チェインストアを導入
大正期の化粧品乱売と関東大震災による小売流通の崩壊
大正期の化粧品市場では、小売段階での乱売が常態化していた。メーカーが設定する価格は末端まで浸透せず、販売店ごとに価格差が生じ、利益率は不安定であった。化粧品は回転率に依存する商材であり、価格の下落は投下資本の回収期間を延ばす要因となっていた。とくに零細な小売店では、在庫負担と価格競争の双方に直面する状況が生じていた。
1923年9月の関東大震災は、零細な化粧品小売店に直接的な打撃を与えた。店舗の物理的損壊、在庫の喪失、顧客の減少が同時に発生し、震災以前から続いていた価格競争はさらに加速した。メーカーの側から見ると販売網は分断され、販売数量の見通しが立ちにくい状況に置かれていた。乱売と被災の複合により、既存の流通構造は機能不全に陥っていた。
震災後の経営難を契機に小売店を組織化し価格を統一
こうした状況に対し、資生堂は販売経路の再整理を選択した。主導したのは松本昇(資生堂・営業支配人)であり、米国留学を通じて得たチェーン型販売の知見を応用した。1923年12月、資生堂は「チェインストア」方式を開始し、小売店を協力店として組織化した。震災後の経営難も重なり、短期間で約3,000店が加盟した。
資生堂は国内販売を協力店向けに集中させ、価格を統一した条件での販売を求めた。メーカー側は販売量の集約を通じて流通を管理し、小売側は価格下落リスクを回避する形となった。全国の協力店に直接納入する負担を避けるため、主要問屋と取次店契約を結び、価格順守を前提とする間接流通を併用した。この仕組みにより、メーカー主導の価格統制と広域流通が同時に実現された。
価格統一による販売予測の向上と協力店への教育・会員制の展開
チェインストア化により、資生堂は価格のばらつきを抑え、販売量の把握を可能にした。メーカー側にとっては売上成長の予測精度を高める効果を持ち、小売側は価格競争から距離を取って一定の利益率を確保しやすくなった。流通における参入障壁は価格順守と契約条件によって形成され、資生堂製品の販売は組織化された協力店に集中するようになった。
さらに資生堂は、協力店との接点を販売以外にも拡張した。1927年には「資生堂月報」を発刊して商品知識や販売情報を共有し、1935年には「チェインストアスクール」を開設して販売技術の教育を始めた。1937年には購入者向けに「花椿会」を組織し、協力店を経由した会員化を進めた。これらの施策は、流通統制と需要側への接続を同時に進める運営として、以後の資生堂の販売体制の原型を形成した。