第一製薬匿名組合アーセミン商会の創立とサルバルサンの国産化、第一製薬株式会社への改組

輸入が途絶えた薬をつくるか、輸入が戻るのを待つか——供給の空白から起こされた会社

時期 1915年10月
意思決定者(推定) 柴田清之助(第一製薬 初代社長)ら創立同人
論点 創業と国産化
概要
1915年、第一次大戦でドイツからの医薬品輸入が途絶えるなか、薬学博士の慶松勝左衛門氏が製造に成功した梅毒治療剤サルバルサンの工業化を目的として、匿名組合アーセミン商会を創立した経営判断。3年後の1918年1月に資本金50万円の第一製薬株式会社へ改組した。
背景
明治期の日本に本格的な製薬事業はほとんど育たず、染料と医薬品の市場はドイツのIG組合が握っていた。大戦による輸入の杜絶は医療に重大な障害をもたらし、政府は1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布して国産化を促した。
内容
1915年10月1日に匿名組合として創立し、国産駆梅剤「ネオ・ネオアーセミン」を主体に製造販売を開始。1916年12月31日に合資会社へ改組し、1918年1月31日に同一の経営陣が資本金50万円の株式会社を設立して事業を継承、アーセミン商会は解散した。
含意
薬種問屋の商権も輸入代理店の資本も持たず、一つの製法と供給の空白だけで起こした会社であった。1920年に資本金は200万円まで増えたが、1923年9月の関東大震災で本社・工場を全焼し、11月に半額減資へ追い込まれた。
筆者の見解

製法が先にあり、会社が後から追いついた

慶松勝左衛門氏がサルバルサンの製造に成功した1915年7月から、匿名組合アーセミン商会の創立までは3か月ほどしかない。先に製法があり、それを工業化するために事業を起こし、株式会社という法人格は2年余り遅れて1918年1月に整えられた。大阪の薬種商が資本を蓄えてから工場を建てたのとは、順序がちょうど逆である。匿名組合、合資会社、株式会社と2年3か月で組織を二度組み替えたのは、製造と販売の実態に法人の形式が追いつくまでに、それだけの時間がかかったからである。

創業を支えた条件は、長くは続かなかった。輸入が戻ると製薬業は不振に陥り、薬種問屋の活動が再び活発になる。10年間・年8分の配当保証も、輸入が止まっている間しか効かない。1923年9月の関東大震災では本社と工場を全焼し、資本金は半分に減った。国産化の成否を決めたのは、製法の完成度ではない。輸入が戻るまでの短い間に、どこまで事業を根づかせられるかであった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸入に依存していた医薬品市場

明治期の日本に、本格的な製薬事業はほとんど育たなかった。明治末に国内で生産されていたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎず、医薬品の多くを輸入に頼っていた。染料と医薬品の日本市場を支配していたのは、バディッシュ、バイエル、ヘキストなどからなるドイツのIG組合である。日本の企業が先進国から技術を導入しようとすれば、こうした国際的な独占組織に拒まれ、わずかに製品をつくり出せてもダンピングの強襲を受けるおそれが強かった[1][2]

1914年に欧州大戦が始まると、ドイツからの輸入が止まり、ソーダ、染料、医薬品が国内で欠乏し始めた。政府は臨時薬業調査会を設けて医薬品工業の振興策を諮問し、その答申にもとづいて1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布する。一定の条件に適合する会社へ、10年間にわたり年8分の配当を保証すると政府が約束する内容であった。梅毒治療剤のサルバルサンも、それまでもっぱら輸入に依存してきた薬剤の一つで、その杜絶は医療に重大な障害をもたらした[3][4]

薬種問屋でも輸入商でもない出自

当時、製薬業へ進んだ会社には二つの道筋があった。一つは薬種商からの転身である。日露戦争後の大阪の問屋仲間でとりわけ伸びた武田長兵衛氏、田辺五兵衛氏、塩野義三郎氏らは、輸入薬品を扱いながら小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り出していた。もう一つは輸入販売からの参入で、三共の創立者である塩原又策氏は、横浜で羽二重の売り込みから薬品へ手を伸ばし、輸入・販売業を経て製薬へ移った。どちらも、薬を売って蓄えた資本の上に工場を建てている[5]

アーセミン商会には、そのどちらの前歴もない。1915年7月に薬学博士の慶松勝左衛門氏がサルバルサンの製造に成功し、その工業化を図ることだけが出発点になった。江戸期以来の商権も、輸入代理店として積んだ資本も持たない。会社を起こす材料は、輸入が止まって空いた供給の穴と、国産化にこぎつけた一つの製法の二つに限られていた[6]

決断

匿名組合として始める

1915年10月1日、医薬品の創製と国産化を目的として、匿名組合アーセミン商会が創立された。商会は国産駆梅剤「ネオ・ネオアーセミン」を主体として医薬品の製造販売を開始する。慶松氏の製法を工業化し、輸入品の消えた市場へ国産の駆梅剤を置く。事業はその一点に絞られていた[7]

商会は1916年12月31日に合資会社へ改組した。社史『四十年史』は1915年10月1日から1918年1月31日までを創業期とし、その内側をさらに匿名組合の章と合資会社の章に分けている。2年3か月ほどの間に、事業のかたちが一度変わった計算になる。製造の目処が立つのが先で、それを支える組織は後から合わせている[8]

資本金50万円の株式会社へ

1918年1月31日、医薬品および工業薬品の製造販売を目的とする資本金50万円の第一製薬株式会社が、同一の経営陣によって設立された。新会社は合資会社の事業を継承し、アーセミン商会は解散する。本社を東京・日本橋に、工場を本所に置き、初代社長には柴田清之助氏が選ばれた。翌1919年4月には津村重舎氏が二代目社長に就任している。医薬品と並べて工業薬品を目的に掲げたのは、サルバルサン剤の原料まで自前で作るためである[9]

創業の年をいつと数えるかは、資料によって割れている。『会社銀行八十年史』の第一製薬の項は、設立を大正4年10月1日、すなわちアーセミン商会の創立日と記す。一方、社史『四十年史』は同じ日を創業期の始まりとしつつ、第一製薬株式会社の発足を1918年1月31日に置き、そこから建設期を数えている。2年余りのずれは、この会社が法人ではなく匿名組合から始まった事情をそのまま映している[10][11]

結果

資本金200万円への膨張と震災の全焼

株式会社となった第一製薬は、駆梅剤の周辺を短い期間で買い集めた。1920年7月には、丹波敬三郎博士が完成させた駆梅剤を持つ匿名組合国産製薬所の事業を継承する。同年9月には自社の役員が発起人となって資本金150万円の第二製薬を創立し、合併を目的とした会社であったため即日これを吸収合併した。資本金は200万円となり、株式会社の設立から2年半ほどで4倍に膨らんだ[12]

主要原料の自給と販売を目的として、工業薬品にも手を広げた。抜染剤アルバライトと漂白剤ハイドロサルハイトの製造がそれにあたり、1922年12月には大阪支店を設けている。ところが1923年9月の関東大震災で、本社と工場は全焼した。損害を埋めるため同年11月に半額減資を行い、ただちに復興へ着手する。京都分工場を開いてまずサルバルサン剤の操業を始め、12月に本社事務所が完成、翌1924年7月には柳島工場も再開した[13][14]

輸入が戻ったあとの反動

大戦の終結は、国産化に踏み切った会社へ反動をもたらした。大戦中は医薬の国内生産の必要が高まり、製薬業界は政府の育成政策で潤ったものの、戦後は不振に陥り、薬種問屋の活動が再び活発になる。染料医薬品製造奨励法を契機に生まれた内国製薬は、のちに三共が95%の株式を持って合併した。政府の配当保証は、輸入が止まっている間にだけ効いた。第一製薬が全焼と半額減資に見舞われたのも、この反動の時期である[15][16]

それでも第一製薬は、震災からの復興後もサルバルサン剤を主体に業績をあげた。1929年4月には新設の亀戸工場がアルバライトとハイドロの製造にあたり、1933年12月に完成した高槻工場へは京都分工場の設備一切を移して、やはりサルバルサン剤を主体に操業を始めている。後年の業界史は、大正から昭和にかけて大阪の武田、塩野義、田辺と東京の三共が飛躍する間に、山之内や第一製薬など新進の会社が基礎を固めたと記した[17][18]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「第一製薬」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「医薬品」概説
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社, 1994)「化学-製薬に近代化の波」
  • 第一製薬 四十年史(第一製薬, 1955)

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