牛尾治朗氏の祖父の牛尾梅吉氏は、1灯あたりの定額料金制をとる中国合同電力へ定額電球を納めるために姫路電球を設立した[1]。姫路電球は合併を重ねて規模を広げ、1932年に日本電球へ改称し、国内の電球メーカーで5指に入る会社となった[2]。戦後、公職追放で経営から退いた父の牛尾健治氏は、手元に残った衛星会社をまとめ、1952年の山陽繊維などとの合併を経て牛尾工業を設立した[3]。牛尾工業は電機事業部、繊維事業部、雑貨事業部など8つの事業部を抱えた[4]。
神戸製鋼の援助で設立された神鋼電球は新しい放電灯を研究していたが、設立から1年たたずに経営が悪化した[5]。日本電球はこの神鋼電球を吸収し、従来の普通電球の製造をすべて止めて放電灯へ移った[6]。放電灯の研究は牛尾工業の電機事業部が引き継ぎ、赤字の同事業部へ雑品事業部と繊維事業部の収益を投じ、1959年から1960年ごろにようやく採算に乗せた[7]。東京銀行に入行してカリフォルニア大学へ留学していた牛尾治朗氏は、父の牛尾健治氏の急逝で帰国して牛尾工業に入り、1959年から1964年まで電機事業部の責任者を務めた[8]。
1964年3月、ウシオ工業の電球部門が分離独立し、資本金1,250万円でウシオ電機が発足した[9]。分離までは一般照明用電球の製造販売が事業の中心だったが、価格競争の激しい家庭用電球を見限り、設立を機にクセノンランプとハロゲンランプの製造を本格的に始めた[10]。
設立当時の光源は、点光源から蛍光灯のような線光源へ移り、次にくるのは平面光源だといわれていた[11]。各電機メーカーは競って平面光源へ進出し、世界的にも研究が進んだが、湿度に弱く単位面積あたりの明るさが鈍いという欠点があり、商品化は失敗に終わった[12]。ウシオ電機は平面光源へ進まず、線光源から点光源へ引き返した[13]。微細な点光源こそ新しい光だとみて、発光体と発光体の間隔が極端に短い放電灯、すなわちショートアークランプへ研究を絞り込んだ[14]。こうして生まれたのがクセノンショートアークランプで、標準の光に最も近い色を出す演色性、つまり太陽光線の再現を目標に置いた[15]。
ウシオ電機がクセノンショートアークランプの最大の需要先に見込んだのは映写用ランプだった[16]。当時の映画館はカーボンを燃やして強い光を得るカーボンアークを使い、燃焼中もアークの間隔を一定に保つ必要から、操作に習熟した技師を常時2〜4名抱えていた[17]。この技師をいかに効率よく使うかが映画館の採算を左右した[18]。クセノンショートアークランプはカーボンアークと置き換えられて好評を得たが、技師の失業問題につながり、切り替えは進まなかった[19]。採用を決定づけたのはカラー映画の登場で、青色の強いカーボンアークではカラーの赤が紫に転んだ[20]。
1971年11月の時点で日本の映画館は約4,500館とされ、その7割から8割がウシオ電機の製品を使っていた[21]。海外ではアメリカに約800館、ヨーロッパに約200館の上映施設を押さえ、映写装置の設置からサービスまでは全株を保有する日本ジーベックスが受け持った[22]。クセノンランプの世界最大手はドイツのオスラムで、ウシオ電機がこれに次いだ[23]。販売の足場として1967年3月にアメリカへUSHIO AMERICA, INC.を設立した[24]。クセノンランプは宇宙開発にも入り、東京大学宇宙航空研究所の第1号機から内之浦の第18号機まで、疑似太陽装置のソーラーシミュレーター18台すべてをウシオ電機が納めた[25]。
従来のタングステン電球によう素などのハロゲン元素を封入して効率を高めたランプで、赤外線を最もよく出す光源にあたる[26]。複写機が全国に普及して新規需要と代替需要がともに膨らみ、ほとんどの複写機メーカーがウシオ電機の製品を採用した[27]。設立以降、リコーが複写機に用いるハロゲンランプはすべてウシオ電機の製品で占められた[28]。1967年にはテレビスタジオの照明用と複写機用のハロゲンランプが急激に伸び、1970年5月の時点で市場占有率は85%に達した[29]。
姫路工場のある地域が商業区域に指定され、建物の増設が認可されずに手狭となった[30]。ウシオ電機は1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場の建設へ着手し、1970年5月に姫路市の播磨事業所として稼働させた[31]。姫路工場は月産5,000万円のハロゲンランプ生産をすべて播磨へ移し、放電灯の生産能力の増強にあてた[32]。1968年9月には姫路工場に属していた研究部門を分離して横浜市に生産技術研究所を新設し、1971年8月には本社を東京都千代田区大手町へ移した[33]。1970年5月4日、ウシオ電機は東京証券取引所市場第2部へ上場し、200万株を1株280円で公募して資本金を4億円へ引き上げた[34]。
ウシオ電機は粗利益率が40%を下回る放電灯とハロゲンランプの生産を打ち切り、利益率の高い新製品の開発へ資源を振り向ける方針をとった[35]。1969年9月期の売上高は18億7,438万円で、製品別の構成は白熱電球33.0%、放電灯28.0%、機器15.7%、光学装置9.9%、自動制御部品6.7%と続いた[36]。輸出は売上高の約1割にとどまり、販売先はリコーやミノルタカメラなどの複写機メーカーと、北振電機製作所や横河電機製作所といった電機メーカーが中心を占めた[37]。牛尾治朗社長は1971年11月の講演で、光源が複雑化し光そのものの需要が多様化するにつれ、光源のメーカーから光のシステムのメーカーへ移ってきたと述べた[38]。売上高は1970年9月期の25億3,000万円から1973年9月期には42億4,200万円まで伸びた[39]。
1974年9月期の売上高は62億3,900万円、経常利益は4億3,000万円に達した[40]。ところが同じ年の秋、ウシオ電機は翌1975年9月期が空前の大減益になると見込んだ[41]。原材料費の高騰と、円高ドル安による輸出採算の悪化が重なったためである[42]。ウシオ電機はニクソン・ショックからオイル・ショックに至る一連の経済変動を分析し、二つの反省を得た[43]。高付加価値商品ばかりで大丈夫と構え、変動の意味を読み切れていなかった点を認めた[44]。円高・省資源化・自由化への変化が長期にわたって加速するとみて、いま採算の取れている商品も将来は確実に採算割れになると判断した[45]。
切り捨ての基準に据えたのは、どの程度の円レートに耐えられる商品かという一点だった[46]。当時の相場は1ドル300円前後だったが、ウシオ電機は1ドル250〜260円で採算の取れなくなる商品をスクラップの対象に選んだ[47]。社内からは、いまは収益源であること、さらなる円高はあくまで予想であること、顧客に迷惑をかけることの三つの反論が出た[48]。大議論の末に『まず、ビルド』[引用元]から『まず、スクラップ』[引用元]への転換が決まり、主力のハロゲンランプは3,000種から2,000種へ、クセノンランプは500種から300種へ絞られた[49]。1974年から1975年にかけて、全社で商品の3分の1を切り捨てた[50]。
整理した3分の1の商品に張り付いていた全社員の3分の1を、円高が進んでも競争力を保てる新商品の事業化へ振り向けた[51]。1975年2月に人工衛星擬似試験装置のソーラシミュレーター、同年3月に紫外線瞬間乾燥照射装置、同年10月に濁度測定器を発表した[52]。製品の切り捨ては減収減益に直結し、1975年9月期の経常利益は前期の4億2,800万円から1億4,000万円へ3分の1に減った[53]。新製品の寄与で1976年9月期は4億5,900万円へ戻り、6か月決算を年換算した1977年3月期は5億1,200万円まで回復した[54]。
立て直しで、ウシオ電機は経営の原点に戻ることへ力を注いだ[55]。湯本大蔵常務取締役は1978年11月10日の日本証券アナリスト協会企業分析部会で、収益意識の向上・効率化の徹底・管理体制の厳正化の三つを基本理念に挙げた[56]。これに基づき、1人当たりと1投下資本当たりの生産性を高め、個々の組織を有効に働かせる3P(Per Head, Per Capital, Per System)の強化を追った[57]。予算は販売予算・収益予算・経費予算の三本立てで、経費予算は各決算期ごとに収益の見通しがつくまで支出を予算の何割かにしばり、見通しがついたところでしばりを解いた[58]。
三つの事業部には自主責任体制を敷いた[59]。収益を上げられない事業部は経費節減でも人員削減でも自主的に手を打って収益を出す決まりで、ある事業部は3年間で人員を半減させながら収益を3倍に伸ばした[60]。湯本大蔵常務取締役は、企業がもうけるのは権利ではなく義務であり、もうけないのは罪悪とさえいえると全社員に説いた[61]。不採算品目の統廃合はユーザーに了解を求めながら進め、一時的に売上高は落ちたものの、不採算品の一掃で収益は上昇に転じた[62]。従業員は3年間で670〜680人から530〜540人へ減り、管理部門はこの1年間で約30%減った[63]。
姫路市の播磨工場では、3年間で1人1時間当たりの生産性が2倍に上がった[64]。円高には原価の引き下げと品質の向上で応じ、輸出のドル建てを円建てへ移して約50%を円建てに切り替えた[65]。ドル建て分は値上げしたものの、上げ幅は円高率の半分にとどめ、残りは自社の原価低減と購買価格の引き下げで埋めた[66]。決算期は9月期から3月期へ改め、1976年10月から1977年3月までの6か月決算を挟んだ[67]。1978年3月期の売上高は64億7,400万円、経常利益は5億7,400万円と過去最高を記録し、中期5カ年計画では1981年3月期に売上高130億円・経常利益15億円を目標に置いた[68]。
1979年4月、牛尾治朗氏は代表取締役会長に就き、1964年3月の設立から15年務めた社長の職を離れた[69]。1980年9月、ウシオ電機は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第1部へ上場した[70]。売上高は1980年3月期の90億8,500万円から1981年3月期に110億6,600万円、1982年3月期には131億800万円へ伸びた[71]。中期5カ年計画が1981年3月期に置いた売上高130億円の目標には、1年遅れで届いた[72]。1985年3月期は売上高210億1,200万円・経常利益31億1,500万円となり、売上高は1974年9月期の3.4倍に達した[73]。
製品別の売上構成では、管球類が1974年9月期の29億9,200万円・48%から1985年3月期の116億2,500万円・55%へ比重を上げた[74]。光学装置は同じ期間に15億6,300万円から53億3,800万円へ3.4倍になり、構成比は25%のまま動かなかった[75]。光学装置部門は1978年3月期に前期比41%増と伸び、総売上高に対する新製品の寄与率を押し上げた[76]。寄与率の高い新製品の主役は、ランプを組み込んだ光学装置関係の製品が占めた[77]。ランプのライフ・サイクルはおよそ3年で、3年でほぼ全量が新製品へ置き換わった[78]。
新製品では、紫外線ランプを用いた印刷インク・塗料用の乾燥装置が、プラスチックや缶の印刷にかかる乾燥工程を短縮した[79]。超LSIの焼付装置用ランプも1978年11月までに開発を終えた[80]。1983年6月にはランプ製造の兵庫ウシオ電機を設けた[81]。1987年4月にアメリカでランプ製造のUSHIO OREGONを設立し、1988年12月に御殿場事業所を新設した[82]。湯本大蔵常務取締役は、光の専門メーカーになることと、世界各国に根を下ろす『世界の中堅企業』になることを経営方針に掲げた[83]。海外の市場は米国・欧州・豪州が中心で、1978年には中国・ソ連・南アフリカへも販路が広がった[84]。
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|---|---|---|---|---|
| 1964〜1973年家庭用電球を捨てた268人、クセノンとハロゲンで開いた産業用ランプ | 牛尾治朗 | ウシオ電機設立、資本金12,500千円 | ★★★ | |
| 牛尾治朗 | 横浜市に生産技研横浜事業所を新設 | ★ | ||
| 牛尾治朗 | 東京証券取引所市場第2部上場 | ★ | ||
| 牛尾治朗 | 姫路市に播磨事業所を新設 | ★ | ||
| 1974〜1989年商品の3分の1を捨てた1974年秋と、光学装置への移行 | 牛尾治朗 | 大阪証券取引所市場第2部上場 | ★ | |
| 東京及び大阪証券取引所市場第1部上場 | ★★ | |||
| ランプ製造の兵庫ウシオ電機を設立 | ★ | |||
| アメリカにランプ製造のUSHIO OREGONを設立 | ★ | |||
| 御殿場市に御殿場事業所を新設 | ★ | |||
| 1990〜2004年ランプの納入先Christieの買収と半導体光源ギガフォトン | ドイツのBLV Licht- und Vakuumtechnikを買収 | ★★ | ||
| アメリカのChristie Electricの映写機部門を買収 | ★★★ | |||
| 田中昭洋 | フィリピンにランプ製造のUSHIO PHILIPPINESを設立 | ★ | ||
| 田中昭洋 | ウシオ総合技術研究所を設立 | ★ | ||
| 田中昭洋 | カナダのElectrohomeの映像機器事業部門を買収 | ★★ | ||
| 田中昭洋 | エキシマレーザー開発のギガフォトンを設立 | ★★★ | ||
| 田中昭洋 | 中国に光学装置製造のUSHIO (SUZHOU)を設立 | ★ | ||
| 2005〜2026年利益を生まない装置事業と、半導体露光用UVランプ85%への回帰 | 菅田史朗 | ドイツのXTREME technologiesの持分50%を取得 | ★★ | |
| 菅田史朗 | ポーランドのランプ製造Natriumを買収 | ★ | ||
| 菅田史朗 | LED製造のエピテックスを買収 | ★ | ||
| 菅田史朗 | アメリカの半導体レーザー開発Necselを買収 | ★★ | ||
| 菅田史朗 | アメリカの医療機器製造Luminetxを買収 | ★ | ||
| 菅田史朗 | ギガフォトンの保有全株式を小松製作所に譲渡 | ★★★ | ||
| 菅田史朗 | アドテックエンジニアリングを公開買付けで連結子会社化 | ★★ | ||
| 菅田史朗 | 半導体レーザー製造のウシオオプトセミコンダクターを設立 | ★ | ||
| 浜島健爾 | 照明器具販売のマックスレイを買収 | ★ | ||
| 浜島健爾 | アメリカの半導体レーザー開発PD-LDを買収 | ★ | ||
| 浜島健爾 | スキンケア製品販売のサンソリットを買収 | ★ | ||
| 内藤宏治 | 東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場に移行 | ★ | ||
| 内藤宏治 | ヤナカホールディングスを買収 | ★ | ||
| 朝日崇文 | ドイツのランプ製造OSRAM ENIを買収 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ウシオ電機)