コーセーホールディングスフランス・ロレアル社との技術提携と、外資との合弁の受け入れ
外資を競争相手として遠ざけるか、提携相手として迎えるか——創業17年の小林コーセーが結んだ38年の関係
- 概要
- 1963年5月、株式会社小林コーセー(現コーセーホールディングス)がフランスのロレアル社と技術提携を結んだ経営判断。提携は技術の導入にとどまらず合弁の形を伴い、2001年8月に合弁契約を解消するまで38年続いた。ロレアルの側から見れば、この年が日本に上陸した年にあたる。
- 背景
- 化粧品の貿易自由化を経て、資本の自由化が視野に入りつつあった時期である。国内メーカーは外国メーカーの一挙の進出を警戒し、百貨店に加えて化粧品専門店の売り場を押さえ、そこへ美容部員を送り込む守りを固めていた。
- 内容
- 小林コーセーは外資を遠ざけるのではなく、技術提携の相手として迎えた。提携の翌年から拠点を相次いで新しくし、1964年6月に埼玉県へ狭山工場、同年8月に東京都北区へ研究所を設け、1965年3月には本社を東京都中央区日本橋へ移した。
- 含意
- 提携期間中の1970年に高級ブランド「コスメデコルテ」を発売し、1980年には化粧品メーカーとして初めてデミング賞事業所表彰を受けた。小林保清名誉会長は後年、販路ごとに品ぞろえを分ける売り方についてロレアルから刺激を受けたと述べている。
内側に入れて学ぶという選び方
外資を締め出すのではなく、内側に入れて学ぶ。1963年5月の小林コーセーの選択は、その一点にある。同じ業界の最大手である資生堂は、米国進出でも現地企業の買収を退け、自社で会社を設立して資生堂ブランドで売る道を選んだ。創業17年のコーセーは反対に、のちに世界最大となる化粧品会社と技術提携を結び、その関係を38年抱えた。1970年のコスメデコルテ、1980年の化粧品メーカー初のデミング賞事業所表彰は、いずれもその38年の途中に置かれた成果である。
ただ、この関係は一方通行ではなかった。ロレアルにとっても1963年は日本に上陸した年であり、コーセーは自社の販売チャネルに相手のブランドを並べることで、のちに単独で伸びる競争相手を国内に迎え入れてもいた。38年後の解消を、日本ロレアルの側は「コーセーからの株式の買い戻し」と呼んでいる。学ぶために外資と組むことの対価が何であったかは、この言い方に表れているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
貿易自由化を経た化粧品業界の警戒
1960年代の化粧品業界は、外国メーカーの上陸を強く警戒していた。資生堂の伊藤高常務取締役は1969年の講演で、化粧品の貿易自由化にあたって国内メーカーがこぞって備える体制を取ったと振り返り、外国のメーカーが一挙に進出して市場を支配されるのではないかという恐れがそこにあったと述べた。結果としては、かなりの進出を許しながらも、外国化粧品への対策が企業の合理化を促し、業界そのものは大きく伸びた[1]。
コーセー自身も、1946年から1960年代までの時期を「戦後の復興と資本の自由化」の時代として整理している。小林保清名誉会長は後年、戦後に資本の自由化が押し寄せて化粧品業界でも門戸が開放され、外資メーカーが続々と参入したと語った。売り場を取られないために、化粧品メーカーは百貨店だけでなく化粧品専門店でも売り場を確保し、美容部員を専門店へ派遣し始めた。それが生き延びる策になったという評価である[2][3]。
創業17年目の小林コーセー
小林コーセーの出発は1946年3月、東京都北区に設けた小林合名会社であった。1948年6月に会社組織を改めて株式会社小林コーセーとなり、1951年11月には販売部門を分けてコーセー商事を設立している。1956年3月には高級化粧品の製造会社として株式会社アルビオンを置いた。ロレアルと提携する1963年5月の時点で、コーセーは製造と販売、普及品と高級品を別会社に分けた会社群をすでに抱えていた[4]。
商品の側でも実績を重ねていた。1951年の「パーライトスキン」、1957年の高級化粧品「ラボンヌ」、1962年の「オーリック」と主力商品が続き、なかでもラボンヌの大きな売れ行きが会社を躍進させた。小林孝三郎氏が掲げたのは、高価であることではなく効果があることを高級品の条件とする考え方である。小林保清社長も1999年の講演で、創業当時から商品開発に業界内の定評があったと述べている[5][6]。
決断
1963年5月の技術提携
1963年5月、小林コーセーはフランスのロレアル社と技術提携を結んだ。有価証券報告書の沿革は、この一件を「フランス・ロレアル社と技術提携(2001年8月に合弁契約を解消)」とだけ記す。提携は技術の導入にとどまらず合弁の形を伴い、解消までの38年間続いた。相手は、のちに世界で最も大きく最も国際的な化粧品会社と評されるフランスの企業である。そのロレアルにとっても、1963年は日本に上陸した年にあたる[7][8]。
提携の翌年から、コーセーは生産と研究の拠点を相次いで新しくした。1964年6月に埼玉県へ狭山工場を設け、同年8月には東京都北区に研究所を開いている。この研究所が、現在のコーセー製品開発研究所にあたる。さらに1965年3月には、本社を東京都中央区日本橋へ移した。提携から2年のあいだに、工場・研究所・本社の三つが入れ替わったことになる[9]。
外資と組むという選び方
同じ時期、業界最大手の資生堂は自前で進む道を選んでいた。伊藤高常務取締役は1969年の講演で、米国市場にはニューヨークへ会社を設立して役員・社員を送り込み、資生堂ブランドで販売する方法を採ったと説明している。現地の化粧品会社を買収したほうが早いという指摘に対しては、化粧品は卸へ一括で売れば足りる商品ではなく、自社で養成した美容部員が店頭で世話をしなければならないと答えた[10]。
創業17年の小林コーセーが選んだのは、その反対側であった。外資を競争相手として遠ざけるのではなく、提携相手として迎え、技術と売り方を内側から受け取る形である。小林保清名誉会長の回顧によれば、外資の参入に対して化粧品メーカーが取った守りは、百貨店に加えて専門店の売り場を押さえ、そこへ美容部員を送り込むことであった。コーセーは業界共通の守りを固めながら、相手の手の内を近くで見る立場も併せて得た[11]。
結果
高級品と生産の底上げ
1970年、コーセーは高級ブランド「コスメデコルテ」を発売した。百貨店で外資系ブランドが売り場を広げるなかで、小林孝三郎氏が長く思い描いてきた高級品の構想を商品にした。1976年には業界に先駆けてパウダーファンデーション「フィットオン」を、1985年には和漢植物エキスを配合した化粧水「雪肌精」を売り出した。提携から7年をかけて、外資が強い百貨店の棚に自社の高級ブランドを並べた[12]。
生産の側でも成果が出た。1979年6月に群馬県へ群馬工場を設け、1980年には日本の化粧品メーカーとして初めてデミング賞事業所表彰を受けている。小林保清社長は1999年の講演で、これを常に最高品質を目指す品質管理活動が認められた結果であると説明した。同じ講演で挙げた同社の強みは、商品開発力、生産体制、ブランドマーケティング、グループ経営の四つであった[13][14]。
ロレアルから受け取ったもの
提携から受け取ったものは、製造の技術にとどまらなかった。小林保清名誉会長は、販路ごとに品ぞろえを分ける売り方について、コーセーが提携していた仏ロレアルがその形を取っていて刺激を受けた部分もあると述べている。1999年の講演でコーセーが示した販売チャネル別のブランド一覧にも、百貨店向けと専門店向けの双方にロレアルの名が並んでいた。技術提携という言葉が指す範囲より、実際に行き来したものは広かったとみられる[15][16]。
関係が終わったのは2001年8月、合弁契約の解消による。1963年5月からの38年であった。日本ロレアルのマルク・メネスゲン社長は2003年の取材で、コーセーからの株式の買い戻しを、メイベリン事業の取得やシュウウエムラ化粧品との資本提携と並ぶ近年の大きな出来事に数えている。日本に上陸して40年を数えた同社は、そのときすでに単独で日本市場に立っていた[17][18]。
- 証券アナリストジャーナル 1969年3月号「資生堂の現状と将来」(資生堂 伊藤高常務取締役講演)
- 証券アナリストジャーナル 2000年1月号「コーセー」(小林保清社長講演、1999年12月24日)
- 週刊東洋経済 2003年1月18日号「[特集]化粧品大研究 最強の外資が日本を攻める 日本ロレアルの研究」
- 週刊東洋経済 2018年12月29日号「化粧品 平成の教訓 小売りが大きく変化した30年 コーセー名誉会長 小林保清」
- コーセーホールディングス 有価証券報告書 第84期(2025年12月期)【沿革】
- KOSÉ REPORT 2024(コーセー、2024年)「価値創造の軌跡」