ニチアス社名から「アスベスト」を外し、主原料を代替素材へ切り替える転換に入る
売上の9割を稼いだ素材の名を、なぜ会社の看板から下ろしたか
- 概要
- 1981年10月、日本アスベスト株式会社が商号をニチアス株式会社へ変更した。欧米で石綿規制が強まるなか、85年使った社名から素材の名を外し、以後10年あまりをかけて製品の主原料を石綿から代替素材へ置き換えていった判断である。
- 背景
- 同社は1896年の創業以来、工業用シール材・耐火断熱炉材・不燃建材の製造販売と、建材工事・保温保冷工事を手がけ、昭和30年代には売上の90%以上をアスベスト関連事業で稼いでいた。1971年に石綿が特定化学物質等障害予防規則の対象となり、作業環境の改善と製品の無石綿化に着手していた。
- 内容
- 社名変更に続き、1986年に横須賀港で米空母ミッドウェーの改修工事に伴う石綿廃棄物の路上放置が発覚して国会で取り上げられると、1987年3月から脱アスベストへ本格的に取り組んだ。フッ素樹脂・ファインセラミックス・自動車部品・非石綿建材を強化事業に選び、中期経営計画「リストラクチャー91」で育てた。
- 含意
- 1990年度の売上高1045億円のうち強化事業は359億円と全体の約34%を占め、石綿を含む製品の比率は15〜20%まで下がった。建材製品が全製品無石綿化となったのは1992年10月で、社名を変えてから11年を要している。
看板を先に下ろした会社の時間感覚
1981年に社名から素材の名を外し、建材の無石綿化が完了したのは1992年10月であった。間に11年が挟まっている。この間隔は、素材メーカーが主原料を替えるという作業の性質をよく示している。代替素材の性能を確かめ、顧客の設計や施工基準を書き替え、工場の設備を入れ替えるまでには、決断だけでは届かない時間が必要となる。社名の変更は、その長い作業に入る前に、外へ向けて先に打った手であったとみることができる。
同時に、社名を変えた1981年から1987年3月までの5年半という空白も残る。会社の看板から素材を外しながら、その素材で作った製品を売り続けた期間があり、実際に手を動かす引き金を引いたのは、自社の判断ではなく横須賀港の米空母から出た廃棄物であった。売上の9割を支えた素材と縁を切る決断は、規制でも社名でもなく、製品が売れなくなるという見通しによって前に進んだ。石綿を最後まで残した特殊なシール材の一部が消えるのは、そこからさらに14年先の2006年になる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売上の9割を1つの素材が支えていた
1896年に石綿の取扱いから始まった同社にとって、アスベストは商品であると同時に会社の名前でもあった。工業用シール材、耐火断熱炉材、不燃建材の製造販売に加え、建材工事や保温保冷工事も手がけ、製品は石油精製・石油化学・鉄鋼・自動車・建築へ納まっていた。昭和30年代には、売上の90%以上をアスベスト関連事業で稼いでいる。1つの鉱物の性質に、事業のほぼ全体が乗っていた[1]。
素材への向き合い方が変わり始めたのは1971年である。この年、石綿が特定化学物質等障害予防規則の対象に指定され、同社は作業環境の改善と、製品の無石綿化に取りかかった。毒性の強い青石綿については、自社工場での製造を1971年に中止し、青石綿の紡織品など購入品の販売も1974年に取りやめている。アスベストの吹き付けも1974年までで、ロックウールの乾式吹き付けも同じ年に終えた。素材の一部を切り落とす作業は、社名変更の10年前から始まっていた[2][3]。
欧米で規制が固まっていく1980年前後
石綿は安価で耐熱性と加工性に優れ、世界各国で広く使われた素材である。一方でがんの発症が急増し、1980年代以降は欧米を中心に規制が強められた。日本でも1980年代後半に学校での石綿使用が大きな問題となる。同社が商号を変えた1981年は、規制の波が欧米で形をとり、国内では社会問題化する直前という時期にあたる。輸出や新規の取引において、社名に素材の名を掲げていること自体が説明を要する条件になりつつあった[4]。
それでも国内の需要は落ちていない。日本の石綿輸入量は1960年代に急増し、1974年に35万トンの山をつけた後も、1990年代まで高い水準が続いた。同社の単体売上高も1980年3月期の500億円から1981年3月期は633億円、社名変更後の1982年3月期は664億円と伸びている。売れている素材を自ら手放す理由は、その時点の損益計算書のなかにはなかった。判断の材料は、国外の規制と社会の視線という、決算に表れない側にあった[5][6]。
決断
85年使った社名から素材の名を外す
1981年10月、同社は商号を「日本アスベスト株式会社」から「ニチアス株式会社」へ変更した。1896年の創業から85年、会社の名は素材の名と同じであり続けた。新しい商号は、旧社名を縮めた呼び方をそのまま正式名へ引き上げたもので、字面としてはさほど動いていない。それでも、社名から素材を外すという行為は、その素材で稼ぐ会社であり続けるつもりがないという意思表示に読める[7]。
ただし、社名を変えても事業の中身はすぐには変わらない。同社が製品から石綿を追い出す作業に本気で取りかかったのは1987年3月からで、社名変更から5年半を経ている。きっかけは1986年、横須賀港で行われた米空母ミッドウェーの改修工事であった。断熱材などに使われていた大量のアスベストが廃棄物として路上に放置されていたことが発覚し、国会で取り上げられて社会問題に発展した。看板が先に動き、中身が後から追いかけた順序であった[8]。
代替素材の事業を「強化事業」として育てる
1986年の一件の後、国内ではアスベスト全廃の機運が一気に高まり、製品を作っても売れない恐れが出てきたと、当時の土本康史取締役建材事業本部長は語っている。アスベストが使えなくなることは経営の根幹を揺さぶる問題であり、生き残るためにも脱アスベスト化は避けて通れなかった。同社は1985年度に過去最高の売上高717億円を記録した後、円高不況で1986年度に666億円へ落ち込み、売上高経常利益率も2.6%から1.5%へ下がっている[9]。
同社は1988年度から1990年度にかけて、売上高900億円・経常利益36億円を目標とする中期経営計画「リストラクチャー91」を実施した。フッ素樹脂、ファインセラミックスのほか、アスベスト代替品を使った自動車部品、非アスベストの建材を強化事業に選び、これらで売上高の40%にあたる360億円を確保する組み立てである。1987年度の売上高の約25%を占めていた、アスベストを大量に使う保温保冷工事に代わる主力を育てる狙いであった。1987年4月には社内組織を製品別の7事業部に再編している[10][11]。
結果
素材の置き換えに要した11年
設備投資と研究開発費の大半を脱アスベスト化へ振り向けた結果、1991年初めの時点でアスベストを含む製品の比率は15〜20%まで下がった。25年前の最盛期には国内消費量の4分の1を占めた同社の石綿使用量も、最盛期の20%程度になっている。耐火断熱炉材は1989年頃に脱アスベストを終え、自動車用ガスケットは自動車各社が1994年末までにアスベストを全廃するのに備えて代替品での生産体制を整えた。対策が遅れていた建材も、1992年3月にすべて代替品へ切り替える計画が立っていた[12][13]。
業績の側でも代替事業が形になった。「リストラクチャー91」の3年間で全体の売上高は毎年10%以上伸び、1990年度には1045億円に届く見通しとなった。経常利益は原材料費と流通コストの上昇で1989年度比10%減の30億円と目標を下回ったものの、強化事業の売上高は全体の約34%にあたる359億円へ育っている。フッ素樹脂事業の売上高は3年間で倍増した。1つの素材が9割を占めていた収益構造から、複数の素材が並ぶ構造への組み替えが、数字の上で確かめられる状態になった[14]。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号「ニチアス。能力主義で脱アスベスト、ぬるま湯体質一掃」
- ニチアス 有価証券報告書 第209期(2025年3月期)【沿革】
- ニチアス 有価証券報告書(1982年3月期・単体)
- ニチアス「当社アスベスト(石綿)含有製品販売終了について」(2007年4月)
- ニチアス「過去に販売したアスベスト含有製品」「アスベスト(石綿)関連Q&A」
- 週刊東洋経済 2005年7月23日号「[TheHeadline/ニュース最前線]周辺住民にもついに被害波及 増殖するアスベスト不安 企業公表相次ぐも、本格救済に問題山積」
- 週刊東洋経済 2005年7月30日号「SPECIAL REPORT 増殖するアスベスト被害 10万人死亡説でもまだ少ない! 石綿"地雷"招いた官民の大罪」