{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"nichia","company_name":"日亜化学工業","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/nichia/","api_url":"/api/nichia/history.json","updated":"2026-08-12","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/nichia/","title":"日亜化学工業の歴史概略","sections":[{"start_year":1948,"end_year":1982,"main_title":"石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く","subsections":[{"title":"復員後に興した協同医薬研究所と高純度塩化カルシウム","text":"1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた小川信雄氏は、3歳で父を亡くし、1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進んだ。同校で最初の陸軍依託生徒に採用され、陸軍軍医学校を出て陸軍衛生材料本廠に勤めた。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り、直接撮影方式に比べてフィルムの使用量を大幅に減らした。太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征し、その途中に立ち寄ったミンダナオ島のダバオで、淡い光を放つゼネラル・エレクトリック社製の蛍光灯を初めて見た。この印象がX線装置の開発経験とともに、後年に蛍光体へ向かう動機となった。3年におよぶ補給の途絶を生き延びて1946年2月に佐世保へ上陸すると、大協石油に招かれて四日市へ赴任した。そして1948年に同社を退いて郷里へ帰り、協同医薬研究所を興して薬局を開いた。\n\n阿南市の周辺には良質の石灰石が産出する。小川氏はその石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度の塩化カルシウムを研究した。当時この原料は米国のメルク社から輸入されており、国産化を試みていた協和醗酵が高品質な供給先を探していた。1951年に量産へ漕ぎ着けた無水塩化カルシウムはメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けるに至った。ストレプトマイシンは当時、協和醗酵と明治製菓の2社だけが製造しており、発注は急増して、協同医薬研究所はここで経済的な基盤を得た。ただし小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探した。そして塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った。","references":[{"title":"中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小川信雄","role":"日亜化学工業 会長","date":"1996-01","text":"以前から、付近(徳島県阿南市)の石灰岩に含まれるカルシウムから塩化カルシウムというストレプトマイシンの主原料となる物質を製造していました。それがまた、蛍光灯に使われる燐酸カルシウムの原料でもあったために、蛍光体に向かい、日亜化学工業を一九五六年に、創業したのです","source":"商工ジャーナル 1996年1月号","paragraph":2}]},{"title":"硝酸カルシウム系という通説を外した蛍光体原料","text":"蛍光体の原料は当時アメリカからの輸入に頼り、家電メーカーが自社工場で焼成していて、国産化は技術的に至難とされていた。しかも蛍光灯用の蛍光体には、硝酸カルシウムを主原料としたリン酸カルシウムでなければならないというのが通説である。小川氏が選んだのは塩化カルシウムだった。1955年にほぼ自信のある原料を作れるようになり、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだが、当初はどこも取り合わなかった。無名でつてもなく、この分野で最も進んだ技術を持っていた東芝が硝酸カルシウム系だったことも重なる。1956年になって新日本電気が試験的に採用し、日亜の原料から作った蛍光体で40ワットの蛍光灯を試作したところ、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。世界で最も明るい蛍光灯だった。\n\n驚いた新日本電気が技術提携先の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送ると、蛍光体生産で世界最大手だった同社も性能に驚き、日亜へ直接発注してきた。この成功を受けて、小川氏は1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名で、株式の4分の1は協同医薬研究所の出資者へ、ほかにも世話になった関係者と従業員へ無償で交付した。新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの1位を3年続けて取った。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁といわれた3,200ルーメンを超えた。1959年には蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを追い抜き、硝酸カルシウムにとどまった東芝も1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた。\n\n1961年に初めて渡米した小川氏は、ウェスチングハウス社やシルバニア社を訪ね、自社の蛍光体原料が商社を通ると出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されている事実を知った。以後、日亜は商社を介さない直接貿易を取引の基本方針とした。1962年には那賀川沿いの水と緑に恵まれた土地を選んで本社工場の建設に入り、1964年12月に上中工場が操業を始めた。1966年3月には照明用蛍光体そのものの製造を始め、同月、蛍光灯用蛍光体の製造を専業とする子会社としてオリエンタル産業（後の日亜電子化学）を設立した。1967年には蛍光体の焼成工場を増設した。国内シェアが原料供給分を含めて80%近くに達していた時期の増設であり、落成式に来た新日本電気と東芝の関係者は工場の規模に驚いた。1968年には東芝に次いで、米ゼネラル・エレクトリック社からハロリン酸カルシウム蛍光体の特許実施権を取得した。","references":[{"title":"中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小川信雄","role":"日亜化学工業 社長","date":"1977-04","text":"うちの製品で、世界に挑もう。その為にはこれ位の生産規模をもつ工場が必要である","source":"中小企業金融公庫月報 1977年4月号","paragraph":3}]},{"title":"カラーテレビ用蛍光体への10年と、輸出を前提にした生産規模","text":"1959年頃から日亜化学工業は、蛍光灯の次の分野としてカラーテレビ用蛍光体の研究に入った。この開発は予想を越える負担となり、製品が本格的に市場へ出る1971年1月まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要した。再三の危機に耐えられたのは、良品は売れるという信念と従業員の結束によると小川氏は振り返った。転機は1967年のソニーとの接触だった。ソニーは3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体の開発に着手して1971年から供給を始めた。テレビ用の蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子の大きさをそろえる技術など、照明用より高度な特性が求められた。ソニーに続いて松下からも大量の受注が入った。\n\n1976年12月期の年商は31億200万円、子会社の日亜電子化学は6億400万円だった。従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、1976年に研究開発へ投じた費用は約1億2,000万円と総売上の4%弱に達した。工場には大学の研究室と見まがう実験器具と物性測定器が並び、事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊数十万円のドイツ語原書を含む化学関係の専門図書が置かれた。この頃、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて70%程度、テレビ用蛍光体は約30%と推定され、国内のカラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われていた。ソニーと新日本電気には全色で使用量の約半分、松下電器にはほぼ独占的に納めた。1974年5月には徳島工場が操業を始め、ゴム用のバナジウム触媒を作り始めた。\n\n1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を始めた。ハロリン酸カルシウム系の昼光色蛍光灯は赤色光が乏しく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があり、イットリウムやユーロピウムといった希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させることで、この欠点を補った。輸出先はアメリカ、カナダ、台湾、フィリピン、韓国、南アフリカ、イタリア、スウェーデン、西ドイツにおよび、年間およそ2億円の外貨を稼いだ。社是には「より明るい世界のために限りなき研究を」という和文を添えた英文を掲げた。カラーテレビ業界は米国と欧州の輸入規制で先行きが読めなくなっており、テレビ用蛍光体に業績を依存する構造への警戒から、小川氏は次の製品として発光ダイオードの開発に期待をかけた。","references":[{"title":"中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1983,"end_year":1992,"main_title":"蛍光体の会社が半導体材料へ越境し、赤色で退いて青色に賭けるまで","subsections":[{"title":"赤色LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムという選択","text":"蛍光体で国内首位を取った後も、日亜化学工業は蛍光体だけに頼る体質から抜けようとした。蛍光体の世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり、市場規模そのものに限りがあった。そこで蛍光体事業から上がる利益を元手に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投じた。米モンサント社が1965年頃にLEDを開発した頃から小川氏はこの素子に関心を持ち、大企業の委託で半導体用ガリウムの精製も手がけていた。1983年には赤外線LED用のガリウムアルミニウム砒素エピタキシャルウエハの製造と販売を始めた。ただし営業部隊が大手企業から聞いてきた製品を苦労して仕上げても、2度とも価格競争に敗れてほとんど商売にならない。開発を担当した中村修二氏には、この敗戦が横並びの研究をやめる判断の始まりとなった。\n\n日亜化学工業はまず赤色系のLEDに取り組み、最初の製品こそ暗かったものの、やり直して市販品を上回る高輝度の製品にたどり着いた。しかしその時期には大手各社が量産態勢に入って価格競争の段階へ進んでおり、中小企業の日亜が続けても利がないと小川氏は判断した。代わりに選んだのが、難しいとされていた高輝度の青色LEDだった。当時、赤は数カンデラ、緑は500ミリカンデラの製品が作られていたのに対し、青色は10ミリカンデラ程度の光しか出せず、カンデラ級の青は20世紀中には実現しないとまで言われた領域である。青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が難しい。\n\n大学や研究機関、大手企業のほとんどはセレン化亜鉛を研究していた。セレン化亜鉛は既存の砒化ガリウムと結晶構造が同じで原子間距離もほぼ等しく、結晶を育てやすかったからである。一方の窒化ガリウムには結晶構造も原子間距離も合う下地結晶がなく、欠陥の少ない結晶膜を作るのが極めて難しい。この材料に挑んだのは、1973年に松下電器産業東京研究所で研究を始めた赤崎勇氏らだった。赤崎氏は1981年に経営陣から中止を命じられて同社を辞め、名古屋大学へ移った。そこで1985年2月に大学院生の天野浩氏がサファイア基板と窒化ガリウムの間へ窒化アルミニウムのバッファ層を挟む方法を見つけ、1987年8月には電子線の照射で窒化ガリウムをp型にする道が開いた。中村氏が絞ったのは、発光量が大きく寿命も長いこの材料である。","references":[{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏［日亜化学工業開発部主任研究員］あえて大手と違う材料選択」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小川信雄","role":"日亜化学工業 会長","date":"1996-01","text":"しかし、そのときには皆さん大手企業が量産化の態勢に入っており、価格競争の段階に入っていました。中小企業の当社としては、これをつづけても、メリットがないと判断して、今度は、むずかしいといわれていた高輝度の青色LED開発に取り組んだのです\n「世界一の商品をつくろう」とはわが社のスローガンですが、よそと同じことをやっていたのでは、一番にはなれないということです","source":"商工ジャーナル 1996年1月号","paragraph":2},{"speaker":"中村修二","role":"日亜化学工業 開発部主任研究員","date":"1994-06-06","text":"大企業と同じことをやれば、たとえ成功してもすぐに追いつかれてしまう","source":"日経ビジネス 1994年6月6日号","paragraph":3},{"speaker":"小川英治","role":"日亜化学工業 社長","date":"1994-03-07","text":"我々は小学生みたいなもの。大手メーカーが出す宿題を一生懸命解いてきた","source":"日経ビジネス 1994年3月7日号","paragraph":1}]},{"title":"フロリダ留学とツーフロー法による三つの突破","text":"中村氏は1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了して日亜化学工業へ入社し、開発課でリン化ガリウムの多結晶などを見よう見まねで作り、自ら売り歩いて数百万円の売上を会社にもたらした。当時の日亜は地元の人ばかり200人足らずの組織で、20年以上勤めた幹部は研究者を志す新入社員を身のほど知らずと笑ったという。大企業なら誰でも作れる製品を二番煎じで作っても儲けは知れていた。中村氏は小川氏を説き、まだ誰も実用化していない青色発光デバイスを作って売ることを提案した。小川氏はこれを受けて研究費を出す判断をし、1988年、中村氏を米フロリダ大学へ1年間送り出した。留学先を選んだのは、大学の2年先輩である酒井士郎氏が客員研究員として結晶成長を研究していたからである。\n\nフロリダ大学には結晶成長装置があるとされていたが、実際にあったのは部品だけで、中村氏は韓国と中国の大学院生とともに1年かけて装置を組み立てた。完成したのは帰国1か月前で、学位を持たない中村氏は研究会に呼ばれず、装置が壊れたときだけ呼び出される扱いを受けた。1989年に帰国すると、社長に就いていた小川英治氏が売上高の約3%にあたる5億円をこの年度の開発費として出す。日亜には装置は自分で作れという方針があり、蛍光体事業を自前の炉で立ち上げた経験から、経営陣は装置を外部へ発注しない重要さを知っていた。中村氏は帰国後、酒井氏に相談して市販の有機金属化学気相成長装置を買い、その改造に明け暮れた。\n\n1990年夏、中村氏は原料ガスを横から炉へ入れると同時に、上から窒素と水素の混合ガスを大量に吹き付けるツーフロー法にたどり着いた。成長温度が1,000度と高いため原料ガスが対流で上に逃げ、サファイア基板に届かないという見立てから生まれた方法である。この方法に変えて一発で成功し、無色透明の窒化ガリウム薄膜を得た。結晶成長には赤崎氏と天野氏のバッファ層技術を使ったが、約半年後に窒化アルミニウムではなく窒化ガリウムをバッファ層に用いることにした。この特許が日亜化学工業にとって最強の特許となった。1991年12月には部下の岩佐成人氏とともに、マグネシウムを添加した結晶を窒素中で熱処理して水素を追い出し、窒化ガリウムのp型化に成功した。最後に残ったインジウムの混ぜ方はNTTの松岡隆志氏に学び、1992年、青色発光ダイオードの実用化に届いた。","references":[{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏［日亜化学工業開発部主任研究員］あえて大手と違う材料選択」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"中村修二","role":"カリフォルニア大学サンタバーバラ校 教授","date":"2003-04-05","text":"ひどい屈辱を味わいました。一人の対等の人間として認めてくれません。自分がこれまでやってきたことがすべて無視されました。研究会には呼んでくれませんが、何かが壊れたら修理しろと呼びつけられます","source":"週刊東洋経済 2003年4月5日号","paragraph":1},{"speaker":"中村修二","role":"カリフォルニア大学サンタバーバラ校 教授","date":"2003-04-05","text":"装置を手に入れて一年の間結晶成長を試みてきたのですが、とにかく窒化ガリウム薄膜が、まったくできません。しかし考えてみると、成長温度一〇〇〇度という高温ですから横から原料ガスがやってきてもすぐに温められて対流で上に行ってしまう。だから原料ガスがサファイアのところにたどり着けないのではないか。そう、はたと思ったのです","source":"週刊東洋経済 2003年4月5日号","paragraph":3}]},{"title":"円高下で整えた海外の供給網と、二代目社長への交代","text":"青色LEDの開発と並行して、日亜化学工業は1991年にリチウムイオン二次電池用の正極材料の開発に着手した。ソニーが世界で初めてリチウムイオン電池を製品化した年と同じで、蛍光体で培った無機材料の技術を電池材料へ向けた格好になる。海外の足場もこの時期に整えた。1985年のプラザ合意を契機とする円高を背景に、日本のテレビメーカーが海外生産を強めたため、日亜は現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給する体制を敷く。1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した。輸出比率が4割弱の日亜にとって、円高は業績を直撃する要因でもあった。\n\n1989年、小川信雄氏は社長を退いて会長となり、娘婿で専務の小川英治氏が社長に就いた。小川英治氏は1960年に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工業を経て1965年に日亜化学工業へ入社した技術者で、1977年には取締役工場長を務めていた。研究の設備にも資金を割いており、1986年には6階建ての研究棟が完成した。大学の研究施設に遜色ない設備と豊富な文献を備えた建物だった。蛍光体では国内シェア約50%、世界シェア約25%を占め、照明用に限れば国内で5割を超えていた。1993年12月期の売上高は167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人しかいない。","references":[{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦（日亜化学工業㈱）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏［日亜化学工業開発部主任研究員］あえて大手と違う材料選択」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社（徳島県）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1993,"end_year":2005,"main_title":"青色LEDの実用化と、囲い込んだ特許が呼び込んだ十数件の特許訴訟","subsections":[{"title":"1カンデラの青から白色LEDへ、世界首位に立つまでの7年","text":"1993年11月、日亜化学工業は明るさ1カンデラの青色LEDの開発に成功したと発表した。従来品の約100倍にあたり、1カンデラの実現は21世紀に入ってからとみられていたため、無名の中小企業による達成は大手企業を慌てさせた。翌1994年1月下旬には警察庁が小山稔技師長を呼び、信号機に採用できないかと打診した。半年に一度取り換えていた電球をLEDに替えれば、交換周期を10年近くまで延ばせるからである。1994年に量産へ入り、製造歩留まり80%と月間数千万個の量産体制にめどをつけた。当時の日亜は売上の9割を蛍光体が占め、1993年12月期の売上高は円高で前期比12%減の167億円、経常利益は同49%減の7億8,800万円まで落ちた。従業員は594名だった。\n\n青が明るくなると、今度は緑が暗く見えた。日亜化学工業は同じ窒化ガリウム系の材料で緑色に取り組み、1994年秋に青を2カンデラへ引き上げ、1995年9月には従来品の60倍の明るさを持つ純緑色LEDを完成させた。赤・青・緑の三原色がそろい、LEDによる大画面ディスプレイのフルカラー化に道が開いた。1995年12月には室温で波長410ナノメートルの青紫色レーザーの発振に成功した。CDに使う赤色レーザーに比べて記録密度を約4倍に高められるため、次世代の映像記録媒体の鍵となる素子と見られた。1996年9月には白色LEDを開発し、同年11月には二次電池材料の量産製造も始めた。1995年12月期の売上高は205億5,000万円、経常利益は19億3,000万円である。\n\nこの時期の開発体制は小さい。1996年の従業員650人はほとんどが徳島県出身で、開発部員は40人足らず、うちLEDなど新事業の担当は20人しかいなかった。研究費に予算を置かず、研究者本人の申告に対して成果が出そうなときは億単位の費用を出し、進まない研究は出費を抑えた。青色LEDの開発が正念場だった1992年と1993年には2、3億円をかけた。経理部や購買部などの間接部門はわずか10人で、社内の掃除は毎朝社員が30分かけて行っていた。この体制のまま、青色LEDの生産は1999年度に200億円を超え、2000年度には300億円を突破して世界のLED市場で首位に立つ。2000年12月期の売上高は700億円に迫り、売上高営業利益率は27%を超えた。従業員数も2,500人に達し、1994年までは売上高200億円に満たなかった会社が、7年で4倍以上の規模になった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"季報ほくとう 第38号（北海道東北開発公庫, 1996年）「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小川英治","role":"日亜化学工業 社長","date":"1996-03-11","text":"結果は問わない。たとえ、我が道を突き進んで失敗してもマイナス評価はしない","source":"日経ビジネス 1996年3月11日号","paragraph":3}]},{"title":"ライセンスを出さない戦略と、豊田合成・クリーとの法廷闘争","text":"日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、他社に作らせず市場を1社で占める戦略をとった。製品を投入してきたメーカーとは法廷で争い、1996年8月以降、豊田合成との訴訟は十数件に達した。日亜の特許部長は2001年夏の時点で8勝2敗と語り、そのほとんどは日亜側が仕掛けたものだった。ライセンスの供与は徹底して拒んだ。ロームの高須秀視取締役は1998年9月からたびたび徳島の本社を訪ねたが、そのたびに断られ、1999年秋に交渉は決裂した。日亜が繰り返した説明は、田舎の小さな会社なのでライセンスを出せば一気につぶされる、というものだった。松下電器産業や三洋電機など十数社も同様に断られた。競合がない分だけ単価が落ちず、高収益の事業になったとされる。\n\n2001年に入ると流れが変わった。5月15日、米クリー社製の青色LEDを輸入・販売していた住友商事に対する訴訟で、東京地裁はクリー製品の構造が日亜の特許とは別物だとして日亜を敗訴させた。日亜は控訴したが、同年12月にも再び敗れた。6月13日には東京高裁が、日亜の層構造に関する特許を公知として無効と判断した。7月にはロームが京都地裁へ、8月には豊田合成が大阪地裁へ、それぞれ日亜による特許侵害を訴えて提訴した。豊田合成の田中裕副社長は、窒化ガリウムの研究はもともと豊田合成の方が早く、日亜が一方的に有利だとする報道は実態とかけ離れていたと反論した。日亜の特許のほとんどを取得した中村修二氏自身も、網羅性はなく今となっては穴だらけではないかと述べた。\n\n日亜化学工業には戦略を変えようとする動きも出た。LEDを中心とする半導体事業を統括する第二部門長に、三菱化学で長く半導体関連の開発に従事し、2年間の半導体商社勤務を経て1999年4月に入社した田崎登常務を起用した。田崎登常務は、日亜が2000年に世界のLED市場で首位に立った以上もう小さいという言い訳はできないとして、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出したいと述べた。1994年当時にライセンスを出していれば年間100億円から200億円の特許収入になっていたはずだという見方も社外にはある。一方で法廷闘争の間に製品開発では追撃を受けた。2001年11月に米クリーがサンプル出荷したLED素子は、住友商事によれば日亜の標準品と同等以上の明るさで、豊田合成も従来品の10倍の明るさを持つ白色LEDのサンプル出荷を始めた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"季報ほくとう 第38号（北海道東北開発公庫, 1996年）「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"田崎登","role":"日亜化学工業 常務","date":"2001-09-03","text":"これまで日亜化学の特許を侵害する企業に対して、当然の権利として知的財産権の権利を主張してきた。しかし昨年、日亜は世界のLED市場でトップに躍り出た。もう小さいという言い訳はできない。優れた特許を持っている企業にはライセンスを出したい","source":"日経ビジネス 2001年9月3日号","paragraph":3}]},{"title":"発明対価訴訟の200億円判決と、8億4,000万円での和解","text":"青色LEDを開発した中村修二氏は1999年12月に日亜化学工業を退職し、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授へ転じた。理由として本人が挙げたのは待遇の低さと、研究の現場から引き離されたことである。報奨金は2万円で、国際学会で給与額を話すと海外の技術者に奴隷のようだと驚かれた。会社は約6,000万円の特別退職金を払う見返りに窒化ガリウムの研究と特許出願をしないよう求めたが、中村氏は秘密保持契約への署名を拒み、退職金も受け取っていない。2000年、日亜は営業秘密の漏洩とコンピューター詐欺を理由に、米ノースカロライナ州の連邦地裁で中村氏を訴えた。この提訴が中村氏を反転させた。\n\n米国で訴えられると、証拠開示のためあらゆる情報を出さなければならない。自宅や大学の研究室まで調べられて疲弊した中村氏は、この攻撃を終わらせるために2001年8月23日、東京地裁へ日亜化学工業を提訴した。求めたのは20億円の一部請求と、在職中に取得した青色LEDの製造装置に関する第2628404号特許の権利譲渡である。中村氏が出願時と取得時に会社から受け取った額は、それぞれ1万円だった。代理人を務めた升永英俊氏は、市場価値の算出も研究テーマの選定も中村氏が1人で行い、経営トップが研究中止を命じた後も続けて実用化させたとして、貢献度は中村氏8割に対し日亜2割だと主張した。日亜側は、中村氏が特許の帰属にこだわるのはクリーへライセンスを出す契約があるからだと見ていた。\n\n2002年9月、東京地裁は特許の帰属を日亜化学工業とする中間判決を出した。1985年に改正された会社規則が特許法35条にいう勤務規則にあたること、職務発明の権利譲渡について黙示の合意があったこと、個別の譲渡契約も成立していたことが理由である。升永弁護士は、社規のどの条項が譲渡を示すか明記されていないと反論した。争点は相当の対価の算定へ移り、2004年1月、東京地裁は日亜が得た利益を1,200億円、中村氏の貢献度を50%と認定して200億円の支払いを命じた。産業界からは常識を無視した判決だとの反発が起きた。訴訟は2005年1月11日、東京高裁での和解で終わった。高裁は404号以外の発明も一括したうえで利益を120億円、貢献度を5%と認定し、日亜は遅延損害金を含めて約8億4,000万円を支払った。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 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2005年1月22日号","paragraph":3}]}]},{"start_year":2006,"end_year":2026,"main_title":"光半導体と正極材料の二本柱、そして車載向けを見据えた垂直統合","subsections":[{"title":"鳴門工場と横浜研究所、そして第二の柱になった正極材料","text":"2006年2月、日亜化学工業は東京技術センターを横浜技術研究所に改称して新社屋を落成させ、同月には日亜タイを設立した。同年11月には鳴門工場が操業を始めた。2007年4月には日亜光デバイスを吸収合併し、2008年2月に日亜インド、2009年1月に日亜ロシア、2012年5月に深圳日亜化学有限公司を設立した。この間、蛍光体で培った無機材料の技術を移した正極材料が伸びた。2008年の時点で、リチウムイオン電池の主要4材料のうち電池の性能を最も左右する正極材のコバルト酸リチウムで、日亜化学工業が首位に立った。三菱商事の担当者は、セパレータや電解液には大企業がいるが正極材は大きくても日亜くらいだと述べ、中小の正極材メーカーの再編統合を促すことも視野に入れると語った。2009年には車載用リチウムイオン電池向けの正極材料が採用された。\n\n2015年3月、小川英治氏は社長を長男の小川裕義氏に譲り、自身は代表取締役会長に就いた。光半導体では波長を短い側へ延ばし、2019年に波長280ナノメートルの深紫外LEDを量産化した。研究拠点も足しており、2016年11月に諏訪技術センターの新社屋が落成した。財務の面では、連結売上高は2012年12月期の2,875億円から2022年12月期の5,021億円へ伸び、2023年12月期には5,071億円に達した。従業員数も2012年12月期の7,751人から2025年12月期には9,509人へ増えた。単一の顧客への依存も生まれており、2025年12月期はアップルへの売上高が395億円と連結売上高の10.9%を占め、その全額が光半導体事業だった。\n\nセグメントの区分も動いた。2015年12月期の売上高は光半導体事業2,967億円に対して化学品423億円で、光半導体への依存が際立っていた。化学品は2019年12月期に1,265億円まで伸びたあと2021年12月期は1,105億円で、2023年12月期から呼び名が正極材料事業へ変わった。同時に蛍光体と磁性材料はその他へ切り出され、遡って組み替えた2022年12月期の正極材料事業は1,969億円となる。電気自動車向けの需要を見込んだ増産が続いた時期で、正極材料事業の設備投資額は2021年12月期に536億円へ達した。ただし主力のコバルト酸リチウムは原料高が進み、2007年の正極材市場2,000億円のうち金属価格が7割以上を占めるまでになる。住友化学がコバルトを使わない正極材の開発に成功するなど、脱コバルトの競争も始まっていた。","references":[{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【セグメント情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【関連情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【役員の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第68期（2023年12月期）【セグメント情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第68期（2023年12月期）【関係会社の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"サファイア基板の内製化と、正極材料の急伸から反転まで","text":"材料を自社の内側に抱える判断は、2020年代に基板へおよんだ。2022年4月に日信サファイアを設立し、同年7月、信光社から同社へサファイア基板事業を譲り受けている。窒化ガリウムの結晶を育てる下地であり、青色LEDの実用化以来、日亜化学工業が使い続けてきた材料だった。欧州では2021年8月に日亜ドイツが商号をNichia Europe GmbHへ改め、日亜オランダを吸収合併している。2023年3月には特許等関連事業を営むアルパッド株式会社の全株式を取得し、同年11月、ドイツへ車載向けの研究開発拠点となるNichia Automotive Innovation Center GmbHを設立した。アルパッドは2025年11月に日亜化学工業へ吸収合併された。\n\n二本柱のうち正極材料は、電気自動車の需要が鈍ると急速に縮んだ。売上高は2023年12月期の2,155億円から2024年12月期に1,081億円、2025年12月期には835億円まで落ちる。セグメント損益は2023年12月期に64億円、2024年12月期に76億円の損失で、減損損失も2024年12月期111億円、2025年12月期80億円を計上した。ただし2025年12月期のセグメント損益は111億円の利益へ戻している。連結売上高は2023年12月期の5,071億円から2025年12月期には3,640億円まで下がり、同期の光半導体事業は売上高2,753億円、セグメント利益341億円だった。2025年12月期の地域別売上高はアジア1,365億円、日本1,108億円、北南米733億円、欧州408億円で、海外が7割を占める。","references":[{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【セグメント情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【関連情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第70期（2025年12月期）【役員の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第68期（2023年12月期）【セグメント情報】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 有価証券報告書 第68期（2023年12月期）【関係会社の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日亜化学工業 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