浜松ホトニクス浜松テレビから浜松ホトニクスへの社名変更と、光子工学を軸とする事業領域の再定義

創業以来の「テレビ」を社名から外した晝馬輝夫社長は、何を会社の芯に据えようとしたか

時期 1983年4月
意思決定者(推定) 晝馬輝夫 社長
論点 事業領域の定義と対外的な名乗り
概要
1983年4月、浜松テレビは社名を浜松ホトニクスへ改めた。ホトニクスは光子工学を指す語で、工業用撮像管に由来する「テレビ」を外し、光電管・光電子増倍管・フォトダイオードなど光電変換素子とその応用機器を軸とする事業の実態に社名を合わせた改称であった。翌1984年8月の株式店頭登録に先立つ整理でもあった。
背景
1953年に工業用撮像管の製造を目的として発足した浜松テレビは、光電管・光電子増倍管から半導体素子へ製品を広げ、医用機器や精密測光機器にも応用先を伸ばしていた。技術研究費が毎期の経常利益を上回る収支も、電子部品メーカーの枠に収まらなかった。
内容
1983年4月に浜松ホトニクスへ改称し、同年1月の常光製作所新設、6月の米国ホトニクス・マネージメント・コーポ設立とあわせて、新しい社名を生産拠点と海外組織にも冠した。晝馬輝夫社長は、光を追求すること自体が製品開発であると説明している。
含意
改称後、同社はポジトロンCT用の陽電子検出器で世界シェア9割超、光検出器で6割を占めた。総合電機各社からの傘下入りの誘いを断り、トヨタ自動車から38億円を受け入れている。製品ではなく研究対象を社名に据えた選択が、事業と資本の両面で会社の輪郭を定めたとみることができる。
筆者の見解

何を作る会社かではなく、何を究める会社か

社名の変更を看板の掛け替えとみるのは、この判断を小さく見積もりすぎる。浜松テレビが1953年に名乗ったテレビは、工業用撮像管という一製品に由来する具体的な言葉であった。それを外して光子工学という耳慣れない語を選んだ以上、社名は製品ではなく研究対象を指す名になる。光電管も光電子増倍管も、光を追う過程の一形態となる。何を作る会社かではなく何を究める会社かを名前で宣言したところに、この改称の芯があったとみることができる。

もっとも、光子工学という語そのものが実利を生んだ証拠は乏しい。改称の翌年に株式を店頭登録し、1987年にはトヨタ自動車から38億円を受け入れたが、評価されたのは社名ではなく光電子増倍管と陽電子検出器の技術であった。技術研究費が経常利益を上回る収支も、改称の前後で変わっていない。それでも、総合電機の傘下入りを断った晝馬社長にとって、光の専業を名乗ることは資本の相手を選ぶ基準でもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

撮像管から始まった「テレビ」の社名

浜松ホトニクスの前身は、1948年9月に堀内平八郎氏が浜松市海老塚に開いた東海電子研究所であった。堀内氏は浜松高等工業学校で高柳健次郎氏の助手を務めた技術者で、研究所は当初、広告塔や球の切れた真空管の再生を手がけていた。1953年、静岡大学工学部の技術指導を得て工業用の撮像管を作ることになり、同年9月に資本金50万円の浜松テレビ株式会社が発足する。社名の「テレビ」は、この撮像管に由来している[1][2]

もっとも、テレビの映像は、光を電気信号に変える光電変換管なしには成り立たない。浜松テレビの製品はこの一点から広がり、光電管と光電子増倍管に始まった光電変換素子の開発は、フォトダイオードやCdSセルといった半導体素子にまで及んだ。晝馬輝夫氏は後年、設立の時点で光をテーマに掲げていたわけではなかったと語っている。事業の実態が光へ寄っていくにつれ、社名の「テレビ」は製品の中身から離れた[3][4][5]

利益を上回る研究費を抱えた会社

晝馬輝夫氏は1926年に浜松で生まれ、旧制浜松工業専門学校の機械科を出て1953年に浜松テレビへ入り、1964年に専務、1978年に社長へ就いた。会社設立から9年ほど、光電子増倍管を商品化した頃には自ら米国へ渡っている。不良品の指摘を受けては持ち帰り、代わりの良品を届ける往復を重ね、米国RCA社の販路を切り崩した。海外の顧客に鍛えられた素子が、浜松の技術集団の看板となった[6][7]

収支の姿も、同規模の電子部品メーカーとは違っていた。1982年9月期は経常利益8.5億円に対して技術研究費が16.7億円、社名を改めた1983年9月期も経常利益13.5億円に対して18.1億円と、研究に投じる額が毎期の利益を上回っていた。誰かが開発したものを安く作るのではなく未踏の発見を目指す、と晝馬社長が語った運営方針が、そのまま費用として計上される会社であった[8][9]

決断

「テレビ」を外し、ホトニクスを名乗る

1983年4月、浜松テレビ株式会社は浜松ホトニクス株式会社へ社名を改めた。ホトニクスは光子工学を指す語で、当時の日本ではほとんど耳にしない言葉であった。晝馬社長は後年の講演で、同社が創業以来「光の極限を光の技術集団として追求し、ホトニクス(光子工学)の担い手として歩んできた」と述べ、光を追求すること自体が製品開発であると説明している。社名は、その自己認識を外へ差し出した言葉であった[10][11]

改称は単独の出来事ではなかった。同じ1983年の1月に浜松市常光町へ常光製作所を新設し、6月には米国にホトニクス・マネージメント・コーポを設立して、新しい名を海外組織にも冠した。翌1984年8月には日本証券業協会へ株式を店頭登録している。晝馬社長自身、1953年の発足から83年の改称、84年の店頭公開までを「光を電気にかえる」技術を追い続けた一続きの歩みとして語った[12][13]

「テレビ」では収まらなくなった製品群

社名と実態のずれは、製品の一覧に表れていた。光電管と光電子増倍管に始まった光電変換素子はフォトダイオードやCdSセルを加え、光センサの専業と呼べる品揃えになっていた。計測用の各種光源も自ら開発し、独自の光センサ技術を土台に、テレビジョン技術を応用した画像処理装置や計測装置まで手がけていた。テレビ受像機を作る会社ではなく、光を測る装置を作る会社であった[14]

応用の先も広がっていた。製品はカメラやテレビなどの民生機器にとどまらず、ポジトロンCTやガンマカメラなどの医用機器、分光光度計やカラースキャナといった精密測光機器、さらに各種の研究実験に使われていた。医療分野へは1978年12月に事業目的へ医療機器等の研究・試作・製造・販売を加えたときから入っており、社名変更はその5年後にあたる。名乗りの変更は、先に動いていた事業の裾野に後から追いついた[15][16]

結果

光の専業として外部資本を受け入れる

店頭登録から3年後の1987年、浜松ホトニクスはトヨタ自動車に対して200万株の第三者割当増資を決めた。トヨタは38億円で引き受け、増資後の持株比率8.1%で第2位の株主となった。筆頭は従業員持株会の17.1%で、社員が最大の株主である構成は保たれた。研究開発に要する資金を外から入れながら、経営の主導権は渡さずに済む引き受け手を選んだ増資であった[17]

相手の選び方には理由があった。晝馬社長は後年、公募増資を考えた際に総合電機各社から傘下入りの誘いが相次いだものの、それでは自社の強みが生かせないとして断り、豊田英二氏が話に乗ったと語っている。トヨタ側は監査役と技術担当の役員を送るにとどめ、いずれも非常勤とした。光に関することで自動車作りの役に立てば使わせてほしい、という距離の置き方であった[18][19]

名乗った領域で積み上げた実績

光技術の市場は、改称の後に広がった。1989年の時点で、同社はポジトロンCTの中核部品である陽電子検出器を生産し、その世界シェアは90%を超えていた。晝馬社長は同じ年に光科学技術研究振興財団を設立し、静岡県浜北市の17ヘクタールの用地に光技術の研究開発基地を建設する計画も進めた。日の出前の技術にすぎなかった光工学が、大量生産の注文に応じる産業へ変わったと同社長は述べている[20][21][22]

2001年には光検出器で世界シェア6割を占め、売上高の13%程度を研究開発費に投じる会社になっていた。静岡県が掲げたフォトンバレー構想は浜松ホトニクスを中核に据え、2002年に小柴昌俊氏がノーベル物理学賞を受けた際には、その観測を助けた光電子増倍管の供給元として社名が挙がった。光子工学という耳慣れない名乗りは、外部からもそう呼ばれる言葉に変わった[23][24][25]

出典・参考
  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1992年4月号 別冊付録「企業」浜松ホトニクス(日本証券アナリスト協会)
  • ユニーク企業の経営哲学 第1巻(栄光出版社, 1993)
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「二人三脚の夢追い提携(トヨタ・浜松ホトニクス)」
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号「ぴ〜ぷる 晝馬輝夫氏(浜松ホトニクス社長)『こころ』を光で科学する」
  • 週刊東洋経済 2001年11月3日号「[特集]変革へ動く静岡西部 浜松に新産業の“光”はさすか」
  • 週刊東洋経済 2002年11月23日号「[特集]ノーベル賞を狙える会社 人類の未踏の領域を探求していく」

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