日産車体の決断社史:経営の意思決定を振り返る

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決断

第二会社として出直した新日国工業は、鉄道車両を切ってバス車体に絞った。1949年4月に資本金1億円で発足した新日国工業は、初代社長の寺田道彦氏の下で自動車車体と鉄道車両を主な事業としていた。しかし平塚の車両工場は1948年10月の火災で設備の大半を失い、ドッジラインで国鉄の車両予算も絞られた。新日国工業は1949年5月に平塚工場で192人を整理し、上京工場を大久保工場へ統合して、1951年3月以降は鉄道車両の生産を打ち切った。バス車体の取引があった日産自動車は1951年5月に発行株式の87%を握り、新日国工業は日産の系列で車体をつくる会社として歩み始めた。

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