日産車体:日本国際航空工業の設立と日産自動車との提携
1941年〜津田信吾氏・寺田甚吉氏の日本国際航空工業と、平塚・京都での航空機増産
1941年7月1日、日本航空工業と国際工業が対等合併し、資本金3,600万円の日本国際航空工業が発足した。国際工業は鐘淵紡績社長の津田信吾氏が1939年11月に設立し、伊フィアット社から技術を得て航空機を製造する計画だった。提携交渉は1940年3月に断念され、国際工業は自社だけでの技術開発を無理と判断した。日本航空工業は寺田甚吉氏が1937年に設立したプロペラの会社で、技術力は業界で評価されていた。それでも日本航空工業は、機体を量産するだけの設備をもっていなかった。陸軍は日本航空工業の技術と国際工業の設備を統合すれば増産が進むとみて、両社の合併を斡旋した。新会社では津田信吾氏が社長、寺田甚吉氏が副社長に就任。技術と設備を互いに補う合併は、軍の量産要請に応えるための選択だったとみられる。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [1]1941年7月1日 日本航空工業と国際工業が対等合併し日本国際航空工業設立、資本金3,600万円、社長津田信吾・副社長寺田甚吉
- [2]国際工業は1939年11月設立、目的はフィアット社との提携による航空機製造。1940年3月に提携交渉を断念し独自の技術開発は無理と結論
- [3]国際工業は1939年11月設立、目的はフィアット社との提携による航空機製造。1940年3月に提携交渉を断念し独自の技術開発は無理と結論
- [4]日本航空工業は寺田甚吉の経営でプロペラ生産中心、技術力は業界で高評価。機体量産の設備は不十分
- [5]日本航空工業は寺田甚吉の経営でプロペラ生産中心、技術力は業界で高評価。機体量産の設備は不十分
- [7]1941年7月1日 日本航空工業と国際工業が対等合併し日本国際航空工業設立、資本金3,600万円、社長津田信吾・副社長寺田甚吉
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [6]陸軍が日本航空工業の技術力と国際工業の設備に着目し両社に合併を斡旋、1941年7月合併
1941年12月の開戦後、軍は航空機各社に厳しい増産命令を出し、日本国際航空工業も生産能力の拡充を迫られた。新設には時間と資材を要したため、周辺の工場を借り受けるか買収し、建物と従業員をそのまま使った。1942年には旧郡是製糸の園部工場と旧興亜紡績の福井工場を取得。平塚製作所は輸送用滑空機ク-8を1943年度に113機、1944年度に506機、計619機生産し、陸軍の滑空機で最大の量となった。日本航空工業の設立から終戦までに製造した機体は、機種を問わず数えて2,000余機である。徴兵で熟練工が抜けたあとを徴用工・学徒・女子挺身隊が埋め、従業員は1945年8月15日に2万3,773人となった。既存の紡績・製糸工場の転用は、短期間で増産に応じるための工夫だったと推察される。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [8]1941年12月開戦後に軍が過酷な増産命令。工場新設は時間と資材難のため見送り、周辺工場を借用・買収し建物・設備・従業員を利用
- [9]1941年12月開戦後に軍が過酷な増産命令。工場新設は時間と資材難のため見送り、周辺工場を借用・買収し建物・設備・従業員を利用
- [10]1942年5月 郡是製糸園部工場を買収、同年10月 興亜紡績福井工場を買収し分工場とする
- [11]ク-8型の実生産量は1943年度113機・1944年度506機の計619機で、陸軍滑空機中最大
- [13]徴用工・学徒・女子挺身隊が入社し、1945年8月15日現在の従業員合計2万3,773人
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [12]日本航空工業設立以来終戦までの8年間に製造した機体は各種合わせて2,000余機
参考文献[1]-[13]
- 日産車体三十年史(1982年)
- [1]1941年7月1日 日本航空工業と国際工業が対等合併し日本国際航空工業設立、資本金3,600万円、社長津田信吾・副社長寺田甚吉
- [2]国際工業は1939年11月設立、目的はフィアット社との提携による航空機製造。1940年3月に提携交渉を断念し独自の技術開発は無理と結論
- [3]国際工業は1939年11月設立、目的はフィアット社との提携による航空機製造。1940年3月に提携交渉を断念し独自の技術開発は無理と結論
- [4]日本航空工業は寺田甚吉の経営でプロペラ生産中心、技術力は業界で高評価。機体量産の設備は不十分
- [5]日本航空工業は寺田甚吉の経営でプロペラ生産中心、技術力は業界で高評価。機体量産の設備は不十分
- [7]1941年7月1日 日本航空工業と国際工業が対等合併し日本国際航空工業設立、資本金3,600万円、社長津田信吾・副社長寺田甚吉
- [8]1941年12月開戦後に軍が過酷な増産命令。工場新設は時間と資材難のため見送り、周辺工場を借用・買収し建物・設備・従業員を利用
- [9]1941年12月開戦後に軍が過酷な増産命令。工場新設は時間と資材難のため見送り、周辺工場を借用・買収し建物・設備・従業員を利用
- [10]1942年5月 郡是製糸園部工場を買収、同年10月 興亜紡績福井工場を買収し分工場とする
- [11]ク-8型の実生産量は1943年度113機・1944年度506機の計619機で、陸軍滑空機中最大
- [13]徴用工・学徒・女子挺身隊が入社し、1945年8月15日現在の従業員合計2万3,773人
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [6]陸軍が日本航空工業の技術力と国際工業の設備に着目し両社に合併を斡旋、1941年7月合併
- [12]日本航空工業設立以来終戦までの8年間に製造した機体は各種合わせて2,000余機
1946年〜日国工業のバス・鉄道車両への転換と、資本金1億円の新日国工業
1945年8月の敗戦で航空機の生産は止まり、日本国際航空工業は同年9月に正従業員約1万5,000人を全員解雇した。残務整理と資産の保全のために再雇用したのは1,665人である。社長の津田信吾氏が1945年12月に戦犯容疑者に指名されたため、1946年2月27日の臨時株主総会で役員を改選した。淀川製作所の所長だった寺田道彦氏が社長に選ばれ、社名は日国工業に改められた。日国工業は航空機の技術と残った機械を生かせる品目として、平塚製作所で国鉄の客貨車・電車の復旧と都電の新造を手がけた。京都製作所は1946年9月にGHQの許可を得て、10月にトラック車体、11月にバス車体の第1号車を完成させた。機体の骨組みに外板を張る技能は、車両と車体の箱づくりに移しやすかったのだろう。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [14]1945年9月 正従業員約1万5,000人を全員解雇し残務整理要員1,665人を再雇用
- [15]1945年9月 正従業員約1万5,000人を全員解雇し残務整理要員1,665人を再雇用
- [16]社長津田信吾が1945年12月戦争犯罪容疑者に指名。1946年2月27日臨時株主総会で役員改選、社長に淀川製作所長寺田道彦、社名を日国工業に変更
- [17]社長津田信吾が1945年12月戦争犯罪容疑者に指名。1946年2月27日臨時株主総会で役員改選、社長に淀川製作所長寺田道彦、社名を日国工業に変更
- [18]平塚製作所は航空機技術・残存機械を活用できる鉄道車両に着目し、1946年12月から国鉄客貨車・電車の復旧・改造、都電の新造を受注
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [19]1946年6月 自動車車体製作の計画書をGHQに提出、9月認可。10月 京都製作所でトラック車体1号車、11月 バス車体1号車完成
日国工業は1946年8月の会社経理応急措置法で特別経理会社となり、日本興業銀行を含む特別管理人の下に置かれた。同年10月の戦時補償特別措置法は戦時補償に100%課税し、日国工業の負担は4億4,000万円に上った。日本興業銀行は日本国際航空工業の発足時から主力の取引先で、1946年8月時点の借入は4億円を超え、全債務の90%を占めていた。日国工業は1948年7月、企業再建整備法による再建の計画を申請し、同年12月に認可を受けた。計画の内容は、旧会社を解散し、平塚・大久保・上京の3製作所を資本金1億円の第二会社に移すものである。特別損失は株主が資本金の90%、旧債権者が債権の約70%をそれぞれ負った。減資と増資で存続する方法では経理を立て直せず、旧債権の処理にも長い時間がかかると見込まれたため、新旧の会社を分ける方式を採ったと考えられる。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [20]1946年8月 会社経理応急措置法で特別経理会社に指定、9月5日 特別管理人に寺田道彦・加藤房美・日本興業銀行・秋田木材
- [21]1946年10月 戦時補償特別措置法で戦時補償に100%課税、日国工業の負担額4億4,000万円
- [22]日本興業銀行は設立以来の主取引銀行、1946年8月10日現在の借入4億円超で全債務の90%
- [24]整備計画は資本金1億円で平塚・大久保・上京3製作所の第二会社を設立し旧会社は解散。特別損失は旧債権者が債権額の約70%、株主が資本金の90%を負担
- [25]整備計画は資本金1億円で平塚・大久保・上京3製作所の第二会社を設立し旧会社は解散。特別損失は旧債権者が債権額の約70%、株主が資本金の90%を負担
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [23]再建整備計画を1948年7月に認可申請、同年12月に認可
1949年4月1日、資本金1億円の新日国工業が発足し、初代社長には寺田道彦氏が就任した。新日国工業は平塚・大久保・上京の3工場をもち、出発時の主な事業は自動車車体と鉄道車両である。平塚の車両工場は1948年10月の火災で設備の大半を失い、ドッジラインで1949年度予算が絞られて国鉄車両の受注も大きく減った。新日国工業は1949年5月に平塚工場で192人(従業員の20%)を整理し、自動車車体を生産の中心に据えた。同じ年に小規模な上京工場を閉鎖して設備を大久保工場へ統合し、平塚の鉄道車両生産も1951年3月以降に打ち切った。1949年度の売上高は3億7,400万円、利益は350万円。受注の減った鉄道車両を切り、バスボデーに経営資源を集中する判断だったとみてよいだろう。
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [26]1949年4月1日 資本金1億円で新日国工業発足、初代社長寺田道彦、平塚・大久保・上京の3工場で自動車車体と鉄道車両の製造・修理を主業務とする
- [27]1949年4月1日 資本金1億円で新日国工業発足、初代社長寺田道彦、平塚・大久保・上京の3工場で自動車車体と鉄道車両の製造・修理を主業務とする
- 日産車体三十年史(1982年)
- [28]1948年10月17日 平塚製作所の車両工場で火災、設備の大半を焼失。ドッジラインの超均衡予算で1949年度の国鉄車両受注が大幅減
- [29]1949年5月 平塚工場従業員の20%に当たる192人を人員整理し、生産の重点を自動車車体へ移す
- [30]上京工場を1949年に閉鎖し設備を大久保工場へ移す。1951年3月以降の発注縮小で平塚工場の車両生産を打ち切る
- [31]創業初年度の売上高3億7,400万円、利益350万円
参考文献[14]-[31]
- 日産車体三十年史(1982年)
- [14]1945年9月 正従業員約1万5,000人を全員解雇し残務整理要員1,665人を再雇用
- [15]1945年9月 正従業員約1万5,000人を全員解雇し残務整理要員1,665人を再雇用
- [16]社長津田信吾が1945年12月戦争犯罪容疑者に指名。1946年2月27日臨時株主総会で役員改選、社長に淀川製作所長寺田道彦、社名を日国工業に変更
- [17]社長津田信吾が1945年12月戦争犯罪容疑者に指名。1946年2月27日臨時株主総会で役員改選、社長に淀川製作所長寺田道彦、社名を日国工業に変更
- [18]平塚製作所は航空機技術・残存機械を活用できる鉄道車両に着目し、1946年12月から国鉄客貨車・電車の復旧・改造、都電の新造を受注
- [20]1946年8月 会社経理応急措置法で特別経理会社に指定、9月5日 特別管理人に寺田道彦・加藤房美・日本興業銀行・秋田木材
- [21]1946年10月 戦時補償特別措置法で戦時補償に100%課税、日国工業の負担額4億4,000万円
- [22]日本興業銀行は設立以来の主取引銀行、1946年8月10日現在の借入4億円超で全債務の90%
- [24]整備計画は資本金1億円で平塚・大久保・上京3製作所の第二会社を設立し旧会社は解散。特別損失は旧債権者が債権額の約70%、株主が資本金の90%を負担
- [25]整備計画は資本金1億円で平塚・大久保・上京3製作所の第二会社を設立し旧会社は解散。特別損失は旧債権者が債権額の約70%、株主が資本金の90%を負担
- [28]1948年10月17日 平塚製作所の車両工場で火災、設備の大半を焼失。ドッジラインの超均衡予算で1949年度の国鉄車両受注が大幅減
- [29]1949年5月 平塚工場従業員の20%に当たる192人を人員整理し、生産の重点を自動車車体へ移す
- [30]上京工場を1949年に閉鎖し設備を大久保工場へ移す。1951年3月以降の発注縮小で平塚工場の車両生産を打ち切る
- [31]創業初年度の売上高3億7,400万円、利益350万円
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [19]1946年6月 自動車車体製作の計画書をGHQに提出、9月認可。10月 京都製作所でトラック車体1号車、11月 バス車体1号車完成
- [23]再建整備計画を1948年7月に認可申請、同年12月に認可
- [26]1949年4月1日 資本金1億円で新日国工業発足、初代社長寺田道彦、平塚・大久保・上京の3工場で自動車車体と鉄道車両の製造・修理を主業務とする
- [27]1949年4月1日 資本金1億円で新日国工業発足、初代社長寺田道彦、平塚・大久保・上京の3工場で自動車車体と鉄道車両の製造・修理を主業務とする
1951年〜日産自動車が87%を保有した系列入りと、村上隆太郎氏のバスボデー拡大
新日国工業の株式200万株はいったん日国工業が全額を引き受け、旧株主・旧債権者への割り当てなどで処分する計画だった。業績の見通しが立たない新会社の株式に応募はほとんどなく、1950年4月の締め切りで申込は割当数の1%の9,470株にとどまった。日本興業銀行は新日国工業の基盤を安定させるため、受注関係にあった日産自動車に株式の引き受けを要請した。日産自動車が1951年5月に日国工業から取得した174万3,600株(残余株式の99.4%)は、発行株式の87%にあたる。日産自動車は警察予備隊向けの四輪駆動車の車体を新日国工業に任せることも考え、新日国工業との提携を協議していた。両社の取引は1948年のバス車体の受注に始まり、1950年には朝鮮特需のダンプカーやトラックの架装にまで広がった。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [32]新日国工業株式は日国工業が全額を引き受け、整備計画に従い物納・旧株主旧債権者への割当で処分する計画
- [33]旧株主・旧債権者への割当は申込期間を1950年4月20日まで延長しても割当数の1%(9,470株)
- [34]日本興業銀行が受注関係にある日産自動車に株式引受を要請。1951年5月 日産自動車が残余株式の99.4%・174万3,600株を取得し発行株式の87%を保有
- [35]日本興業銀行が受注関係にある日産自動車に株式引受を要請。1951年5月 日産自動車が残余株式の99.4%・174万3,600株を取得し発行株式の87%を保有
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [36]日産自動車は1951年に警察予備隊からの四輪駆動車発注を見込み車体製作を新日国工業に依頼することを考慮して提携交渉。両社の関係は1948年のバス車体受注に始まり1950年に朝鮮特需のトラック・ダンプカー架装
- [37]日産自動車は1951年に警察予備隊からの四輪駆動車発注を見込み車体製作を新日国工業に依頼することを考慮して提携交渉。両社の関係は1948年のバス車体受注に始まり1950年に朝鮮特需のトラック・ダンプカー架装
1951年6月、日産自動車で取締役本社工場長を務めていた村上隆太郎氏が、新日国工業の社長に就任した。村上隆太郎氏はバスボデーの受注拡大と、日産自動車向け標準車の見込生産による受注の季節変動の緩和を経営方針に掲げた。あわせて示したのが、日産自動車から四輪駆動車など非量産車の組立と、部品の機械加工を受託する方針である。新日国工業は1951年からニッサンパトロールの車体を生産し、1961年に他社へ移すまでに9,000台近くを手がけた。資金面では日産自動車の保証で日本興業銀行から新たに借り入れ、1953年度下期からは日産自動車の直接融資も受けた。提携後の3年間、売上高に占める日産自動車向けの比率は毎年度25%前後で推移した。日産自動車の委託で操業を平準化する方針は、受注の波が大きい架装専業の弱点を補う狙いだったと思われる。
- 日産車体三十年史(1982年)
- [38]1951年6月 日産自動車取締役本社工場長村上隆太郎が新日国工業の代表取締役社長に就任
- [39]村上隆太郎の経営方針: バスボデー受注拡大、日産向けバスボデーはシャシ供給安定と標準車見込生産で季節変動緩和、日産から非量産車組立・部品機械加工を受託
- [40]村上隆太郎の経営方針: バスボデー受注拡大、日産向けバスボデーはシャシ供給安定と標準車見込生産で季節変動緩和、日産から非量産車組立・部品機械加工を受託
- [42]1951年度下期に日産自動車の保証で日本興業銀行から新規借入、1953年度下期から日産自動車の直接融資
- [43]提携後3年間、日産自動車向けは各年度とも売上高総額の25%前後
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [41]1951年から警察予備隊向けニッサンパトロール4W60型の車体を生産、1961年に生産を他社に転換するまで合計9,000台近く
1954年秋以降のデフレ政策でバス車体の受注は減り、受注価格の低下と資材の値上がりが重なって採算が悪化した。1955年度は日産自動車からの受注が5億円近くに増えた一方、売上高は前年度比20%減の13億円台となり、毎月の赤字が続いた。新日国工業は1955年8月に企業合理化の趣意書を示し、臨時工を含む337人の人員整理、賃金の切り下げ、本社の平塚工場への集約を打ち出した。労働組合の協議会は解雇の無効を求めて仮処分を申請し、11月には時限ストに入った。8月末から70日余り続いた新日国争議が終わったのは、労使が妥結した11月8日である。合理化を経て新日国工業は赤字を脱し、日産自動車の支援を受けて黒字に転じる契機を得た。バス主体のままでは採算がとれないという認識が、次の時代の中小型車への転換を準備したと解される。
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [44]1954年下期以降の不況で車体工業界は供給過多、バス車体の受注量減少・受注価格低下・資材値上がりで採算悪化
- [46]1955年9月 臨時工含む337名の人員整理、賃金カット、本社京都事務所・東京事務所の平塚工場への集中化などの企業合理化を断行
- 日産車体三十年史(1982年)
- [45]1955年度 日産自動車からの受注は過去最高の5億円近く、バスボデー受注は減少し売上高13億円台・前年度比20%減、毎月赤字
- [47]1955年8月29日 企業合理化に関する趣意書発表。労協が解雇無効の仮処分申請、11月4・5日時限スト、11月8日妥結し70日余の紛争終結
- [48]1955年8月29日 企業合理化に関する趣意書発表。労協が解雇無効の仮処分申請、11月4・5日時限スト、11月8日妥結し70日余の紛争終結
- [49]合理化により赤字状態を脱し、日産自動車の支援を得て黒字転換の契機となる
参考文献[32]-[49]
- 日産車体三十年史(1982年)
- [32]新日国工業株式は日国工業が全額を引き受け、整備計画に従い物納・旧株主旧債権者への割当で処分する計画
- [33]旧株主・旧債権者への割当は申込期間を1950年4月20日まで延長しても割当数の1%(9,470株)
- [34]日本興業銀行が受注関係にある日産自動車に株式引受を要請。1951年5月 日産自動車が残余株式の99.4%・174万3,600株を取得し発行株式の87%を保有
- [35]日本興業銀行が受注関係にある日産自動車に株式引受を要請。1951年5月 日産自動車が残余株式の99.4%・174万3,600株を取得し発行株式の87%を保有
- [38]1951年6月 日産自動車取締役本社工場長村上隆太郎が新日国工業の代表取締役社長に就任
- [39]村上隆太郎の経営方針: バスボデー受注拡大、日産向けバスボデーはシャシ供給安定と標準車見込生産で季節変動緩和、日産から非量産車組立・部品機械加工を受託
- [40]村上隆太郎の経営方針: バスボデー受注拡大、日産向けバスボデーはシャシ供給安定と標準車見込生産で季節変動緩和、日産から非量産車組立・部品機械加工を受託
- [42]1951年度下期に日産自動車の保証で日本興業銀行から新規借入、1953年度下期から日産自動車の直接融資
- [43]提携後3年間、日産自動車向けは各年度とも売上高総額の25%前後
- [45]1955年度 日産自動車からの受注は過去最高の5億円近く、バスボデー受注は減少し売上高13億円台・前年度比20%減、毎月赤字
- [47]1955年8月29日 企業合理化に関する趣意書発表。労協が解雇無効の仮処分申請、11月4・5日時限スト、11月8日妥結し70日余の紛争終結
- [48]1955年8月29日 企業合理化に関する趣意書発表。労協が解雇無効の仮処分申請、11月4・5日時限スト、11月8日妥結し70日余の紛争終結
- [49]合理化により赤字状態を脱し、日産自動車の支援を得て黒字転換の契機となる
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- [36]日産自動車は1951年に警察予備隊からの四輪駆動車発注を見込み車体製作を新日国工業に依頼することを考慮して提携交渉。両社の関係は1948年のバス車体受注に始まり1950年に朝鮮特需のトラック・ダンプカー架装
- [37]日産自動車は1951年に警察予備隊からの四輪駆動車発注を見込み車体製作を新日国工業に依頼することを考慮して提携交渉。両社の関係は1948年のバス車体受注に始まり1950年に朝鮮特需のトラック・ダンプカー架装
- [41]1951年から警察予備隊向けニッサンパトロール4W60型の車体を生産、1961年に生産を他社に転換するまで合計9,000台近く
- [44]1954年下期以降の不況で車体工業界は供給過多、バス車体の受注量減少・受注価格低下・資材値上がりで採算悪化
- [46]1955年9月 臨時工含む337名の人員整理、賃金カット、本社京都事務所・東京事務所の平塚工場への集中化などの企業合理化を断行
出典・参考
2件
- 飛翔 そのたゆみない創造 日産車体30年のあゆみ(1979年)
- 日産車体三十年史(1982年)