日露戦争後、政府は維新以来抑えてきた外資導入へ転じた[1]。桂太郎首相、大蔵大臣の阪谷芳郎氏、青木周蔵駐英公使[2]ら政治家と、渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏ら財界の有力者は、総額2億円の外資導入シンジケート[3]の設立を進めていた。この構想そのものは意見の相違から実現しなかったが、交渉の過程で個別の外資導入と技術提携がいくつも生まれた[4]。英国ダンロップ社の日本進出はその一つ[5]である。当初は大倉氏や阪谷氏、フランス人のルーネン氏、英国人のミルワード氏、グリア商会の間で、英国ダンロップ社の技術提供を受けた日英仏合弁のゴム会社が計画されていた[6]。
合弁計画は日本とフランスの資本参加が得られず崩れた[7]。残った英国資本だけで、資本金8万1千ポンド[8]の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd. が香港に設立され、神戸市浪花町62番地への日本支店の設置が登記されたのは1909年10月4日[9]である。取締役はH・グリア氏とW・グリア氏の兄弟、初代の日本支店長はJ・シャイヤレー氏[10]が務めた。工場長には、のちに長く代表取締役を担うV・B・ウィルソン氏[11]が就いた。工場設置の許可は前年12月28日にグリア商会の名義で兵庫県神戸市中央区知事から[12]得ていた。工場を神戸の脇浜に置いたのは、当時の欧州航路の終着点がすべて神戸港であり[13]、シンガポールで船積みされた天然ゴムを運ぶうえで有利だったためである。
30歳のウィルソン氏[14]は、技師のボーン氏、ベアーズ氏、キーン氏ら3人の職長とともに来日し、工場の建設と操業を指導した。日本人でグリア商会の主要な地位にあったのは武藤健氏ひとりで、1912年まで東京支店長を務めたのち[15]ダンロップ護謨(極東)に移り、渋沢氏や大倉氏の代理人として総支配人に就いた[16]。英国ダンロップ社は生産と技術の担当者を3年契約で送り込み、その選任は英国側に委ねられたが、再契約で任期を延ばすかどうかの主導権は昭和初年まで神戸の側が持っていた[17]。神戸港への天然ゴムの陸揚げ量は1913年に横浜港を上回った[18]。
本格的な設備と技術を備えたこの工場は、当時の日本のゴム工業に強い刺激を与えた[19]。『日本ゴム工業史』は、幼稚な技術段階に低迷していた業界が同社を模範として技術の向上に努め[20]、第一次世界大戦を契機とするゴム工業勃興の機運をつくったと記す。とくに自転車用タイヤの製造技術は、この工場から国内各社へ広まった[21]。1912年ころには国産タイヤ[22]が供給できるようになった。明治末期から大正初期にかけて神戸を中心にタイヤ製造会社が相次いで設立され[23]、1913年には河西善兵衛氏ら神戸財界の有力者が内外護謨を興した[24]。武藤氏は後年、ダンロップで働いた者のいないゴム会社はほとんどない[25]と述べた。工場は『ラバースクール』とも呼ばれた[26]。
1917年3月6日、日本商法の規定により資本金118万円の日本法人へ改組[27]し、ダンロップ護謨(極東)株式会社となった。それまでは英語名の The Dunlop Rubber Co. (Far East) Ltd.[28] を使っていた。英国からの新技術と新設備の導入は続き、ゴム工業界での指導的な地位は保たれた[29]。自動車業界の発展に伴って設備の拡充が必要になり、1936年2月に資本金を800万円へ増やし[30]、翌1937年2月には社名を日本ダンロップ護謨へ改めた[31]。有価証券報告書が設立年月を1917年3月とするのは、この日本法人化を設立と数えるためである。
1929年に試みられた日英合弁[32]は不調に終わった。英国ダンロップ社はこれに見切りをつけ、ダンロップ護謨(極東)の株式の過半を取得して独自の経営体制を敷いた[33]。1936年2月の増資は大倉組の資本参加を見込んだもので、総帥の門野重九郎氏が自らロンドンへ赴いて[34]英国ダンロップ社と協議し、日英合弁契約を結んだ。だが翌1937年に株式代金の送金が認可されず、合弁は頓挫した[35]。社長は太平洋戦争中を除いて代々英国人が務め[36]、初代は短期間で日本を去ったが、2代社長のウィルソン氏は開戦まで在任し[37]、日本にゴム技術、とりわけ自動車タイヤ製造の技術を移植した[38]。
太平洋戦争が始まると英国資本の会社としての立場は失わ[39]れ、1942年6月には敵産管理法に基づいて商工省の管理下に置かれ[40]、同年のうちに敵産処分で大倉商事ほか5社へ譲渡された[41]。1943年1月に社名は中央ゴム工業へ変わり[42]、1944年4月には軍需会社に指定されて『神武第七一七六工場』という秘匿名[43]を与えられた。防弾タンクの外張りの開発にも加わり、中央ゴムを含む4社が生産にあたった[44]。1945年6月の戦災で全工場の約8割を焼失した[45]が、復旧に努めた結果、終戦直前には一部の重要製品の生産を再開した。
終戦とともに民需生産へ戻り、占領軍軍政部の許可を得て、鉄鋼・石炭に次ぐ重要産業とされた自動車タイヤと、炭鉱資材のコンベアベルトを重点的に生産した[46]。会社を英国へ返す交渉は日英両政府の間で進み[47]、1949年8月、大蔵大臣の指示により[48]中央ゴム工業は経営と資産の全部を英国ダンロップ社へ返還し、社名も日本ダンロップ護謨に戻った[49]。返還後は英国の研究所と直結し、世界のダンロップ各社の組織網を使えることが強みとなった[50]。帝国人絹の協力で強力人絹コードをいち早く採用し[51]、自動車タイヤの品質を高めたのもその一例である。
朝鮮特需が終わるとタイヤ業界は不況に入り[52]、各社は生産能力の拡大で競い合った。日本ダンロップ護謨の1955年の売上高は50億円[53]で、先に設備投資へ踏み切っていた他社と比べると伸び率で見劣りした。好況が訪れても生産能力が足りず、そのことが代理店の戦力を落とす遠因[54]にもなった。英国人の経営陣は設備の増強に慎重で[55]あり、日本人スタッフが求める第二工場の建設はなかなか認められなかった。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春[56]で、日本人スタッフが長く待ち望んでいた第二工場[57]である。
建設費をまかなうため日本側の資本[58]が入り、1960年4月の増資で住友電気工業と住友商事が資本提携し[59]、日本側株主の持分は約30パーセントとなった。1961年10月には日本長期信用銀行が加わり[60]、日本側は約50パーセントに達した。この間の業績は低迷が続[61]き、工場建設が決まった1959年の売上高は前年比130パーセントの69億円だったが期間利益は5,000万円[62]にとどまり、1960年は売上高85億円に対して経常利益8,200万円[63]で、英国人経営陣は無配を決めざるをえなかった。1961年も当期利益は2,000万円[64]である。
名古屋工場は1961年6月に操業を始め[65]、開所披露は1962年4月25日に行われた[66]。敷地は17万6,000平方メートル[67]、工場は付属建物を含めて2万2,000平方メートルで、月あたりの新ゴム消費量500トン、タイヤ生産本数6万2,500本[68]の能力を備えた。世界第一級のレイアウトで設計され[69]、新鋭機械が並んだ。しかし先に投資へ踏み切っていた他社はさらに能力を引き上げており、第二次、第三次の拡充が直ちに必要だった[70]。1952年に着任したサフェリー社長は、タイヤが計画どおり販売できていないことを理由に、この年に予定していた11億円の設備投資を延期した[71]。
1961年2月、英国ダンロップ社はペッパコーン常務とホルト取締役を日本へ送り[72]、資本構成の変更を主とした増資計画を住友電気工業へ申し入れた。名古屋新工場の拡充には当初の計画をはるかに超える資金[73]が要る。ところがバンク・オブ・イングランドは、英国の国際収支の悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じており[74]、1956年以降の多額の海外投資からの収入が少ない[75]英国ダンロップ社に対しては、日本への投資を許可しない方針である。そこで持株の一部を日本側へ売却し、増資資金に充てたいという申し出[76]であった。
住友電気工業の北川社長は、かねて資本参加を希望していた日本長期信用銀行に10パーセントを持たせ、住友側が40パーセントを持つ[77]ことで日英を50対50にする案を示した。1961年3月に英国側から50対50を前提とする増資の申し入れがあり、持株比率は英国ダンロップ社50パーセント、住友電気工業32パーセント、日本長期信用銀行10パーセント、住友商事8パーセント[78]と決まった。1962年4月、再来日したペッパコーン常務は、翌年の工場拡充にさらに20億円が要る[79]としたうえで、英国側の持株が50パーセントを割っても35パーセントか40パーセントで両社等分の共同経営とする案[80]を示した。
交渉の焦点の一つは輸出[81]であり、英国ダンロップ社は世界を地域に分けてダンロップブランドを展開しており、日本のテリトリーは極東に限られていた[82]。輸出量を伸ばせなければ日本の企業として成り立たないと考えた住友側は地域の拡大を再三求めたが、世界的な原則が崩れることを恐れた英国側は固く拒んだ[83]。そこで住友側は、独自の技術で開発する住友ブランドのタイヤを新たに設けるという案を逆に提示した[84]。技術の蓄積も見込めるとしてこの方針は積極的に進められ、住友タイヤは1964年に世に出て、1966年には社長の井上文左衛門氏の交渉によって北米への輸出が始まった[85]。
1962年の決算は過去最悪[86]となった。売上高は前年比102パーセントの96億2,400万円[87]とわずかに前年を上回ったものの、タイヤの売上は前年を割り、増収はゴルフボールの伸びに支えられたものだった。上期・下期とも赤字で、年間1億4,000万円の欠損[88]である。欠損の要因を事務・技術スタッフの過剰と考えたサフェリー社長は合理化案の提出を命じた[89]。日本人スタッフは、社内公用語がいまだ英語であることが非効率の原因であり、日本語が公用語になれば事態は相当変わると答申したが、日本語使用の提案は否認された[90]。
1963年9月25日[91]、英国ダンロップ社と住友電気工業の間で新たな取り決めが合意に達した。技術援助契約の期間を20年とし、一定の利率でロイヤリティーを支払うこと、住友タイヤの輸出を認めること、経営権すなわち社長の指名権が日本側にあることを確認すること[92]、販売会社としてダンロップの社名を残すこと。同年10月1日、商号を住友ゴム工業へ改める[93]とともに、資本金1億円の販売会社として日本ダンロップ護謨株式会社を全額出資で設立した[94]。サフェリー氏は会長へ退き、社長には住友電気工業の専務だった井上文左衛門氏が就いた[95]。
発足直後の経営[96]は厳しく、社名変更初年度である1963年の売上高は前年比102パーセントの98億6,200万円で、2億6,000万円の純損[97]を計上した。井上社長は経営の五方針を掲げ[98]、原価低減の徹底と良質品の効率的生産を進めた。住友電気工業から来た下川常雄専務が総務・人事・経理・営業を束ね[99]、のちに社長として立て直しを担った。工場は名古屋に続き、1972年に兵庫県加古川市の加古川工場、1974年に福島県白河市の白河工場が操業を始めた[100]。1975年1月14日[101]には東京・大阪・名古屋の3証券取引所の第二部へ株式を上場した。このときの大株主はダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電気工業が38.25パーセント[102]、日本長期信用銀行が10.00パーセント、住友商事が8.00パーセントで、上場を申請した時点の年間売上高600億円は、自動車タイヤ業界の第4位にあたった[103]。
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|---|---|---|---|---|
| 1909〜1949年英国資本の会社として神戸に生まれ、日本のゴム工業の教師となった四十年(1909〜1949) | ダンロップ護謨(極東)を設立 | ★★★ | ||
| 日本ダンロップ護謨に商号変更 | ★★ | |||
| 中央ゴム工業に商号変更 | ★★ | |||
| 日本ダンロップ護謨に商号を復帰 | ★★ | |||
| 1950〜1980年設備投資に慎重な英国人経営を経て、住友へ経営権が移った三十年(1950〜1980) | 住友電気工業・住友商事と資本提携 | ★★ | ||
| 名古屋工場の操業開始 | ★ | |||
| 日本長期信用銀行と資本提携 | ★★ | |||
| 英国ダンロップ社から住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更 1963年、日本ダンロップ護謨は英国ダンロップ社との合意により経営権を住友電気工業を中心とする日本側へ移し、10月1日に商号を住友ゴム工業へ改めた。ダンロップの社名は、同時に設立した販売会社へ移した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 住友ゴム工業に商号変更と日本ダンロップ護謨の設立 | ★★ | |||
| 加古川工場の操業開始 | ★ | |||
| 白河工場の操業開始 | ★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| 1981〜1998年親会社のタイヤ事業を買い取り、日米欧の三極に生産拠点を築いた(1981〜1998) | オーツタイヤ株式48%の取得と全面提携 | ★★ | ||
| 英国ダンロップ社保有株の買い取りと、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業の取得 1983年12月、住友ゴム工業の発行済株式総数の40パーセントを保有していた英国ダンロップ社から、日本側の株主がその全株式を取得した。続く1984年から1986年にかけて、フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカのダンロップのタイヤ事業を相次いで買い取り、日米欧に製造と販売の拠点を持つ体制へ移った経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 日本・台湾・韓国のダンロップ商標権の譲受 | ★★ | |||
| フランスにおけるダンロップ事業の経営開始 | ★★ | |||
| 英国・西独のダンロップ社タイヤ工場の買収 | ★★ | |||
| 米国の自動車タイヤメーカーの買収 | ★★ | |||
| 3証券取引所の第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| 神戸市中央区における本社新社屋の竣工 | ★ | |||
| 阪神大震災による神戸工場の被災と閉鎖 | ★★★ | |||
| インドネシアに生産子会社を設立 | ★ | |||
| 市島工場の操業開始 | ★ | |||
| 1999〜2025年グッドイヤーとの16年の提携を解き、手放したブランドを買い戻した二十七年(1999〜2025) | 米国グッドイヤーとの世界的提携契約の締結 | ★★ | ||
| オーツタイヤの第三者割当増資の全額引受 | ★★ | |||
| 中国江蘇省常熟市に生産子会社を設立 | ★ | |||
| オーツタイヤと日本ダンロップの吸収合併 | ★★ | |||
| 名古屋証券取引所第一部の上場廃止 | ★ | |||
| 三野哲治 | タイに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 三野哲治 | SRIスポーツの東京証券取引所第一部への上場 | ★ | ||
| 三野哲治 | SRIスポーツによるクリーブランドゴルフの買収 | ★ | ||
| 三野哲治 | 中国湖南省長沙市に生産子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | ブラジルに子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | SRIスポーツがダンロップスポーツに商号変更 | ★ | ||
| 池田育嗣 | トルコに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 池田育嗣 | 南アフリカのアポロタイヤ子会社の買収 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | スイスのロンストロフの買収 | ★ | ||
| 池田育嗣 | グッドイヤーとの提携解消と北米子会社の完全子会社化 | ★★★ | ||
| 池田育嗣 | 英国のミシェルデバーグループの買収 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | 海外のダンロップ商標権とスポーツ用品事業の譲受 | ★★ | ||
| 池田育嗣 | ダンロップスポーツの上場廃止 | ★ | ||
| 池田育嗣 | ダンロップスポーツの吸収合併によるスポーツ事業の統合 | ★★ | ||
| 山本悟 | 東京証券取引所プライム市場への移行 | ★ | ||
| 山本悟 | 国内タイヤ販売機能のダンロップタイヤへの統合 | ★ | ||
| 山本悟 | スイスのロンストロフの売却 | ★ | ||
| 山本悟 | 米国生産子会社の生産終了と解散の決定 | ★★ | ||
| 山本悟 | グッドイヤーからの欧州・北米・オセアニアにおける四輪 DUNLOP 商標権の取得と、基幹ブランドの FALKEN からの入れ替え 2025年1月8日、住友ゴム工業が米国グッドイヤーとのあいだで、欧州・北米・オセアニアにおける四輪タイヤの DUNLOP 商標権等を5億2,600万米ドル(約826億円)で取得する譲渡契約を締結した。2015年の提携解消時に自ら手放した商標権を、10年後に買い戻す判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山本悟 | 米国のViaductの買収 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友ゴム工業)