1896年4月、大阪市福島区に日本アスベスト株式会社が設立され[1]、石綿(アスベスト)製品の取扱いが始まった[2]。創業の年のうち、同年8月には大阪工場を建設して石綿製品の自社製造にも着手しており[3]、輸入素材の取扱いから一歩踏み込んだところに事業の出発点があった。当時の日本では工業化が緒に就いた段階で、繊維工場・造船所・鉄道・蒸気機関に欠かせない断熱材・パッキン材を国産で供給する事業者がほぼ存在しなかった。石綿は1,000℃近い高温に耐え、機械の摩擦部・配管継手・ボイラ周りで他に代替がきかない素材で、日本の重工業化と歩調を合わせて需要が膨らんだ。創業地が大阪福島であったことは、紡績・造船・鉄道車輌など重工業の集積地に密着して取引基盤を築いた創業期の選択を示している。1906年4月には増資を行って資本金25万円となり[4]、事業の進展に資本面でも応えた。
1909年3月、本社を大阪福島から東京中央区へ移し[5]、商業の中心地である首都に営業拠点を据えた。1916年9月には東京都品川区に東京工場を設置して関東での石綿製品の自社製造を本格化させ[6]、大阪に続く製造拠点を首都圏にも構えた。当時の日本では関西の繊維・造船産業に加え、首都圏の電力・鉄道・重工業が拡大期にあり、東京近郊での自社工場立ち上げは販売拠点と製造拠点を首都圏に集約する選択だった。1930年12月、東京工場で国産初の[7]『ジョイントシートパッキング』が完成した。ジョイントシートは配管継手の漏れを防ぐシール材で、それまで全量を欧米から輸入していた素材を国産化した一件である。
商社から製造業への垂直統合と、シール材という新領域への国産化投資は、創業期に同社が下した2つの基幹的な事業判断だった。石綿は商社的に扱えば資金回転が速いが付加価値が薄く、製造業として加工すれば資金は寝るが製品差別化と継続契約が取りやすい。創業者世代は商社の身軽さよりも、製造業として顧客の工場・プラントに食い込む道を選び、輸入素材の販売業者から、シール材・断熱材を自社製造して工業ユーザーに納入する素材メーカーへ事業の性格を切り替えた。後年の工業製品事業(プラント断熱・シール)と建材事業の2本柱が当時から30年かけて形成された原型である。
1937年6月、奈良県北葛城郡に王寺工場を設置し[8]、大阪工場をここへ移した。続く1939年12月には横浜市に鶴見工場を設置して東京工場をここへ移管し[9]、東日本の主力生産拠点を鶴見に集約した。鶴見工場は京浜工業地帯の中心部に位置し、隣接する造船所・製鉄所・石油精製プラントへの納入アクセスを優先した立地選定である。創業以来の増資を繰り返し、鶴見工場を設けた頃には資本金は180万円[10]となっていた。日中戦争から太平洋戦争に向けて軍需産業の石綿需要は急増し、艦船・航空機・蒸気機関車・ボイラの断熱材として石綿製品は戦時統制下で重要物資に指定された。軍需向け増産が続き、第二次大戦中は軍需品の生産に従事し、終戦後は直ちに工場設備の復旧につとめて重要産業部門向けの各種石綿製品の製造を再開した。[11]
戦後、1952年6月に東京証券取引所店頭売買承認銘柄として公開[12]、1955年には鶴見工場(石綿板・石綿ジョイントシート)と王寺工場(石綿ジョイントシート・石綿糸・布ほか)がJIS表示工場の指定を受け[13]た。1956年4月には横浜市に研究所(現鶴見研究所)を設置[14]して中央研究機能を組み込んだ。1959年10月には株式会社祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場)[15]を岐阜県の新たな生産拠点として受け入れた。1961年10月に東証二部上場、1962年2月に東証一部上場[16]、1968年9月に大証一部にも上場する複数市場上場銘柄となった。店頭公開から東証一部上場まで10年で、同社は地方工場型の中堅製造業から複数市場上場の中堅素材メーカーへと制度的な格を上げた。1968年の時点で同社は半期売上高67億円強・利益3億円の業績をあげ[17]、製品種類の多さから景気変動に強い事業基盤を築いていた。
1964年3月に静岡県袋井市に袋井工場[18]、1967年9月に奈良県大和郡山市に郡山工場[19]、1974年9月に茨城県結城郡(現下妻市)に結城工場[20]と、戦後の四半世紀で東日本・西日本・関東に生産拠点を分散配置した。製品ごとに専門工場を割り振る多工場体制が整い、ジョイントシート・パッキン・耐火断熱材・建築用石綿セメント板といった製品群はこれら工場に振り分けられた。プラント・造船・自動車・鉄道といった工業ユーザーとの長期取引が同社の収益基盤になり、新規顧客より既存顧客との継続契約で稼ぐ事業性格が固まった。1971年12月の本社移転(東京都中央区から港区へ)[21]も、官公庁・大企業本社が集まる港区への接近で、工業ユーザー営業の効率化を意識した一件であった。
1970年代後半、石綿の健康影響が欧米で社会問題化し、米国環境保護庁(EPA)は石綿規制法案の検討を始め、ILOも石綿労働条約の準備に入った。日本国内では1970年代を通じて石綿被害は限定的な業界内の問題にとどまり、ニチアスの主力製品である耐火断熱材・ジョイントシート・パッキン・建築用石綿セメント板は依然として石綿を主成分とする構造が続いた。同社の売上は1970年代を通じて石綿系製品が大半を占め、石綿価格と石綿建材市況が同社業績を直接左右する構造が続いた。当時の経営陣は欧米の規制動向を観察しつつも、国内市場では当面石綿依存が続くという読みで設備投資を続けた。
1970年代の同社は、製品事業部を工業製品・建材・工事の3軸に整理しつつあったが、いずれの事業も石綿を主原料とする点では同質で、原料調達・製造工程・販売チャネルの大半が石綿に依存していた。後年の代替繊維(ガラス繊維・セラミック繊維・ロックウール)への素材転換は1980年代以降に進んだが、1970年代時点では代替繊維のコスト・性能とも石綿に及ばず、業界全体で石綿代替の見通しは立っていなかった。営業統括上、石綿製品の納入実績で築いた顧客関係そのものが資産であり、製品ラインアップを石綿から非石綿へ切り替えると顧客関係まで揺らぐ恐れがあった。
1980年に入り、欧米での石綿規制が現実化するなか、同社経営陣は社名から『アスベスト』を外す判断に追い込まれた。創業時から85年使い続けた『日本アスベスト株式会社』という社名は[22]、石綿が工業材料として正当な評価を受けていた時代の名残であり、健康影響を懸念する社会的視線が強まるなか、社名そのものが事業継続のリスクになり始めた。1981年10月の社名変更[23]は、表向きはCI(コーポレートアイデンティティ)刷新だが、実質は石綿時代の最終局面を企業名のレベルで認めた判断であり、ここから20年かけて石綿依存事業を全廃へ持っていく長い構造転換の起点が、社名のかたちで宣言された。
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|---|---|---|---|---|
| 1896〜1980年石綿商社からシール材製造業への垂直統合 | 日本アスベストを設立し石綿製品の取扱いを開始 | ★★ | ||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 東京工場を新設、石綿製品の製造を開始 | ★★ | |||
| 東京工場において最初の国産「ジョイントシートパッキング」を完成 | ★★ | |||
| 王寺工場を新設、大阪工場を移転 | ★ | |||
| 鶴見工場を新設、東京工場を移転 | ★ | |||
| 東京証券取引所店頭売買承認銘柄として公開 | ★ | |||
| 研究所を新設 | ★ | |||
| 祖岳製作所を合併し竹鼻工場(現羽島工場)を岐阜の生産拠点として受け入れ 1959年10月、日本アスベスト(現ニチアス)が株式会社祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場、岐阜県羽島市)を新たな工場として受け入れた経営判断である。東西2工場だけで全国の需要に応じていた生産体制に、中部の拠点が加わった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部上場銘柄に | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部上場銘柄に | ★ | |||
| 袋井工場を新設 | ★ | |||
| 郡山工場を新設 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第一部上場銘柄に | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 結城工場を新設 | ★ | |||
| 1981〜2006年「アスベスト」社名返上から国内製造販売全廃まで | 社名から「アスベスト」を外し、主原料を代替素材へ切り替える転換に入る 1981年10月、日本アスベスト株式会社が商号をニチアス株式会社へ変更した。欧米で石綿規制が強まるなか、85年使った社名から素材の名を外し、以後10年あまりをかけて製品の主原料を石綿から代替素材へ置き換えていった判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 事業部制組織に改編し工業製品事業本部、建材事業本部、工事事業本部を設置 | ★ | |||
| 浜松研究所を新設 | ★ | |||
| 執行役員制を導入 | ★ | |||
| 川島吉一 | 大阪証券取引所における有価証券を上場廃止 | ★ | ||
| 川島吉一 | 国内外のアスベスト含有製品の製造・販売を全面終了 ニチアスは、国内では2006年12月末日、海外では2007年3月末日をもってアスベスト含有製品の販売を中止した。1896年の創業から110年、石綿を扱ってきた同社が、その取扱いを終えた判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2007〜2026年自動車部品買収と半導体・EV向け高機能領域への転換 | 矢野邦彦 | 自動車部品テクニカルセンターが竣工 | ★ | |
| 矢野邦彦 | 新企業理念「新生ニチアス・スピリット」を制定 | ★ | ||
| 矢野邦彦 | 新企業理念「ニチアス理念」を制定 | ★ | ||
| イノクリートが井上冷熱からコールドエンジニアリング事業を譲受 | ★ | |||
| イノクリートが井上冷熱から海洋事業を譲受 | ★ | |||
| 武井俊之 | NKK(ニチアス改善活動)を開始 | ★ | ||
| 武井俊之 | 自動車部品製造会社である日本ラインツの株式を取得 | ★★ | ||
| 武井俊之 | 「ニチアスグループ人権方針」を制定 | ★ | ||
| 武井俊之 | 「ニチアスグループカーボンニュートラル宣言」を制定 | ★ | ||
| 武井俊之 | 「ニチアスグループ健康経営宣言」を制定 | ★ | ||
| 亀津克己 | 「ニチアスグループサステナビリティ方針」を制定 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ニチアス)