住友ゴム工業 の歴史

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創業 1909年
創業者 ダンロップ・ラバー・カンパニー
創業地 兵庫県神戸市
創業
1909年10月、英国のダンロップ・ラバー・カンパニーが神戸市脇浜に工場を構え、日本で初めての本格的なゴム工場として操業を始めた。当初は日英仏の合弁として計画されたが、日本とフランスの資本参加が得られず、英国資本だけの会社として発足している。1917年3月には日本法人ダンロップ護謨(極東)株式会社を設立し、資本金118万円は全額を英国ダンロップ社が出資した。社名は1937年に日本ダンロップ護謨、1943年に中央ゴム工業と替わり、1949年8月に日本ダンロップ護謨へ戻る。1963年10月、住友電気工業を中心とする日本側が経営権を取得し、社名を住友ゴム工業へ改めた。ただし英国資本の時代は設備投資に慎重で、国内の同業2社に量で先行を許したまま戦後を迎えている。
決断
自社の名を冠さないブランドを使う条件を、そのつど取り戻してきた。英国ダンロップ社は発行済株式の40%と商標権を握り、住友ゴム工業が売れる範囲は日本・台湾・韓国に限られていた。1983年12月から3年をかけ、同社は英国ダンロップ社が持つ全株式と、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業を取得した。投じた資金は約300億円で、1985年の経常利益37億4,000万円の8倍にあたる。1999年には米グッドイヤーと世界的な提携を結んで日本・北米・欧州で合弁を始めたが、2015年10月にこれを解消した際、欧州・北米・オセアニアの四輪DUNLOP商標権を手放している。そして2025年1月、約826億円で四輪DUNLOP商標権を取得し直した。二度にわたり商標の使用範囲を取り戻したことが、地域ごとに掲げる名前を変えずに売る体制へ移した。
現況
売上の86%をタイヤが占め、その売り先の7割は日本の外にある。2025年12月期の売上収益は1兆2,070億円、営業利益825億円、純利益503億円。タイヤが売上1兆436億円・事業利益798億円、スポーツが1,255億円・68億円、産業品他が378億円・41億円を計上した。地域別は日本3,620億円に対し北米2,790億円、欧州2,239億円、アジア1,805億円が続く。長期経営戦略「R.I.S.E. 2035」は2030年の事業利益率15%・ROE12%・ROIC10%と、路面状況を読むセンシングコアでの事業利益100億円以上を掲げる。2024年11月に米国の生産子会社Sumitomo Rubber USAの解散を決めたことが、北米を生産の無い販売地域へ入れ替えた。
競合
国内のタイヤ大手で、自社の名ではない商標を売ってきたのは住友ゴム工業だけである。ブリヂストンは1931年の創業から自社名を掲げ、横浜ゴムもADVANを自前で育てた。住友ゴム工業がDUNLOPを使える範囲は、1963年までは英国ダンロップ社が、1999年からの世界提携ではグッドイヤーが決めていた。同じ時期にブリヂストンは非タイヤ事業を一斉に売却してタイヤへ経営資源を集中し、横浜ゴムは連続買収で農機・建機向けタイヤへ構成を移した。3社が規模と商品構成を動かしていたあいだ、住友ゴム工業が動かしたのは商標の権利関係のほうであった。ブランドの所有と使用が115年にわたって分かれていたことが、他社には要らない取得費を競争の条件として残した。
住友ゴム工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2001年12月期2025年12月期

創業ストーリー 英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949) (1909年〜)

日英仏合弁の挫折と、英国資本だけで始まった創業

日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた[1]。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使[2]ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケート[3]の設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた[4]。英国ダンロップ社の日本進出はその一つ[5]である。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた[6]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
    • [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
    • [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
    • [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
    • [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
    • [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった

合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた[7]。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンド[8]の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日[9]である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏[10]が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏[11]が就いた。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県神戸市中央区知事から[12]得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり[13]、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
    • [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
    • [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
    • [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
    • [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
    • [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [1]日露戦争後、政府は外資導入抑制から積極策へ転換した
    • [2]外資導入シンジケート構想の関係者は桂太郎(首相)・阪谷芳郎(蔵相)・青木周蔵(駐英公使)
    • [3]シンジケートの構想規模は総額2億円
    • [4]シンジケート構想は意見の相違で実現せず、交渉過程で個別の外資導入・技術提携が生まれた
    • [5]個別に実現した外資導入・技術提携の一例が英国ダンロップ社の日本進出だった
    • [6]当初計画は英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁だった
    • [7]日仏の資本参加が得られず英国資本のみで設立された
    • [8]設立時の資本金は8万1千ポンド
    • [9]1909年10月4日に神戸市浪花町62番地への日本支店設置が登記された
    • [10]取締役はH・グリアとW・グリアの兄弟、初代日本支店長はJ・シャイヤレー
    • [12]工場設置許可はグリア商会名義で1908年12月28日に兵庫県知事から得た
    • [13]神戸に工場を置いた理由は欧州航路の終着点であり天然ゴムの輸送に有利だったこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [11]工場長V・B・ウィルソンは後年に代表取締役となった

「ラバースクール」と呼ばれた工場と、日本法人への改組

30歳のウィルソン氏[14]は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのち[15]ダンロップ護謨(極東)に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就いた[16]。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた[17]。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った[18]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
    • [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
    • [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
    • [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した

本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた[19]。『日本ゴム工業史』は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め[20]、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった[21]。1912年ころには国産タイヤ[22]が供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され[23]、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した[24]。武藤氏は後年、ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどない[25]と述べた。工場は『ラバースクール』とも呼ばれた[26]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
    • [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
    • [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
    • [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
    • [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
    • [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
    • [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
    • [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた

1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組[27]し、ダンロップ護謨(極東)株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd.[28] を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた[29]。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし[30]、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた[31]。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは、この日本法人化を設立と数えるためである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
    • [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
    • [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
    • [14]V・B・ウィルソンは来日時30歳で、技師・職長3人とともに工場建設と操業を指導した
    • [15]武藤健は1912年まで東京支店長を務めた後ダンロップ護謨(極東)に移った
    • [17]英国から派遣される技術者は3年契約で、再契約の主導権は昭和初年までダンロップ(極東)側にあった
    • [18]1913年に神戸港の天然ゴム陸揚げ量が横浜港を超えた
    • [24]1913年に河西善兵衛ら神戸財界の有力者が内外護謨を設立した
    • [26]ダンロップの工場は別名ラバースクールと呼ばれた
    • [28]日本法人化以前は英語名 The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. を使用していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [16]武藤健は渋沢栄一・大倉喜八郎の代理人として総支配人に就任した
    • [27]1917年3月6日に資本金118万円の日本法人へ改組した
    • [29]英国から絶えず新技術と新設備を導入しゴム工業界の指導的立場を維持した
    • [30]1936年2月に資本金を800万円へ増資した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
    • [19]本格的な設備と技術を持つ同社の出現が当時の日本のゴム工業に大きな刺激を与えた
    • [20]『日本ゴム工業史』はダンロップ(極東)が業界の模範となり技術向上を促したと評価している
    • [21]自転車用タイヤの製造技術を助長促進させた功績が大きいと評価された
    • [22]1912年ころには国産タイヤが供給できるようになった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
    • [23]明治末期から大正初期に神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立された
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」
    • [25]武藤健は日本護謨協会誌でダンロップ出身者が各社に散ったことを述べた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1937年2月に社名を日本ダンロップ護謨へ改称した

敵産処分による中央ゴム工業への改称と、英国への返還

1929年に試みられた日英合弁[32]は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨(極東)の株式の過半を取得して独自の経営体制を敷いた[33]。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて[34]英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を結んだ。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した[35]。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め[36]、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し[37]、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した[38]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
    • [32]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
    • [33]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
    • [34]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
    • [35]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [36]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
    • [37]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
    • [38]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された

太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失わ[39]れ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ[40]、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された[41]。1943年1月に社名は中央ゴム工業へ変わり[42]、1944年4月には軍需会社に指定されて『神武第七一七六工場』という秘匿名[43]を与えられた。防弾タンクの外張りの開発にも加わり、中央ゴムを含む4社が生産にあたった[44]。1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した[45]が、復旧に努めた結果、終戦直前には一部の重要製品の生産を再開した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [39]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
    • [40]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
    • [41]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
    • [45]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
    • [43]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
    • [44]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した

終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した[46]。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み[47]、1949年8月、大蔵大臣の指示により[48]中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った[49]。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった[50]。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し[51]、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [46]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
    • [48]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
    • [50]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
    • [51]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [47]会社返還の交渉は日英政府間で進められた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [49]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
    • [32]1929年の日英合弁は不調に終わり、英国ダンロップ社が株式の過半を取得した
    • [33]英国ダンロップ社は過半数株式を取得して独自の経営体制を敷いた
    • [34]1936年2月の増資は大倉組の資本参加を予定したもので、門野重九郎が自らロンドンへ赴き日英合弁契約を結んだ
    • [35]1937年に株式代金のロンドン送金が認可されず日英合弁は実現しなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
    • [36]社長は太平洋戦争中を除き代々英国人が就任した
    • [37]2代社長V・B・ウィルソンは創業当初から技術面を担当し開戦まで在任した
    • [38]日本にゴム技術とりわけ自動車タイヤ製造技術を移植した功績が大きいと評価された
    • [39]太平洋戦争の勃発により敵産管理法の対象となった
    • [40]1942年6月に敵産管理法により商工省の管理下に置かれた
    • [41]1942年の敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された
    • [45]1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した
    • [46]終戦後は自動車タイヤと炭鉱用コンベアベルトを重点生産した
    • [48]1949年8月に大蔵大臣の指示で経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還した
    • [50]英国の研究所と直結し世界のダンロップ各社の組織網を活用できることが強みだった
    • [51]帝国人絹の協力で強力人絹コードを採用し自動車タイヤの品質を高めた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1943年1月に中央ゴム工業へ改称した
    • [49]返還により社名は日本ダンロップ護謨へ復した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
    • [43]1944年4月に軍需会社へ指定され「神武第七一七六工場」の秘匿名が付された
    • [44]防弾タンク外張りの生産は中央ゴムを含む4社が担当した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [47]会社返還の交渉は日英政府間で進められた

他社に追い越された設備投資と、日本側資本の導入

朝鮮特需が終わるとタイヤ業界は不況に入り[52]、各社は生産能力の拡大で競い合った。日本ダンロップ護謨の1955年の売上高は50億円[53]で、先に設備投資へ踏み切っていた他社と比べると伸び率で見劣りした。好況が訪れても生産能力が足りず、そのことが代理店の戦力を落とす遠因[54]にもなった。英国人の経営陣は設備の増強に慎重で[55]あり、日本人スタッフが求める第二工場の建設はなかなか認められなかった。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春[56]で、日本人スタッフが長く待ち望んでいた第二工場[57]である。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [52]特需の終了後にタイヤ業界は不況へ突入した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [53]1955年の売上高は50億円で、設備投資を先行させた他社に伸び率で劣った
    • [54]生産能力不足が好況期に代理店の戦力低下を招いた
    • [55]英国人経営陣は設備増強に慎重で、日本人スタッフの第二工場建設要請は長く認められなかった
    • [56]新工場の建設が認められたのは1959年春
    • [57]第二工場の建設は日本人スタッフの間で待望久しかった

建設費をまかなうため日本側の資本[58]が入り、1960年4月の増資で住友電気工業と住友商事が資本提携し[59]、日本側株主の持分は約30パーセントとなった。1961年10月には日本長期信用銀行が加わり[60]、日本側は約50パーセントに達した。この間の業績は低迷が続[61]き、工場建設が決まった1959年の売上高は前年比130パーセントの69億円だったが期間利益は5,000万円[62]にとどまり、1960年は売上高85億円に対して経常利益8,200万円[63]で、英国人経営陣は無配を決めざるをえなかった。1961年も当期利益は2,000万円[64]である。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [58]新工場の建設決定に伴い日本側資本が導入された
    • [61]この時期の日本ダンロップの業績は低迷が続いた
    • [62]1959年の売上高は前年比130%の69億円、期間利益は5,000万円
    • [63]1960年は売上高85億円・経常利益8,200万円で無配となった
    • [64]1961年の当期利益は2,000万円
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1960年4月の増資で住友電気工業・住友商事と資本提携し日本側持分は約30%となった
    • [60]1961年10月に日本長期信用銀行が資本参加し日本側持分は約50%になった

名古屋工場は1961年6月に操業を始め[65]、開所披露は1962年4月25日に行われた[66]。敷地は17万6,000平方メートル[67]、工場は付属建物を含めて2万2,000平方メートルで、月あたりの新ゴム消費量500トン、タイヤ生産本数6万2,500本[68]の能力を備えた。世界第一級のレイアウトで設計され[69]、新鋭機械が並んだ。しかし先に投資へ踏み切っていた他社はさらに能力を引き上げており、第二次、第三次の拡充が直ちに必要だった[70]。1952年に着任したサフェリー社長は、タイヤが計画どおり販売できていないことを理由に、この年に予定していた11億円の設備投資を延期した[71]

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]名古屋工場は1961年6月に操業を開始した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [66]名古屋工場の開所披露は1962年4月25日
    • [67]敷地17万6,000平方メートル、工場2万2,000平方メートル
    • [68]月間新ゴム消費量500トン・タイヤ生産6万2,500本の能力
    • [69]名古屋工場は世界第一級のレイアウトで設計され新鋭機械が並んだ
    • [70]他社はさらに生産能力を引き上げており第二次・第三次の拡充が必要だった
    • [71]サフェリー社長は販売不振を理由に11億円の設備投資を延期した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [52]特需の終了後にタイヤ業界は不況へ突入した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [53]1955年の売上高は50億円で、設備投資を先行させた他社に伸び率で劣った
    • [54]生産能力不足が好況期に代理店の戦力低下を招いた
    • [55]英国人経営陣は設備増強に慎重で、日本人スタッフの第二工場建設要請は長く認められなかった
    • [56]新工場の建設が認められたのは1959年春
    • [57]第二工場の建設は日本人スタッフの間で待望久しかった
    • [58]新工場の建設決定に伴い日本側資本が導入された
    • [61]この時期の日本ダンロップの業績は低迷が続いた
    • [62]1959年の売上高は前年比130%の69億円、期間利益は5,000万円
    • [63]1960年は売上高85億円・経常利益8,200万円で無配となった
    • [64]1961年の当期利益は2,000万円
    • [66]名古屋工場の開所披露は1962年4月25日
    • [67]敷地17万6,000平方メートル、工場2万2,000平方メートル
    • [68]月間新ゴム消費量500トン・タイヤ生産6万2,500本の能力
    • [69]名古屋工場は世界第一級のレイアウトで設計され新鋭機械が並んだ
    • [70]他社はさらに生産能力を引き上げており第二次・第三次の拡充が必要だった
    • [71]サフェリー社長は販売不振を理由に11億円の設備投資を延期した
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1960年4月の増資で住友電気工業・住友商事と資本提携し日本側持分は約30%となった
    • [60]1961年10月に日本長期信用銀行が資本参加し日本側持分は約50%になった
    • [65]名古屋工場は1961年6月に操業を開始した

バンク・オブ・イングランドの規制が動かした経営権

1961年2月、英国ダンロップ社はペッパコーン常務とホルト取締役を日本へ送り[72]、資本構成の変更を主とした増資計画を住友電気工業へ申し入れた。名古屋新工場の拡充には当初の計画をはるかに超える資金[73]が要る。ところがバンク・オブ・イングランドは、英国の国際収支の悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じており[74]、1956年以降の多額の海外投資からの収入が少ない[75]英国ダンロップ社に対しては、日本への投資を許可しない方針である。そこで持株の一部を日本側へ売却し、増資資金に充てたいという申し出[76]であった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [72]1961年2月に英国ダンロップ社がペッパコーン常務とホルト取締役を派遣し増資計画を申し入れた
    • [73]名古屋新工場の拡充には当初計画をはるかに超える資金を要すると説明された
    • [74]バンク・オブ・イングランドが英国の国際収支悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じていた
    • [75]1956年以降の海外投資からの収入が少ないため日本への投資は許可されない方針だった
    • [76]英国ダンロップ社は持株の一部を日本側へ売却して増資資金に充てることを申し出た

住友電気工業の北川社長は、かねて資本参加を希望していた日本長期信用銀行に10パーセントを持たせ、住友側が40パーセントを持つ[77]ことで日英を50対50にする案を示した。1961年3月に英国側から50対50を前提とする増資の申し入れがあり、持株比率は英国ダンロップ社50パーセント、住友電気工業32パーセント、日本長期信用銀行10パーセント、住友商事8パーセント[78]と決まった。1962年4月、再来日したペッパコーン常務は、翌年の工場拡充にさらに20億円が要る[79]としたうえで、英国側の持株が50パーセントを割っても35パーセントか40パーセントで両社等分の共同経営とする案[80]を示した。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [77]住友電気工業の北川社長が長銀10%・住友側40%で日英50対50とする案を提示した
    • [78]持株比率は英国ダンロップ50%・住友電工32%・長銀10%・住友商事8%と決まった
    • [79]1962年4月にペッパコーン常務は翌年の工場拡充に20億円が必要と述べた
    • [80]英国側は持株50%割れでも両社等分の共同経営とする案を示した

交渉の焦点の一つは輸出[81]であり、英国ダンロップ社は世界を地域に分けてダンロップブランドを展開しており、日本のテリトリーは極東に限られていた[82]。輸出量を伸ばせなければ日本の企業として成り立たないと考えた住友側は地域の拡大を再三求めたが、世界的な原則が崩れることを恐れた英国側は固く拒んだ[83]。そこで住友側は、独自の技術で開発する住友ブランドのタイヤを新たに設けるという案を逆に提示した[84]。技術の蓄積も見込めるとしてこの方針は積極的に進められ、住友タイヤは1964年に世に出て、1966年には社長の井上文左衛門氏の交渉によって北米への輸出が始まった[85]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [81]輸出地域の制限が住友電工と英国ダンロップ社の交渉の焦点となった
    • [82]英国ダンロップ社は世界をテリトリーに分け、日本の輸出先は極東に限られていた
    • [83]住友側の地域拡大要求を英国側は固く拒んだ
    • [84]住友側は住友ブランドのタイヤ創出を逆提案した
    • [85]住友タイヤは1964年に誕生し、1966年に北米への輸出が始まった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [72]1961年2月に英国ダンロップ社がペッパコーン常務とホルト取締役を派遣し増資計画を申し入れた
    • [73]名古屋新工場の拡充には当初計画をはるかに超える資金を要すると説明された
    • [74]バンク・オブ・イングランドが英国の国際収支悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じていた
    • [75]1956年以降の海外投資からの収入が少ないため日本への投資は許可されない方針だった
    • [76]英国ダンロップ社は持株の一部を日本側へ売却して増資資金に充てることを申し出た
    • [77]住友電気工業の北川社長が長銀10%・住友側40%で日英50対50とする案を提示した
    • [78]持株比率は英国ダンロップ50%・住友電工32%・長銀10%・住友商事8%と決まった
    • [79]1962年4月にペッパコーン常務は翌年の工場拡充に20億円が必要と述べた
    • [80]英国側は持株50%割れでも両社等分の共同経営とする案を示した
    • [81]輸出地域の制限が住友電工と英国ダンロップ社の交渉の焦点となった
    • [82]英国ダンロップ社は世界をテリトリーに分け、日本の輸出先は極東に限られていた
    • [83]住友側の地域拡大要求を英国側は固く拒んだ
    • [84]住友側は住友ブランドのタイヤ創出を逆提案した
    • [85]住友タイヤは1964年に誕生し、1966年に北米への輸出が始まった

住友ゴム工業の発足と、上場までの立て直し

1962年の決算は過去最悪[86]となった。売上高は前年比102パーセントの96億2,400万円[87]とわずかに前年を上回ったものの、タイヤの売上は前年を割り、増収はゴルフボールの伸びに支えられたものだった。上期・下期とも赤字で、年間1億4,000万円の欠損[88]である。欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考えたサフェリー社長は合理化案の提出を命じた[89]。日本人スタッフは、社内公用語がいまだ英語であることが非効率の原因であり、日本語が公用語になれば事態は相当変わると答申したが、日本語使用の提案は否認された[90]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [86]1962年の決算は過去最悪となった
    • [87]1962年の売上高は前年比102%の96億2,400万円だがタイヤは前年割れだった
    • [88]1962年は年間1億4,000万円の欠損となった
    • [89]サフェリー社長は欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考え合理化案を命じた
    • [90]日本人スタッフは社内公用語が英語であることを非効率の原因として日本語化を答申したが否認された

1963年9月25日[91]、英国ダンロップ社と住友電気工業の間で新たな取り決めが合意に達した。技術援助契約の期間を20年とし、一定の利率でロイヤリティーを支払うこと、住友タイヤの輸出を認めること、経営権すなわち社長の指名権が日本側にあることを確認すること[92]、販売会社としてダンロップの社名を残すこと。同年10月1日、商号を住友ゴム工業へ改める[93]とともに、資本金1億円の販売会社として日本ダンロップ護謨株式会社を全額出資で設立した[94]。サフェリー氏は会長へ退き、社長には住友電気工業の専務だった井上文左衛門氏が就いた[95]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [91]1963年9月25日に英国ダンロップ社と住友電気工業の取り決めが合意に達した
    • [92]取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤ輸出の容認・経営権の日本側確認・販売会社へのダンロップ社名存続の4項目
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1963年10月1日に商号を住友ゴム工業へ変更した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [94]販売会社として資本金1億円の日本ダンロップ護謨を全額出資で設立した
    • [95]サフェリーが会長、井上文左衛門が社長に就任した

発足直後の経営[96]は厳しく、社名変更初年度である1963年の売上高は前年比102パーセントの98億6,200万円で、2億6,000万円の純損[97]を計上した。井上社長は経営の五方針を掲げ[98]、原価低減の徹底と良質品の効率的生産を進めた。住友電気工業から来た下川常雄専務が総務・人事・経理・営業を束ね[99]、のちに社長として立て直しを担った。工場は名古屋に続き、1972年に兵庫県加古川市の加古川工場、1974年に福島県白河市の白河工場が操業を始めた[100]。1975年1月14日[101]には東京・大阪・名古屋の3証券取引所の第二部へ株式を上場した。このときの大株主はダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電気工業が38.25パーセント[102]、日本長期信用銀行が10.00パーセント、住友商事が8.00パーセントで、上場を申請した時点の年間売上高600億円は、自動車タイヤ業界の第4位にあたった[103]

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [96]住友ゴム工業の発足直後は赤字が続いた
    • [97]1963年(社名変更初年度)の売上高は98億6,200万円、純損は2億6,000万円
    • [98]井上社長は経営五方針を掲げ原価低減と良質品の効率的生産を進めた
    • [99]下川常雄は住友電気工業から専務として着任し、のちに社長となった
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を開始した
  • 証券 1975年 第27巻第2号
    • [101]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [102]上場時の大株主はダンロップ・インタナショナル43.75%・住友電工38.25%・長銀10.00%・住友商事8.00%
    • [103]年間売上高600億円で自動車タイヤ業界第4位だった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [86]1962年の決算は過去最悪となった
    • [87]1962年の売上高は前年比102%の96億2,400万円だがタイヤは前年割れだった
    • [88]1962年は年間1億4,000万円の欠損となった
    • [89]サフェリー社長は欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考え合理化案を命じた
    • [90]日本人スタッフは社内公用語が英語であることを非効率の原因として日本語化を答申したが否認された
    • [91]1963年9月25日に英国ダンロップ社と住友電気工業の取り決めが合意に達した
    • [92]取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤ輸出の容認・経営権の日本側確認・販売会社へのダンロップ社名存続の4項目
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1963年10月1日に商号を住友ゴム工業へ変更した
    • [100]1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を開始した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [94]販売会社として資本金1億円の日本ダンロップ護謨を全額出資で設立した
    • [95]サフェリーが会長、井上文左衛門が社長に就任した
    • [96]住友ゴム工業の発足直後は赤字が続いた
    • [97]1963年(社名変更初年度)の売上高は98億6,200万円、純損は2億6,000万円
    • [98]井上社長は経営五方針を掲げ原価低減と良質品の効率的生産を進めた
    • [99]下川常雄は住友電気工業から専務として着任し、のちに社長となった
  • 証券 1975年 第27巻第2号
    • [101]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [102]上場時の大株主はダンロップ・インタナショナル43.75%・住友電工38.25%・長銀10.00%・住友商事8.00%
    • [103]年間売上高600億円で自動車タイヤ業界第4位だった

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住友ゴム工業の沿革1917〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1909〜1949年英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949)ダンロップ護謨(極東)を設立★★★
日本ダンロップ護謨に商号変更★★
中央ゴム工業に商号変更★★
日本ダンロップ護謨に商号を復帰★★
1950〜1980年設備投資に慎重な英国人経営を経て、住友へ経営権が移った三十年(1950〜1980)住友電気工業・住友商事と資本提携★★
名古屋工場の操業開始
日本長期信用銀行と資本提携★★
英国ダンロップ社から住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更

1963年、日本ダンロップ護謨は英国ダンロップ社との合意により経営権を住友電気工業を中心とする日本側へ移し、10月1日に商号を住友ゴム工業へ改めた。ダンロップの社名は、同時に設立した販売会社へ移した。

詳細を読む
★★★
住友ゴム工業に商号変更と日本ダンロップ護謨の設立★★
加古川工場の操業開始
白河工場の操業開始
東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部に上場
1981〜1998年親会社のタイヤ事業を買い取り、日米欧の三極に生産拠点を築いた(1981〜1998)オーツタイヤ株式48%の取得と全面提携★★
英国ダンロップ社保有株の買い取りと、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業の取得

1983年12月、住友ゴム工業の発行済株式総数の40パーセントを保有していた英国ダンロップ社から、日本側の株主がその全株式を取得した。続く1984年から1986年にかけて、フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカのダンロップのタイヤ事業を相次いで買い取り、日米欧に製造と販売の拠点を持つ体制へ移った経営判断である。

詳細を読む
★★★
日本・台湾・韓国のダンロップ商標権の譲受★★
フランスにおけるダンロップ事業の経営開始★★
英国・西独のダンロップ社タイヤ工場の買収★★
米国の自動車タイヤメーカーの買収★★
3証券取引所の第一部銘柄に指定
神戸市中央区における本社新社屋の竣工
阪神大震災による神戸工場の被災と閉鎖★★★
インドネシアに生産子会社を設立
市島工場の操業開始
1999〜2025年グッドイヤーとの16年の提携を解き、手放したブランドを買い戻した二十七年(1999〜2025)米国グッドイヤーとの世界的提携契約の締結★★
オーツタイヤの第三者割当増資の全額引受★★
中国江蘇省常熟市に生産子会社を設立
オーツタイヤと日本ダンロップの吸収合併★★
名古屋証券取引所第一部の上場廃止
三野哲治タイに生産子会社を設立
三野哲治SRIスポーツの東京証券取引所第一部への上場
三野哲治SRIスポーツによるクリーブランドゴルフの買収
三野哲治中国湖南省長沙市に生産子会社を設立
池田育嗣ブラジルに子会社を設立
池田育嗣SRIスポーツがダンロップスポーツに商号変更
池田育嗣トルコに生産子会社を設立
池田育嗣南アフリカのアポロタイヤ子会社の買収★★
池田育嗣スイスのロンストロフの買収
池田育嗣グッドイヤーとの提携解消と北米子会社の完全子会社化★★★
池田育嗣英国のミシェルデバーグループの買収★★
池田育嗣海外のダンロップ商標権とスポーツ用品事業の譲受★★
池田育嗣ダンロップスポーツの上場廃止
池田育嗣ダンロップスポーツの吸収合併によるスポーツ事業の統合★★
山本悟東京証券取引所プライム市場への移行
山本悟国内タイヤ販売機能のダンロップタイヤへの統合
山本悟スイスのロンストロフの売却
山本悟米国生産子会社の生産終了と解散の決定★★
山本悟グッドイヤーからの欧州・北米・オセアニアにおける四輪 DUNLOP 商標権の取得と、基幹ブランドの FALKEN からの入れ替え

2025年1月8日、住友ゴム工業が米国グッドイヤーとのあいだで、欧州・北米・オセアニアにおける四輪タイヤの DUNLOP 商標権等を5億2,600万米ドル(約826億円)で取得する譲渡契約を締結した。2015年の提携解消時に自ら手放した商標権を、10年後に買い戻す判断である。

詳細を読む
★★★
山本悟米国のViaductの買収
出典・参考
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一章 日本におけるゴム工業の勃興」所載『日本ゴム工業史』
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第三章 戦時体制下のダンロップ(極東)」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第四章 戦時統制経済から戦後復興へ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本ダンロップ護謨」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「ゴム」の項
  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
  • 証券 1975年 第27巻第2号
  • 日本護謨協会誌 武藤健「日本に於けるゴム工業の過去、現在及将来」

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