1962年から1963年にかけての交渉で、住友側は資本の比率よりも輸出先の範囲を最後まで譲らなかった。世界をテリトリーに分ける英国ダンロップ社の仕組みのもとでは、日本の工場がどれだけ能力を積んでも売り先は極東までしか伸びない。持株が過半になっても、この制約が残れば増産の意味は薄い。独自技術で"住友タイヤ"を作るという逆提案は、拒まれ続けた地域の拡大を、相手の許可ではなく自前の商品で解く方針であった。
ただ、経営権が移っても数字はすぐには動かなかった。1963年末までに30億円近い不良債権が積み上がり、翌1964年も2億6,000万円の純損を計上した。1975年の上場時点でもダンロップ・インタナショナルが43.75パーセントを握る筆頭株主であり、資本の面で英国側が退いたわけではない。この判断が効いたのは、社名や持株比率ではなく、住友タイヤという自前の商品と北米への販路を手にした点にある。