1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた小川信雄氏[1]は、3歳で父を亡くし、1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進んだ[2]。同校で最初の陸軍依託生徒に採用され、陸軍軍医学校を出て陸軍衛生材料本廠に勤めた。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り[3]、直接撮影方式に比べてフィルムの使用量を大幅に減らした。太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征[4]し、その途中に立ち寄ったミンダナオ島のダバオで、淡い光を放つゼネラル・エレクトリック社製の蛍光灯を初めて見た[5]。この印象がX線装置の開発経験とともに、後年に蛍光体へ向かう動機となった。3年におよぶ補給の途絶を生き延びて1946年2月に佐世保へ上陸すると、大協石油に招かれて四日市へ赴任した[6]。そして1948年に同社を退いて郷里へ帰り、協同医薬研究所を興して薬局を開いた[7]。
阿南市の周辺には良質の石灰石が産出する[8]。小川氏はその石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度の塩化カルシウム[9]を研究した。当時この原料は米国のメルク社から輸入されており[10]、国産化を試みていた協和醗酵が高品質な供給先を探していた。1951年に量産へ漕ぎ着けた無水塩化カルシウム[11]はメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受ける[12]に至った。ストレプトマイシンは当時、協和醗酵と明治製菓の2社だけが製造しており[13]、発注は急増して、協同医薬研究所はここで経済的な基盤を得た。ただし小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり[14]、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探した。そして塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った[15]。
蛍光体の原料は当時アメリカからの輸入に頼り、家電メーカーが自社工場で焼成していて、国産化は技術的に至難とされていた[16]。しかも蛍光灯用の蛍光体には、硝酸カルシウムを主原料としたリン酸カルシウムでなければならないというのが通説[17]である。小川氏が選んだのは塩化カルシウムだった。1955年にほぼ自信のある原料を作れるようになり、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだが、当初はどこも取り合わなかった[18]。無名でつてもなく、この分野で最も進んだ技術を持っていた東芝が硝酸カルシウム系だった[19]ことも重なる。1956年になって新日本電気が試験的に採用し[20]、日亜の原料から作った蛍光体で40ワットの蛍光灯を試作したところ、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。世界で最も明るい蛍光灯だった。[21]
驚いた新日本電気が技術提携先の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送ると、蛍光体生産で世界最大手だった同社も性能に驚き、日亜へ直接発注してきた[22]。この成功を受けて、小川氏は1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名[23]で、株式の4分の1は協同医薬研究所の出資者へ、ほかにも世話になった関係者と従業員へ無償で交付[24]した。新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの1位を3年続けて取った[25]。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁といわれた3,200ルーメンを超えた[26]。1959年には蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを追い抜き[27]、硝酸カルシウムにとどまった東芝も1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた[28]。
1961年に初めて渡米した小川氏は、ウェスチングハウス社やシルバニア社を訪ね、自社の蛍光体原料が商社を通ると出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されている事実[29]を知った。以後、日亜は商社を介さない直接貿易を取引の基本方針とした[30]。1962年には那賀川沿いの水と緑に恵まれた土地を選んで本社工場の建設に入り[31]、1964年12月に上中工場が操業を始めた[32]。1966年3月には照明用蛍光体そのものの製造を始め[33]、同月、蛍光灯用蛍光体の製造を専業とする子会社としてオリエンタル産業(後の日亜電子化学)を設立した。1967年には蛍光体の焼成工場を増設した。国内シェアが原料供給分を含めて80%近くに達していた[34]時期の増設であり、落成式に来た新日本電気と東芝の関係者は工場の規模に驚いた。1968年には東芝に次いで、米ゼネラル・エレクトリック社からハロリン酸カルシウム蛍光体の特許実施権を取得[35]した。
1959年頃から日亜化学工業は、蛍光灯の次の分野としてカラーテレビ用蛍光体の研究に入った[36]。この開発は予想を越える負担となり、製品が本格的に市場へ出る1971年1月まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要した[37]。再三の危機に耐えられたのは、良品は売れるという信念と従業員の結束による[38]と小川氏は振り返った。転機は1967年のソニーとの接触[39]だった。ソニーは3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており[40]、日亜はこの方式に適した蛍光体の開発に着手して1971年から供給を始めた。テレビ用の蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子の大きさをそろえる技術など、照明用より高度な特性が求められた。ソニーに続いて松下からも大量の受注が入った。[41]
1976年12月期の年商は31億200万円、子会社の日亜電子化学は6億400万円だった[42]。従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、1976年に研究開発へ投じた費用は約1億2,000万円と総売上の4%弱[43]に達した。工場には大学の研究室と見まがう実験器具と物性測定器が並び、事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊数十万円のドイツ語原書を含む化学関係の専門図書が置かれた[44]。この頃、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて70%程度、テレビ用蛍光体は約30%と推定[45]され、国内のカラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われていた。ソニーと新日本電気には全色で使用量の約半分、松下電器にはほぼ独占的に納めた[46]。1974年5月には徳島工場が操業を始め[47]、ゴム用のバナジウム触媒を作り始めた[48]。
1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を始めた[49]。ハロリン酸カルシウム系の昼光色蛍光灯は赤色光が乏しく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があり[50]、イットリウムやユーロピウムといった希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させる[51]ことで、この欠点を補った。輸出先はアメリカ、カナダ、台湾、フィリピン、韓国、南アフリカ、イタリア、スウェーデン、西ドイツにおよび、年間およそ2億円の外貨を稼いだ[52]。社是には『より明るい世界のために限りなき研究を』[引用元]という和文を添えた英文[53]を掲げた。カラーテレビ業界は米国と欧州の輸入規制で先行きが読めなくなっており、テレビ用蛍光体に業績を依存する構造への警戒から、小川氏は次の製品として発光ダイオードの開発に期待をかけた[54]。
蛍光体で国内首位を取った後も、日亜化学工業は蛍光体だけに頼る体質から抜けようとした。蛍光体の世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり[55]、市場規模そのものに限りがあった。そこで蛍光体事業から上がる利益を元手に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投じた[56]。米モンサント社が1965年頃にLEDを開発した頃[57]から小川氏はこの素子に関心を持ち、大企業の委託で半導体用ガリウムの精製も手がけていた。1983年には赤外線LED用のガリウムアルミニウム砒素エピタキシャルウエハの製造と販売[58]を始めた。ただし営業部隊が大手企業から聞いてきた製品を苦労して仕上げても、2度とも価格競争に敗れてほとんど商売にならない[59]。開発を担当した中村修二氏には、この敗戦が横並びの研究をやめる判断の始まりとなった[60]。
日亜化学工業はまず赤色系のLEDに取り組み、最初の製品こそ暗かったものの、やり直して市販品を上回る高輝度の製品にたどり着いた[61]。しかしその時期には大手各社が量産態勢に入って価格競争の段階へ進んでおり、中小企業の日亜が続けても利がないと小川氏は判断した。代わりに選んだのが、難しいとされていた高輝度の青色LEDだった。[62]当時、赤は数カンデラ、緑は500ミリカンデラの製品が作られていたのに対し、青色は10ミリカンデラ程度の光しか出せず、カンデラ級の青は20世紀中には実現しないとまで言われた[63]領域である。青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が難しい[64]。
大学や研究機関、大手企業のほとんどはセレン化亜鉛を研究していた[65]。一方の窒化ガリウムは、欠陥の少ない結晶膜を作るのが極めて難しい材料[66]だった。中村氏が絞ったのは、発光量が大きく寿命も長いこの材料[67]である。
中村氏は1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了して日亜化学工業へ入社した[68]。
1989年に帰国すると、社長に就いていた小川英治氏が売上高の約3%にあたる5億円をこの年度の開発費として出す[69]。日亜には装置は自分で作れという方針があり[70]、蛍光体事業を自前の炉で立ち上げた経験から、経営陣は装置を外部へ発注しない重要さを知っていた。
青色LEDの開発と並行して、日亜化学工業は1991年にリチウムイオン二次電池用の正極材料の開発に着手した[71]。海外の足場もこの時期に整えた。1985年のプラザ合意を契機とする円高を背景に、日本のテレビメーカーが海外生産を強めた[72]ため、日亜は現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給する体制[73]を敷く。1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した[74]。輸出比率が4割弱の日亜[75]にとって、円高は業績を直撃する要因でもあった。
1989年、小川信雄氏は社長を退いて会長となり、娘婿で専務の小川英治氏が社長に就いた[76]。小川英治氏は1960年に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工業を経て1965年に日亜化学工業へ入社した技術者[77]で、1977年には取締役工場長を務めていた[78]。研究の設備にも資金を割いており、1986年には6階建ての研究棟が完成した[79]。大学の研究施設に遜色ない設備と豊富な文献を備えた建物だった。蛍光体では国内シェア約50%、世界シェア約25%を占め、照明用に限れば国内で5割を超えていた[80]。1993年12月期の売上高は167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人しかいない[81]。
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|---|---|---|---|---|
| 1948〜1982年石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く | 小川信雄 | 塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立 1951年から協和醗酵へストレプトマイシン用の高純度塩化カルシウムを納めていた小川信雄氏が、硝酸カルシウム系という通説を外して塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料を作り上げ、1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小川信雄 | 上中工場(現本社所在地)の操業開始 | ★ | ||
| 小川信雄 | 照明用蛍光体の製造開始 | ★★ | ||
| 小川信雄 | オリエンタル産業(後の日亜電子化学)の設立 | ★ | ||
| 小川信雄 | カラーテレビ用蛍光体の製造開始 | ★★ | ||
| 小川信雄 | 本社を阿南市新野町から上中町(現所在地)へ移転 | ★ | ||
| 小川信雄 | 徳島工場の操業開始 | ★ | ||
| 小川信雄 | 照明用三波長蛍光体の製造開始 | ★★ | ||
| 1983〜1992年蛍光体の会社が半導体材料へ越境し、赤色で退いて青色に賭けるまで | 小川信雄 | 赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売開始 | ★★ | |
| 小川信雄 | 台湾の連合照明股份有限公司に資本参加 | ★ | ||
| 小川英治 | 赤色系LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発着手 1989年、日亜化学工業が赤色系LEDの量産競争から退き、大学・研究機関・大手企業のほとんどが選ばなかった窒化ガリウムを材料に、高輝度の青色LED開発へ研究資源を移した経営判断。開発は中村修二氏が担い、1989年度には売上高の約3%にあたる5億円が開発費に充てられた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川英治 | リチウムイオン二次電池用正極材料の開発開始 | ★★ | ||
| 1993〜2005年青色LEDの実用化と、囲い込んだ特許が呼び込んだ十数件の特許訴訟 | 小川英治 | 高輝度青色LEDの開発に成功 | ★★★ | |
| 小川英治 | 高輝度青緑LEDの開発に成功 | ★ | ||
| 小川英治 | 純緑色LEDの開発と青系レーザーの発振に成功 | ★ | ||
| 小川英治 | 辰巳工場の操業開始 | ★ | ||
| 小川英治 | 白色LEDの開発に成功 | ★★★ | ||
| 小川英治 | 二次電池材料の量産製造開始 | ★★ | ||
| 小川英治 | 青系レーザーで1万時間の連続発振を達成 | ★ | ||
| 小川英治 | 青紫色レーザーダイオードの量産販売開始 | ★★ | ||
| 小川英治 | 青色LED特許の囲い込みとライセンス供与の拒否、2001年の方針転換と発明対価訴訟の和解 日亜化学工業は青色LEDに関する特許を100件以上取得し、ライセンス供与を拒んで市場を1社で占める方針をとった。2001年に相次いだ敗訴と特許無効の判断を受け、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出す方針へ改めた。並行して、発明者である中村修二氏との職務発明対価訴訟が2005年1月の和解まで続いた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川英治 | 波長365nmの紫外線LEDの完成 | ★ | ||
| 2006〜2026年光半導体と正極材料の二本柱、そして車載向けを見据えた垂直統合 | 小川英治 | 鳴門工場の操業開始 | ★ | |
| 小川英治 | 車載用リチウムイオン電池向け正極材料の採用 | ★★ | ||
| 小川裕義 | SmFeN磁性材料の自動車部品への採用 | ★ | ||
| 小川裕義 | 波長280nmの深紫外LEDの量産化 | ★★ | ||
| 小川裕義 | 日信サファイアの設立 | ★ | ||
| 小川裕義 | 信光社からのサファイア基板事業の譲受 | ★★ | ||
| 小川裕義 | アルパッドの全株式取得 | ★★ | ||
| 小川裕義 | ドイツに車載向け研究開発拠点を設立 | ★ | ||
| 小川裕義 | アルパッドの吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日亜化学工業)