資生堂 の歴史

更新: Author:

創業 1872年
創業者 福原有信
創業地 東京都中央区
創業
1872年9月、海軍病院薬局長を辞した薬剤師の福原有信氏が、東京京橋区南金六町(現在の銀座8丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局を開設した。当時の日本は医師が処方も薬の販売も担うのが慣行で、有信氏は欧米式の医薬分業を実地に示す場として民間の調剤薬局を構えた。屋号は『易経』の「至哉坤元 万物資生」に由来する。1888年に練歯磨、1897年に化粧水『オイデルミン』を出し、医薬品で培った成分管理を製品設計へ移して輸入品と競った。1915年には三男の福原信三氏が商標『花椿』を定め、1927年に株式会社へ改めている。薬局として発足した会社が、化粧品を主業に据えるまでに半世紀を要した。
決断
商品より先に、値段を誰が決めるかを設計してきた。1923年12月、関東大震災で配給機構が壊滅すると、資生堂は問屋を、資生堂製品だけを扱う専業の販売会社へ組み替えた。値引き販売の防止を小売段階まで徹底させ、販売会社の株式を所属店に持たせて利害を共にさせる二段構えで、1973年時点の系列は販売会社89社・チェインストア1万6000店に達した。1953年の再販指定がこれを法的に補強したが、1995年6月に公正取引委員会から量販店への価格拘束を理由に排除勧告を受けると、役員会の抗戦論を退けて9月末に受諾し、70年余り続いた化粧品の再販価格維持を手放す。2006年3月にはヘアケアのTSUBAKIへ発売初年度から50億円超の宣伝費を投じた。70年余り価格を握った会社が、価格を握れなくなったあとに選んだのは、宣伝費を一つの商品へ集める配分だった。
現況
稼ぎは日本ではなく、中国と免税の売り場から出ている。2025年12月期の連結売上高9699億円の内訳は、中国・トラベルリテール事業3456億円、日本事業2964億円、欧州事業1464億円、米州事業1112億円、アジアパシフィック事業746億円。ところが利益で並べ替えると中国・トラベルリテールの645億円が最大で、日本390億円が続き、米州だけが116億円の損失である。2014年に招いた魚谷雅彦氏がプレステージ領域と海外へ資源を寄せ、2019年12月期に売上1兆円・営業利益1138億円を達成したが、その利益も中国と免税に偏っていた。2021年に低価格帯のパーソナルケア事業を1600億円で譲渡して以降は国内で固定費を吸収していた販売数量も失われ、中国の需要変動が連結の損益をそのまま動かす。
競合
化粧品の競争は、商品の差ではなく、どの売り場に置くかの差で決まってきた。資生堂が1923年に作った専業販社の仕組みは業界の標準になり、花王も1964年に問屋を外して全国約27万件の小売と直接結ぶ販社制度を築いた。一方、店に置かない売り方もある。ポーラ・オルビスホールディングスは1984年に通信販売専業のオルビスを設立し、訪問販売と通信販売の二本立てにした。資生堂は1997年に価格統制を手放したのち、2001年に池田守男氏が大正時代からのチェーン店網の再生へ資源を集中し、約2万5000店の最寄り性を磨く道を選ぶ。海外では売り場を買う方法を取り、2010年に約1800億円で取得した米ベアエッセンシャルは赤字へ転じ、2021年に約770億円で売却した。売り場の仕組みを設計してきた会社が、既にある売り場を買う方法では資金を回収できていない。

創業ストーリー 銀座の洋風調剤薬局と、薬学の手法で興した化粧品 (1872年〜)

医薬分業を実地に示すための薬局

福原有信氏は幕府医学所と大学東校で薬学を修め、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰した[1]のち、1872年に官務を辞して東京銀座に資生堂薬局を開いた[2]。わが国最初の薬剤師免許を受けた薬剤師[3]で、開局の趣旨は医師の処方と薬剤師の調剤を分ける医薬分業の実践[4]にあった。文明開化の先端にあった銀座に民間の洋風調剤所を構え、あわせて神田鎌倉河岸にわが国初の製薬工場を設け[5]て洋風手法による製薬へ進んだ。社名は中国古典『易経』の『至哉坤元 万物資生』に由来する[6]。資生堂薬局で育った薬剤師は各地で資生堂の名を掲げて独立開局[7]し、その薬局網が売薬の販路となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
    • [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
    • [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
    • [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)
    • [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」

洋風の生活様式が広がって輸入品への需要が高まる一方、国産品を求める風潮も強まった[8]。資生堂は1888年1月に練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売[9]し、わが国練歯磨の元祖[10]となった。日清戦争の勝利後に化粧品の需要が高まると、1897年1月には化粧水『オイデルミン』を発売[11]して化粧品事業へ進んだ。あわせて髪油『柳糸香』やふけとり香水『花たちばな』[12]も出し、いずれも薬学的手法によって製造した[13]点で輸入品や既存の化粧品と分かれた。オイデルミンは『資生堂の赤い水』と呼ばれて長く愛用[14]されている。1899年にはソーダファウンテンを併設し、アイスクリームとソーダ水の先鞭[15]をつけた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
    • [10]わが国練歯磨の元祖
    • [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
    • [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
    • [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [13]薬学的手法で製造した化粧品
    • [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
    • [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
    • [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
    • [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
    • [10]わが国練歯磨の元祖
    • [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
    • [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
    • [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
    • [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
    • [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
    • [13]薬学的手法で製造した化粧品
    • [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)
    • [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」

二代目の意匠と、化粧品会社への組み替え

福原有信氏の後継者となった福原信三氏は、日露戦争の前後にアメリカへ留学して化粧品工業を研究し、帰国後は新しい処方で製品を開発[16]した。ヨーロッパの美術工芸にも通じており[17]、1915年9月には商標『花椿』を考案[18]している。優雅で香気あるデザインとして発表時から評判を得た[19]同標は、文字に頼らない図形で会社を識別する資産となった。商標の制定後は製品の幅も広がり、なかでも資生堂コールドクリームが新しい油性クリームとして注目[20]を集めた。1917年には化粧品部を独立させ、翌年以降は本店卸部・大阪小売部・大阪卸部[21]を相次いで設けている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
    • [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
    • [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
    • [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1915年9月 商標「花椿」制定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立

事業の広がりに合わせて組織も改め、1921年3月にはそれまでの個人経営を合資会社組織に変更[22]している。石鹸は1922年から資生堂石鹸として発売[23]し、化粧品・歯磨と並ぶ三つ目の製品群となった。この時点の販路は薬種問屋と、資生堂薬局出身の薬剤師が開いた薬局に依存[24]しており、問屋が新製品の説明を担わないという流通上の摩擦[25]を抱えていた。小売店と共存する組織を自前で作るという発想は、創業期の薬局網に既に芽生えていた[26]ものの、制度としてはまだ形になっていない。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
    • [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
    • [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
    • [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
    • [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
    • [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
    • [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
    • [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1915年9月 商標「花椿」制定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立
    • [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
    • [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦

震災が壊した配給機構と、販売会社への組み替え

大正期の化粧品業界は乱売で疲弊しており、福原信三氏は後年、「今から30、40年前に業界の乱売が激しく、メーカーも問屋も小売店も倒産者が続出するという恐慌時代[27]がありまして、私どもはやはり、公正な利潤を獲得することが、結局は消費者に対する正しいサービスだということに気がつき[28]、その当時から販売組織の研究を始めたのです」(東商 1963/05)と振り返っている。問屋への不満も強く、『あまりメーカーの開発した新製品には関心を持たず、従って十分な説明もせずに、小売店にただ商品を引き渡せば、時分の仕事は終わったというやり方には不満がありました』[引用元](同)と述べた。のちに社長となる松本昇氏がアメリカのボランタリー・チェーンを調べて持ち帰っていたが、商工省に取り上げられず棚上げ[29]になっていた。

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [27]大正期の化粧品業界 乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態
    • [28]福原信三 公正な利潤の獲得が消費者への正しいサービスと考え販売組織の研究を開始
    • [29]松本昇(のちの社長)がアメリカのボランタリー・チェーンを調査して持ち帰るも商工省に取り上げられず棚上げ

1923年9月の関東大震災は資生堂にも大きな被害を与え[30]、既存の配給機構を壊した。福原信三氏はこれを転機と受け止め、『大震災後、配給機構が全く壊滅し、混乱を致しておりましたので、それを機会に、系統だった販売組織を確立しようと思いつきまして、組織づくりを初めたわけであります』[引用元](東商 1963/05)と語っている。同年12月、資生堂はチェインストア制度を採用[31]した。当初は20店程度という見込みだったが、まもなく数千の協力店[32]を得るまで広がっている。あわせて大阪・吹田に工場を設け[33]、翌1924年には取次店制度を実施[34]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [30]大正12年 関東大震災で大被害
    • [32]当初20店程度の予想を破りまもなく数千の協力店
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1923年12月 チェインストア制度を採用
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [33]大正12年 大阪吹田に工場を増設
    • [34]大正13年 取次店制度を実施

組み替えは二段構えで進み、資生堂はまず問屋へ別会計を求めて自社の営業代理部とし、次にそれらを資生堂製品だけを扱う販売会社へ組織替え[35]した。福原信三氏は『そこで初めて当社製品の値引き販売の防止ということが、小売店にまで徹底しました』[引用元]と述べている。さらに販売会社の株式を所属チェインストア全部に持たせ[36]『これはあなた方の会社だからという印象を与え、利害関係をともにするという密接な関係に結びつけた』[引用元](同)。1926年にはセールスメンバー販売組織を敷き[37]、1927年6月には資本金150万円で合資会社を株式会社組織に改め[38]、同年8月に取次店制度を発展させて販売会社制度とした[39]

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [35]問屋に別会計を求めて営業代理部とし、さらに資生堂製品専業の販売会社へ組織替え
    • [36]販売会社の株式を所属チェインストア全部に保有させ利害を共有
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [37]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [38]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更(資本金150万円)
    • [39]1927年8月 販売会社制度を採用
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [27]大正期の化粧品業界 乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態
    • [28]福原信三 公正な利潤の獲得が消費者への正しいサービスと考え販売組織の研究を開始
    • [29]松本昇(のちの社長)がアメリカのボランタリー・チェーンを調査して持ち帰るも商工省に取り上げられず棚上げ
    • [35]問屋に別会計を求めて営業代理部とし、さらに資生堂製品専業の販売会社へ組織替え
    • [36]販売会社の株式を所属チェインストア全部に保有させ利害を共有
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [30]大正12年 関東大震災で大被害
    • [32]当初20店程度の予想を破りまもなく数千の協力店
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1923年12月 チェインストア制度を採用
    • [38]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更(資本金150万円)
    • [39]1927年8月 販売会社制度を採用
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [33]大正12年 大阪吹田に工場を増設
    • [34]大正13年 取次店制度を実施
    • [37]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施

花椿会という消費者組織と、大陸への拡張

流通の統制は消費者の層にまで及び、1937年1月に資生堂は消費者組織『花椿会』を結成[40]している。小売段階での組織化を担ったのはチェインストアで、会員には雑誌『花椿』を配り、購買高に応じて景品を贈り、おしゃれの映画へ招く[41]といった催しを各地で行った。1927年1月には向島に石鹸工場を開設[42]し、1928年3月には東京・品川の新工場が竣工して大阪工場を合わせている[43]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [40]1937年1月 資生堂花椿会発足
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [41]花椿会 会員に雑誌「花椿」を配布、購買高に応じ景品、映画へ招待
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [42]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [43]昭和3年3月 東京・品川に新工場竣工、大阪工場を合体

1930年代後半、外地の販売会社は10社を超え[44]、販売網は中国大陸から台湾・朝鮮・満州・東南アジアに及んでいる[45]。生産面では撫順と上海に工場を建て、台湾と海南島では農園も経営[46]した。化粧品業者としてはアジア最大の組織となり、東洋最大の化粧品メーカー[47]と呼ばれる規模に達している。1939年9月には資生堂化学研究所を設けて[48]製品の改良にあたった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [44]外地における販売会社は10社を超える
    • [47]化粧品業者としてアジア最大の組織/東洋最大の化粧品メーカー
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [45]販売網は台湾・朝鮮・満州・中国・東南アジアに及ぶ
    • [46]撫順および上海に工場を建設、台湾・海南島で農園を経営
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [48]1939年9月 資生堂化学研究所完成

太平洋戦争が終わると、資生堂は戦火を免れた東京工場をもとに再建[49]へ入った。窮乏した戦後の生活のなかで苦難が続き、1950年にようやく『花椿香油』と『資生堂石鹸』が復活[50]している。戦争で姿を消した商品も順に再出発[51]した。1948年12月には大阪資生堂を設立[52]して生産の網を整え直し、社業は戦前の盛時をしのいで再び業界第一位の地位を占めている[53]。1955年時点の製品は化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目[54]に達し、1954年度の売上は40億7000万円、同年6月に資本金3億円[55]となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [49]戦火を免れた東京工場をもとに再建
    • [50]昭和25年 「花椿香油」「資生堂石鹸」が復活
    • [51]戦争で姿を消していた商品もつぎつぎ再出発
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [52]1948年12月 大阪資生堂設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [53]社業は戦前の盛時をしのぎ再び業界第一位
    • [54]1955年時点 化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目
    • [55]昭和29年度売上 40億7000万円、昭和29年6月 資本金3億円
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [40]1937年1月 資生堂花椿会発足
    • [48]1939年9月 資生堂化学研究所完成
    • [52]1948年12月 大阪資生堂設立
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [41]花椿会 会員に雑誌「花椿」を配布、購買高に応じ景品、映画へ招待
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [42]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設
    • [45]販売網は台湾・朝鮮・満州・中国・東南アジアに及ぶ
    • [46]撫順および上海に工場を建設、台湾・海南島で農園を経営
    • [53]社業は戦前の盛時をしのぎ再び業界第一位
    • [54]1955年時点 化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目
    • [55]昭和29年度売上 40億7000万円、昭和29年6月 資本金3億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [43]昭和3年3月 東京・品川に新工場竣工、大阪工場を合体
    • [44]外地における販売会社は10社を超える
    • [47]化粧品業者としてアジア最大の組織/東洋最大の化粧品メーカー
    • [49]戦火を免れた東京工場をもとに再建
    • [50]昭和25年 「花椿香油」「資生堂石鹸」が復活
    • [51]戦争で姿を消していた商品もつぎつぎ再出発

上場と量産、そして業界首位

1949年5月、資生堂は東京証券取引所へ株式を上場[56]した。1955年時点で販売会社は73社(資本金合計1億6000万円余)、契約チェインストアは約8000店、セールスメンバーは約10万店[57]を数えている。1956年には東京・渋谷に東洋最大の資生堂美容室を開き[58]、店頭で美容を教える体制を広げた。1957年6月には台湾資生堂を設立して、翌年4月から製造を始めている[59]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [56]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [59]1957年6月 台湾資生堂設立(翌年4月製造開始)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [57]1955年時点 販売会社73社(資本金合計1億6千余万円)・契約チェーンストア約8000・セールスメンバー約10万店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [58]昭和31年 東洋最大の資生堂美容室を東京・渋谷に開設

1959年10月には資生堂商事を設立[60]し、翌11月には神奈川・大船に化粧品専門工場を建てて[61]化粧水や乳液を量産した。1960年代前半の資生堂は国内化粧品市場で首位に立ち、経済誌は『東方の中央集権的に組織化されたチェーン・システムと、西方の自主性を尊重する弾力性ある代理店システムのいずれが販売戦の雌雄を決するか』[引用元](ダイヤモンド 1963/06/03)と、資生堂と中山太陽堂の方式を対置して論じた。1968年時点の年間売上高は約650億円で過去10年に約6倍となり、業界シェアは30%を超えている[62]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [60]1959年10月 資生堂商事設立
    • [61]1959年11月 大船工場完成(化粧品専門工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [62]1968年時点 年間売上高約650億円・過去10年で約6倍・業界シェア30%超
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [56]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [59]1957年6月 台湾資生堂設立(翌年4月製造開始)
    • [60]1959年10月 資生堂商事設立
    • [61]1959年11月 大船工場完成(化粧品専門工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [57]1955年時点 販売会社73社(資本金合計1億6千余万円)・契約チェーンストア約8000・セールスメンバー約10万店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [58]昭和31年 東洋最大の資生堂美容室を東京・渋谷に開設
    • [62]1968年時点 年間売上高約650億円・過去10年で約6倍・業界シェア30%超

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

資生堂の沿革1872〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1872〜1922年銀座の洋風調剤薬局と、薬学の手法で興した化粧品資生堂創業——銀座の洋風調剤薬局から化粧品メーカーへ

1872年9月、海軍病院薬局長を辞した薬剤師・福原有信氏が、東京京橋区南金六町(現在の銀座8丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局として資生堂薬局を開いた創業。屋号は中国古典『易経』の『至哉坤元 万物資生』に由来し、のちに練歯磨・化粧水を手がけて消費財メーカーへと業容を広げた。

詳細を読む
★★★
日本初の練り歯磨を発売
化粧品に新規参入★★
商標「花椿」を考案
1923〜1964年チェインストア制度という流通の設計と、戦後の首位チェインストア・販売会社方式の確立

のちに社長となる松本昇氏が持ち帰ったアメリカのボランタリー・チェーンを参考にし、値引き販売を抑えて価格を統一する仕組みを整えた。銀座の一調剤薬局が、製造から小売までの流れを自らの手で束ねる流通設計へ踏み込んだ転換であった。

詳細を読む
★★★
資生堂に商号変更
松本昇東京証券取引所に株式上場
松本昇躍進5ヵ年計画を策定
伊与田光男台湾資生堂を設立
伊藤隆男大船工場を新設
森治樹国内シェア1位
1965〜2000年再販制度に支えられた繁栄と、その前提の喪失森治樹資生堂コスメティックスを設立
福原信和掛川工場を新設
大野良雄久喜工場を新設(トイレタリー)
福原義春カリタ社を買収
福原義春販社改革・在庫回収★★
福原義春ゾートス社を買収
福原義春ボーテプレステージインターナショナルをフランスに設立
福原義春中国・北京麗源公司と資生堂麗源化粧品有限公司を設立★★
弦間明ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業を買収★★
弦間明再販価格維持の撤廃

1995年、大手量販店への価格拘束を理由に公正取引委員会から排除勧告を受けた資生堂が、いったんは審判で争う構えを見せながら約3カ月後にこれを受諾し、1953年の再販指定以来メーカーが握ってきた化粧品の価格統制を1997年に手放した経営判断。

詳細を読む
★★★
2001〜2026年連結初の赤字から、規模を追った先の過去最大の赤字へ池田守男ブランド集約とチェーン店再生

バブル崩壊後に約100まで膨らんだブランドの分散と、コンビニ専用ブランドの失敗による2001年3月期の赤字転落を受け、2001年に社長へ就いた池田守男氏が、中核ブランドへの集約と大正時代からのチェーン店網の再生に踏み込んだ経営判断。新チャネルの開拓ではなく既存の販売店組織への回帰を選び、スキンケアという創業の原点へ経営資源を絞り込んだ。2005年のメガブランド戦略の前史をなす。

詳細を読む
★★★
池田守男持株会社を新設
前田新造メガブランド戦略とTSUBAKIへの集中投資

2006年3月、資生堂が前田新造社長のメガブランド戦略のもと、ヘアケアの新ブランド『TSUBAKI』に発売初年度で50億円を超える宣伝費を集中投下した経営判断。約100に膨らんでいたブランドを少数の基軸ブランドへ絞り込み、一つのブランドへ資源を集める配分へ組み替えた。TSUBAKIは発売直後にヘアケアで首位へ立ち、2001年のブランド集約に続く『選択と集中』を実行に移した。

詳細を読む
★★★
前田新造国内4拠点の閉鎖
前田新造米ベアエッセンシャルの買収と初の大型クロスボーダーM&A

2010年1月、資生堂が米ミネラル化粧品大手ベアエッセンシャルを総額約1800億円で買収すると発表した、初の大型クロスボーダーM&A。1株18.2ドルの現金公開買付で完全子会社化し、長年攻めあぐねてきた北米市場への足がかりを得ようとした経営判断。

詳細を読む
★★★
魚谷雅彦外部プロ経営者・魚谷雅彦氏の招聘と「VISION 2020」

2014年4月、資生堂が、日本コカ・コーラ社長などを務めた魚谷雅彦氏を創業以来初の社外出身社長に据え、同年12月に中長期戦略『VISION 2020』を策定して、ブランド投資への集中・地域本社制・社内公用語の英語化を柱とする構造改革に踏み込んだ経営判断。招聘は前田新造会長が主導した。

詳細を読む
★★★
魚谷雅彦ゾートス社をヘンケル社に譲渡★★
魚谷雅彦Drunk Elephant HDを買収
魚谷雅彦国内生産体制を増強
魚谷雅彦パーソナルケア事業の売却

2021年2月3日、資生堂が『TSUBAKI』『uno』などのパーソナルケア(日用品)事業を1,600億円でCVCキャピタル・パートナーズ系のファンドへ譲渡すると発表した経営判断。会社分割で新会社『ファイントゥデイ資生堂』へ承継し、7月1日付で譲渡を完了、資生堂は35%出資で合弁化した。魚谷雅彦社長CEOが進めた高価格帯(プレステージ)集中戦略の一環である。

詳細を読む
★★★
魚谷雅彦米国3ブランドを売却★★
藤原憲太郎DDG Skincare HDを買収
藤原憲太郎過去最大級の赤字と構造改革

2025年11月、資生堂は2025年12月期の連結最終損益を520億円の赤字へ下方修正した。米州事業で約468億円ののれん減損を計上し、2024年からの国内外の早期退職と合わせ、藤原憲太郎社長CEOのもとで勝てる分野への集中投資へと事業を絞り込んだ構造改革の判断。会計基準や決算期の変更を除く比較では過去最大級の赤字となった。

詳細を読む
★★★
出典・参考
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1993年11月8日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1995年10月30日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1998年6月29日号(日経BP社)
  • 日経産業新聞(日本経済新聞社, 1982年8月26日)
  • 日本経済新聞(1987年7月20日)
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)

免責事項およびポリシー