1887年2月、高峰譲吉氏・渋沢栄一氏[1]・益田孝氏ら当代を代表する財界人が化学肥料の国産化を計画し、東京人造肥料会社として事業を始めた。化学者の高峰譲吉氏が英国留学中に過燐酸肥料の製造を見学して化学肥料に着目し[2]、帰朝後に渋沢栄一氏・益田孝氏の支援を得て資本金25万円で起こした、わが国化学肥料製造の草分[3]けである。当時の日本農業は輸入肥料に依存する脆弱な構造で、殖産興業政策のなかで自給自足可能な工業化学産業を国内に育てることは、渋沢氏ら創業世代にとって国家的使命の色合いを帯びた事業構想だった。創業当初は農業知識がまだ一般に普及しておらず社業は意のごとく進まなかったが、創立3年目にようやく営業利益を出し、1893年5月に工場[4]が出火焼失したのちは商法施行とともに東京人造肥料株式会社と改称して、初代取締役会長に渋沢栄一氏が就いた。明治後期から大正期にかけて肥料会社は全国各地に相次いで出現し市場競争が激化し、同社は1908年以降に帝国肥料・北海道人造肥料・大阪硫曹・中国肥料・硫酸肥料・北陸人造肥料を順次合併して摂津製油肥料部を買収し、日本最大の肥料メーカーとなった。[5]1923年には東京人造肥料・関東酸曹・日本化学肥料の3社合併[6]で業界再編を自ら主導し、国産化学肥料の先頭集団の一角に立った。硫酸と過リン酸石灰を中心とする肥料の製造から、やがて農業用薬剤・工業用薬剤への多角化が進んだ。
大正の大合同で事業基盤を広げた同社は、昭和初期の不況下でもなお業容を拡大し、1928年には富山にファウザー式アンモニア合成法による工場を建設、1936年には王子工場に新式のS型電解槽を据えてわが国最初の化成肥料の製造にも着手した。[7]1937年4月、石炭と結びついた化学工業への進出をはかるため日本炭と合体して社名を日本化学工業とし[8]、同年12月、日本経済が戦時体制色を強めるなか、同社は日産財閥傘下に入り社名を『日産化学工業』へ改め[9]、現在に至る商号の基礎を据えた。日産コンツェルンの一員となったことで、戦時下の資材統制と軍需動員に対応する原料確保・生産能力の整備が一定程度は可能となり、基礎化学品と農薬を主要な柱とする事業構造が固まった。太平洋戦争に入ると原料の燐砿石の輸入が杜絶して肥料生産に支障をきたし、1943年4月には時局の要請で日本鉱業に吸収合併されてその化学部門となり、1945年4月には日本油脂の化学部門となって社名[10]を再び日産化学工業と改めた。終戦後は化学肥料が重要産業に指定されて工場の復旧が急がれたが、集中排除法と企業再建整備法の適用を受け、1949年には東京証券取引所に上場し、企業再建整備法に基づき油脂部門を『日油』として分離し、戦後の民間企業として出発点を切り直した。[11]その時の資本金は6725万円であった[12]。しかし日産財閥の完全解体で財務的後ろ盾を失った事実は、後年の経営選択に重く影を落とした。戦後の同社は自力で資金を調達し経営判断を下す立場に置かれ、設備投資の踏み切り方も財閥系メーカーとは違う慎重さを取った。
戦後復興が進んで肥料増産が本格化すると肥料の採算が悪化し、輸出価格の低迷と相まって肥料専業メーカーは等しく業績不振に苦しんだため、同社は肥料メーカーから総合化学会社への体質改善をめざして再出発した。1952年にはイタリアのモンテカティニ社と技術提携してファウザー式尿素製造設備を富山工場に設置し[13]、王子工場では連続式過燐酸製造設備を完成させた。1963年には日本興業銀行から日高輝氏を社長[14]に迎えて過燐酸石灰部門の分離など積極的な合理化を進め、翌1964年には山一証券再建のため転出した日高氏のあとに興銀副頭取の石井一郎氏が社長に就いた。この合理化と経営刷新を経て、1965年、日産化学工業は日産化学石油を設立して石油化学事業に参入し、戦後の高度経済成長期における化学産業の王道であった汎用樹脂分野へ本格進出した。ただし、先行していた三菱化成・三井化学・住友化学ら財閥系化学メーカーが強固な生産基盤と販売網をすでに築いており、後発企業として規模の経済で競争を挑むのは現実的ではなかった。同社は技術難易度の高い塩化ビニール・ポリエチレン・高級アルコールに絞り込んで先発企業との差別化を狙い、1969年には埼玉工場を新設し王子工場を閉鎖して袖ヶ浦工場へ移転するなど[15]、生産体制の再編を行った。
しかし1973年のオイルショックを受けて石油化学業界全体が過剰設備と原料コスト急騰に直面し、日産化学も販売不振と売価下落に揉まれた。1982年3月期と1983年3月期は二期連続で最終赤字に転落し、累計損失は57億円まで膨らんだ。日産財閥という後ろ盾を持たない同社にとって、規模で対抗する戦略の限界が露呈した。先発企業が規模の経済で生き残る構造不況の産業では、後発参入者が差別化を図っても収益構造の改善は難しく、石油化学事業そのものの存続可否が経営の最重要課題となった。塩化ビニール・ポリエチレン・高級アルコールという特化領域の差別化努力が構造不況下では収益改善に結びつかず、むしろ規模の小ささが原料調達コストや固定費分散の不利として重くのしかかった。
石油化学への傾斜と並行して、のちに主力となる事業の芽は戦後まもなく蒔かれていた。植物防疫法が成立した1950年、同社はわが国初の合成農薬である2,4-Dの生産を始め[16]、以後は小野田工場を拠点に有機燐系殺虫剤のEPNやエルサンを手がけ、原体から製剤までを一貫して担う農薬メーカーとして業界の先導的な位置を占めた[17]。1971年には千葉に中央研究所を開設し、1982年には埼玉の生物科学研究所を拡充して農薬の研究開発機能を厚くした[18]。この体制から1984年には海外向けの畑作用除草剤タルガが生まれ[19]、輸出品として海外市場に出ていった。海外生産の足がかりも早く、1979年には韓国に農薬原体の製造を担う合弁会社の瑞韓化学を設けている[20]。石油化学が本業として語られていた時期に、農薬は静かに自社発見型の開発体制を積み上げていた。
無機材料の側でも下地は同じ時期に整っていた。1951年に無水珪酸のスノーテックスを世に出し[21]、コロイダルシリカという素材を早くから商品として抱えていたことが、のちの機能性材料事業の出発点となった。一方で祖業の肥料は整理の対象となり、1963年には過燐酸・化成肥料の製造部門3工場を北海道・東京・関西の各日産化学として独立させ、アンモニアや燐酸、電解といった基礎工程は同業他社との合弁会社に製造を委ねる形へ移した[22]。1969年に王子工場を閉じたのちは、袖ヶ浦工場が機能製品を、小野田工場が農薬をそれぞれ受け持ち、この二拠点がのちのファインケミカル事業の生産基盤となった[23]。医薬品にも1985年に医家向け消炎鎮痛剤エパテックで足を踏み入れた[24]。
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|---|---|---|---|---|
| 1887〜1987年東京人造肥料の設立から日産財閥傘下入りと石油化学への後発参入 | 東京人造肥料会社を設立 | ★★ | ||
| 日本舎密製造会社を設立 | ★ | |||
| 小野田工場を完成 | ★ | |||
| 王子製造所を設立 | ★ | |||
| 大日本人造肥料に商号変更 | ★ | |||
| 日産化学工業が発足 | ★ | |||
| 日産財閥の子会社に | ★ | |||
| 日本鉱業と合併、化学部門に | ★★ | |||
| 企業再建整備法により油脂部門を「日油」として分離 | ★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 日産化学石油を設立 | ★★ | |||
| 石油化学事業に参入 | ★★ | |||
| 埼玉工場を新設 | ★ | |||
| 王子工場の閉鎖・袖ヶ浦工場の新設 | ★★ | |||
| 2期連続の最終赤字に転落 | ★★ | |||
| 1988〜2009年中井社長による石油化学完全撤退と農薬・医薬品・機能性材料の三本柱確立 | 中井武夫氏による石油化学からの完全撤退と農薬・機能性材料への転換 1988年、日産化学工業の社長に就任した中井武夫氏が、後発で参入していた石油化学の高級アルコール・ポリエチレン・塩化ビニールの全3事業から完全に撤退し、農薬を核としたファインケミカル路線へ経営資源を集中させた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 農薬・機能性材料への集中投資による高収益経営の確立 1988年の石油化学完全撤退を経て、中井武夫社長は1989年に中期5カ年計画を策定し、農薬・医薬品・機能性材料の三分野へ経営資源を集める方針を打ち出した。『規模より利益率』を追うこの経営哲学は木下小次郎氏・八木晋介氏へと引き継がれ、2020年代には液晶・半導体材料と農薬事業を柱とする高収益体質として実を結んでいる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| Nissan Chemical America Corporation を米国に設立 | ★ | |||
| Nissan Chemical Houston Corporation を米国に設立 | ★ | |||
| 藤本修一郎 | 研究開発組織を再編 | ★ | ||
| 藤本修一郎 | 日産アグリを設立、肥料事業を分社化 | ★ | ||
| 藤本修一郎 | 日本モンサントから農薬除草剤事業を買収 | ★ | ||
| 藤本修一郎 | Nissan Chemical Europe S.A.S. をフランスに設立 | ★ | ||
| 木下小次郎 | 木下小次郎氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2010〜2023年グローバル展開と農薬海外買収による事業深化と商号変更 | 木下小次郎 | DowAgroScienceより農薬殺菌剤事業を買収 | ★ | |
| 木下小次郎 | Thin Materials GmbHを買収 | ★★ | ||
| 木下小次郎 | 中国蘇州に子会社を新設 | ★ | ||
| 木下小次郎 | 「日産化学」に商号変更 | ★ | ||
| 木下小次郎 | Corteva社より殺菌剤「キノキシフェイン」事業を買収 | ★ | ||
| 八木晋介 | 基礎化学品メラミンの生産停止 | ★ | ||
| 八木晋介 | 日本燐酸を買収 | ★ | ||
| 八木晋介 | 日本ポリテックを子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日産化学)