住友ゴム工業英国ダンロップ社から住友電気工業を中心とする日本側への経営権の移行と、住友ゴム工業への商号変更

増資も輸出先も本国の許可を待つ会社のままでいるか、経営権ごと引き取るか——1961年から1963年の日英交渉

時期 1963年9月
意思決定者(推定) 北川一栄 住友電気工業 社長
論点 資本構成と経営権
概要
1963年、日本ダンロップ護謨は英国ダンロップ社との合意により経営権を住友電気工業を中心とする日本側へ移し、10月1日に商号を住友ゴム工業へ改めた。ダンロップの社名は、同時に設立した販売会社へ移した。
背景
英国人経営陣のもとで設備投資が遅れ、1960年は無配、1962年は年間1億4,000万円の欠損となった。増資資金も、バンク・オブ・イングランドの海外投資規制により本国から送れなくなっていた。
内容
1961年10月の増資で日英の持株比率を50対50とし、1963年9月25日に20年の技術援助契約、住友タイヤの輸出の承認、社長指名権の日本側帰属、販売会社へのダンロップ社名の存置の4項目で合意した。
含意
交渉の焦点は資本の比率よりも輸出先の範囲にあった。極東に限られていた販路は、自前の商品である住友タイヤを得たのち、1966年に北米へ広がった。
筆者の見解

資本の比率より、輸出先の範囲

1962年から1963年にかけての交渉で、住友側は資本の比率よりも輸出先の範囲を最後まで譲らなかった。世界をテリトリーに分ける英国ダンロップ社の仕組みのもとでは、日本の工場がどれだけ能力を積んでも売り先は極東までしか伸びない。持株が過半になっても、この制約が残れば増産の意味は薄い。独自技術で「住友タイヤ」を作るという逆提案は、拒まれ続けた地域の拡大を、相手の許可ではなく自前の商品で解く道であった。

ただ、経営権が移っても数字はすぐには動かなかった。1963年末までに30億円近い不良債権が積み上がり、翌1964年も2億6,000万円の純損を計上した。1975年の上場時点でもダンロップ・インタナショナルが43.75パーセントを握る筆頭株主であり、資本の面で英国側が退いたわけではない。この判断が効いたのは、社名や持株比率ではなく、住友タイヤという自前の商品と北米への販路を手にした点にある。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

設備投資に出遅れた日本ダンロップ護謨

日本ダンロップ護謨は、英国ダンロップ社が1909年に神戸へ設けた工場を前身とし、戦後も英国資本の会社として国内タイヤ大手の一角を占めた。ただ1955年の売上高は50億円で、先に設備投資へ踏み切った他社に伸び率で見劣りしていた。好況期には生産能力が足りず、注文に応じきれない状態が代理店の戦力低下を招いた。英国人経営陣は設備の増強に慎重で、日本人スタッフが求めた第二工場の建設が認められたのは1959年春である[1][2]

売上の伸びに利益が伴わない状態が続いた。1959年の売上高は前年比130パーセントの69億円に達したが、期間利益は5,000万円にとどまった。1960年は売上高85億円・経常利益8,200万円で無配とし、1961年の当期利益は2,000万円だった。日本人スタッフが要望した名古屋工場が操業を始めたのは1961年6月で、能力を先に積み増した他社との差はそれまで縮まらなかった[3][4]

本国の外貨規制と1961年の増資

住友電気工業と住友商事は1960年4月に資本参加し、日本側の持株比率は約30パーセントとなった。そこへ1961年2月、英国ダンロップ社はペッパコーン常務とホルト取締役を派遣し、住友電気工業へ増資計画を申し入れた。名古屋の新工場の拡充には当初計画をはるかに超える資金が要る。しかしバンク・オブ・イングランドは英国の国際収支悪化を理由に見返りのない海外投資を禁じており、本国から資金を送れなかった[5][6]

英国ダンロップ社は1956年以降の多額の海外投資から得る収入が少なく、日本への投資は許可されない見通しだった。持株の一部を日本側へ売却して増資資金に充てたいという申し入れに対し、住友電気工業の北川一栄社長は、日本長期信用銀行に10パーセントを持たせて住友側40パーセントとする日英50対50の案を示した。1961年10月の増資で資本金は23億7,500万円となり、持株比率は英国ダンロップ社50パーセント、住友電気工業32パーセント、長銀10パーセント、住友商事8パーセントに定まった[7][8]

決断

共同経営案と、社名をめぐる英国側の見解

1962年4月に再来日したペッパコーン常務は、1963年の工場拡充にさらに20億円が要ると告げた。半分は増資で賄う計画だが、バンク・オブ・イングランドがこれを認めない。英国側の持株が50パーセントを下回るため、35パーセントなり40パーセントなりに引き下げたうえで両社等分の共同経営としてはどうかと、ペッパコーン常務は持ちかけた。社名についてはダンロップ社がその会社を支配できなければダンロップの社名を使うことは困るとの見解を示し、のち一転して社名の継続を了承した[9]

同じ年の決算は過去最悪となった。売上高96億2,400万円は前年比102パーセントだが、タイヤは前年を割り、増収はゴルフボールの伸びによる。年間1億4,000万円の欠損を受け、サフェリー社長は事務・技術スタッフの過剰を要因と考えて合理化案を命じた。日本人スタッフは、社内公用語がいまだ英語であることが非効率の原因で、日本語が公用語になれば事態は相当変わると答申したが、この提案は否認された[10]

輸出テリトリーと1963年9月の合意

1962年9月、ペッパコーン常務は住友電気工業から副社長を出してほしいと求め、適当な時期を見て株式のマジョリティーを渡し、その際に経営権を譲ると提案した。同年10月には北川社長がロンドンで詰めの折衝にあたった。交渉の焦点は輸出にあった。英国ダンロップ社は世界をテリトリーに分けており、日本ダンロップ護謨の輸出先は極東に限られていた。住友側は地域の拡大を再三求めたが、英国側は固く拒んだ[11]

そこで住友側は、独自技術で開発する「住友タイヤ」の創出を逆提案した。テリトリーの外へ出る道を開くと同時に、技術の蓄積も見込めた。1963年9月25日、英国ダンロップ社と住友電気工業は合意に達した。骨子は、20年の技術援助契約と一定利率のロイヤリティー、住友タイヤの輸出の承認、経営権すなわち社長指名権が日本側にあることの確認、販売会社としてダンロップの社名を残すことの4項目である[12]

結果

商号変更と日本人経営陣の発足

1963年10月1日、日本ダンロップ護謨は商号を住友ゴム工業へ改めた。あわせて販売会社として資本金1億円の日本ダンロップ護謨を全額出資で設立し、ダンロップの社名はそちらに残した。サフェリー社長は会長に就き、社長には住友電気工業専務だった井上文左衛門氏が就任した。住友電気工業常務の下川常雄氏も専務として移り、のちに社長として再建を担った。増資の可否も輸出先の範囲も、この日から日本側が決めた[13][14]

経営の移行が、ただちに業績の回復をもたらしたわけではない。1963年上期の売上高は前年同期比98パーセントの45億5,000万円で、1億9,500万円の欠損を出した。ダンロップ系代理店の経営悪化により、同年末までに総額30億円近い不良債権が積み上がった。商号を改めた翌年の1964年も、売上高98億6,200万円に対し2億6,000万円の純損を計上した[15]

住友タイヤの発売と1975年の上場

合意で認められた住友タイヤは1964年に発売された。極東に限られていた輸出先も広がり、1966年には井上社長の交渉で北米への輸出が始まった。日本ダンロップ護謨の時代に住友側が再三求めて拒まれ続けた地域の拡大は、経営権の移行から3年で実現した。自前の商品を持ったことにより、技術の蓄積と販路の双方が英国ダンロップ社のテリトリー制の外に置かれた[16]

住友ゴム工業は1975年1月14日、東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ株式を上場した。このときの大株主はダンロップ・インタナショナル43.75パーセント、住友電気工業38.25パーセント、日本長期信用銀行10.00パーセント、住友商事8.00パーセントで、英国側は筆頭株主の座を保っていた。年間売上高は600億円に達し、自動車タイヤ業界で第4位を占めた。経営権が移った年に100億円に満たなかった売上高は、12年で6倍になった[17]

出典・参考
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
  • 証券 1975年 第27巻第2号「新規上場会社紹介 住友ゴム工業株式会社」
  • 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】

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