ウシオ電機 の歴史

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創業 1964年
創業者 牛尾治朗
創業地
創業
1964年3月、ウシオ工業の電球部門が資本金1,250万円で分離独立し、ウシオ電機が発足した。母体は牛尾治朗氏の祖父・牛尾梅吉氏が定額電球を納めるために興した姫路電球で、1932年に日本電球へ改称して国内の電球メーカーの5指に入り、戦後は父の牛尾健治氏が衛星会社をまとめて牛尾工業を設立し、これがのちのウシオ工業にあたる。分離までは一般照明用電球の製造販売が中心だったが、価格競争の激しい家庭用電球を見限り、設立を機にクセノンランプとハロゲンランプの製造を本格化する。移った人員は268人。当時は点光源から線光源、次は平面光源だといわれて各社が競って参入したが、ウシオ電機は逆に線光源から点光源へ引き返した。
決断
残す商品を、耐えられる為替レートで選び直した。1974年9月期は売上高62億3,900万円に達したが、同じ年の秋には原材料費の高騰と円高で翌期が空前の減益になると見込んだ。基準に据えたのは、どの程度の円レートに耐えられる商品かという一点である。相場が1ドル300円前後の時期に1ドル250〜260円で採算の取れなくなる商品をスクラップの対象に選び、主力のハロゲンランプは3,000種から2,000種へ、クセノンランプは500種から300種へ絞った。全社で捨てた商品は3分の1にのぼり、そこに張り付いていた社員の3分の1を新商品の事業化へ移した。1975年2月のソーラシミュレーターと同年3月の紫外線瞬間乾燥照射装置が、光源のメーカーを光学装置のメーカーへ変えた。
現況
絞ると決めた事業が、伸ばすと決めた事業より大きい。2024年5月の新成長戦略は、Visual Imagingを収益改善事業として2023年度の805億円から2026年度に700億円へ縮め、成長事業のIndustrial Processを821億円から1,100億円へ伸ばす配分を置いた。ところが2026年3月期はVisual Imagingが838億円へ増え、Industrial Processは771億円へ減った。連結売上高は1,792億円、営業利益は119億円で、セグメント利益はIndustrial Processが64億円、Visual Imagingが46億円である。装置が売上で光源を上回りながら利益を残さない構造は、2014年度から2018年度にすでに現れていた。
競合
55年前に次いだ相手のランプ事業を、買い取る側になった。1971年の時点でクセノンランプの世界最大手はドイツのオスラムで、ウシオ電機がこれに次いだ。2025年7月に契約したams-OSRAMの産業・エンターテインメント用ランプ事業は2026年3月3日に取得を終え、約500名がグループへ移った。買収後の世界シェアは半導体露光用と液晶露光用のUVランプがともに85%に達した。一方、半導体光源の最先端からは離れた。2011年5月にコマツとの合弁ギガフォトンの株式を譲渡し、2013年5月にはXTREME technologiesの活動を停止してEUV光源の量産事業から退いた。成熟したランプで世界シェアを積んだのは、開発で先へ出たからではなく、撤退する同業の事業を引き取ったからである。
長期業績の推移 1968〜2026年
ウシオ電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 家庭用電球を捨てた268人、クセノンとハロゲンで開いた産業用ランプ (1964年〜)

創業ストーリー(1)

1億円の含み損を背負った268人の分離独立

牛尾治朗氏の祖父の牛尾梅吉氏は、1灯あたりの定額料金制をとる中国合同電力へ定額電球を納めるために姫路電球を設立した[1]。姫路電球は合併を重ねて規模を広げ、1932年に日本電球へ改称し、国内の電球メーカーで5指に入る会社となった[2]。戦後、公職追放で経営から退いた父の牛尾健治氏は、手元に残った衛星会社をまとめ、1952年の山陽繊維などとの合併を経て牛尾工業を設立した[3]。牛尾工業は電機事業部、繊維事業部、雑貨事業部など8つの事業部を抱えた[4]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [1]中国合同電力は1灯当りの定額料金制をとっており、祖父が定額電球を売る姫路電球を設立した
    • [2]姫路電球は合併を重ね1932年に日本電球へ改称し、電球メーカーで5指に入る規模となった
    • [3]父は戦後の追放で経営を退き、衛星会社をまとめて1952年の山陽繊維などとの合併により牛尾工業を設立した
    • [4]牛尾工業は電機・繊維・雑貨など8事業部を持つ会社だった

神戸製鋼の援助で設立された神鋼電球は新しい放電灯を研究していたが、設立から1年たたずに経営が悪化した[5]。日本電球はこの神鋼電球を吸収し、従来の普通電球の製造をすべて止めて放電灯へ移った[6]。放電灯の研究は牛尾工業の電機事業部が引き継ぎ、赤字の同事業部へ雑品事業部と繊維事業部の収益を投じ、1959年から1960年ごろにようやく採算に乗せた[7]。東京銀行に入行してカリフォルニア大学へ留学していた牛尾治朗氏は、父の牛尾健治氏の急逝で帰国して牛尾工業に入り、1959年から1964年まで電機事業部の責任者を務めた[8]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [5]神戸製鋼の援助で設立された神鋼電球は放電灯を研究していたが設立後1年たたずに経営が悪化した
    • [6]日本電球は神鋼電球を吸収し普通電球の製造をすべて止めて放電灯に進出した
    • [7]放電灯の研究は牛尾工業の電機事業部で続き、雑品・繊維事業部の収益を開発研究に投じ1959〜1960年ごろ採算がとれた
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号
    • [8]牛尾治朗氏は東京銀行に入社しカリフォルニア大学留学中に父の急逝で帰国、1959年から1964年まで電機事業部の責任者を務めた

1964年3月、ウシオ工業の電球部門が分離独立し、資本金1,250万円でウシオ電機が発足した[9]。分離までは一般照明用電球の製造販売が事業の中心だったが、価格競争の激しい家庭用電球を見限り、設立を機にクセノンランプとハロゲンランプの製造を本格的に始めた[10]

  • 証券 1970年5月号
    • [9]1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立
    • [10]設立以前は一般照明用電球の製造販売が中心。価格競争の激しい家庭用電球を見限り、設立を契機にクセノンランプ・ハロゲンランプの製造を本格的に開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [1]中国合同電力は1灯当りの定額料金制をとっており、祖父が定額電球を売る姫路電球を設立した
    • [2]姫路電球は合併を重ね1932年に日本電球へ改称し、電球メーカーで5指に入る規模となった
    • [3]父は戦後の追放で経営を退き、衛星会社をまとめて1952年の山陽繊維などとの合併により牛尾工業を設立した
    • [4]牛尾工業は電機・繊維・雑貨など8事業部を持つ会社だった
    • [5]神戸製鋼の援助で設立された神鋼電球は放電灯を研究していたが設立後1年たたずに経営が悪化した
    • [6]日本電球は神鋼電球を吸収し普通電球の製造をすべて止めて放電灯に進出した
    • [7]放電灯の研究は牛尾工業の電機事業部で続き、雑品・繊維事業部の収益を開発研究に投じ1959〜1960年ごろ採算がとれた
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号
    • [8]牛尾治朗氏は東京銀行に入社しカリフォルニア大学留学中に父の急逝で帰国、1959年から1964年まで電機事業部の責任者を務めた
  • 証券 1970年5月号
    • [9]1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立
    • [10]設立以前は一般照明用電球の製造販売が中心。価格競争の激しい家庭用電球を見限り、設立を契機にクセノンランプ・ハロゲンランプの製造を本格的に開始した
創業ストーリー(2)

カーボンアークを置き換えたクセノンショートアークランプ

設立当時の光源は、点光源から蛍光灯のような線光源へ移り、次にくるのは平面光源だといわれていた[11]。各電機メーカーは競って平面光源へ進出し、世界的にも研究が進んだが、湿度に弱く単位面積あたりの明るさが鈍いという欠点があり、商品化は失敗に終わった[12]。ウシオ電機は平面光源へ進まず、線光源から点光源へ引き返した[13]。微細な点光源こそ新しい光だとみて、発光体と発光体の間隔が極端に短い放電灯、すなわちショートアークランプへ研究を絞り込んだ[14]。こうして生まれたのがクセノンショートアークランプで、標準の光に最も近い色を出す演色性、つまり太陽光線の再現を目標に置いた[15]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [11]設立当時、光源は点光源から線光源へという傾向にあり、次にくるものは平面光源といわれた
    • [12]各電機メーカーが平面光源へ進出したが湿度に弱く単位面積当りの明るさが鈍い欠点で商品化に失敗した
    • [13]ウシオ電機は平面光源へ進まず線光源から点光源へ戻った
    • [14]発光体間が非常に短い放電灯であるショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発した
    • [15]標準の光に最も近い色を出す演色性、太陽の光の再現がクセノンショートアークランプ製造の目標だった

ウシオ電機がクセノンショートアークランプの最大の需要先に見込んだのは映写用ランプだった[16]。当時の映画館はカーボンを燃やして強い光を得るカーボンアークを使い、燃焼中もアークの間隔を一定に保つ必要から、操作に習熟した技師を常時2〜4名抱えていた[17]。この技師をいかに効率よく使うかが映画館の採算を左右した[18]。クセノンショートアークランプはカーボンアークと置き換えられて好評を得たが、技師の失業問題につながり、切り替えは進まなかった[19]。採用を決定づけたのはカラー映画の登場で、青色の強いカーボンアークではカラーの赤が紫に転んだ[20]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [16]クセノンショートアークランプが目標とした最大の需要先は映写用ランプだった
    • [17]当時の映画はカーボンアークで上映され、アーク間の距離を一定に保つため操作に習熟した技師を常時2〜4名要した
    • [18]すぐれた技師をいかに効率よく使うかが映画館の採算のポイントだった
    • [19]クセノンショートアークランプはカーボンアークと切り替えられ好評を博したが、技師の失業問題につながり進まなかった
    • [20]カラー映画の登場が採用を決定づけた。カーボンアークの青い光ではカラーの赤が紫になった

1971年11月の時点で日本の映画館は約4,500館とされ、その7割から8割がウシオ電機の製品を使っていた[21]。海外ではアメリカに約800館、ヨーロッパに約200館の上映施設を押さえ、映写装置の設置からサービスまでは全株を保有する日本ジーベックスが受け持った[22]。クセノンランプの世界最大手はドイツのオスラムで、ウシオ電機がこれに次いだ[23]。販売の足場として1967年3月にアメリカへUSHIO AMERICA, INC.を設立した[24]。クセノンランプは宇宙開発にも入り、東京大学宇宙航空研究所の第1号機から内之浦の第18号機まで、疑似太陽装置のソーラーシミュレーター18台すべてをウシオ電機が納めた[25]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [21]1971年11月時点で日本の映画館は約4,500館、うち約7〜8割がウシオ電機の製品を使用
    • [22]アメリカに約800館、ヨーロッパに約200館の上映施設を持ち、全株保有の日本ジーベックスが映写装置の設置からサービスまで扱った
    • [23]この分野はドイツのオスラムが世界最大でウシオ電機がこれに次ぐ
    • [25]東京大学宇宙航空研究所の第1号機から内之浦の第18号機まで、太陽装置18台はすべてウシオ電機製
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1967年3月にアメリカにランプ販売のUSHIO AMERICA, INC.を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [11]設立当時、光源は点光源から線光源へという傾向にあり、次にくるものは平面光源といわれた
    • [12]各電機メーカーが平面光源へ進出したが湿度に弱く単位面積当りの明るさが鈍い欠点で商品化に失敗した
    • [13]ウシオ電機は平面光源へ進まず線光源から点光源へ戻った
    • [14]発光体間が非常に短い放電灯であるショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発した
    • [15]標準の光に最も近い色を出す演色性、太陽の光の再現がクセノンショートアークランプ製造の目標だった
    • [16]クセノンショートアークランプが目標とした最大の需要先は映写用ランプだった
    • [17]当時の映画はカーボンアークで上映され、アーク間の距離を一定に保つため操作に習熟した技師を常時2〜4名要した
    • [18]すぐれた技師をいかに効率よく使うかが映画館の採算のポイントだった
    • [19]クセノンショートアークランプはカーボンアークと切り替えられ好評を博したが、技師の失業問題につながり進まなかった
    • [20]カラー映画の登場が採用を決定づけた。カーボンアークの青い光ではカラーの赤が紫になった
    • [21]1971年11月時点で日本の映画館は約4,500館、うち約7〜8割がウシオ電機の製品を使用
    • [22]アメリカに約800館、ヨーロッパに約200館の上映施設を持ち、全株保有の日本ジーベックスが映写装置の設置からサービスまで扱った
    • [23]この分野はドイツのオスラムが世界最大でウシオ電機がこれに次ぐ
    • [25]東京大学宇宙航空研究所の第1号機から内之浦の第18号機まで、太陽装置18台はすべてウシオ電機製
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1967年3月にアメリカにランプ販売のUSHIO AMERICA, INC.を設立
創業ストーリー(3)

複写機用ハロゲンランプ85%と東証2部上場

従来のタングステン電球によう素などのハロゲン元素を封入して効率を高めたランプで、赤外線を最もよく出す光源にあたる[26]。複写機が全国に普及して新規需要と代替需要がともに膨らみ、ほとんどの複写機メーカーがウシオ電機の製品を採用した[27]。設立以降、リコーが複写機に用いるハロゲンランプはすべてウシオ電機の製品で占められた[28]。1967年にはテレビスタジオの照明用と複写機用のハロゲンランプが急激に伸び、1970年5月の時点で市場占有率は85%に達した[29]

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [26]タングステン電球にハロゲン元素(よう素、塩素、臭素)を入れて効率を高めたハロゲンランプは赤外線を最もよく出す
  • 証券 1970年5月号
    • [27]複写機が全国的に普及するにしたがい新規需要・代替需要とも旺盛で、ほとんどの複写機メーカーが同社の製品を使用している
    • [28]ウシオ電機設立以降、リコーで使用する複写機用ハロゲンランプはすべて同社が納入した製品である
    • [29]1967年にテレビスタジオ照明用・複写機用のハロゲンランプが急激に伸びた。ハロゲンランプの市場占有率は85%

姫路工場のある地域が商業区域に指定され、建物の増設が認可されずに手狭となった[30]。ウシオ電機は1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場の建設へ着手し、1970年5月に姫路市の播磨事業所として稼働させた[31]。姫路工場は月産5,000万円のハロゲンランプ生産をすべて播磨へ移し、放電灯の生産能力の増強にあてた[32]。1968年9月には姫路工場に属していた研究部門を分離して横浜市に生産技術研究所を新設し、1971年8月には本社を東京都千代田区大手町へ移した[33]。1970年5月4日、ウシオ電機は東京証券取引所市場第2部へ上場し、200万株を1株280円で公募して資本金を4億円へ引き上げた[34]

  • 証券 1970年5月号
    • [30]姫路工場のある地域が商業区域に指定され建物の増設が認可されず手狭となった
    • [32]播磨工場の新設に伴い姫路工場は月産5,000万円のハロゲンランプ生産をすべて中止し放電灯の生産能力増加を図る計画
  • 証券 1970年5月号 / ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1967年にハロゲンランプ専門工場である播磨工場の建設に着手。1970年5月に姫路市に播磨事業所を新設
    • [34]1970年5月4日に東京証券取引所市場第2部へ上場。1970年5月1日に公募200万株を1株280円で行い資本金400,000千円
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1968年9月に横浜市へ生産技研横浜事業所を新設。1971年8月に本社を東京都千代田区大手町に移転

ウシオ電機は粗利益率が40%を下回る放電灯とハロゲンランプの生産を打ち切り、利益率の高い新製品の開発へ資源を振り向ける方針をとった[35]。1969年9月期の売上高は18億7,438万円で、製品別の構成は白熱電球33.0%、放電灯28.0%、機器15.7%、光学装置9.9%、自動制御部品6.7%と続いた[36]。輸出は売上高の約1割にとどまり、販売先はリコーミノルタカメラなどの複写機メーカーと、北振電機製作所や横河電機製作所といった電機メーカーが中心を占めた[37]牛尾治朗社長は1971年11月の講演で、光源が複雑化し光そのものの需要が多様化するにつれ、光源のメーカーから光のシステムのメーカーへ移ってきたと述べた[38]。売上高は1970年9月期の25億3,000万円から1973年9月期には42億4,200万円まで伸びた[39]

  • 証券 1970年5月号
    • [35]粗利益率が40%を下回る放電灯・ハロゲンランプは生産を中止し、利益の高い新製品の開発を進める方針
    • [36]1969年9月期の売上高1,874,385千円。放電灯28.0%、白熱電球33.0%、機器15.7%、光学装置9.9%、自動制御部品6.7%
    • [37]輸出比率は10.9%。販売先はリコー、ミノルタカメラ等の複写機メーカー、北振電機製作所、横河電機製作所等が中心
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [38]1971年11月24日の講演で、光源から光のメーカーへ向かい今日では光のシステムメーカーへ発展してきたと述べた
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [39]1970年9月期の売上高25億3,000万円、1973年9月期の売上高42億4,200万円
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [26]タングステン電球にハロゲン元素(よう素、塩素、臭素)を入れて効率を高めたハロゲンランプは赤外線を最もよく出す
    • [38]1971年11月24日の講演で、光源から光のメーカーへ向かい今日では光のシステムメーカーへ発展してきたと述べた
  • 証券 1970年5月号
    • [27]複写機が全国的に普及するにしたがい新規需要・代替需要とも旺盛で、ほとんどの複写機メーカーが同社の製品を使用している
    • [28]ウシオ電機設立以降、リコーで使用する複写機用ハロゲンランプはすべて同社が納入した製品である
    • [29]1967年にテレビスタジオ照明用・複写機用のハロゲンランプが急激に伸びた。ハロゲンランプの市場占有率は85%
    • [30]姫路工場のある地域が商業区域に指定され建物の増設が認可されず手狭となった
    • [32]播磨工場の新設に伴い姫路工場は月産5,000万円のハロゲンランプ生産をすべて中止し放電灯の生産能力増加を図る計画
    • [35]粗利益率が40%を下回る放電灯・ハロゲンランプは生産を中止し、利益の高い新製品の開発を進める方針
    • [36]1969年9月期の売上高1,874,385千円。放電灯28.0%、白熱電球33.0%、機器15.7%、光学装置9.9%、自動制御部品6.7%
    • [37]輸出比率は10.9%。販売先はリコー、ミノルタカメラ等の複写機メーカー、北振電機製作所、横河電機製作所等が中心
  • 証券 1970年5月号 / ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1967年にハロゲンランプ専門工場である播磨工場の建設に着手。1970年5月に姫路市に播磨事業所を新設
    • [34]1970年5月4日に東京証券取引所市場第2部へ上場。1970年5月1日に公募200万株を1株280円で行い資本金400,000千円
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1968年9月に横浜市へ生産技研横浜事業所を新設。1971年8月に本社を東京都千代田区大手町に移転
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [39]1970年9月期の売上高25億3,000万円、1973年9月期の売上高42億4,200万円
創業ストーリー(4)

ハロゲンランプ3,000種を2,000種へ絞った商品整理

1974年9月期の売上高は62億3,900万円、経常利益は4億3,000万円に達した[40]。ところが同じ年の秋、ウシオ電機は翌1975年9月期が空前の大減益になると見込んだ[41]。原材料費の高騰と、円高ドル安による輸出採算の悪化が重なったためである[42]。ウシオ電機はニクソン・ショックからオイル・ショックに至る一連の経済変動を分析し、二つの反省を得た[43]。高付加価値商品ばかりで大丈夫と構え、変動の意味を読み切れていなかった点を認めた[44]。円高・省資源化・自由化への変化が長期にわたって加速するとみて、いま採算の取れている商品も将来は確実に採算割れになると判断した[45]

  • 会社年鑑(1976年版)
    • [40]1974年9月期の売上高62.39億円・経常利益4.30億円
  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [41]1974年秋の段階で1975年9月期決算が空前の大減益になると予想した
    • [42]減益要因は原材料費の高騰と円高ドル安による輸出採算の悪化
    • [43]ニクソン・ショックからオイル・ショックに至る一連の経済変動を分析し、二つの反省が生まれた
    • [44]ニクソン・ショック時点では高付加価値商品ばかりだから大丈夫と構え、変動の意味を読み切っていなかった
    • [45]経済が円高・省資源化・自由化などへ長期にわたり加速して変化するとみて、いま採算のとれている商品でも将来は確実に採算割れになると判断した

切り捨ての基準に据えたのは、どの程度の円レートに耐えられる商品かという一点だった[46]。当時の相場は1ドル300円前後だったが、ウシオ電機は1ドル250〜260円で採算の取れなくなる商品をスクラップの対象に選んだ[47]。社内からは、いまは収益源であること、さらなる円高はあくまで予想であること、顧客に迷惑をかけることの三つの反論が出た[48]。大議論の末に『まず、ビルド』[引用元]から『まず、スクラップ』[引用元]への転換が決まり、主力のハロゲンランプは3,000種から2,000種へ、クセノンランプは500種から300種へ絞られた[49]。1974年から1975年にかけて、全社で商品の3分の1を切り捨てた[50]

  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [46]切り捨ての有力指標は「どの程度の円レートに耐えられる商品か」だった
    • [47]当時の円レートは1ドル300円前後で、1ドル250〜260円で採算のとれなくなる商品をスクラップ対象とした
    • [48]社内の反論は、現在は収益源であること、さらなる円高は予想にすぎないこと、顧客に迷惑をかけることの三つ
    • [49]大議論の末に「まず、ビルド」から「まず、スクラップ」へ転換し、ハロゲンランプ3,000種→2,000種、クセノンランプ500種→300種
    • [50]1974年から1975年にかけて全社で商品の3分の1を切り捨てた

整理した3分の1の商品に張り付いていた全社員の3分の1を、円高が進んでも競争力を保てる新商品の事業化へ振り向けた[51]。1975年2月に人工衛星擬似試験装置のソーラシミュレーター、同年3月に紫外線瞬間乾燥照射装置、同年10月に濁度測定器を発表した[52]。製品の切り捨ては減収減益に直結し、1975年9月期の経常利益は前期の4億2,800万円から1億4,000万円へ3分の1に減った[53]。新製品の寄与で1976年9月期は4億5,900万円へ戻り、6か月決算を年換算した1977年3月期は5億1,200万円まで回復した[54]

  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [51]商品の3分の1を整理し、全社員の3分の1を円高に耐える新商品の事業化へ振り向けた
    • [52]1975年2月ソーラシミュレーター(人工衛星擬似試験装置)、3月紫外線瞬間乾燥照射装置、10月濁度測定器を発表
    • [53]1975年9月期の経常利益は前期の4億2,800万円から1億4,000万円へ減少
    • [54]1976年9月期4億5,900万円、1977年3月期(6か月決算の年換算)5億1,200万円
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [40]1974年9月期の売上高62.39億円・経常利益4.30億円
  • 日経ビジネス 1979年3月26日号
    • [41]1974年秋の段階で1975年9月期決算が空前の大減益になると予想した
    • [42]減益要因は原材料費の高騰と円高ドル安による輸出採算の悪化
    • [43]ニクソン・ショックからオイル・ショックに至る一連の経済変動を分析し、二つの反省が生まれた
    • [44]ニクソン・ショック時点では高付加価値商品ばかりだから大丈夫と構え、変動の意味を読み切っていなかった
    • [45]経済が円高・省資源化・自由化などへ長期にわたり加速して変化するとみて、いま採算のとれている商品でも将来は確実に採算割れになると判断した
    • [46]切り捨ての有力指標は「どの程度の円レートに耐えられる商品か」だった
    • [47]当時の円レートは1ドル300円前後で、1ドル250〜260円で採算のとれなくなる商品をスクラップ対象とした
    • [48]社内の反論は、現在は収益源であること、さらなる円高は予想にすぎないこと、顧客に迷惑をかけることの三つ
    • [49]大議論の末に「まず、ビルド」から「まず、スクラップ」へ転換し、ハロゲンランプ3,000種→2,000種、クセノンランプ500種→300種
    • [50]1974年から1975年にかけて全社で商品の3分の1を切り捨てた
    • [51]商品の3分の1を整理し、全社員の3分の1を円高に耐える新商品の事業化へ振り向けた
    • [52]1975年2月ソーラシミュレーター(人工衛星擬似試験装置)、3月紫外線瞬間乾燥照射装置、10月濁度測定器を発表
    • [53]1975年9月期の経常利益は前期の4億2,800万円から1億4,000万円へ減少
    • [54]1976年9月期4億5,900万円、1977年3月期(6か月決算の年換算)5億1,200万円
創業ストーリー(5)

3Pと予算のしばりで進めた不採算品目の統廃合

立て直しで、ウシオ電機は経営の原点に戻ることへ力を注いだ[55]。湯本大蔵常務取締役は1978年11月10日の日本証券アナリスト協会企業分析部会で、収益意識の向上・効率化の徹底・管理体制の厳正化の三つを基本理念に挙げた[56]。これに基づき、1人当たりと1投下資本当たりの生産性を高め、個々の組織を有効に働かせる3P(Per Head, Per Capital, Per System)の強化を追った[57]。予算は販売予算・収益予算・経費予算の三本立てで、経費予算は各決算期ごとに収益の見通しがつくまで支出を予算の何割かにしばり、見通しがついたところでしばりを解いた[58]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [55]オイル・ショックのあとに力を入れたのは「経営の原点に戻る」ことだった
    • [56]1978年11月10日の日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演。基本理念は収益意識の向上・効率化の徹底・管理体制の厳正化
    • [57]3P(Per Head, Per Capital, Per System)の強化に努め、1人当り・1投下資本当りの生産性と組織の有効活動を追求した
    • [58]販売予算・収益予算・経費予算があり、収益の見通しがつくまで経費支出を予算の何割かにしばり、見通しがついた時点でしばりを解いた

三つの事業部には自主責任体制を敷いた[59]。収益を上げられない事業部は経費節減でも人員削減でも自主的に手を打って収益を出す決まりで、ある事業部は3年間で人員を半減させながら収益を3倍に伸ばした[60]。湯本大蔵常務取締役は、企業がもうけるのは権利ではなく義務であり、もうけないのは罪悪とさえいえると全社員に説いた[61]。不採算品目の統廃合はユーザーに了解を求めながら進め、一時的に売上高は落ちたものの、不採算品の一掃で収益は上昇に転じた[62]。従業員は3年間で670〜680人から530〜540人へ減り、管理部門はこの1年間で約30%減った[63]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [59]三つの事業部の自主責任体制の確立を重視した
    • [60]収益を上げられない事業部は経費節減・人員削減などで自主的に収益を出す。ある事業部は3年間で人員を半減し収益を3倍に伸ばした
    • [61]「企業はもうけるのが義務である」という意識を全社員に徹底し、もうけるのは権利ではなく義務、もうけないのは罪悪とさえいえるとした
    • [62]不採算品目の統廃合をユーザーに了解を求めつつ進め、一時的な売上ダウンののち不採算品目の一掃で収益は上昇した
    • [63]従業員は3年間で670〜680人から530〜540人に減少し、管理部門は1年間で約30%減少した

姫路市の播磨工場では、3年間で1人1時間当たりの生産性が2倍に上がった[64]。円高には原価の引き下げと品質の向上で応じ、輸出のドル建てを円建てへ移して約50%を円建てに切り替えた[65]。ドル建て分は値上げしたものの、上げ幅は円高率の半分にとどめ、残りは自社の原価低減と購買価格の引き下げで埋めた[66]。決算期は9月期から3月期へ改め、1976年10月から1977年3月までの6か月決算を挟んだ[67]。1978年3月期の売上高は64億7,400万円、経常利益は5億7,400万円と過去最高を記録し、中期5カ年計画では1981年3月期に売上高130億円・経常利益15億円を目標に置いた[68]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [64]メイン工場の播磨工場で3年間に1人1時間当りの生産性が2倍に上昇した
    • [65]円高にはコスト・ダウンと品質向上で対処し、ドル建てを円建てへシフトして約50%が円建てになった
    • [66]ドル建て分は値上げしたが、値上げは円高率の半分ほどで、残りは自社の努力と購買価格の低下で補った
    • [68]1978年3月期は売上高64億7,400万円・経常利益5億7,400万円で過去最高。中期5カ年計画で1981年3月期に売上高130億円・経常利益15億円を目標とした
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [67]1976年10月〜1977年3月の6か月決算をはさんで決算期を9月期から3月期へ変更(1977年3月期 売上高30.38億円)
  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [55]オイル・ショックのあとに力を入れたのは「経営の原点に戻る」ことだった
    • [56]1978年11月10日の日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演。基本理念は収益意識の向上・効率化の徹底・管理体制の厳正化
    • [57]3P(Per Head, Per Capital, Per System)の強化に努め、1人当り・1投下資本当りの生産性と組織の有効活動を追求した
    • [58]販売予算・収益予算・経費予算があり、収益の見通しがつくまで経費支出を予算の何割かにしばり、見通しがついた時点でしばりを解いた
    • [59]三つの事業部の自主責任体制の確立を重視した
    • [60]収益を上げられない事業部は経費節減・人員削減などで自主的に収益を出す。ある事業部は3年間で人員を半減し収益を3倍に伸ばした
    • [61]「企業はもうけるのが義務である」という意識を全社員に徹底し、もうけるのは権利ではなく義務、もうけないのは罪悪とさえいえるとした
    • [62]不採算品目の統廃合をユーザーに了解を求めつつ進め、一時的な売上ダウンののち不採算品目の一掃で収益は上昇した
    • [63]従業員は3年間で670〜680人から530〜540人に減少し、管理部門は1年間で約30%減少した
    • [64]メイン工場の播磨工場で3年間に1人1時間当りの生産性が2倍に上昇した
    • [65]円高にはコスト・ダウンと品質向上で対処し、ドル建てを円建てへシフトして約50%が円建てになった
    • [66]ドル建て分は値上げしたが、値上げは円高率の半分ほどで、残りは自社の努力と購買価格の低下で補った
    • [68]1978年3月期は売上高64億7,400万円・経常利益5億7,400万円で過去最高。中期5カ年計画で1981年3月期に売上高130億円・経常利益15億円を目標とした
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [67]1976年10月〜1977年3月の6か月決算をはさんで決算期を9月期から3月期へ変更(1977年3月期 売上高30.38億円)
創業ストーリー(6)

市場第1部上場から売上高210億円までの光学装置

1979年4月、牛尾治朗氏は代表取締役会長に就き、1964年3月の設立から15年務めた社長の職を離れた[69]。1980年9月、ウシオ電機は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第1部へ上場した[70]。売上高は1980年3月期の90億8,500万円から1981年3月期に110億6,600万円、1982年3月期には131億800万円へ伸びた[71]。中期5カ年計画が1981年3月期に置いた売上高130億円の目標には、1年遅れで届いた[72]。1985年3月期は売上高210億1,200万円・経常利益31億1,500万円となり、売上高は1974年9月期の3.4倍に達した[73]

  • ウシオ電機 有価証券報告書【役員の状況】
    • [69]1979年4月に牛尾治朗が代表取締役会長に就任(1964年3月の設立時から代表取締役社長)
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1980年9月 東京及び大阪証券取引所市場第1部上場
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [71]1980年3月期90.85億円、1981年3月期110.66億円、1982年3月期131.08億円
    • [73]1985年3月期 売上高210.12億円・経常利益31.15億円(1974年9月期 売上高62.39億円)
  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [72]中期5カ年計画の1981年3月期 売上高130億円目標

製品別の売上構成では、管球類が1974年9月期の29億9,200万円・48%から1985年3月期の116億2,500万円・55%へ比重を上げた[74]。光学装置は同じ期間に15億6,300万円から53億3,800万円へ3.4倍になり、構成比は25%のまま動かなかった[75]。光学装置部門は1978年3月期に前期比41%増と伸び、総売上高に対する新製品の寄与率を押し上げた[76]。寄与率の高い新製品の主役は、ランプを組み込んだ光学装置関係の製品が占めた[77]。ランプのライフ・サイクルはおよそ3年で、3年でほぼ全量が新製品へ置き換わった[78]

  • 会社年鑑(1986年版)
    • [74]1974年9月期 管球類29.92億円・48%、1985年3月期 管球116.25億円・55%
    • [75]1974年9月期 光学装置15.63億円・25%、1985年3月期 光学装置53.38億円・25%
  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [76]1978年3月期の光学装置部門は前期比41%増
    • [77]総売上高に対する新製品の寄与率は高く、その主役はランプを利用した光学装置関係製品
    • [78]ランプのライフ・サイクルはおよそ3年で、3年でほとんど100%が新製品に入れ替わる

新製品では、紫外線ランプを用いた印刷インク・塗料用の乾燥装置が、プラスチックや缶の印刷にかかる乾燥工程を短縮した[79]。超LSIの焼付装置用ランプも1978年11月までに開発を終えた[80]。1983年6月にはランプ製造の兵庫ウシオ電機を設けた[81]。1987年4月にアメリカでランプ製造のUSHIO OREGONを設立し、1988年12月に御殿場事業所を新設した[82]。湯本大蔵常務取締役は、光の専門メーカーになることと、世界各国に根を下ろす『世界の中堅企業』になることを経営方針に掲げた[83]。海外の市場は米国・欧州・豪州が中心で、1978年には中国・ソ連・南アフリカへも販路が広がった[84]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [79]新製品の印刷インク・塗料用瞬間乾燥装置は紫外線ランプを利用し、プラスチックや缶の印刷の乾燥工程を短縮した
    • [80]超LSIの焼付装置用ランプを開発した(1978年11月10日講演時点)
    • [83]経営方針の第1点は光の専門メーカーになること、第2点は世界各国に根をおろす「世界の中堅企業」になること
    • [84]海外市場は米国・欧州・豪州が中心で、最近は中国・ソ連・南アフリカにも販路が広がり始めた(1978年11月時点)
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1983年6月 ランプ製造の兵庫ウシオ電機を設立
    • [82]1987年4月 アメリカにランプ製造のUSHIO OREGONを設立、1988年12月 御殿場市に御殿場事業所を新設
  • ウシオ電機 有価証券報告書【役員の状況】
    • [69]1979年4月に牛尾治朗が代表取締役会長に就任(1964年3月の設立時から代表取締役社長)
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1980年9月 東京及び大阪証券取引所市場第1部上場
    • [81]1983年6月 ランプ製造の兵庫ウシオ電機を設立
    • [82]1987年4月 アメリカにランプ製造のUSHIO OREGONを設立、1988年12月 御殿場市に御殿場事業所を新設
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [71]1980年3月期90.85億円、1981年3月期110.66億円、1982年3月期131.08億円
    • [73]1985年3月期 売上高210.12億円・経常利益31.15億円(1974年9月期 売上高62.39億円)
    • [74]1974年9月期 管球類29.92億円・48%、1985年3月期 管球116.25億円・55%
    • [75]1974年9月期 光学装置15.63億円・25%、1985年3月期 光学装置53.38億円・25%
  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
    • [72]中期5カ年計画の1981年3月期 売上高130億円目標
    • [76]1978年3月期の光学装置部門は前期比41%増
    • [77]総売上高に対する新製品の寄与率は高く、その主役はランプを利用した光学装置関係製品
    • [78]ランプのライフ・サイクルはおよそ3年で、3年でほとんど100%が新製品に入れ替わる
    • [79]新製品の印刷インク・塗料用瞬間乾燥装置は紫外線ランプを利用し、プラスチックや缶の印刷の乾燥工程を短縮した
    • [80]超LSIの焼付装置用ランプを開発した(1978年11月10日講演時点)
    • [83]経営方針の第1点は光の専門メーカーになること、第2点は世界各国に根をおろす「世界の中堅企業」になること
    • [84]海外市場は米国・欧州・豪州が中心で、最近は中国・ソ連・南アフリカにも販路が広がり始めた(1978年11月時点)

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沿革年表 1964〜2026年

ウシオ電機の沿革1964〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1964〜1973年家庭用電球を捨てた268人、クセノンとハロゲンで開いた産業用ランプ牛尾治朗ウシオ電機設立、資本金12,500千円★★★
牛尾治朗横浜市に生産技研横浜事業所を新設
牛尾治朗東京証券取引所市場第2部上場
牛尾治朗姫路市に播磨事業所を新設
1974〜1989年商品の3分の1を捨てた1974年秋と、光学装置への移行牛尾治朗大阪証券取引所市場第2部上場
東京及び大阪証券取引所市場第1部上場★★
ランプ製造の兵庫ウシオ電機を設立
アメリカにランプ製造のUSHIO OREGONを設立
御殿場市に御殿場事業所を新設
1990〜2004年ランプの納入先Christieの買収と半導体光源ギガフォトンドイツのBLV Licht- und Vakuumtechnikを買収★★
アメリカのChristie Electricの映写機部門を買収★★★
田中昭洋フィリピンにランプ製造のUSHIO PHILIPPINESを設立
田中昭洋ウシオ総合技術研究所を設立
田中昭洋カナダのElectrohomeの映像機器事業部門を買収★★
田中昭洋エキシマレーザー開発のギガフォトンを設立★★★
田中昭洋中国に光学装置製造のUSHIO (SUZHOU)を設立
2005〜2026年利益を生まない装置事業と、半導体露光用UVランプ85%への回帰菅田史朗ドイツのXTREME technologiesの持分50%を取得★★
菅田史朗ポーランドのランプ製造Natriumを買収
菅田史朗LED製造のエピテックスを買収
菅田史朗アメリカの半導体レーザー開発Necselを買収★★
菅田史朗アメリカの医療機器製造Luminetxを買収
菅田史朗ギガフォトンの保有全株式を小松製作所に譲渡★★★
菅田史朗アドテックエンジニアリングを公開買付けで連結子会社化★★
菅田史朗半導体レーザー製造のウシオオプトセミコンダクターを設立
浜島健爾照明器具販売のマックスレイを買収
浜島健爾アメリカの半導体レーザー開発PD-LDを買収
浜島健爾スキンケア製品販売のサンソリットを買収
内藤宏治東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場に移行
内藤宏治ヤナカホールディングスを買収
朝日崇文ドイツのランプ製造OSRAM ENIを買収★★
出典・参考 10件
出典・参考
  • 証券 1970年5月号 / ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
  • ウシオ電機 有価証券報告書【沿革】
  • ウシオ電機 有価証券報告書【役員の状況】
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 証券 1970年5月号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号
  • 証券アナリストジャーナル 1978年12月号(湯本大蔵 常務取締役・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年3月26日号

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