日亜化学工業 の歴史

更新: Author:

創業 1956年
創業者 小川信雄
創業地 徳島県阿南市新野町
創業
1948年、薬剤将校として復員した小川信雄氏が郷里の徳島県阿南市で協同医薬研究所を興し、周辺の石灰石から高純度の塩化カルシウムを製造して、結核薬ストレプトマイシンの原料を協和醗酵へ納めた。薬の寿命を5、6年と見積もった小川氏は、同じ原料から作るリン酸カルシウムが蛍光灯に使われることを知る。1955年に仕上げた原料を東芝・松下電器産業・三菱電機へ持ち込んだものの、当初はどこも取り合わなかった。1956年に新日本電気が試験採用した40ワット蛍光灯は、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光する。硝酸カルシウム系という通説を外した原料が世界一の明るさを達成し、同年12月に資本金400万円・従業員17〜18名で日亜化学工業を設立した。
決断
大手が採らなかった材料を選ぶことが、この会社の参入の仕方である。蛍光体で通説の硝酸カルシウム系を外した選び方を、発光ダイオードでも繰り返した。1983年に赤外線LED用ウエハへ進んだが、大手が量産と価格競争に入った赤色系では利がないとして退き、1989年に窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発に着手した。大学も大手もセレン化亜鉛を研究しており、結晶膜を作れないとされた窒化ガリウムを選んだのは日亜だけである。小川英治社長は同年度に売上高の約3%にあたる5億円を投じ、1993年11月に従来品の約100倍にあたる1カンデラの青色LEDを実用化した。青色LEDの生産は2000年度に300億円を超え、世界市場で首位に立つ。開発部員40人足らずの体制で先へ出られたのは、材料の選択で他社と重ならなかった期間が長かったからである。
現況
収益源と数えた正極材料は、2年で売上が4割を切った。2025年12月期の連結売上高3,640億円のうち光半導体が2,753億円・セグメント利益341億円を占め、正極材料は835億円まで縮んでいる。2023年12月期に2,155億円あった正極材料は、電気自動車向けの需要が鈍って2024年12月期に111億円、2025年12月期に80億円の減損損失を計上した。地域別ではアジア1,365億円・日本1,108億円・北南米733億円・欧州408億円と海外が7割を占め、アップル1社への売上高は395億円で連結の10.9%にあたる。上場していない日亜化学工業は、この減少を株価で問われないまま、2025年12月期も光半導体へ261億円の設備投資を続けた。
競合
他社に作らせない方針を、自ら取り下げた。日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、ロームや松下電器産業など十数社のライセンス要請を断り、1996年8月以降は豊田合成と十数件の訴訟を重ねた。競合がいない分だけ単価は落ちず、高い利益率が続く。ところが2001年5月と6月、東京地裁と東京高裁は米クリー製品の非侵害と日亜特許の無効を相次いで認め、同年に特許の囲い込みからライセンス供与へ方針を改めた。同じ年、クリーは日亜の標準品と同等以上の明るさの素子をサンプル出荷し、豊田合成も従来品の10倍の白色LEDを出している。囲い込みが成り立たなくなったのは法廷で退けられたからではなく、囲い込んでいる間に発光効率で並ばれたからである。
日亜化学工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年12月期2025年12月期

創業ストーリー 石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く (1948年〜)

復員後に興した協同医薬研究所と高純度塩化カルシウム

1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた小川信雄[1]は、3歳で父を亡くし、1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進んだ[2]。同校で最初の陸軍依託生徒に採用され、陸軍軍医学校を出て陸軍衛生材料本廠に勤めた。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り[3]、直接撮影方式に比べてフィルムの使用量を大幅に減らした。太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征[4]し、その途中に立ち寄ったミンダナオ島のダバオで、淡い光を放つゼネラル・エレクトリック社製の蛍光灯を初めて見た[5]。この印象がX線装置の開発経験とともに、後年に蛍光体へ向かう動機となった。3年におよぶ補給の途絶を生き延びて1946年2月に佐世保へ上陸すると、大協石油に招かれて四日市へ赴任した[6]。そして1948年に同社を退いて郷里へ帰り、協同医薬研究所を興して薬局を開いた[7]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
    • [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
    • [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
    • [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
    • [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
    • [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった

阿南市の周辺には良質の石灰石が産出する[8]。小川氏はその石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度の塩化カルシウム[9]を研究した。当時この原料は米国のメルク社から輸入されており[10]、国産化を試みていた協和醗酵が高品質な供給先を探していた。1951年に量産へ漕ぎ着けた無水塩化カルシウム[11]はメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受ける[12]に至った。ストレプトマイシンは当時、協和醗酵と明治製菓の2社だけが製造しており[13]、発注は急増して、協同医薬研究所はここで経済的な基盤を得た。ただし小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり[14]、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探した。そして塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った[15]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
    • [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
    • [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
    • [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
    • [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
    • [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
    • [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
    • [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
    • [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
    • [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
    • [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
    • [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
    • [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
    • [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
    • [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった
    • [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
    • [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
    • [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
    • [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
    • [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った

硝酸カルシウム系という通説を外した蛍光体原料

蛍光体の原料は当時アメリカからの輸入に頼り、家電メーカーが自社工場で焼成していて、国産化は技術的に至難とされていた[16]。しかも蛍光灯用の蛍光体には、硝酸カルシウムを主原料としたリン酸カルシウムでなければならないというのが通説[17]である。小川氏が選んだのは塩化カルシウムだった。1955年にほぼ自信のある原料を作れるようになり、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだが、当初はどこも取り合わなかった[18]。無名でつてもなく、この分野で最も進んだ技術を持っていた東芝が硝酸カルシウム系だった[19]ことも重なる。1956年になって新日本電気が試験的に採用し[20]、日亜の原料から作った蛍光体で40ワットの蛍光灯を試作したところ、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。世界で最も明るい蛍光灯だった。[21]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
    • [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
    • [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
    • [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
    • [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった

驚いた新日本電気が技術提携先の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送ると、蛍光体生産で世界最大手だった同社も性能に驚き、日亜へ直接発注してきた[22]。この成功を受けて、小川氏は1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名[23]で、株式の4分の1は協同医薬研究所の出資者へ、ほかにも世話になった関係者と従業員へ無償で交付[24]した。新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの1位を3年続けて取った[25]。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁といわれた3,200ルーメンを超えた[26]。1959年には蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを追い抜き[27]、硝酸カルシウムにとどまった東芝も1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた[28]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
    • [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
    • [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
    • [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
    • [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
    • [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った

1961年に初めて渡米した小川氏は、ウェスチングハウス社やシルバニア社を訪ね、自社の蛍光体原料が商社を通ると出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されている事実[29]を知った。以後、日亜は商社を介さない直接貿易を取引の基本方針とした[30]。1962年には那賀川沿いの水と緑に恵まれた土地を選んで本社工場の建設に入り[31]、1964年12月に上中工場が操業を始めた[32]。1966年3月には照明用蛍光体そのものの製造を始め[33]、同月、蛍光灯用蛍光体の製造を専業とする子会社としてオリエンタル産業(後の日亜電子化学)を設立した。1967年には蛍光体の焼成工場を増設した。国内シェアが原料供給分を含めて80%近くに達していた[34]時期の増設であり、落成式に来た新日本電気と東芝の関係者は工場の規模に驚いた。1968年には東芝に次いで、米ゼネラル・エレクトリック社からハロリン酸カルシウム蛍光体の特許実施権を取得[35]した。

  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
    • [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
    • [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
    • [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
    • [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
    • [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
    • [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
    • [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
    • [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
    • [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
    • [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
    • [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
    • [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
    • [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
    • [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
    • [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった
    • [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った
    • [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
    • [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
    • [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した

カラーテレビ用蛍光体への10年と、輸出を前提にした生産規模

1959年頃から日亜化学工業は、蛍光灯の次の分野としてカラーテレビ用蛍光体の研究に入った[36]。この開発は予想を越える負担となり、製品が本格的に市場へ出る1971年1月まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要した[37]。再三の危機に耐えられたのは、良品は売れるという信念と従業員の結束による[38]と小川氏は振り返った。転機は1967年のソニーとの接触[39]だった。ソニーは3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており[40]、日亜はこの方式に適した蛍光体の開発に着手して1971年から供給を始めた。テレビ用の蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子の大きさをそろえる技術など、照明用より高度な特性が求められた。ソニーに続いて松下からも大量の受注が入った。[41]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
    • [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
    • [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
    • [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
    • [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった

1976年12月期の年商は31億200万円、子会社の日亜電子化学は6億400万円だった[42]。従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、1976年に研究開発へ投じた費用は約1億2,000万円と総売上の4%弱[43]に達した。工場には大学の研究室と見まがう実験器具と物性測定器が並び、事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊数十万円のドイツ語原書を含む化学関係の専門図書が置かれた[44]。この頃、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて70%程度、テレビ用蛍光体は約30%と推定[45]され、国内のカラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われていた。ソニーと新日本電気には全色で使用量の約半分、松下電器にはほぼ独占的に納めた[46]。1974年5月には徳島工場が操業を始め[47]、ゴム用のバナジウム触媒を作り始めた[48]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
    • [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
    • [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
    • [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
    • [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
    • [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した

1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を始めた[49]。ハロリン酸カルシウム系の昼光色蛍光灯は赤色光が乏しく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があり[50]、イットリウムやユーロピウムといった希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させる[51]ことで、この欠点を補った。輸出先はアメリカ、カナダ、台湾、フィリピン、韓国、南アフリカ、イタリア、スウェーデン、西ドイツにおよび、年間およそ2億円の外貨を稼いだ[52]。社是には『より明るい世界のために限りなき研究を』[引用元]という和文を添えた英文[53]を掲げた。カラーテレビ業界は米国と欧州の輸入規制で先行きが読めなくなっており、テレビ用蛍光体に業績を依存する構造への警戒から、小川氏は次の製品として発光ダイオードの開発に期待をかけた[54]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
    • [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
    • [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
    • [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
    • [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
    • [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
    • [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
    • [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
    • [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
    • [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
    • [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
    • [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
    • [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
    • [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
    • [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
    • [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
    • [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった
    • [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
    • [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した
    • [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した

赤色LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムという選択

蛍光体で国内首位を取った後も、日亜化学工業は蛍光体だけに頼る体質から抜けようとした。蛍光体の世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり[55]、市場規模そのものに限りがあった。そこで蛍光体事業から上がる利益を元手に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投じた[56]。米モンサント社が1965年頃にLEDを開発した頃[57]から小川氏はこの素子に関心を持ち、大企業の委託で半導体用ガリウムの精製も手がけていた。1983年には赤外線LED用のガリウムアルミニウム砒素エピタキシャルウエハの製造と販売[58]を始めた。ただし営業部隊が大手企業から聞いてきた製品を苦労して仕上げても、2度とも価格競争に敗れてほとんど商売にならない[59]。開発を担当した中村修二氏には、この敗戦が横並びの研究をやめる判断の始まりとなった[60]

  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [55]蛍光体の需要は世界全体で約1万トン(うち照明用は8千トン)にすぎず、蛍光体だけでは市場規模に限界があった
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
    • [56]蛍光体事業から上がる利益を背景に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投入した
  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [57]米モンサント社が1965年頃にLEDを初めて開発し、日亜化学工業も大企業の委託を受けて半導体用ガリウムの精製を行っていた
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [58]1983年に赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売を開始した
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [59]中村には過去に2回の苦い思い出があり、営業部隊が大手企業から聞いてきたものを苦労して製品化したが、2回とも大手との価格競争に敗れてほとんど商売にならなかった
    • [60]以来、多少リスクがあっても大手と横並びの研究には取り組まないという信念が中村修二に芽生えた

日亜化学工業はまず赤色系のLEDに取り組み、最初の製品こそ暗かったものの、やり直して市販品を上回る高輝度の製品にたどり着いた[61]。しかしその時期には大手各社が量産態勢に入って価格競争の段階へ進んでおり、中小企業の日亜が続けても利がないと小川氏は判断した。代わりに選んだのが、難しいとされていた高輝度の青色LEDだった。[62]当時、赤は数カンデラ、緑は500ミリカンデラの製品が作られていたのに対し、青色は10ミリカンデラ程度の光しか出せず、カンデラ級の青は20世紀中には実現しないとまで言われた[63]領域である。青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が難しい[64]

  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [61]まず赤色系LEDの開発に取り組み、最初のものは暗かったが、やり直して市販品より高輝度の製品ができた
    • [62]その時期には大手企業が量産化の態勢に入り価格競争の段階に入っており、中小企業の日亜が続けてもメリットがないと判断した
    • [63]当時は赤が数カンデラ、緑が500ミリカンデラの製品が作られる一方、青色LEDは10ミリカンデラ程度しか出せず、カンデラ級の青は今世紀中にはできないとも言われていた
    • [64]青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が困難とされた

大学や研究機関、大手企業のほとんどはセレン化亜鉛を研究していた[65]。一方の窒化ガリウムは、欠陥の少ない結晶膜を作るのが極めて難しい材料[66]だった。中村氏が絞ったのは、発光量が大きく寿命も長いこの材料[67]である。

  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [65]ほとんどの大学・研究機関・大手企業はセレン化亜鉛を研究していた
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [66]欠陥の少ない結晶膜を作ることが極めて難しく、大手企業の研究者は早くから見切りをつけていた
    • [67]開発を担当した中村修二は、発光量が大きく寿命も長い窒化ガリウムを選んだ
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [55]蛍光体の需要は世界全体で約1万トン(うち照明用は8千トン)にすぎず、蛍光体だけでは市場規模に限界があった
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
    • [56]蛍光体事業から上がる利益を背景に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投入した
  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [57]米モンサント社が1965年頃にLEDを初めて開発し、日亜化学工業も大企業の委託を受けて半導体用ガリウムの精製を行っていた
    • [61]まず赤色系LEDの開発に取り組み、最初のものは暗かったが、やり直して市販品より高輝度の製品ができた
    • [62]その時期には大手企業が量産化の態勢に入り価格競争の段階に入っており、中小企業の日亜が続けてもメリットがないと判断した
    • [63]当時は赤が数カンデラ、緑が500ミリカンデラの製品が作られる一方、青色LEDは10ミリカンデラ程度しか出せず、カンデラ級の青は今世紀中にはできないとも言われていた
    • [64]青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が困難とされた
    • [65]ほとんどの大学・研究機関・大手企業はセレン化亜鉛を研究していた
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [58]1983年に赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売を開始した
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [59]中村には過去に2回の苦い思い出があり、営業部隊が大手企業から聞いてきたものを苦労して製品化したが、2回とも大手との価格競争に敗れてほとんど商売にならなかった
    • [60]以来、多少リスクがあっても大手と横並びの研究には取り組まないという信念が中村修二に芽生えた
    • [66]欠陥の少ない結晶膜を作ることが極めて難しく、大手企業の研究者は早くから見切りをつけていた
    • [67]開発を担当した中村修二は、発光量が大きく寿命も長い窒化ガリウムを選んだ

フロリダ留学とツーフロー法による三つの突破

中村氏は1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了して日亜化学工業へ入社した[68]

  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [68]中村修二は1979年に徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了し、同年日亜化学工業に入社して開発課に勤務した

1989年に帰国すると、社長に就いていた小川英治氏が売上高の約3%にあたる5億円をこの年度の開発費として出す[69]。日亜には装置は自分で作れという方針があり[70]、蛍光体事業を自前の炉で立ち上げた経験から、経営陣は装置を外部へ発注しない重要さを知っていた。

  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [69]小川英治社長は売り上げの3%にあたる5億円を、青色LEDの初年度の開発費として出した
    • [70]「装置は自分で作れ」というのが上層部の考え方で、蛍光体事業を立ち上げた経験から装置を自ら作る重要さをトップは痛感していた
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
    • [68]中村修二は1979年に徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了し、同年日亜化学工業に入社して開発課に勤務した
    • [69]小川英治社長は売り上げの3%にあたる5億円を、青色LEDの初年度の開発費として出した
    • [70]「装置は自分で作れ」というのが上層部の考え方で、蛍光体事業を立ち上げた経験から装置を自ら作る重要さをトップは痛感していた

円高下で整えた海外の供給網と、二代目社長への交代

青色LEDの開発と並行して、日亜化学工業は1991年にリチウムイオン二次電池用の正極材料の開発に着手した[71]。海外の足場もこの時期に整えた。1985年のプラザ合意を契機とする円高を背景に、日本のテレビメーカーが海外生産を強めた[72]ため、日亜は現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給する体制[73]を敷く。1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した[74]。輸出比率が4割弱の日亜[75]にとって、円高は業績を直撃する要因でもあった。

  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [71]1991年にリチウムイオン二次電池用正極材料の開発を開始した
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [72]1985年のプラザ合意を契機とした円高傾向を背景に、日本のテレビメーカーは海外生産体制の強化を進めた
    • [73]日亜はユーザーをフォローするため、現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給するために海外子会社を設立した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [74]1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
    • [75]急激な円高は、輸出比率が40%弱と高い日亜化学を直撃した

1989年、小川信雄氏は社長を退いて会長となり、娘婿で専務の小川英治氏が社長に就いた[76]小川英治氏は1960年に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工業を経て1965年に日亜化学工業へ入社した技術者[77]で、1977年には取締役工場長を務めていた[78]。研究の設備にも資金を割いており、1986年には6階建ての研究棟が完成した[79]。大学の研究施設に遜色ない設備と豊富な文献を備えた建物だった。蛍光体では国内シェア約50%、世界シェア約25%を占め、照明用に限れば国内で5割を超えていた[80]。1993年12月期の売上高は167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人しかいない[81]

  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [76]1989年(平成元年)に小川信雄が社長を退いて会長となり、専務で女婿の小川英治が社長に就任した
    • [77]小川英治は1960年(昭和35年)に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工を経て1965年(昭和40年)に日亜化学工業へ入社した
    • [79]昭和61年(1986年)に完成した6階建ての研究棟は、大学の研究施設と遜色ないほどの設備と豊富な文献を備えていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [78]小川英治は1977年時点で取締役工場長を務めていた
  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [80]蛍光体の国内市場シェアは約50%、世界市場では約25%で、照明用では国内50%を超えていた
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
    • [81]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人だった
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [71]1991年にリチウムイオン二次電池用正極材料の開発を開始した
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [72]1985年のプラザ合意を契機とした円高傾向を背景に、日本のテレビメーカーは海外生産体制の強化を進めた
    • [73]日亜はユーザーをフォローするため、現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給するために海外子会社を設立した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [74]1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
    • [75]急激な円高は、輸出比率が40%弱と高い日亜化学を直撃した
    • [81]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人だった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
    • [76]1989年(平成元年)に小川信雄が社長を退いて会長となり、専務で女婿の小川英治が社長に就任した
    • [77]小川英治は1960年(昭和35年)に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工を経て1965年(昭和40年)に日亜化学工業へ入社した
    • [79]昭和61年(1986年)に完成した6階建ての研究棟は、大学の研究施設と遜色ないほどの設備と豊富な文献を備えていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
    • [78]小川英治は1977年時点で取締役工場長を務めていた
  • 商工ジャーナル 1996年1月号
    • [80]蛍光体の国内市場シェアは約50%、世界市場では約25%で、照明用では国内50%を超えていた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

日亜化学工業の沿革1956〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1982年石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く小川信雄塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立

1951年から協和醗酵へストレプトマイシン用の高純度塩化カルシウムを納めていた小川信雄氏が、硝酸カルシウム系という通説を外して塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料を作り上げ、1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した経営判断。

詳細を読む
★★★
小川信雄上中工場(現本社所在地)の操業開始
小川信雄照明用蛍光体の製造開始★★
小川信雄オリエンタル産業(後の日亜電子化学)の設立
小川信雄カラーテレビ用蛍光体の製造開始★★
小川信雄本社を阿南市新野町から上中町(現所在地)へ移転
小川信雄徳島工場の操業開始
小川信雄照明用三波長蛍光体の製造開始★★
1983〜1992年蛍光体の会社が半導体材料へ越境し、赤色で退いて青色に賭けるまで小川信雄赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売開始★★
小川信雄台湾の連合照明股份有限公司に資本参加
小川英治赤色系LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発着手

1989年、日亜化学工業が赤色系LEDの量産競争から退き、大学・研究機関・大手企業のほとんどが選ばなかった窒化ガリウムを材料に、高輝度の青色LED開発へ研究資源を移した経営判断。開発は中村修二氏が担い、1989年度には売上高の約3%にあたる5億円が開発費に充てられた。

詳細を読む
★★★
小川英治リチウムイオン二次電池用正極材料の開発開始★★
1993〜2005年青色LEDの実用化と、囲い込んだ特許が呼び込んだ十数件の特許訴訟小川英治高輝度青色LEDの開発に成功★★★
小川英治高輝度青緑LEDの開発に成功
小川英治純緑色LEDの開発と青系レーザーの発振に成功
小川英治辰巳工場の操業開始
小川英治白色LEDの開発に成功★★★
小川英治二次電池材料の量産製造開始★★
小川英治青系レーザーで1万時間の連続発振を達成
小川英治青紫色レーザーダイオードの量産販売開始★★
小川英治青色LED特許の囲い込みとライセンス供与の拒否、2001年の方針転換と発明対価訴訟の和解

日亜化学工業は青色LEDに関する特許を100件以上取得し、ライセンス供与を拒んで市場を1社で占める方針をとった。2001年に相次いだ敗訴と特許無効の判断を受け、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出す方針へ改めた。並行して、発明者である中村修二氏との職務発明対価訴訟が2005年1月の和解まで続いた経営判断である。

詳細を読む
★★★
小川英治波長365nmの紫外線LEDの完成
2006〜2026年光半導体と正極材料の二本柱、そして車載向けを見据えた垂直統合小川英治鳴門工場の操業開始
小川英治車載用リチウムイオン電池向け正極材料の採用★★
小川裕義SmFeN磁性材料の自動車部品への採用
小川裕義波長280nmの深紫外LEDの量産化★★
小川裕義日信サファイアの設立
小川裕義信光社からのサファイア基板事業の譲受★★
小川裕義アルパッドの全株式取得★★
小川裕義ドイツに車載向け研究開発拠点を設立
小川裕義アルパッドの吸収合併
出典・参考
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号
  • 商工ジャーナル 1994年7月号
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号
  • 商工ジャーナル 1996年1月号

免責事項およびポリシー