石油化学から完全撤退(塩ビ・ポリエチレン・高級アルコール)
オイルショック後の石油化学不況と後発参入企業が直面した構造的劣位
日産化学は1965年に石油化学に参入したが、三井・住友・三菱といった財閥系化学メーカーに対して後発の参入であった。日産財閥は戦後に完全解体されたため、他の財閥系企業が享受した財務的な後ろ盾や系列取引の恩恵を受けられず、設備投資の規模でも先発企業に劣後する立場にあった。技術難易度の高い塩化ビニール・ポリエチレン・高級アルコールに特化することで差別化を図ったが、これらの製品もコモディティ化が避けられなかった。
1973年のオイルショックを機に石油化学業界全体で過剰生産の問題が深刻化し、日産化学も販売不振と売価下落に直面した。1982年3月期と1983年3月期の2期連続で最終赤字に転落し、累計損失は57億円に達した。後発参入企業として規模の経済で先発企業に対抗する見込みが乏しく、石油化学事業の存続可否そのものが経営の焦点となった。
石油化学の全3部門から完全撤退し事業ごと同業他社に売却
1988年に日産化学の社長であった中井武夫氏(興銀出身)は、石油化学事業の塩ビ部門・ポリエチレン部門・高級アルコール部門の全3部門からの完全撤退を決断した。各事業の開発・販売人員と設備を丸ごと同業他社に売却する方式を採り、塩ビ部門は東ソー、高級アルコール部門は協和発酵、ポリエチレン部門は丸善石油化学にそれぞれ譲渡した。すでに1980年から合弁方式による段階的な事業移管を開始しており、合弁会社の持分売却により撤退を完了した。
撤退にあたっては社外コンサルタントを加えた特別チームを編成し、副社長の徳島氏が約1000人の社員と直接対話して改革の必要性を現場に浸透させた。OBを含む関係者への丁寧な説明により、社員の反発を招くことなく撤退を完了した。撤退時期の1987年から1988年は一時的に石油化学製品の市況が好転しており、売却交渉が順調に進んだ幸運もあった。中井社長は撤退を「単なる縮小ではなく転換である」と位置づけ、農薬事業を核としたファイン化路線を撤退後のシナリオとして明示した。
石油化学撤退後の高付加価値路線で過去最高益を達成
石油化学および関連事業の切り離しにより日産化学の売上高は減少したが、収益性は大幅に改善した。1993年3月期には過去最高益となる経常利益54億円を達成し、事業転換の成果が数値に表れた。石油化学の撤退によって経営資源が農薬・医薬品・機能性材料に集中されたことで、研究開発投資の効率が向上し、1989年以降に複数の主力製品が相次いで開発された。
日産化学の石油化学撤退は、主力事業を丸ごと手放すという石油化学業界でも類を見ない意思決定であった。同業他社も石油化学の低収益に苦しんでいたにもかかわらず完全撤退に踏み切った企業はほぼ皆無であり、日産化学の決断は業界内でも異色であった。撤退後の日産化学は農薬・医薬品・機能性材料という開発力が鍵を握る高付加価値な化学メーカーへと転換し、規模ではなく利益率を重視する経営方針を確立した。