TOYOTIRE東洋ゴム化工と平野護謨製造所の合併による東洋ゴム工業の発足

単独で建て直すか、合わせて出直すか——終戦2週間前の合併で決まった会社の形

時期 1945年8月
意思決定者(推定) 東洋紡績および東洋ゴム化工・平野護謨製造所の経営陣
論点 戦災を受けた2社の合併と新会社の発足
概要
1945年8月1日、東洋紡績がゴム工業発展のために設立し強化育成した東洋ゴム化工と、株式会社平野護謨製造所が合併し、東洋ゴム工業株式会社が発足した。終戦の2週間前にあたる。両社とも大空襲で主力工場に壊滅的な被害を受けており、それぞれ単独で再建する代わりに1社へまとまって再起する選択であった。
背景
平野護謨製造所は1943年12月に資本金140万円で発足し、合名会社平野護謨製造所の各種工業用ゴム製品の製造および販売を継承した会社である。1944年4月には東洋紡績西成工場を賃借して軍需用電池槽の製造を始め、同年9月に同工場の土地・建物などの現物出資を受けて資本金を600万円へ増やしている。合併の前から東洋紡績は資本と設備の両面で関わっていた。
内容
合併により資本金350万円の東洋ゴム化工を取り込み、社名を東洋ゴム工業へ改めた。製品は軍需用電池槽から履物・ベルト・再生ゴムへ入れ替わり、1946年には京都府綾部市に以久田工場を新設して履物の製造を始めている。
含意
1948年に自動車タイヤ設備を大阪工場へ移し、1949年4月に大阪証券取引所へ株式を初公開、1953年7月に伊丹工場を開いてタイヤの本格生産に入った。1955年5月の東京証券取引所上場は、ブリヂストンの1961年上場に6年先立つ。ゴム工業全般を営む会社という発足時の形は、2019年のTOYO TIREへの社名変更まで社名に残った。
筆者の見解

焼けた設備を持ち寄って始まった会社

焼けた設備を抱えた2社が、別々に建て直す時間を選ばなかった。ここにこの合併の性格が表れている。東洋紡績は1944年の時点で西成工場を現物出資し、平野護謨製造所の資本の内側へ入っていた。1945年8月の合併は、すでにあった関係を1社の形へ整理する手続きでもあった。終戦の直前に商号を改め、翌年には履物の生産を始めるという切り替えの速さは、設備と人が同じ場所に残っていたことに支えられていたとみられる。

もっとも、この出発点が残したものは身軽さだけではなかった。ゴム工業全般を営む会社として生まれた以上、タイヤと履物と化工品を同時に抱える構成が長く続き、タイヤ専業を名乗るまでには74年を要した。合併で得た品目の幅は、復興期には需要のある製品へ設備を回せる強みとして働き、自動車が主役になった後には的の絞りにくさとして残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

東洋紡績が繊維の外側に置いた足場

東洋ゴム工業の設立を説明する公式の沿革は、まず親会社にあたる東洋紡績から書き起こしている。繊維を本業とする東洋紡績が、ゴム工業の発展のために東洋ゴム化工を設立し、これを強化育成したという記述である。東洋ゴム化工の資本金は350万円で、繊維会社が別法人の形でゴム加工の領域に足場を置く構えであった。合併相手となる平野護謨製造所の事情とは別に、東洋紡績の側にもゴム事業を育てる意図が先にあった[1][2]

もう一方の平野護謨製造所は、1943年12月に資本金140万円の株式会社として発足した。各種工業用ゴム製品の製造および販売を営んでいた合名会社平野護謨製造所の業務を、そのまま継承した会社である。ベルトやホースのような、社会の基盤を支える資材を手がける製造業者が、戦時下で株式会社の形に組み替えられている。設立から1年8か月後に、この会社が東洋ゴム工業の母体となった[3][4]

軍需で膨らみ、空襲で失われた生産基盤

1944年4月、平野護謨製造所は東洋紡績西成工場を賃借し、軍需用電池槽の製造を始めた。同年9月には同工場の土地・建物などの現物出資を受け、資本金は140万円から600万円へと4倍を超える規模になった。工場を借りる関係から、工場そのものを資本として受け入れる関係へ移っている。合併の前に、東洋紡績はすでに平野護謨製造所の資本の内側へ入っていた[5]

軍需への対応で規模を広げた両社の生産基盤は、戦争の末期に失われる。同社が社名変更を発表した2018年のリリースは、東洋ゴム化工と平野護謨製造所がそれぞれ事業拡張を図っていた矢先に、大空襲によって主力工場が壊滅的な被害を受けたと記している。資材を作る設備を持たないゴム会社が2つ、大阪に残された状態であった。合併の話はこの被災の後に決まっている[6]

決断

1945年8月1日という日付

1945年8月1日、東洋ゴム化工と平野護謨製造所の合併により、東洋ゴム工業株式会社が発足した。ポツダム宣言の受諾からさかのぼって2週間前にあたる。創立70周年を告知したリリースは、この日を「第二次世界大戦が終わりを告げる直前に、新たな時代への希望を託されて誕生しました」と書いている。戦争の帰趨がほぼ見えていた時期に、焼けた工場を抱える2社が1社になる手続きを済ませていた[7][8]

登記の上では、2社が対等に新会社を作ったわけではなかった。明治百年の記述によれば、存続したのは資本金600万円へ増えていた平野護謨製造所の側で、東洋紡績が設立した東洋ゴム化工を合併し、社名を東洋ゴム工業へ改めている。公式の沿革と有価証券報告書は「両社が合併、東洋ゴム工業設立」と並べて記すが、手続きとしては一方が他方を吸収して商号を掛け替えるものであったとみられる[9][10]

軍需品から民需品への切り替え

合併と同時に、作るものが入れ替わった。それまでの軍需用電池槽に代わり、新会社は履物・ベルト・再生ゴムなどの製造を始めている。再生ゴムが品目に並ぶのは、新ゴムの輸入が絶たれた時期に、古ゴムを再生して原料へ充てる以外に手がなかった事情を映しているとみられる。1946年には京都府綾部市に以久田工場を新設して履物の製造を始め、焼け跡の需要に近い品目から生産を戻していった[11]

それぞれが単独で建て直す道もあり得たなかで、両社は合わせて出直す道を選んだ。2018年のリリースは、時代や社会からの要請に応えるべく両社が手を携えて合併の道を選び、東洋ゴム工業として再起したのが歴史の始まりであると説明している。工場も原料も乏しい時期に、残った設備と人を1社へ集めることが、生産を再開するための現実的な条件であったといえる[12]

結果

復興期の増設と大阪証券取引所への株式公開

発足後の数年は、設備を継ぎ足しながら品目を増やす時期にあたる。1946年の以久田工場に続き、1948年には自動車タイヤの設備を大阪工場へ移し、同工場の整備拡充を進めた。合併時の主力であった履物やベルトの脇に、タイヤが製品の列へ加わっている。ゴム加工の技術を共通の土台として、需要のある品目へ設備を振り向けながら事業を広げていった[13]

業容の拡大は資本の調達にも及んだ。1949年4月、東洋ゴム工業は大阪証券取引所へ株式を初公開し、同年9月には資本金を9,000万円へ増やしている。株式会社平野護謨製造所として発足した1943年の資本金140万円から、6年で約64倍にあたる。さらに1951年に東洋クロスの常盤工場を買収し、1954年には東洋紡績の伊丹工場の現物出資を受けた。親会社から工場を受け取る1944年の手法が、戦後も繰り返されている[14]

タイヤ専業ではない出発点が残したもの

自動車タイヤが主力へ育つのは、合併から8年後になる。1953年7月、自動車タイヤの生産のために兵庫県伊丹市へ伊丹工場を開設し、1955年5月には株式を東京証券取引所へ上場した。業界首位のブリヂストンが店頭で株式を公開し、東京・大阪両取引所へ上場したのは1961年で、東洋ゴム工業の東証上場はこれに6年先んじている。売上高100億円を超えて国内首位に立っていた相手より、資本市場への接続では先に進んでいた[15][16]

合併で決まったのは、会社の名前と品目の幅でもあった。社名に冠した「ゴム工業」のとおり、同社はタイヤのほかに履物・ベルト・化工品を抱えたまま戦後を歩み、その構成は2019年1月にTOYO TIREへ社名を変更するまで続いた。社名変更を決議したリリースは、タイヤと自動車部品を中核に据える新たな経営体への移行を「第二の創業」と呼んでいる。1945年の合併が第一の創業として意識されていた[17][18]

出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • TOYO TIRE 有価証券報告書 第109期(2024年12月期)【沿革】
  • TOYO TIRE 沿革(公式企業情報)(https://www.toyotires.co.jp/corporate/history/)
  • TOYO TIRE プレスリリース 2018年2月15日「東洋ゴム工業株式会社を『TOYO TIRE株式会社』に社名を変更」(https://www.toyotires.co.jp/system/files/press/pdf/2018/20180215_1.pdf)
  • TOYO TIRE プレスリリース 2014年12月17日「来年8月、東洋ゴム工業はおかげさまで創立70周年を迎えます」(https://www.toyotires.co.jp/press/2014/141217.html)
  • ブリヂストン 沿革(公式企業情報)(https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/)

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