1872年 資生堂薬局を創業
海軍病院薬局長を辞した福原有信が、1872年9月に東京京橋区南金六町で日本初の民間洋風調剤薬局として資生堂薬局を開業。1897年の化粧水「オイデルミン」で化粧品事業に踏み出し、1923年の関東大震災を機に資生堂専売のチェインストア制度を導入した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 福原有信は1848年に安房国丸本郷(現千葉県鴨川市)に生まれ、海軍病院の薬局長を辞して1872年9月に東京京橋区南金六町(現銀座8丁目)に資生堂薬局を開いた。屋号は『易経』の「至れる哉坤元 万物資りて生ず」に由来する。医師の処方箋に基づく民間の洋風調剤薬局は当時としては珍しい存在であり、商業動線の中心である銀座に立地を取った点に、後年のブランド構築につながる都市マーケティングの発想が見られた。
- 1888年1月の「福原衛生歯磨石鹸」、1897年1月の化粧水「オイデルミン」で薬局から消費財メーカーへ重心が移った。米コロンビア大学薬学科を1908年に卒業し欧米を視察した有信の三男・信三が1915年に経営の中心に移り、同年9月に商標「花椿」を制定して企業ブランドの原型を整えた。信三は写真・美術への造詣を活かして意匠と広告を統括し、薬局店頭の「ソーダファウンテン」(1902年設置)など銀座のライフスタイル拠点としての性格も育てた。
- 1923年12月、関東大震災後の流通混乱を機に、問屋を「資生堂製品のみを扱う販売会社」へ組み替え、販売会社の株式を所属チェインストアに持たせるチェインストア制度を発足させた。1927年6月に合資会社から株式会社へ組織変更、同年8月に販売会社制度を正式採用、1937年1月に資生堂花椿会発足、1939年9月に資生堂化学研究所完成、1948年12月に大阪資生堂を設立し、1949年5月に東京証券取引所へ株式上場した。設立77年目で公開企業の資金調達基盤を整えた。
1872年に日本初の民間洋風調剤薬局として発足、医師処方箋に基づく調剤を主業としつつ衛生用品・化粧品へ業域を広げ、1915年に三男・福原信三が経営の中心へ移ったことで、図形商標「花椿」を軸に薬局を超えた「企業ブランド」を設計する方針へ転じた。
創業時は福原有信の個人事業として発足、その後合資会社として組織を整え、1927年6月に株式会社資生堂へ移行して資本構造を近代化、1949年5月の東京証券取引所上場で公開企業の資金調達基盤を獲得した。
医師処方箋に基づく調剤事業から出発し、1888年1月にわが国最初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」、1897年1月に化粧水「オイデルミン」、1915年9月に商標「花椿」制定で化粧品事業の意匠面を確立、医薬品で培った成分管理を化粧品設計に持ち込んで輸入品との差別化を図った。
創業期は銀座を中心とする都市部の医師処方箋を持つ顧客が主体だったが、化粧品事業への参入で全国の小売店経由の一般消費者へ顧客層が広がり、1923年のチェインストア制度導入で資生堂製品のみを扱う販売会社網と小売店組織を全国に張り巡らせる体制を整えた。
創業時は福原有信を中心とする数名の薬局体制から出発し、化粧品事業参入と工場新設を経て1927年の株式会社化時点で本店・工場・販売会社を含む組織として規模を拡大、1949年の東証上場時には全国販売会社網を抱える消費財メーカーへ成長した。
1872年の創業地は東京京橋区南金六町(現銀座8丁目)の店舗、化粧品事業の本格化に伴い銀座界隈に工場・店舗を順次整備、1939年9月に資生堂化学研究所(後のグローバルイノベーションセンター)を設け、1948年12月に大阪資生堂(現・大阪工場)を設立して西日本の生産拠点を確保した。
資生堂 創業地の主な拠点一都三県 の地理(資生堂薬局 → 資生堂化学研究所)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1872年 なぜ薬剤師の福原有信は銀座で洋風調剤薬局を開いたのか? | 海軍病院薬局長を辞した福原有信が、医師の処方と薬剤師の調剤を分業する欧米式の医薬分業を日本に持ち込む実践の場として、官営ではない民間調剤薬局を商業動線の中心である銀座に設けた。 福原有信は1848年に安房国丸本郷(現千葉県鴨川市)に生まれ、幕末から明治初年にかけて蘭方医学と薬学を修めた人物として知られる。維新後は大学東校(後の東京大学医学部)に学び、海軍病院の薬局長を務めたが、日本でも医師の処方と薬剤師の調剤を分業する欧米式の体系を根付かせる必要を強く感じていたとされる。 1872年9月、有信は海軍病院を辞して東京京橋区南金六町(現在の銀座8丁目)に資生堂薬局を開いた。当時の日本では医師が自ら薬を処方し売りもする慣行が一般的で、医師の処方箋に基づく民間の洋風調剤薬局は珍しい存在だった。屋号「資生」は『易経』の「至れる哉坤元 万物資りて生ず」から採られたとされ、薬学を生命の起源に資する事業として位置づける含意があった。 |
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| 1888〜1897年 なぜ薬局が練歯磨と化粧水へ事業を広げたのか? | 医師処方箋に基づく調剤事業だけでは薬局経営の規模に限界があり、医薬品の品質管理ノウハウを応用できる衛生用品・化粧品の自社製造販売へ業域を広げ、消費財メーカーへの転換に踏み出した。 1888年1月、資生堂は「福原衛生歯磨石鹸」を発売し、これは有報沿革に「わが国最初の練り歯磨」と記録される製品となった。当時主流だった粉歯磨に対し、医薬品としての成分管理を施した練歯磨を打ち出した点に、薬局起源企業ならではの製品設計の発想が表れていた。 1897年1月には化粧水「オイデルミン」を発売して化粧品事業に本格参入した。輸入化粧品が主流だった国内市場に、医薬品の品質管理を持ち込んだ国産化粧水を投入した形で、薬局から消費財メーカーへの重心移動が始まる起点となった。赤い色の瓶から「資生堂の赤い水」として広く知られ、改良を重ねながら長期にわたり主力ブランドの一つとして残った。 |
| 1908〜1915年 なぜ三男・福原信三が1915年に経営の中心へ移ったのか? | 米コロンビア大学で薬学を学び欧州を視察した三男・信三が、薬剤師の素養と写真・美術への造詣を兼ね備えた人物として化粧品事業の意匠面を主導し、商標「花椿」制定を機に企業ブランドの設計に踏み出した。 福原有信の三男・信三は1883年に生まれ、1908年に米コロンビア大学薬学科を卒業した後、欧州を視察して帰国した人物として知られる。写真と美術に深い関心を持ち、後に日本写真会の創立にも関わったとされる人物で、薬学者でありながら意匠と広告の設計に強みを持っていた。 1915年9月、資生堂は商標「花椿」を制定した。椿の花を抽象化した図形商標は、文字情報に依存せずに企業を識別する装置として設計され、薬局という個別業態を超えた「企業ブランド」の原型となった。同年、信三が経営の中心に移り、化粧品事業の意匠・広告・店舗設計を一体で組み立てる体制が整った。銀座8丁目には1902年に薬局店頭で米国式の「資生堂ソーダファウンテン」を設けており、化粧品と洋風喫茶を融合させた店舗が後年の銀座パーラー文化につながった。 |
| 1923年12月 なぜ関東大震災後にチェインストア制度を導入したのか? | 震災で配給機構が壊滅し流通秩序が混乱したことを機に、それ以前から研究していた米国式ボランタリーチェーンを「資生堂製品のみを扱う販売会社」として日本的に翻案し、メーカー主導で値引きを抑える流通組織を作る決断に踏み切った。 1923年9月の関東大震災で東京の問屋・小売の配給機構は壊滅状態となり、戦前型流通の前提が崩れた。資生堂は同年12月にチェインストア制度を導入し、問屋を「資生堂製品のみを取り扱う販売会社」へ組み替え、その販売会社の株式を所属チェインストア(小売店)に持たせる二段構えの組織を発足させた。 福原信三は後年「大震災後、配給機構が全く壊滅し、混乱を致しておりましたので、それを機会に、系統だった販売組織を確立しようと思いつきまして、組織づくりを初めたわけであります」(東商 1963/05)と振り返っている。仕組みの核は「販売会社は所属チェーン・ストア全部に株をもって貰いまして、これはあなた方の会社だからという印象を与え、利害関係をともにするという密接な関係に結びつけた」(東商 1963/05)点にあり、メーカーが流通段階の値引きを抑える設計が、戦後の高度成長期まで70年以上資生堂の収益基盤を支えた。 |
| 1927年6月・8月 なぜ1927年に株式会社化と販売会社制度の整備を同時に進めたのか? | 1923年導入のチェインストア制度を全国へ拡張する段階で、合資会社の組織形態では出資・人事・拠点拡張に制約があり、株式会社化で資本構造を整え、同年8月に販売会社制度を正式運用に移すという二段階の組織改編で対応した。 1927年6月、資生堂は合資会社から株式会社組織に変更し、株式会社資生堂として再発足した。チェインストア制度の導入から3年余りを経て、全国の販売会社網と銀座本店・工場の運営を一体で進めるには合資会社の枠組みでは制約が大きく、近代的な株式会社形態への移行が必要となっていた。 同年8月、販売会社制度を正式に採用し、地域ごとの販売会社設立を本格化させた。1937年1月には消費者組織「資生堂花椿会」(現・花椿CLUB)を発足させ、メーカー・販売会社・小売店・消費者の四層を「花椿」ブランドで束ねる構造が完成している。1939年9月には資生堂化学研究所(後のグローバルイノベーションセンター)を設けて研究開発機能を組織化、1948年12月に大阪資生堂(現・大阪工場)を設立し、戦後の上場準備が整った。1949年5月、東京証券取引所への上場で公開企業の資金調達基盤を獲得した。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1923年12月のチェインストア制度導入の経緯を後年の業界誌で振り返った発言
「大震災後、配給機構が全く壊滅し、混乱を致しておりましたので、それを機会に、系統だった販売組織を確立しようと思いつきまして、組織づくりを初めたわけであります」
チェインストア制度の原型が震災以前から米国ボランタリーチェーンの研究として準備されていた経緯
「当時、ちょうど当社の先々代の松本社長がアメリカにいっておりまして、アメリカのボランタリー・チェーンを調べて帰ってきましたので、これを換骨奪胎して、日本的なチェーンに組織しようと考えた」
問屋を「資生堂製品のみを扱う販売会社」へ組み替えた具体的な手順
「そこで当社の商品の販売については、小売から全部現金で入ってくるのですから、他社の取引とは切り離して、別会計にしてほしいと要求しまして、問屋を当社の営業代理部という格好にしたのですが、その後さらにこれを一歩進めて、それらの問屋を全部当社製品のみを取扱う販売会社に組織替えをしてしまいました」
販売会社の株式を所属チェインストアに持たせる二段構え組織の設計意図
「販売会社は所属チェーン・ストア全部に株をもって貰いまして、これはあなた方の会社だからという印象を与え、利害関係をともにするという密接な関係に結びつけた」
販売会社制度の導入で再販価格維持の枠組みが小売段階まで徹底された経緯
「そこで初めて当社製品の値引き販売の防止ということが、小売店にまで徹底しました」
1960年代初頭の業界誌が資生堂のチェインストア制度を競合の代理店制度と並べて論じた評価
「東方(注:資生堂)の中央集権的に組織化されたチェーン・システムと、西方(注:中山太陽堂)の自主性を尊重する弾力性ある代理店システムのいずれが販売戦の雌雄を決するか」
参考文献
- 有価証券報告書
- 資生堂社史
- 東商 1963/05
- ダイヤモンド 1963/06/03