戦時交通統合による「大東急」の形成と戦後の解体

戦時の国策が一社へ束ねた関東の私鉄は、なぜ6年で解かれ、今日の東急・小田急・京急・京王の地図をどう定めたか

更新:

時期 1942年5月
意思決定者 五島慶太 社長
論点 戦時統合と戦後の再編
概要
1942年5月、東京横浜電鉄が京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併して東京急行電鉄へ商号変更し(資本金2億480万円)、1944年に京王電気軌道も加えて関東の主要私鉄を束ねる「大東急」を形成した経営判断。統合は陸上交通事業調整法に基づく戦時の国策であり、敗戦後の1948年6月には占領期の再編で3社が再独立し、大東急は解体された。
背景
太平洋戦争下、資材と労働力を軍需へ集中させるため、1938年公布の陸上交通事業調整法が都市周辺の私鉄を地域ごとにまとめる枠組みを定めた。1922年の目黒蒲田電鉄以来、合併を重ねて関東の郊外電鉄を広げてきた五島慶太社長の東京横浜電鉄が、東京圏の統合の中核会社に選ばれた。
内容
1942年5月に京浜・小田急を合併して東京急行電鉄へ改称し(資本金2億480万円)、1944年5月に京王電気軌道を合併して、東横・目蒲・京浜・小田急・京王を一体化した。関東の主要私鉄をほぼ一社で担う体制が戦時下の数年で築かれ、後年「大東急」と呼ばれた。
含意
敗戦後、占領期の経済力集中の排除の流れで、1948年6月に京王帝都・小田急・京浜急行が再独立し、大東急はわずか6年で解体された。東急には東横線・目蒲線と渋谷ターミナルが残り、多摩田園都市の開発と渋谷再開発を担う会社の母体となった。今日の東急・小田急・京急・京王という首都圏私鉄の地図は、この統合と分割の産物とみられる。
筆者の見解

統合と分割が引いた首都圏私鉄の地図

今日、東急・小田急・京急・京王が別々の会社として首都圏の私鉄地図を分け合う姿は、この6年間の統合と、それをほどいた解体の産物であるとみることができる。四社をいったん一つに集めたのも、ふたたび分けたのも、経営者の構想というより戦争と占領という外の力であった。五島社長の合併経営は関東の私鉄を束ねる素地を用意したが、その到達点である大東急は、平時の事業戦略として選ばれたものではなく、戦時の国策が生んだ暫定の形であったとみられる。

解体で東急に残ったのは、膨張以前から手がけていた東京南西部の路線と渋谷のターミナルであった。皮肉なことに、この縮んだ範囲こそが、のちに多摩田園都市の開発と渋谷の再開発へ資源を注ぎ込む舞台となる。巨大化した数年よりも、そこから何を残して再出発したかのほうが、その後の東急の性格を長く左右したとみられる。統合と分割という外からの二つの力のあいだで、東急がどの資産を手元に握り直したかに、戦後の歩みの分かれ目があったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

陸上交通事業調整法と戦時の交通統合

太平洋戦争下の日本は、限られた資材と労働力を軍需へ集中させるため、民間の輸送を整理して効率を高める政策を進めた。その根拠となったのが、1938年に公布された陸上交通事業調整法である。同法は、都市とその周辺で乱立した鉄道・軌道・バスの事業者を地域ごとにまとめ、重複する路線や設備を減らす枠組みを定めていた。東京とその近郊の私鉄も統合の対象に置かれ、いくつかの中核会社へ束ねる作業が、戦時体制の強まりとともに現実の日程へ移っていった[1]

その中核会社の一つに選ばれたのが、五島慶太社長の率いる東京横浜電鉄であった。五島社長は1922年に資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立して以来、1928年に渋沢栄一が興した田園都市株式会社を合併し、1932年に東横線を全通させ、1934年に池上電気鉄道を合併して、関東で郊外電鉄の路線網を広げてきた。合併を重ねて沿線を広げる経営は五島社長の一貫した手法であり、戦時の交通統合という国策は、その拡張の志向と方向を同じくしていた[2][3]

決断

京浜・小田急を合併し東京急行電鉄へ

1942年5月、東京横浜電鉄は京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併し、商号を東京急行電鉄に変更した。この合併で資本金は2億480万円に達し、東京南西部から神奈川の一帯にかけての私鉄が、一つの会社のもとに束ねられた。目黒蒲田電鉄の設立から二十年、五島社長が個々の合併で広げてきた路線網は、戦時統合の枠組みのなかで一挙に規模を増した。合併は国策に沿う手続きであったが、その担い手には、関東で最も積極的に沿線を広げてきた五島社長の会社が据えられた[4]

統合の枠組みそのものは戦時の国策が用意したものであったが、東京圏の交通統合の担い手に東京横浜電鉄が据えられた背景には、五島社長が積み上げてきた合併経営の実績があった。1928年の田園都市株式会社、1934年の池上電気鉄道と、五島社長は経営に行き詰まった同業を取り込んで路線と沿線を広げる手法を関東で先行させていた。国策による一挙の統合は、その手法を戦時体制のなかで押し広げる機会でもあり、東京横浜電鉄は近隣の大私鉄を組み入れる中核の位置に置かれた[5]

京王を加えた「大東急」の完成と戦時統制

1944年5月、東京急行電鉄はさらに京王電気軌道を合併した。これによって東横・目蒲・京浜・小田急・京王の各系統が一体となり、関東の主要私鉄の大半を傘下に収める巨大な鉄道体が現れた。目黒蒲田電鉄を母体とする一系統が、二年ほどのあいだに近隣の大私鉄を次々に吸収し、東京圏の私鉄をほぼ一社で担う体制へと膨らんだ。後年「大東急」と呼ばれたこの企業体は、陸上交通事業調整法による戦時統合が関東で到達した一つの形であった[6][7]

もっとも大東急の膨張は、経営の自由な選択の結果というより、資材と輸送を国家の統制へ組み込む戦時の要請のもとで進んだ側面が強かった。同法による統合は各社の意向を超えて地域の交通を束ねるもので、合併の相手も範囲も、平時の事業判断だけで決められたわけではなかった。輸送力の確保と資材の節約という戦争遂行の目的が前面にあり、東京急行電鉄はその受け皿として、関東の私鉄を一手に引き受ける役回りを担った[8]

結果

敗戦による解体と、残された資産での再出発

敗戦は、この統合の前提を一変させた。占領下で巨大企業の分割が進むなか、戦時統合で膨らんだ東京急行電鉄も再編の対象となり、1948年6月、会社再編成によって京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄が改めて独立した。1942年の改称からわずか6年で大東急はほどけ、関東の私鉄はふたたび複数の会社へ分かれた。戦時の国策が一社へ束ねた勢力図は、占領期の経済力集中の排除という別の力によって、逆向きに解かれた[9]

解体で路線の規模は縮んだが、東京急行電鉄には東横線・目蒲線と渋谷のターミナルが残った。同社はこの資産を足場に、1948年には早くも東横百貨店を設立して百貨店業を分け、鉄道と不動産と百貨店を組み合わせる私鉄の型を戦後にあらためて据え直した。戦時の統合と占領期の分割という二度の再編を経て、東急は膨張前の東京南西部を舞台とする会社へ戻り、渋谷を拠点に、残した路線と沿線の開発へ資源を向けていった。この母体が、のちの多摩田園都市の開発と渋谷の再開発を担う会社の骨格となった[10][11]

出典・参考
  • 東急100年史(東急株式会社)
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】