ADEKA古河系電気化学として創立:電解の副生水素を使う硬化油事業を併せ持つ会社としての出発

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時期 1917年1月
意思決定者(推定) 調査中
論点 事業構成と技術の使い方
概要

1917年(大正6年)1月27日、古河合名会社を中心とする東京電化工業所を発展的に解消し、資本金100万円の旭電化工業株式会社として創立した経営判断。電解法による苛性ソーダの製造を目的とし、東京府北豊島郡の尾久に工場を置いた。設立当初は苛性ソーダと晒粉を製造し、続いて電解の副生水素を使う硬化油事業に着手した。

背景

当時の苛性ソーダは輸入への依存が大きく、国産化には電解法の工業化が要った。1915年に程ヶ谷曹達が水平隔膜法で初めて工業化に成功すると、旭電化・関東酸曹・三井鉱山が続く。旭電化の母体である東京電化工業所は1915年、古河合名・桂川電力・東京電灯の3社が資本金2万円を出し合って設立し、電解法の研究に着手した会社であった。

内容

苛性ソーダ工業が有望視されるにつれ、2万円の研究組織を100万円の株式会社へ組み替えた。電解では苛性ソーダと同時に塩素と水素が出る。旭電化は、当時まだ使い道の乏しかった副生水素を捨てず、豊富で安価な魚油に水素を添加して硬化油をつくる工業へ進み、1918年(大正7年)に日本初の電解ソーダ副生水素利用の硬化油工場の建設に着手した。

含意

無機のソーダと有機の油脂を最初から併せ持つ構造は、石鹸・グリセリン・人造バターへと品目を広げる土台となった。1928年には農業薬品部門を分離して日本農薬を設立し、1949年に東京証券取引所へ上場する。化学メーカーが食品事業を抱える形は、2026年3月期に売上高830億円の食品事業として今も残っている。

筆者の見解

捨てなかった副産物が残したもの

食塩水を電気分解すれば、水素は望むと望まざるとにかかわらず出てくる。1917年当時、その水素にほとんど使い道はなかった。旭電化が選んだのは、用途の乏しい副産物のほうに合わせて、豊富で安価な魚油という原料を探し当て、発明から数年しか経っていない硬化油工業へ入っていく道であった。無機化学の会社が創立の直後に有機化学へ手を伸ばしたのは、多角化を狙ったというより、電解という工程が二つの出口を持っていたことに素直に従った結果であるとみられる。

ただ、この選択が一貫した構想であったと読むのは行き過ぎになる。副生水素の利用が始まったのは第一次大戦後の不況の最中であり、産業史も電解法ソーダ会社が数社そろって同じことを狙ったと記している。旭電化だけの着想ではなく、時代が副産物の使い道を探させた面が大きい。それでも、石鹸からグリセリン、人造バター、そして牧場経営にまで手を伸ばした歩みを見れば、副産物に事業を合わせるという流儀は、この会社に長く残ったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

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出典・参考

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