住友ゴム工業英国ダンロップ社保有株の買い取りと、欧州3社・米国ダンロップのタイヤ事業の取得
英国ダンロップ社が持っていた40パーセントの株式を買い取り、続けて赤字の欧州3社と米国ダンロップ社まで引き受けた3年間
- 概要
- 1983年12月、住友ゴム工業の発行済株式総数の40パーセントを保有していた英国ダンロップ社から、日本側の株主がその全株式を取得した。続く1984年から1986年にかけて、フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカのダンロップのタイヤ事業を相次いで買い取り、日米欧に製造と販売の拠点を持つ体制へ移った経営判断である。
- 背景
- ラジアル構造のタイヤが広まって量から質への移行が進み、輸出は円高で打撃を受けて、国内のタイヤ業界は寡占化へ向かった。一方の英国ダンロップ社は、自国のタイヤシェアを1970年代前半の5割超から1984年には15パーセントまで落とし、傘下のタイヤ事業を手放す側に回っていた。
- 内容
- 株式の取得に続き、1984年1月に日本・台湾・韓国のダンロップ商標権を譲り受け、同年7月にフランス、1985年1月にイギリスと西ドイツ、1986年12月にアメリカの事業を引き受けた。買収に投じた資金は1984年から1986年で約300億円、買収後の設備投資は1984年から1988年の5年で494億円にのぼった。
- 含意
- 欧州3社は1987年に予定より1年早く全社黒字となり、1988年も黒字を保った。一方で国内は円高に削られ、1985年に社名変更以来初の減収となる。海外本部の売上高は1986年に1984年比65パーセントまで落ち、海外の再建と国内の減収が同時に進んだ。
買った自由と、抱え込んだ工場
1984年から1986年に買収へ投じた約300億円は、1985年の経常利益37億4,000万円の8倍にあたる。40パーセントの株式を取り戻すだけなら、この額は要らなかった。横瀬社長は2年の交渉の末、資本の従属を解くと同時に赤字の親会社の工場まで引き受ける道を選んだ。ダンロップの商標を使える範囲を英国側に握られたままでは、国内が円高で細ったときに売る先がない。買う側と買われる側が入れ替わったこの取引で住友ゴム工業が得たのは、規模よりも、どの市場へ売るかを自分で決められる立場であった。
一方で国内は縮んだ。1985年の売上高は社名変更以来初の減収となった。欧州3社と米国ダンロップ社の生産性も、黒字化したあとの1988年で住友ゴム工業本体の4割から6割台にとどまる。金野専務が本当に大変なのはこれからだと語ったのは、全社黒字という結果の裏に、その差がそのまま残っていたからである。世界第6位の規模を手に入れたことと、その規模を使いこなせたかどうかは、分けて見る必要がある。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
寡占化する国内と、40パーセントの株式
1980年代に入り、国内のタイヤ業界は再編へ動いた。ラジアル構造のタイヤが広まって量から質への移行が進む一方、生産量の3分の1を占めていた輸出は円高で打撃を受けた。1981年5月、経営が行き詰まったオーツタイヤが住友ゴム工業の資本参加を仰ぎ、住友ゴム工業は発行済株式総数の48パーセントを取得して全面提携に入る。ブリヂストン以下6社が並んでいた戦後のタイヤ業界は、この時期に寡占化が進んだ[1][2][3]。
もう一つの制約は資本の側にあった。経営権は1963年に日本側へ移っていたが、英国ダンロップ社は発行済株式総数の40パーセントをなお保有していた。ダンロップの商標を使える条件も英国側が握り、それが住友ゴム工業の海外展開を縛る。日本、台湾、韓国という自国周辺の商標権すら英国ダンロップ社の手元にあった事実が、この関係の性格をよく示している[4][5]。
シェアを15パーセントまで落とした英国ダンロップ社
譲る側の英国ダンロップ社も追い込まれていた。イギリス国内のタイヤシェアは1970年代前半に5割を超えていたが、1984年当時には15パーセントまで落ちている。資金が足りないから設備投資ができず、生産性がさらに下がるという循環に入っていた。1980年に7,500人いた従業員は1984年末に2,600人まで減り、工場の閉鎖と人員削減だけが労働組合へ一方的に告げられた[6][7]。
買い取る対象の中身も一様ではなかった。米国ダンロップ社は収益を上げていたが、欧州のダンロップ3社は買収の直前まで赤字を出し続けていた。この大型買収を快挙とみるか暴挙とみるかで当時の見方は二つに分かれ、再建が手間取れば住友ゴム工業本体の重荷になりかねないという懸念も残る。1985年の住友ゴム工業の売上高は2,007億円、経常利益は37億4,000万円で、買収額はその8倍にあたった[8][9]。
決断
株式の買い取りから、事業の引き受けへ
1983年12月、英国ダンロップ社が保有していた発行済株式総数の40パーセントにあたる全株式を、日本側の株主が取得した。交渉にあたった横瀬恭平社長は2年をかけて契約をまとめており、日本企業による海外の大型買収は当時としては異例だった。翌1984年1月には、日本、台湾、韓国におけるダンロップの商標権も譲り受けた。創業以来74年続いた英国資本との関係は、ここで終わる[10][11]。
株式の買い取りは、事業そのものの引き受けへ続いた。1984年7月、フランスの現地法人が仏ダンロップ社の暖簾借りで経営を始め、同年12月31日付で資産を正式に買い取る。1985年1月にはイギリスと西ドイツの現地法人が英国ダンロップ社からタイヤ工場を取得し、1986年12月に米国ダンロップ社を買収した。3年間で投じた買収資金は約300億円にのぼり、日米英西独仏の5カ国に製造、販売、研究開発の拠点が並んだ[12][13]。
初年度黒字と、2、3年後の黒字という見立て
引き受けた各社は、いずれも赤字か低収益にとどまっていた。住友ゴム工業は経営資料を分析し、西ドイツのSPライフェンベルケ社は初年度から黒字経営が可能、SPタイヤーズUK社とダンロップフランス社は2、3年後に実力で黒字を達成できるという見通しを立てる。英仏の2社は投資助成金などの優遇措置を受けており、それを除いた実力での黒字化を条件に置いていた[14][15]。
その見通しを実現させたのは設備投資である。1984年と1985年の2年間で、イギリスに42億円、西ドイツに57億円、フランスに78億円、合わせて177億円を投じた。以後も1986年に112億円、1987年に98億円、1988年に107億円と続き、5年間の合計は494億円に達する。住友ゴム工業の有利子総負債は1984年に前年から100億円増えて918億円となり、うち33億円をヨーロッパの再建事業へ投融資した[16][17]。
結果
予定より1年早い全社黒字
1986年、SPライフェンベルケ社は黒字となって株主へ配当し、ダンロップフランス社もわずかながら黒字へ転じ、SPタイヤーズUK社の赤字は前年より大幅に縮んだ。翌1987年には欧州3社が予定より1年早く揃って黒字となる。住友ゴム工業は要因として、きめ細かな教育・訓練による従業員の士気向上、積極的な合理化投資による品質と生産性の向上、そして販売の伸びの3つを挙げた[18][19]。
1988年も欧州3社は黒字を保った。赤字脱出が最も遅れたSPタイヤーズUK社は、イギリス自動車業界の活況にも恵まれて顕著に利益を改善する。3社の売上高はイギリス1億3,600万ポンド、西ドイツ6億7,100万マルク、フランス21億600万フランに伸び、労働生産性はいずれも30数パーセント高まった。米国ダンロップ社の売上高も前年比120パーセントの5億3,900万ドルとなり、1988年度のグループ総売上高は約5,000億円、世界第6位のタイヤメーカーの規模に届いた[20][21][22]。
円高に削られた国内と、顧問に徹した再建
海外へ資金を入れた数年間、国内は円高に苦しんだ。1985年9月のG5合意で円高が急激に進み、対米ドルの円レートは1984年からの3年余りで1.6倍になる。1985年の売上高は前年比98パーセントの2,007億円と社名変更以来初めての減収となり、翌1986年は売上高1,905億円、経常利益34億6,000万円と減収減益になった。海外本部の売上高は1986年に1984年比65パーセントまで落ちた[23][24]。
現場では、組織内の意思疎通の回復を立て直しの中心に置いた。役員専用の食堂と洗面所を廃し、労働組合へは設備投資と増産を宣言して1985年からの4年間に120億円を投じる。日本側は4人の社外重役を送り、それ以外の派遣者の肩書は顧問にとどめて、英国側の権益と誇りを侵さないよう努めた。技術指導を指揮した金野昭四郎専務は「率直に言って再建は簡単だった」(日経ビジネス 1989/6/19)と振り返る一方、4社の生産性は住友ゴム工業本体を100として4割から6割台にとどまり、本当に大変なのはこれからだとも語った[25][26][27]。
- 住友ゴム八十年史(1989年)「第一一章 国際戦略の推進と企業体質の強化」
- 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
- 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
- 日本産業史(日本経済新聞社、1994年)第3巻「繊維-繊維不況からDCブームへ」
- 日経ビジネス 1989年6月19日号「住友ゴム工業(英国)親会社を蘇生させた秘密」
- 日本経済新聞 2018年1月5日「(追想録)横瀬恭平さん 元住友ゴム工業社長 包容力、異例の買収実らす」