。関東の場合、その区域は東京と周辺7県、さらに静岡の東部にまで及んだ[2]。
統合される7社と、工事を出す側の関東配電
統合の当事者となったのは㈱協立興業社ほか7社の電気工事会社であった。ここまでは九州の例と変わらない。関東の統合が異なっていたのは、統合される同業者に加えて、工事を発注する側の関東配電が新会社に参加した点にある。九州電気工事が発注元の九州配電と結びついたのは設立から2年半後の1947年6月、配電工事委託契約という取引の形であった。関東では、取引の前に資本の関係が先に置かれた[3][4]。
工事会社の受注量は、自社の営業努力よりも発注元の設備計画で決まる。配電網をどこまで延ばし、どの区間をいつ更新するかを決めるのは配電会社であり、その計画に沿って工事の量と時期が割り振られる。関東電気工事は、その計画を立てる相手を株主として迎えたところから営業を始めた。仕事が絶えない代わりに、仕事の量を自分で作れない会社の性格は、設立の日にすでに定まっていた[5]。
決断
資本金300万円の統合会社
1944年9月、8社の事業を一つにまとめた関東電気工事株式会社が発足した。資本金は300万円、本社は東京都赤坂区溜池2番地に置かれた。統合された各社が持ち寄ったのは工事の実績と職人であり、新会社はそれを県単位に組み直して受け入れた。設立の意思は、統合される側にも、参加した関東配電の側にも属していない。要綱という国の方針が先にあり、当事者はその枠に沿って持ち分と人員を差し出した[6]。
300万円という資本金の水準は、この会社がその後たどった規模の変化を測る物差しになる。関東電気工事が東京証券取引所市場第二部に上場した1961年10月の資本金は3億5千万円、東証第一部に指定された1970年2月には17億円であった。設立から17年で百倍を超え、26年で五百倍を超える。戦時の統合が用意したのは、事業の規模ではなく、規模を伸ばす先の需要を持つ相手との関係であった[7]。
8支店を同時に置いた
設立と同時に、神奈川・埼玉・千葉・群馬・栃木・茨城・山梨・沼津の8支店が一斉に開設され、営業が始まった。本社の置かれた東京と合わせると、関東1都7県と静岡東部を覆う配置になる。工事会社にとって支店の位置は、そのまま施工体制の位置を指す。職人を抱え、資材を置き、現場へ人を送り出す拠点が最初から県ごとに並んでいたことは、統合前の8社がそれぞれ持っていた足場をそのまま引き継いだ結果でもあった[8]。
支店の追加は戦後すぐに始まった。1948年3月に多摩支店を設け、1949年10月には建設業法に基づく建設大臣登録(イ)第250号を取得して、工事会社としての法的な資格も整えた。統合で与えられた区域を、行政の区画に沿って細かく埋めていく作業であった。1959年1月の大阪支社設置で初めて配電の区域外に足場を置くまで、拠点の配置は関東配電の供給区域の内側に収まっていた[9][10]。
結果
配電会社が名を変えても切れなかった関係
1951年の電気事業再編成令によって、関東配電は東京電力株式会社へ組み替えられた。設立時に資本参加した相手は法人としては姿を変えたが、元請と施工請負という取引の関係は途切れずに引き継がれた。統合を命じた戦時の制度が失効し、統合の相手だった配電会社が別の会社になっても、関東電気工事の受注先は変わらなかった。設立の経緯そのものは終戦とともに歴史になり、そこから生まれた取引だけが残った[11]。
引き継がれた関係の重さは、受注の内訳に表れている。1985年3月期の受注工事高は、配電線工事が1,316億円で全体の48%を占め、屋内線・空調管工事1,084億円(39%)、工務関係工事365億円(13%)が続いた。配電線の工事は、配電会社の設備計画がそのまま数字になる領域である。設立から40年を経ても、受注の最大区分は統合の相手が発注する工事のままであった[12]。
80年後の株主名簿と完成工事高
2025年3月31日現在、関電工の筆頭株主は東京電力パワーグリッド株式会社で、94,753千株、発行済株式(自己株式を除く)の46.35%を保有している。2位以下は信託銀行の信託口が7.68%、5.06%と続き、単独で四割を超える株主は他にない。1944年9月に関東配電が新会社へ参加したときに生まれた資本の関係は、配電会社の商号が三度変わったあとも、株主名簿の一行目に残った[13]。
もっとも、受注の中身のほうは八十年で入れ替わった。2025年3月期の単体完成工事高5,831億円のうち、東京電力グループ向けは1,417億円で、区分別では屋内線・環境設備工事が3,506億円と最も大きい。配電線工事は1,267億円で、うち1,114億円が東京電力グループ向けであった。株主の顔ぶれは変わらないまま、工事の主力は配電線から建物側の設備へ移っている[14]。
- 関電工 有価証券報告書【沿革】
- 関電工 有価証券報告書(2025年3月期)【大株主の状況】【生産、受注及び販売の状況】
- 関電工 有価証券報告書(2013年3月期)【事業の内容】
- クラフティア(旧 九州電気工事)有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑(1986年版)
- 日経ビジネス 1998年2月2日号「電力、ゼネコン依存から転換 顧客に密着し受注増狙う」