第1章 年〜年

ウシオ電機:ウシオ電機の設立と産業用クセノン・ハロゲンランプ

1964年〜資本金1,250万円で独立した電機事業部と、映画館向けクセノンランプ

1964年3月、ウシオ工業の電球部門が分離し、資本金1,250万円のウシオ電機として発足した。母体のウシオ工業は電機・繊維・雑貨など8事業部を抱え、赤字だった電機事業部は繊維や雑品の事業部の収益を充当して放電灯の研究を続けた。電機事業部の採算がとれ始めたのは1959〜60年頃で、牛尾治朗氏は1959年から1964年まで同事業部の責任者を務めた。平均年齢23歳の若い組織による、当時の不況のさなかの独立。設立前の事業の中心は一般照明用の電球で、設立を機にクセノンランプとハロゲンランプを本格的に作り始め、光源メーカーとして歩み出した。放電灯が自前で採算を確保できた時点で切り離せば、一般電球から離れて特殊光源に経営資源を集中できると判断したとみられる。

  • 証券 1970年5月号
    • [1]旧ウシオ電機は1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立。設立前は一般照明用電球が中心、設立を機にクセノン・ハロゲンランプの製造を本格開始
    • [5]旧ウシオ電機は1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立。設立前は一般照明用電球が中心、設立を機にクセノン・ハロゲンランプの製造を本格開始
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [2]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下
    • [3]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下
    • [4]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下

独立した会社が最初に商品化したクセノンショートアークランプの売り先は、映画館の映写機だった。技術陣は各社が競った平面光源に向かわず、発光体の間隔を極端に縮めた点光源のショートアークランプに研究を絞った。当時の映画館はカーボンを燃やすアーク灯で上映し、電極の間隔を保つ技師を常に2〜4名置いた。置き換えは技師の失業問題に絡んで進みにくく、決め手はカラー映画の登場だった。青みの強いカーボンアークの光は赤と混じって画面を紫に寄せたため、映画館はクセノンランプを本格的に採用した。国内のクセノンランプはウシオ電機と東芝の2社でほぼ占める市場になった。太陽光に近い色を出す点光源という一つの技術が、映写という大口の需要に結び付いたと言えそうだ。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [6]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [7]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [8]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [9]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [10]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
  • 証券 1970年5月号
    • [11]クセノンランプはウシオ電機と東芝でほぼ市場を独占(1970年時点)
参考文献[1]-[11]
  • 証券 1970年5月号
    • [1]旧ウシオ電機は1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立。設立前は一般照明用電球が中心、設立を機にクセノン・ハロゲンランプの製造を本格開始
    • [5]旧ウシオ電機は1964年3月にウシオ工業の電球部門が分離独立し資本金1,250万円で設立。設立前は一般照明用電球が中心、設立を機にクセノン・ハロゲンランプの製造を本格開始
    • [11]クセノンランプはウシオ電機と東芝でほぼ市場を独占(1970年時点)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [2]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下
    • [3]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下
    • [4]牛尾工業は8事業部。赤字の電機事業部へ雑品・繊維事業部の収益を投じ放電灯を研究、1959〜60年頃に採算化。牛尾治朗氏が1959〜64年に責任者。1964年3月に独立、平均年令23歳、不況下
    • [6]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [7]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [8]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [9]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化
    • [10]平面光源を追わずショートアークランプに研究を絞りクセノンショートアークランプを開発。最初の商品化は映画館向け。カーボンアークは技師2〜4名を要し、カラー映画の登場で切替が本格化

1967年〜姫路で増やせなかった工場と、複写機用ハロゲンランプの85%

1967年からは、テレビスタジオ照明用と複写機用のハロゲンランプの需要が急増し、ウシオ電機の事業基盤になった。ハロゲンランプはタングステン電球によう素・塩素・臭素といったハロゲン元素を封じて効率を高めた光源で、赤外線を多く出す。赤外線を使う電子式複写機では、このランプが露光と定着の光源・熱源を兼ねた。販売先はリコーやミノルタカメラなどの複写機メーカーで、リコーの複写機用ハロゲンランプは設立以来すべてウシオ電機の納入品だった。大量生産しにくい新しい光源で大企業が本格参入しておらず、ウシオ電機は1970年時点でハロゲンランプの85%の市場占有率を得た。1969年9月期の純利益は前期比48.6%増え、その第一の要因は採算の最も良いハロゲンランプの大幅増だった。

  • 証券 1970年5月号
    • [12]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [15]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [16]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [17]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [13]ハロゲンランプはタングステン電球にハロゲン元素を入れ効率を高めた赤外線の多い光源で、電子式複写機の露光・定着の光源・熱源に使われる
    • [14]ハロゲンランプはタングステン電球にハロゲン元素を入れ効率を高めた赤外線の多い光源で、電子式複写機の露光・定着の光源・熱源に使われる

1968年、ウシオ電機は姫路工場の研究部門を切り離し、生産技術研究所として横浜市に新設した。目的は新製品開発の強化で、研究所は企業規模に比べて充実した陣容を持った。同じ1968年に開発したランプは、情報産業と精密な光学機械の需要に応じた多種にわたる。将来の商品化に向けて、IC焼付装置とレーザー光線の研究にも着手した。1971年11月時点で、IC焼付装置にはウシオ電機の超高圧水銀灯が使われ、青焼き複写機用の工業用水銀灯は国内市場の80%を占めた。放電灯とハロゲンランプのうち粗利益率40%未満の品目は生産をやめ、利幅の大きい新製品の開発を優先する方針を通した。研究所を工場から切り離したのは、新製品で製品構成を入れ替え続ける方針を支えるためと推察される。

  • 証券 1970年5月号
    • [18]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [19]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [20]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [21]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [23]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [22]超高圧水銀灯はIC焼付装置に組み込まれ、青焼き複写機用の工業用水銀灯は国内市場の80%(1971年11月時点)

ウシオ工業から引き継いだ姫路工場は、1970年春まで唯一の稼働工場だった。工場の一帯は商業区域の指定を受け、増築の認可が下りなかった。ウシオ電機は需要増に応じるため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場の建設を始め、1970年4月の稼働を目指した。播磨工場の生産能力は月産1億1,000万円の予定。姫路工場は月産5,000万円のハロゲンランプ生産をすべて播磨へ移し、空いた力を放電灯の増産に充てる計画だった。播磨工場が稼働予定の1970年4月を含む1970年9月期の売上高は、25.30億円である。品目ごとに工場を分けたことで、ハロゲンランプの増産と放電灯の拡充を同時に進められるようになったと考えられる。

  • 証券 1970年5月号
    • [24]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [25]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [26]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [27]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [28]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
  • 会社年鑑(1976年版)ウシオ電機 業績(1970年9月期)
    • [29]1970年9月期 売上高25.30億円(単体)
参考文献[12]-[29]
  • 証券 1970年5月号
    • [12]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [15]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [16]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [17]1967年からテレビスタジオ照明用・複写機用ハロゲンランプが急伸。販売先はリコー・ミノルタカメラ等、リコーの複写機用は全量納入。ハロゲンランプの市場占有率85%。1969年9月期純利益は前期比48.6%増
    • [18]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [19]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [20]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [21]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [23]1968年に姫路工場所属の研究部門を独立させ横浜市に生産技術研究所を設置(新製品開発の強化)。同年IC焼付装置・レーザーの研究に着手。粗利益率40%未満の製品は生産中止の方針
    • [24]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [25]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [26]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [27]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
    • [28]姫路工場はウシオ工業から継いだ唯一の操業工場。商業区域指定で増設不可のため1967年にハロゲンランプ専門の播磨工場に着手、1970年4月稼働予定・月産1億1,000万円。姫路はハロゲン生産(月産5,000万円)を中止し放電灯を増強
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [13]ハロゲンランプはタングステン電球にハロゲン元素を入れ効率を高めた赤外線の多い光源で、電子式複写機の露光・定着の光源・熱源に使われる
    • [14]ハロゲンランプはタングステン電球にハロゲン元素を入れ効率を高めた赤外線の多い光源で、電子式複写機の露光・定着の光源・熱源に使われる
    • [22]超高圧水銀灯はIC焼付装置に組み込まれ、青焼き複写機用の工業用水銀灯は国内市場の80%(1971年11月時点)
  • 会社年鑑(1976年版)ウシオ電機 業績(1970年9月期)
    • [29]1970年9月期 売上高25.30億円(単体)

1970年〜東京証券取引所市場第2部への上場と、オスラムに次ぐ映画館用クセノンランプ

ウシオ電機は1970年5月4日、東京証券取引所市場第2部に上場。上場時の資本金は4億円、上場株式数は8,000千株だった。登記上の会社は1949年設立の藤井証券である。1964年設立の旧ウシオ電機は、株式の額面を500円から50円へ改めるため、1968年9月にこの休眠会社へ吸収合併された。1969年9月期末には資本金を1億6,600万円から3億円へ増資し、自己資本比率は19.4%から34.3%へ改善した。上場した期にあたる1970年9月期の当期純利益は、売上高25.30億円に対し3.04億円である。播磨工場と横浜の研究所への投資が続くなかで、借入に偏った資本構成を株式市場からの調達で改める狙いがあったのだろう。

  • 証券 1970年5月号
    • [30]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [31]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [32]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [33]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [34]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
  • 会社年鑑(1976年版)ウシオ電機 業績(1970年9月期)
    • [35]1970年9月期 売上高25.30億円・当期純利益3.04億円(単体)

1971年11月時点で、国内の映画館約4,500館のうち7〜8割がウシオ電機の製品を使っていた。国内市場はウシオ電機と東芝で分け合い、互いの顧客に立ち入らなかった。映写用クセノンランプの世界最大手はドイツのオスラムで、欧州は2〜3年前までオスラムが支配する閉じた市場だった。1970年時点では北米・欧州から大量の引き合いを受けながら、国内需要に追われて輸出比率は10.9%にとどまった。ウシオ電機は5年前に米国へ、2年前に欧州へ進出し、米国で約800館、欧州で約200館の上映施設を持った。全株を持つ日本ジーベックスが、映写装置の設置から保守までを担った。牛尾治朗氏は、5年で世界約2万館にウシオ映画システムを築き、米欧市場の約30%を確保する目標を掲げた。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [36]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [37]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [38]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [40]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [41]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [42]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
  • 証券 1970年5月号
    • [39]北米・欧州から大量の引き合いがあるが国内需要に追われ輸出比率は10.9%(1968・1969年9月期)

ウシオ電機は1965年に、人工的に太陽光を作るソーラーシミュレーターの製造を始めた。人工衛星の材料や部品を打ち上げ前に試す設備は、真空を作るスペースチャンバーに、疑似的な太陽光を当てる太陽装置を組み合わせる。太陽装置の光源には、太陽光に近い色を出すクセノンショートアークランプが合った。東京大学宇宙航空研究所に納めた第1号機以来、内ノ浦の第18号機まで、国内の太陽装置18台はすべてウシオ電機製だった。米国は開発の機密を理由に、当初は地元メーカー以外の納入を拒んだ。ハノビアの製作成功を機にウシオ電機も参入し、1本2,000〜2,500ドルのランプを大量に輸出した。ランプ単体にとどまらず装置の光源系まで担った経験が、後の光学装置への移行の足場になったと思われる。

  • 証券 1970年5月号
    • [43]1965年にソーラーシミュレーター・大型クセノンランプ等の製造を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [44]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [45]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [46]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [47]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [48]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
参考文献[30]-[48]
  • 証券 1970年5月号
    • [30]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [31]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [32]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [33]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [34]1970年5月4日東証2部上場、資本金4億円・上場株式数8,000千株。藤井証券(1949年設立)に旧ウシオ電機が額面変更のため1968年9月吸収合併。1969年9月期末に1億6,600万円から3億円へ増資、自己資本比率19.4%→34.3%
    • [39]北米・欧州から大量の引き合いがあるが国内需要に追われ輸出比率は10.9%(1968・1969年9月期)
    • [43]1965年にソーラーシミュレーター・大型クセノンランプ等の製造を開始
  • 会社年鑑(1976年版)ウシオ電機 業績(1970年9月期)
    • [35]1970年9月期 売上高25.30億円・当期純利益3.04億円(単体)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)
    • [36]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [37]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [38]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [40]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [41]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [42]国内映画館約4,500館の7〜8割が同社製品。国内は東芝と分け合う。世界最大手はオスラムで欧州は閉鎖市場。5年前に米国、2年前に欧州へ進出し米約800館・欧約200館。日本ジーベックス(全株所有)を通じ5年で世界約2万館、米欧市場の約30%を目標
    • [44]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [45]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [46]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [47]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル
    • [48]人工衛星の試験装置はスペースチャンバーと疑似太陽装置(ソーラーシミュレーター)から成り、光源はクセノンランプ。国内の太陽装置18台はすべてウシオ製。米国へ大量輸出、1本2,000〜2,500ドル

1964年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年09月期 単体 7 n/a n/a 1 14.0% n/a
1969年09月期 単体 18 +156.7% n/a 2 11.6% n/a
1970年09月期 単体 25 +35.0% 4 3 12.0% n/a
1971年09月期 単体 26 +4.7% 3 1 7.5% n/a
1972年09月期 単体 31 +17.9% 3 2 6.8% n/a
1973年09月期 単体 42 +35.9% 4 2 5.4% n/a

出所:会社年鑑(1971年版)合併に伴う変則6ヶ月決算(1968年4月〜9月)、誌面注記の実質値、会社年鑑

出典・参考

3件
出典・参考
  • 会社年鑑(1976年版)ウシオ電機 業績(1970年9月期)
  • 証券 1970年5月号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年1月号(牛尾治朗 社長・講演要旨)

免責事項およびポリシー