日亜化学工業 の歴史

創業

1956年

創業者

小川信雄

創業地

徳島県阿南市新野町

直近売上高(2025/12)

3,640億円

長期業績と転換点(1996/12〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1956年に、大手が相手にしなかった塩化カルシウム系の原料が世界一の明るさを出せたのか
A 蛍光灯用の蛍光体は硝酸カルシウムを主原料とするのが通説だったが、日亜化学工業は手元にある技術から入った小川信雄氏は1948年に徳島県阿南市で協同医薬研究所を興し、周辺の石灰石から高純度の塩化カルシウムを作って協和醗酵へ結核薬の原料として納めていた。その塩化カルシウムをリン酸カルシウムへ振り向けたところ、1956年に新日本電気が試作した40ワット蛍光灯は、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。通説の外側にある材料を選べたのは、それをすでに自社で作っていたからである。
Q なぜ1980年代末に、自社で高輝度化に成功した赤色LEDから退き、大手が見切った窒化ガリウムへ移ったのか
A 中小企業が大手と同じ材料で競えば、開発に成功しても量産と価格で押し切られる。日亜化学工業は赤色系LEDで市販品を上回る明るさに届きながら、大手が量産態勢に入っていたため利がないと判断して退いた。青色は10ミリカンデラ程度しか出せず、カンデラ級の実現は20世紀中には無理とされた領域である。大学や大手のほとんどは結晶を育てやすいセレン化亜鉛を選んだが、開発を担当した中村修二氏は下地結晶が合わない窒化ガリウムに絞った小川英治社長は1989年度に売上高の約3%にあたる5億円をこの開発へ投じている
Q なぜ2020年代に、光半導体と並ぶ柱まで育てた正極材料が急速に縮んだのか
A 正極材料はもともと原料価格に収益を左右される事業で、電気自動車向けの需要が鈍ると同時に縮んだ。日亜化学工業は1991年にリチウムイオン二次電池用の正極材料へ着手し、蛍光体で培った無機材料の技術を移して2008年にはコバルト酸リチウムで首位に立っている。ただし2007年の正極材市場2,000億円のうち7割以上は金属価格が占め、脱コバルトの競争も始まっていた。売上高は2023年12月期の2,155億円から2025年12月期の835億円まで落ち、2024年12月期には111億円の減損損失を計上した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1948年〜 石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く

日亜化学工業の業績推移:単体

売上高(億円)
  1. 1956年 塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立 硝酸カルシウムか、塩化カルシウムか——通説の外側にある原料をなぜ選べたのか
  2. 1964年 上中工場(現本社所在地)の操業開始
  3. 1966年 照明用蛍光体の製造開始
  4. 1966年 オリエンタル産業(後の日亜電子化学)の設立
  5. 1971年 カラーテレビ用蛍光体の製造開始
  6. 1972年 本社を阿南市新野町から上中町(現所在地)へ移転
  7. 1977年 照明用三波長蛍光体の製造開始

復員後に興した協同医薬研究所と高純度塩化カルシウム

1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた小川信雄[1]は、3歳で父を亡くし、1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進んだ[2]。同校で最初の陸軍依託生徒に採用され、陸軍軍医学校を出て陸軍衛生材料本廠に勤めた。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り、直接撮影方式に比べてフィルムの使用量を大幅に減らした。太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征[4]し、その途中に立ち寄ったミンダナオ島のダバオで、淡い光を放つゼネラル・エレクトリック社製の蛍光灯を初めて見た[5]。この印象がX線装置の開発経験とともに、後年に蛍光体へ向かう動機となった。3年におよぶ補給の途絶を生き延びて1946年2月に佐世保へ上陸すると、大協石油に招かれて四日市へ赴任した。そして1948年に同社を退いて郷里へ帰り、協同医薬研究所を興して薬局を開いた[7][3][6]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
    • [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
    • [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
    • [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
    • [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
    • [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった

阿南市の周辺には良質の石灰石が産出する[8]。小川氏はその石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度の塩化カルシウム[9]を研究した。当時この原料は米国のメルク社から輸入されており[10]、国産化を試みていた協和醗酵が高品質な供給先を探していた。1951年に量産へ漕ぎ着けた無水塩化カルシウム[11]はメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受ける[12]に至った。ストレプトマイシンは当時、協和醗酵と明治製菓の2社だけが製造しており[13]、発注は急増して、協同医薬研究所はここで経済的な基盤を得た。ただし小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり[14]、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探した。そして塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った[15]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
    • [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
    • [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
    • [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
    • [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
    • [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
    • [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
    • [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
    • [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
    • [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
    • [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
    • [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
    • [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
    • [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
    • [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった
    • [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
    • [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
    • [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
    • [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
    • [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った

硝酸カルシウム系という通説を外した蛍光体原料

蛍光体の原料は当時アメリカからの輸入に頼り、家電メーカーが自社工場で焼成していて、国産化は技術的に至難とされていた[16]。しかも蛍光灯用の蛍光体には、硝酸カルシウムを主原料としたリン酸カルシウムでなければならないというのが通説[17]である。小川氏が選んだのは塩化カルシウムだった。1955年にほぼ自信のある原料を作れるようになり、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだが、当初はどこも取り合わなかった。無名でつてもなく、この分野で最も進んだ技術を持っていた東芝が硝酸カルシウム系だった[19]ことも重なる。1956年になって新日本電気が試験的に採用し[20]、日亜の原料から作った蛍光体で40ワットの蛍光灯を試作したところ、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。世界で最も明るい蛍光灯だった。 [18][21]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
    • [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
    • [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
    • [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
    • [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった

驚いた新日本電気が技術提携先の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送ると、蛍光体生産で世界最大手だった同社も性能に驚き、日亜へ直接発注してきた[22]。この成功を受けて、小川氏は1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名で、株式の4分の1は協同医薬研究所の出資者へ、ほかにも世話になった関係者と従業員へ無償で交付[24]した。新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの1位を3年続けて取った[25]。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁といわれた3,200ルーメンを超えた[26]。1959年には蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを追い抜き[27]、硝酸カルシウムにとどまった東芝も1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた[28][23]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
    • [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
    • [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
    • [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
    • [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
    • [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った

1961年に初めて渡米した小川氏は、ウェスチングハウス社やシルバニア社を訪ね、自社の蛍光体原料が商社を通ると出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されている事実[29]を知った。以後、日亜は商社を介さない直接貿易を取引の基本方針とした[30]。1962年には那賀川沿いの水と緑に恵まれた土地を選んで本社工場の建設に入り[31]、1964年12月に上中工場が操業を始めた[32]。1966年3月には照明用蛍光体そのものの製造を始め[33]、同月、蛍光灯用蛍光体の製造を専業とする子会社としてオリエンタル産業(後の日亜電子化学)を設立した。1967年には蛍光体の焼成工場を増設した。国内シェアが原料供給分を含めて80%近くに達していた時期の増設であり、落成式に来た新日本電気と東芝の関係者は工場の規模に驚いた。1968年には東芝に次いで、米ゼネラル・エレクトリック社からハロリン酸カルシウム蛍光体の特許実施権を取得[35]した。 [34]

  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
    • [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
    • [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
    • [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
    • [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
    • [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
    • [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
    • [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
    • [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
    • [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
    • [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
    • [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
    • [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
    • [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
    • [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
    • [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった
    • [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った
    • [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
    • [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
    • [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した

カラーテレビ用蛍光体への10年と、輸出を前提にした生産規模

1959年頃から日亜化学工業は、蛍光灯の次の分野としてカラーテレビ用蛍光体の研究に入った[36]。この開発は予想を越える負担となり、製品が本格的に市場へ出る1971年1月まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要した[37]。再三の危機に耐えられたのは、良品は売れるという信念と従業員の結束による[38]と小川氏は振り返った。転機は1967年のソニーとの接触[39]だった。ソニーは3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており[40]、日亜はこの方式に適した蛍光体の開発に着手して1971年から供給を始めた。テレビ用の蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子の大きさをそろえる技術など、照明用より高度な特性が求められた。ソニーに続いて松下からも大量の受注が入った。 [41]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
    • [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
    • [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
    • [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
    • [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった

1976年12月期の年商は31億200万円、子会社の日亜電子化学は6億400万円だった[42]。従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、1976年に研究開発へ投じた費用は約1億2,000万円と総売上の4%弱[43]に達した。工場には大学の研究室と見まがう実験器具と物性測定器が並び、事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊数十万円のドイツ語原書を含む化学関係の専門図書が置かれた[44]。この頃、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて70%程度、テレビ用蛍光体は約30%と推定[45]され、国内のカラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われていた。ソニーと新日本電気には全色で使用量の約半分、松下電器にはほぼ独占的に納めた[46]。1974年5月には徳島工場が操業を始め[47]、ゴム用のバナジウム触媒を作り始めた[48]

  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
    • [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
    • [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
    • [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
    • [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
    • [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した

1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を始めた[49]。ハロリン酸カルシウム系の昼光色蛍光灯は赤色光が乏しく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があり[50]、イットリウムやユーロピウムといった希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させる[51]ことで、この欠点を補った。輸出先はアメリカ、カナダ、台湾、フィリピン、韓国、南アフリカ、イタリア、スウェーデン、西ドイツにおよび、年間およそ2億円の外貨を稼いだ[52]。社是には「より明るい世界のために限りなき研究を」という和文を添えた英文[53]を掲げた。カラーテレビ業界は米国と欧州の輸入規制で先行きが読めなくなっており、テレビ用蛍光体に業績を依存する構造への警戒から、小川氏は次の製品として発光ダイオードの開発に期待をかけた[54]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
    • [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
    • [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
    • [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
    • [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
    • [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
    • [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
    • [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
    • [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
    • [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
    • [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
    • [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
    • [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
    • [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
    • [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
    • [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
    • [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった
    • [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
    • [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した
    • [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した

1983年〜 蛍光体の会社が半導体材料へ越境し、赤色で退いて青色に賭けるまで

  1. 1983年 赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売開始
  2. 1987年 台湾の連合照明股份有限公司に資本参加
  3. 1989年 赤色系LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発着手 大手が量産に入った赤色を続けるか、実現は21世紀とされた青色へ移るか——中小の蛍光体メーカーが選んだ材料
  4. 1991年 リチウムイオン二次電池用正極材料の開発開始

赤色LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムという選択

蛍光体で国内首位を取った後も、日亜化学工業は蛍光体だけに頼る体質から抜けようとした。蛍光体の世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり、市場規模そのものに限りがあった。そこで蛍光体事業から上がる利益を元手に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投じた[56]。米モンサント社が1965年頃にLEDを開発した頃[57]から小川氏はこの素子に関心を持ち、大企業の委託で半導体用ガリウムの精製も手がけていた。1983年には赤外線LED用のガリウムアルミニウム砒素エピタキシャルウエハの製造と販売[58]を始めた。ただし営業部隊が大手企業から聞いてきた製品を苦労して仕上げても、2度とも価格競争に敗れてほとんど商売にならない[59]。開発を担当した中村修二氏には、この敗戦が横並びの研究をやめる判断の始まりとなった[60][55]

  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [55]蛍光体の需要は世界全体で約1万トン(うち照明用は8千トン)にすぎず、蛍光体だけでは市場規模に限界があった
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [56]蛍光体事業から上がる利益を背景に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投入した
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [57]米モンサント社が1965年頃にLEDを初めて開発し、日亜化学工業も大企業の委託を受けて半導体用ガリウムの精製を行っていた
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [58]1983年に赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売を開始した
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [59]中村には過去に2回の苦い思い出があり、営業部隊が大手企業から聞いてきたものを苦労して製品化したが、2回とも大手との価格競争に敗れてほとんど商売にならなかった
    • [60]以来、多少リスクがあっても大手と横並びの研究には取り組まないという信念が中村修二に芽生えた

日亜化学工業はまず赤色系のLEDに取り組み、最初の製品こそ暗かったものの、やり直して市販品を上回る高輝度の製品にたどり着いた[61]。しかしその時期には大手各社が量産態勢に入って価格競争の段階へ進んでおり、中小企業の日亜が続けても利がないと小川氏は判断した。代わりに選んだのが、難しいとされていた高輝度の青色LEDだった。当時、赤は数カンデラ、緑は500ミリカンデラの製品が作られていたのに対し、青色は10ミリカンデラ程度の光しか出せず、カンデラ級の青は20世紀中には実現しないとまで言われた[63]領域である。青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が難しい[64][62]

  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [61]まず赤色系LEDの開発に取り組み、最初のものは暗かったが、やり直して市販品より高輝度の製品ができた
    • [62]その時期には大手企業が量産化の態勢に入り価格競争の段階に入っており、中小企業の日亜が続けてもメリットがないと判断した
    • [63]当時は赤が数カンデラ、緑が500ミリカンデラの製品が作られる一方、青色LEDは10ミリカンデラ程度しか出せず、カンデラ級の青は今世紀中にはできないとも言われていた
    • [64]青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が困難とされた

大学や研究機関、大手企業のほとんどはセレン化亜鉛を研究していた[65]。セレン化亜鉛は既存の砒化ガリウムと結晶構造が同じで原子間距離もほぼ等しく、結晶を育てやすかった[66]からである。一方の窒化ガリウムには結晶構造も原子間距離も合う下地結晶がなく[67]、欠陥の少ない結晶膜を作るのが極めて難しい[68]。この材料に挑んだのは、1973年に松下電器産業東京研究所で研究を始めた赤崎勇氏ら[69]だった。赤崎氏は1981年に経営陣から中止を命じられて同社を辞め[70]、名古屋大学へ移った。そこで1985年2月に大学院生の天野浩氏がサファイア基板と窒化ガリウムの間へ窒化アルミニウムのバッファ層を挟む方法を見つけ[71]、1987年8月には電子線の照射で窒化ガリウムをp型にする道が開いた[72]。中村氏が絞ったのは、発光量が大きく寿命も長いこの材料[73]である。

  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [65]ほとんどの大学・研究機関・大手企業はセレン化亜鉛を研究していた
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
    • [66]セレン化亜鉛は旧来の半導体である砒化ガリウムと同じ結晶構造で原子間距離もほぼ等しく、結晶成長が容易だった
    • [67]窒化ガリウムと同じ結晶構造と原子間距離を持つ下地結晶が存在しないことが問題だった
    • [69]1973年、松下電器産業・東京研究所の赤崎勇らがあえて窒化ガリウムの結晶成長に取り組むことを決意した
    • [70]1981年に松下電器の経営陣が赤崎のチームに研究の中止命令を出し、赤崎は同社を辞職して名古屋大学に移った
    • [71]1985年2月、赤崎の指導下にいた大学院生の天野浩が、サファイアの上に結晶になりきっていない窒化アルミニウムを積んでから窒化ガリウムを積むと結晶性がよくなることを発見した
    • [72]1987年8月、天野は電子ビームを照射すると窒化ガリウムが光り始めることに気づき、窒化ガリウムのp型化という第二のパラダイム破壊が起きた
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [68]欠陥の少ない結晶膜を作ることが極めて難しく、大手企業の研究者は早くから見切りをつけていた
    • [73]開発を担当した中村修二は、発光量が大きく寿命も長い窒化ガリウムを選んだ
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [55]蛍光体の需要は世界全体で約1万トン(うち照明用は8千トン)にすぎず、蛍光体だけでは市場規模に限界があった
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [56]蛍光体事業から上がる利益を背景に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投入した
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [57]米モンサント社が1965年頃にLEDを初めて開発し、日亜化学工業も大企業の委託を受けて半導体用ガリウムの精製を行っていた
    • [61]まず赤色系LEDの開発に取り組み、最初のものは暗かったが、やり直して市販品より高輝度の製品ができた
    • [62]その時期には大手企業が量産化の態勢に入り価格競争の段階に入っており、中小企業の日亜が続けてもメリットがないと判断した
    • [63]当時は赤が数カンデラ、緑が500ミリカンデラの製品が作られる一方、青色LEDは10ミリカンデラ程度しか出せず、カンデラ級の青は今世紀中にはできないとも言われていた
    • [64]青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つで、炭化珪素は変換効率が悪く理論的にも高輝度化が困難とされた
    • [65]ほとんどの大学・研究機関・大手企業はセレン化亜鉛を研究していた
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [58]1983年に赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売を開始した
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [59]中村には過去に2回の苦い思い出があり、営業部隊が大手企業から聞いてきたものを苦労して製品化したが、2回とも大手との価格競争に敗れてほとんど商売にならなかった
    • [60]以来、多少リスクがあっても大手と横並びの研究には取り組まないという信念が中村修二に芽生えた
    • [68]欠陥の少ない結晶膜を作ることが極めて難しく、大手企業の研究者は早くから見切りをつけていた
    • [73]開発を担当した中村修二は、発光量が大きく寿命も長い窒化ガリウムを選んだ
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
    • [66]セレン化亜鉛は旧来の半導体である砒化ガリウムと同じ結晶構造で原子間距離もほぼ等しく、結晶成長が容易だった
    • [67]窒化ガリウムと同じ結晶構造と原子間距離を持つ下地結晶が存在しないことが問題だった
    • [69]1973年、松下電器産業・東京研究所の赤崎勇らがあえて窒化ガリウムの結晶成長に取り組むことを決意した
    • [70]1981年に松下電器の経営陣が赤崎のチームに研究の中止命令を出し、赤崎は同社を辞職して名古屋大学に移った
    • [71]1985年2月、赤崎の指導下にいた大学院生の天野浩が、サファイアの上に結晶になりきっていない窒化アルミニウムを積んでから窒化ガリウムを積むと結晶性がよくなることを発見した
    • [72]1987年8月、天野は電子ビームを照射すると窒化ガリウムが光り始めることに気づき、窒化ガリウムのp型化という第二のパラダイム破壊が起きた

フロリダ留学とツーフロー法による三つの突破

中村氏は1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了して日亜化学工業へ入社し[74]、開発課でリン化ガリウムの多結晶などを見よう見まねで作り、自ら売り歩いて数百万円の売上[75]を会社にもたらした。当時の日亜は地元の人ばかり200人足らずの組織で、20年以上勤めた幹部は研究者を志す新入社員を身のほど知らずと笑った[76]という。大企業なら誰でも作れる製品を二番煎じで作っても儲けは知れていた。中村氏は小川氏を説き、まだ誰も実用化していない青色発光デバイスを作って売ることを提案した。小川氏はこれを受けて研究費を出す判断をし、1988年、中村氏を米フロリダ大学へ1年間送り出した[78]。留学先を選んだのは、大学の2年先輩である酒井士郎氏が客員研究員として結晶成長を研究していたからである[79][77]

  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [74]中村修二は1979年に徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了し、同年日亜化学工業に入社して開発課に勤務した
  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
    • [75]入社以来リン化ガリウムの多結晶などを見よう見まねで作り、自ら売り歩いて会社に数百万円の売上をもたらした
    • [76]地元の人たちばかりによる200人足らずの組織で、20年以上この会社に奉公してきた幹部は研究者となることを夢見る新入社員を身のほど知らずとせせら笑った
    • [77]中村は小川信雄を口説き、まだ誰も実用化に成功していない青色発光デバイスを作って売ることを提案した
    • [78]1988年3月、中村修二はフロリダ大学に研究生として留学した(日経ビジネスは88年4月から1年間の客員研究員と記す)
    • [79]フロリダ大学を選んだのは、大学時代に2年先輩だった酒井士郎がすでに客員研究員として赴任し、結晶成長の研究をやっていたからである

フロリダ大学には結晶成長装置があるとされていたが、実際にあったのは部品だけで、中村氏は韓国と中国の大学院生とともに1年かけて装置を組み立てた[80]。完成したのは帰国1か月前で、学位を持たない中村氏は研究会に呼ばれず、装置が壊れたときだけ呼び出される扱いを受けた[81]。1989年に帰国すると、社長に就いていた小川英治氏が売上高の約3%にあたる5億円をこの年度の開発費として出す[82]。日亜には装置は自分で作れという方針があり[83]、蛍光体事業を自前の炉で立ち上げた経験から、経営陣は装置を外部へ発注しない重要さを知っていた。中村氏は帰国後、酒井氏に相談して市販の有機金属化学気相成長装置を買い、その改造に明け暮れた[84]

  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
    • [80]フロリダ大学には結晶成長装置があるとされていたが実際には部品だけで、韓国人や中国人の大学院生とともに1年かけて組み立て、完成したのは帰国1か月前だった
    • [81]学位を持たない中村は一人の対等の人間として認められず、研究会には呼ばれないが何かが壊れたら修理しろと呼びつけられた
    • [84]帰国後は徳島大学に赴任していた酒井士郎に相談して市販のMOVPE装置を購入し、その改造に明け暮れた
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [82]小川英治社長は売り上げの3%にあたる5億円を、青色LEDの初年度の開発費として出した
    • [83]「装置は自分で作れ」というのが上層部の考え方で、蛍光体事業を立ち上げた経験から装置を自ら作る重要さをトップは痛感していた

1990年夏、中村氏は原料ガスを横から炉へ入れると同時に、上から窒素と水素の混合ガスを大量に吹き付けるツーフロー法[85]にたどり着いた。成長温度が1,000度と高いため原料ガスが対流で上に逃げ、サファイア基板に届かないという見立て[86]から生まれた方法である。この方法に変えて一発で成功し、無色透明の窒化ガリウム薄膜を得た[87]。結晶成長には赤崎氏と天野氏のバッファ層技術を使ったが、約半年後に窒化アルミニウムではなく窒化ガリウムをバッファ層に用いることにした[88]。この特許が日亜化学工業にとって最強の特許となった。1991年12月には部下の岩佐成人氏とともに、マグネシウムを添加した結晶を窒素中で熱処理して水素を追い出し、窒化ガリウムのp型化に成功した。最後に残ったインジウムの混ぜ方はNTTの松岡隆志氏に学び[90]、1992年、青色発光ダイオードの実用化に届いた[91][89]

  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
    • [85]1990年夏、原料ガスを横から炉に流し込むと同時に上から窒素と水素の混合ガスを大量に流すツーフロー法にたどり着いた
    • [86]成長温度が摂氏1000度と高いため、横から入れた原料ガスが対流で上に行きサファイアのところにたどり着けないという見立てから、上から二つ目のガス流で押さえ込む発想が生まれた
    • [87]ツーフロー法に変えてから一発で成功し、無色透明の窒化ガリウムの薄膜がサファイアの上に生えた
    • [88]結晶成長には赤崎・天野によるバッファ層技術を用いたが、その約半年後に窒化アルミニウムではなく窒化ガリウムをバッファ層に用いることにし、これが日亜化学最強の特許となった
    • [89]1991年12月、中村と部下の岩佐成人はマグネシウムを添加した窒化ガリウムを窒素中で熱処理して水素を追い出し、p型化に成功した。これが日亜化学にとって2番目に強力な特許となった
    • [90]インジウム導入の方法について中村は松岡隆志に問い、松岡は論文に書いてあるとおりにやるとよいと教え、中村はそのレシピを守った
    • [91]こうして中村は1992年に青色発光ダイオードの実用化を成し遂げた
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
    • [74]中村修二は1979年に徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了し、同年日亜化学工業に入社して開発課に勤務した
    • [82]小川英治社長は売り上げの3%にあたる5億円を、青色LEDの初年度の開発費として出した
    • [83]「装置は自分で作れ」というのが上層部の考え方で、蛍光体事業を立ち上げた経験から装置を自ら作る重要さをトップは痛感していた
  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
    • [75]入社以来リン化ガリウムの多結晶などを見よう見まねで作り、自ら売り歩いて会社に数百万円の売上をもたらした
    • [76]地元の人たちばかりによる200人足らずの組織で、20年以上この会社に奉公してきた幹部は研究者となることを夢見る新入社員を身のほど知らずとせせら笑った
    • [77]中村は小川信雄を口説き、まだ誰も実用化に成功していない青色発光デバイスを作って売ることを提案した
    • [78]1988年3月、中村修二はフロリダ大学に研究生として留学した(日経ビジネスは88年4月から1年間の客員研究員と記す)
    • [79]フロリダ大学を選んだのは、大学時代に2年先輩だった酒井士郎がすでに客員研究員として赴任し、結晶成長の研究をやっていたからである
    • [80]フロリダ大学には結晶成長装置があるとされていたが実際には部品だけで、韓国人や中国人の大学院生とともに1年かけて組み立て、完成したのは帰国1か月前だった
    • [81]学位を持たない中村は一人の対等の人間として認められず、研究会には呼ばれないが何かが壊れたら修理しろと呼びつけられた
    • [84]帰国後は徳島大学に赴任していた酒井士郎に相談して市販のMOVPE装置を購入し、その改造に明け暮れた
    • [85]1990年夏、原料ガスを横から炉に流し込むと同時に上から窒素と水素の混合ガスを大量に流すツーフロー法にたどり着いた
    • [86]成長温度が摂氏1000度と高いため、横から入れた原料ガスが対流で上に行きサファイアのところにたどり着けないという見立てから、上から二つ目のガス流で押さえ込む発想が生まれた
    • [87]ツーフロー法に変えてから一発で成功し、無色透明の窒化ガリウムの薄膜がサファイアの上に生えた
    • [88]結晶成長には赤崎・天野によるバッファ層技術を用いたが、その約半年後に窒化アルミニウムではなく窒化ガリウムをバッファ層に用いることにし、これが日亜化学最強の特許となった
    • [89]1991年12月、中村と部下の岩佐成人はマグネシウムを添加した窒化ガリウムを窒素中で熱処理して水素を追い出し、p型化に成功した。これが日亜化学にとって2番目に強力な特許となった
    • [90]インジウム導入の方法について中村は松岡隆志に問い、松岡は論文に書いてあるとおりにやるとよいと教え、中村はそのレシピを守った
    • [91]こうして中村は1992年に青色発光ダイオードの実用化を成し遂げた

円高下で整えた海外の供給網と、二代目社長への交代

青色LEDの開発と並行して、日亜化学工業は1991年にリチウムイオン二次電池用の正極材料の開発に着手した[92]。ソニーが世界で初めてリチウムイオン電池を製品化した年と同じ[93]で、蛍光体で培った無機材料の技術を電池材料へ向けた格好になる。海外の足場もこの時期に整えた。1985年のプラザ合意を契機とする円高を背景に、日本のテレビメーカーが海外生産を強めたため、日亜は現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給する体制[95]を敷く。1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した[96]。輸出比率が4割弱の日亜[97]にとって、円高は業績を直撃する要因でもあった。 [94]

  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [92]1991年にリチウムイオン二次電池用正極材料の開発を開始した
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
    • [93]ソニーが世界で初めてリチウムイオン電池を製品化したのは1991年である
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [94]1985年のプラザ合意を契機とした円高傾向を背景に、日本のテレビメーカーは海外生産体制の強化を進めた
    • [95]日亜はユーザーをフォローするため、現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給するために海外子会社を設立した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [96]1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [97]急激な円高は、輸出比率が40%弱と高い日亜化学を直撃した

1989年、小川信雄氏は社長を退いて会長となり、娘婿で専務の小川英治氏が社長に就いた[98]小川英治氏は1960年に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工業を経て1965年に日亜化学工業へ入社した技術者[99]で、1977年には取締役工場長を務めていた[100]。研究の設備にも資金を割いており、1986年には6階建ての研究棟が完成した[101]。大学の研究施設に遜色ない設備と豊富な文献を備えた建物だった。蛍光体では国内シェア約50%、世界シェア約25%を占め、照明用に限れば国内で5割を超えていた。1993年12月期の売上高は167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人しかいない[103][102]

  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [98]1989年(平成元年)に小川信雄が社長を退いて会長となり、専務で女婿の小川英治が社長に就任した
    • [99]小川英治は1960年(昭和35年)に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工を経て1965年(昭和40年)に日亜化学工業へ入社した
    • [101]昭和61年(1986年)に完成した6階建ての研究棟は、大学の研究施設と遜色ないほどの設備と豊富な文献を備えていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [100]小川英治は1977年時点で取締役工場長を務めていた
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [102]蛍光体の国内市場シェアは約50%、世界市場では約25%で、照明用では国内50%を超えていた
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [103]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人だった
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [92]1991年にリチウムイオン二次電池用正極材料の開発を開始した
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
    • [93]ソニーが世界で初めてリチウムイオン電池を製品化したのは1991年である
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
    • [94]1985年のプラザ合意を契機とした円高傾向を背景に、日本のテレビメーカーは海外生産体制の強化を進めた
    • [95]日亜はユーザーをフォローするため、現地工場で廃棄される蛍光体を洗浄して再び供給するために海外子会社を設立した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [96]1987年12月に台湾の連合照明股份有限公司へ資本参加し、1988年6月に日亜アメリカ、1989年10月に日亜マレーシアを設立した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [97]急激な円高は、輸出比率が40%弱と高い日亜化学を直撃した
    • [103]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円で、従業員600人に対して間接部門は11人だった
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
    • [98]1989年(平成元年)に小川信雄が社長を退いて会長となり、専務で女婿の小川英治が社長に就任した
    • [99]小川英治は1960年(昭和35年)に徳島大学工学部を卒業し、三菱重工を経て1965年(昭和40年)に日亜化学工業へ入社した
    • [101]昭和61年(1986年)に完成した6階建ての研究棟は、大学の研究施設と遜色ないほどの設備と豊富な文献を備えていた
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
    • [100]小川英治は1977年時点で取締役工場長を務めていた
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [102]蛍光体の国内市場シェアは約50%、世界市場では約25%で、照明用では国内50%を超えていた

1993年〜 青色LEDの実用化と、囲い込んだ特許が呼び込んだ十数件の特許訴訟

日亜化学工業の業績推移:単体

売上高(億円)
  1. 1993年 高輝度青色LEDの開発に成功
  2. 1994年 高輝度青緑LEDの開発に成功
  3. 1995年 純緑色LEDの開発と青系レーザーの発振に成功
  4. 1996年 白色LEDの開発に成功
  5. 1996年 二次電池材料の量産製造開始
  6. 2001年 青色LED特許の囲い込みとライセンス供与の拒否、2001年の方針転換と発明対価訴訟の和解 特許を独占するか、開いて収入に変えるか——世界首位に立った会社が、発明者との訴訟のさなかに方針を改めるまで
  7. 2001年 青紫色レーザーダイオードの量産販売開始

1カンデラの青から白色LEDへ、世界首位に立つまでの7年

1993年11月、日亜化学工業は明るさ1カンデラの青色LEDの開発に成功したと発表した[104]。従来品の約100倍にあたり、1カンデラの実現は21世紀に入ってからとみられていたため、無名の中小企業による達成は大手企業を慌てさせた[105]。翌1994年1月下旬には警察庁が小山稔技師長を呼び[106]、信号機に採用できないかと打診した。半年に一度取り換えていた電球をLEDに替えれば、交換周期を10年近くまで延ばせる[107]からである。1994年に量産へ入り[108]、製造歩留まり80%と月間数千万個の量産体制にめどをつけた[109]。当時の日亜は売上の9割を蛍光体が占め、1993年12月期の売上高は円高で前期比12%減の167億円、経常利益は同49%減の7億8,800万円まで落ちた。従業員は594名だった。 [110]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [104]1993年11月に高輝度青色LEDの開発に成功した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [105]従来に比べ100倍明るく、実用化のハードルとされた1カンデラの実現は21世紀とみられていたため、無名の日亜化学の成功は大手企業を慌てさせた
    • [106]1994年1月下旬に警察庁が日亜化学工業の小山稔技師長を呼び、信号機にLEDを採用できないかと問い合わせた
    • [107]電球は半年に一度の交換が必要だが、LEDに変えれば10年近く取り換えなくても済むと小山技師長は述べた
    • [109]80%の製造歩留まりと月間数千万個の量産体制にめどをつけた
    • [110]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円、経常利益は同49%減の7億8,800万円で、売上の9割は蛍光体だった。1994年2月時点の従業員は594人
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [108]小川信雄会長は1993年に世界で初めて1カンデラの青色LEDを開発し、1994年1月から量産態勢に入ったと述べている。日経ビジネスは1994年4月からの量産と報じた

青が明るくなると、今度は緑が暗く見えた。日亜化学工業は同じ窒化ガリウム系の材料で緑色に取り組み、1994年秋に青を2カンデラへ引き上げ、1995年9月には従来品の60倍の明るさを持つ純緑色LEDを完成させた[112]。赤・青・緑の三原色がそろい、LEDによる大画面ディスプレイのフルカラー化に道が開いた。1995年12月には室温で波長410ナノメートルの青紫色レーザーの発振に成功した。CDに使う赤色レーザーに比べて記録密度を約4倍に高められる[114]ため、次世代の映像記録媒体の鍵となる素子と見られた。1996年9月には白色LEDを開発し[115]、同年11月には二次電池材料の量産製造も始めた。1995年12月期の売上高は205億5,000万円、経常利益は19億3,000万円[116]である。 [111][113]

  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [111]1994年秋に青色LEDの明るさを2カンデラへ引き上げた
  • 季報ほくとう 第38号(北海道東北開発公庫, 1996年)「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」
    • [112]1995年9月に従来製品の60倍の明るさを持つ高光度緑色LEDの開発に成功し、赤・青・緑の三原色がそろった
    • [113]1995年12月12日、室温で波長410nmの青紫色レーザー発振に成功したと発表した
    • [114]青紫色レーザーを使うと、CDに使われている赤色レーザーに比較して記録密度が一挙に約4倍に高まる
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [115]1996年9月に白色LEDの開発に成功し、1996年11月に二次電池材料の量産製造を開始した
  • 日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」
    • [116]1995年12月期の売上高は205億5,000万円、経常利益は19億3,000万円だった

この時期の開発体制は小さい。1996年の従業員650人はほとんどが徳島県出身で、開発部員は40人足らず、うちLEDなど新事業の担当は20人しかいなかった。研究費に予算を置かず、研究者本人の申告に対して成果が出そうなときは億単位の費用を出し[118]、進まない研究は出費を抑えた。青色LEDの開発が正念場だった1992年と1993年には2、3億円をかけた[119]。経理部や購買部などの間接部門はわずか10人で、社内の掃除は毎朝社員が30分かけて行っていた[120]。この体制のまま、青色LEDの生産は1999年度に200億円を超え、2000年度には300億円を突破して世界のLED市場で首位に立つ[121]。2000年12月期の売上高は700億円に迫り、売上高営業利益率は27%を超えた。従業員数も2,500人に達し、1994年までは売上高200億円に満たなかった会社が、7年で4倍以上の規模になった。 [117][122]

  • 日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」
    • [117]1996年時点で従業員650人中ほとんどが徳島県出身、開発部員は40人足らず、うちLEDなど新事業の担当者は20人だった
    • [118]研究費に予算はなく、研究者自身の申告に対し成果が出そうなときは億単位の費用を出し、進まない研究は出費を抑えた
    • [119]青色LEDの開発が正念場だった1992年・1993年には2、3億円の費用をかけた
    • [120]経理部・購買部など間接部門はわずか10人で、社内の掃除は毎朝社員が30分かけて行っていた
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [121]青色LEDの生産は1999年度に200億円を突破し、2000年度には300億円を超えて世界のLED市場で首位に立った
    • [122]2000年12月期の売上高は700億円に迫り、売上高営業利益率は27%を超え、従業員数は2,500人に達した。1994年までは売上高200億円に満たない中堅企業で、この7年間で4倍以上という急成長だった
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [104]1993年11月に高輝度青色LEDの開発に成功した
    • [115]1996年9月に白色LEDの開発に成功し、1996年11月に二次電池材料の量産製造を開始した
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
    • [105]従来に比べ100倍明るく、実用化のハードルとされた1カンデラの実現は21世紀とみられていたため、無名の日亜化学の成功は大手企業を慌てさせた
    • [106]1994年1月下旬に警察庁が日亜化学工業の小山稔技師長を呼び、信号機にLEDを採用できないかと問い合わせた
    • [107]電球は半年に一度の交換が必要だが、LEDに変えれば10年近く取り換えなくても済むと小山技師長は述べた
    • [109]80%の製造歩留まりと月間数千万個の量産体制にめどをつけた
    • [110]1993年12月期の売上高は前年度比12%減の167億円、経常利益は同49%減の7億8,800万円で、売上の9割は蛍光体だった。1994年2月時点の従業員は594人
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
    • [108]小川信雄会長は1993年に世界で初めて1カンデラの青色LEDを開発し、1994年1月から量産態勢に入ったと述べている。日経ビジネスは1994年4月からの量産と報じた
    • [111]1994年秋に青色LEDの明るさを2カンデラへ引き上げた
  • 季報ほくとう 第38号(北海道東北開発公庫, 1996年)「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」
    • [112]1995年9月に従来製品の60倍の明るさを持つ高光度緑色LEDの開発に成功し、赤・青・緑の三原色がそろった
    • [113]1995年12月12日、室温で波長410nmの青紫色レーザー発振に成功したと発表した
    • [114]青紫色レーザーを使うと、CDに使われている赤色レーザーに比較して記録密度が一挙に約4倍に高まる
  • 日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」
    • [116]1995年12月期の売上高は205億5,000万円、経常利益は19億3,000万円だった
    • [117]1996年時点で従業員650人中ほとんどが徳島県出身、開発部員は40人足らず、うちLEDなど新事業の担当者は20人だった
    • [118]研究費に予算はなく、研究者自身の申告に対し成果が出そうなときは億単位の費用を出し、進まない研究は出費を抑えた
    • [119]青色LEDの開発が正念場だった1992年・1993年には2、3億円の費用をかけた
    • [120]経理部・購買部など間接部門はわずか10人で、社内の掃除は毎朝社員が30分かけて行っていた
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [121]青色LEDの生産は1999年度に200億円を突破し、2000年度には300億円を超えて世界のLED市場で首位に立った
    • [122]2000年12月期の売上高は700億円に迫り、売上高営業利益率は27%を超え、従業員数は2,500人に達した。1994年までは売上高200億円に満たない中堅企業で、この7年間で4倍以上という急成長だった

ライセンスを出さない戦略と、豊田合成・クリーとの法廷闘争

日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、他社に作らせず市場を1社で占める戦略[123]をとった。製品を投入してきたメーカーとは法廷で争い、1996年8月以降、豊田合成との訴訟は十数件に達した[124]。日亜の特許部長は2001年夏の時点で8勝2敗と語り[125]、そのほとんどは日亜側が仕掛けたものだった。ライセンスの供与は徹底して拒んだ。ロームの高須秀視取締役は1998年9月からたびたび徳島の本社を訪ねたが、そのたびに断られ、1999年秋に交渉は決裂した。日亜が繰り返した説明は、田舎の小さな会社なのでライセンスを出せば一気につぶされる[127]、というものだった。松下電器産業や三洋電機など十数社も同様に断られた。競合がない分だけ単価が落ちず、高収益の事業になったとされる。 [126][128]

  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
    • [123]日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、ライセンス供与を拒否して市場を1社で独占する戦略をとった
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
    • [124]日亜化学工業と豊田合成の訴訟件数は、1996年8月以来、十数件に及ぶ
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [125]日亜化学の藤井章夫特許部長は「8勝2敗」と述べ、訴訟のほとんどは日亜が仕掛けたものだった
    • [126]ロームの高須秀視取締役本部長は1998年9月からたびたび徳島の日亜化学本社を訪問したが断られ続け、1999年秋に交渉は決裂した
    • [127]日亜化学は断る理由として「田舎にある小さな会社です。ライセンスを出したら、一気につぶされてしまう」と繰り返した
    • [128]ローム以外にも松下電器産業や三洋電機など十数社がライセンスを求めて訪れたが、日亜化学は頑なな態度で臨んだ。競合がない分、単価が落ちず高収益ビジネスを展開できたと言われる

2001年に入ると流れが変わった。5月15日、米クリー社製の青色LEDを輸入・販売していた住友商事に対する訴訟で、東京地裁はクリー製品の構造が日亜の特許とは別物だとして日亜を敗訴させた。日亜は控訴したが、同年12月にも再び敗れた[130]。6月13日には東京高裁が、日亜の層構造に関する特許を公知として無効と判断した[131]。7月にはロームが京都地裁へ、8月には豊田合成が大阪地裁へ[132]、それぞれ日亜による特許侵害を訴えて提訴した。豊田合成の田中裕副社長は、窒化ガリウムの研究はもともと豊田合成の方が早く[133]、日亜が一方的に有利だとする報道は実態とかけ離れていたと反論した。日亜の特許のほとんどを取得した中村修二氏自身も、網羅性はなく今となっては穴だらけではないかと述べた[134][129]

  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
    • [129]2001年5月15日、米クリー社製青色LEDを輸入・販売していた住友商事に対する訴訟で東京地裁が日亜化学を敗訴させ、日亜は控訴した
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
    • [130]米クリーは2001年5月と12月の2回、日亜化学との特許裁判で勝訴した
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [131]2001年6月13日、豊田合成の主張を認めて東京高裁が日亜化学の層構造に関する特許を無効と判断した
    • [132]2001年7月にロームが京都地裁へ、8月に豊田合成が大阪地裁へ、日亜化学の特許侵害を訴えて提訴した
    • [133]豊田合成社長補佐の田中裕副社長は、窒化ガリウムに関する研究はもともと豊田合成の方が早く取り組み特許の出願も早かったとし、日亜化学が一方的に有利だとする報道は実態とはかけ離れていたと述べた
    • [134]日亜化学が所有する特許のほとんどを取得した中村修二は、特にバランスを考えて申請したわけではなく自分で勝手に出したものばかりで、とても網羅性があるとは思えず今となっては穴だらけではないかと語った

日亜化学工業には戦略を変えようとする動きも出た。LEDを中心とする半導体事業を統括する第二部門長に、三菱化学で長く半導体関連の開発に従事し、2年間の半導体商社勤務を経て1999年4月に入社した田崎登常務を起用した。田崎登常務は、日亜が2000年に世界のLED市場で首位に立った以上もう小さいという言い訳はできないとして、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出したいと述べた[136]。1994年当時にライセンスを出していれば年間100億円から200億円の特許収入になっていたはず[137]だという見方も社外にはある。一方で法廷闘争の間に製品開発では追撃を受けた。2001年11月に米クリーがサンプル出荷したLED素子は、住友商事によれば日亜の標準品と同等以上の明るさで、豊田合成も従来品の10倍の明るさを持つ白色LEDのサンプル出荷を始めた[139][135][138]

  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [135]LEDを中心とする半導体事業を統括する第二部門長に、三菱化学で長年半導体関連の開発に従事し2年間の半導体商社勤務を経て1999年4月に日亜へ転じた田崎登常務を起用した
    • [136]田崎常務は「もう小さいという言い訳はできない。優れた特許を持っている企業にはライセンスを出したい」と述べ、日亜化学も戦略を変えようとしている節があると報じられた
    • [137]1994年当時、青色LEDの特許は日亜化学がほぼ独占状態にあり、十数社からライセンス供与の申し出があった。その時にライセンスを出していれば年間100億〜200億円の特許収入になっていただろうという指摘があった
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
    • [138]2001年11月に米クリーがサンプル出荷を開始したLED素子「エックスブライト」は、住友商事によれば日亜化学の標準品に比べて同等かそれ以上の明るさだった
    • [139]豊田合成は従来品の10倍程度の明るさを持つ白色LED「スーパーシリーズ」のサンプル出荷を始めた
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
    • [123]日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、ライセンス供与を拒否して市場を1社で独占する戦略をとった
    • [129]2001年5月15日、米クリー社製青色LEDを輸入・販売していた住友商事に対する訴訟で東京地裁が日亜化学を敗訴させ、日亜は控訴した
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
    • [124]日亜化学工業と豊田合成の訴訟件数は、1996年8月以来、十数件に及ぶ
    • [130]米クリーは2001年5月と12月の2回、日亜化学との特許裁判で勝訴した
    • [138]2001年11月に米クリーがサンプル出荷を開始したLED素子「エックスブライト」は、住友商事によれば日亜化学の標準品に比べて同等かそれ以上の明るさだった
    • [139]豊田合成は従来品の10倍程度の明るさを持つ白色LED「スーパーシリーズ」のサンプル出荷を始めた
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
    • [125]日亜化学の藤井章夫特許部長は「8勝2敗」と述べ、訴訟のほとんどは日亜が仕掛けたものだった
    • [126]ロームの高須秀視取締役本部長は1998年9月からたびたび徳島の日亜化学本社を訪問したが断られ続け、1999年秋に交渉は決裂した
    • [127]日亜化学は断る理由として「田舎にある小さな会社です。ライセンスを出したら、一気につぶされてしまう」と繰り返した
    • [128]ローム以外にも松下電器産業や三洋電機など十数社がライセンスを求めて訪れたが、日亜化学は頑なな態度で臨んだ。競合がない分、単価が落ちず高収益ビジネスを展開できたと言われる
    • [131]2001年6月13日、豊田合成の主張を認めて東京高裁が日亜化学の層構造に関する特許を無効と判断した
    • [132]2001年7月にロームが京都地裁へ、8月に豊田合成が大阪地裁へ、日亜化学の特許侵害を訴えて提訴した
    • [133]豊田合成社長補佐の田中裕副社長は、窒化ガリウムに関する研究はもともと豊田合成の方が早く取り組み特許の出願も早かったとし、日亜化学が一方的に有利だとする報道は実態とはかけ離れていたと述べた
    • [134]日亜化学が所有する特許のほとんどを取得した中村修二は、特にバランスを考えて申請したわけではなく自分で勝手に出したものばかりで、とても網羅性があるとは思えず今となっては穴だらけではないかと語った
    • [135]LEDを中心とする半導体事業を統括する第二部門長に、三菱化学で長年半導体関連の開発に従事し2年間の半導体商社勤務を経て1999年4月に日亜へ転じた田崎登常務を起用した
    • [136]田崎常務は「もう小さいという言い訳はできない。優れた特許を持っている企業にはライセンスを出したい」と述べ、日亜化学も戦略を変えようとしている節があると報じられた
    • [137]1994年当時、青色LEDの特許は日亜化学がほぼ独占状態にあり、十数社からライセンス供与の申し出があった。その時にライセンスを出していれば年間100億〜200億円の特許収入になっていただろうという指摘があった

発明対価訴訟の200億円判決と、8億4,000万円での和解

青色LEDを開発した中村修二氏は1999年12月に日亜化学工業を退職し、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授へ転じた[140]。理由として本人が挙げたのは待遇の低さと、研究の現場から引き離されたこと[141]である。報奨金は2万円で[142]、国際学会で給与額を話すと海外の技術者に奴隷のようだと驚かれた。会社は約6,000万円の特別退職金を払う見返りに窒化ガリウムの研究と特許出願をしないよう求めた[143]が、中村氏は秘密保持契約への署名を拒み、退職金も受け取っていない[144]。2000年、日亜は営業秘密の漏洩とコンピューター詐欺を理由に、米ノースカロライナ州の連邦地裁で中村氏を訴えた。この提訴が中村氏を反転させた。 [145]

  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
    • [140]中村修二は1999年12月末に日亜化学工業を退職し、米カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授に転身した
  • 日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」
    • [141]中村氏が日亜化学を退職したのは「待遇の低さに加えて、研究活動の現場から引き離されたため」だった
    • [143]日亜化学は約6,000万円の特別退職金を支払う見返りに、青色LEDに使う窒化ガリウムの研究と特許出願をしないよう中村氏に求めたが拒否された
  • 週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」
    • [142]中村修二はこの発明に対する報奨金として2万円を受け取っただけで、1994年頃から国際学会で自分の給料が1,000万円ほどだと話すと米国人の技術者に驚かれ、まるで奴隷ではないかと言われたことが会社を辞めるきっかけだったと語った
  • 週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」
    • [144]退社時に青色LEDの研究を禁じる秘密保持契約書への署名を会社から迫られたが、中村氏はサインを拒み、退職金も受け取らなかった
  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
    • [145]2000年、日亜化学は米国ノースカロライナ州西部地区管轄の連邦地裁で、トレードシークレット漏洩とコンピューター詐欺の疑いで中村氏を訴えた

米国で訴えられると、証拠開示のためあらゆる情報を出さなければならない。自宅や大学の研究室まで調べられて疲弊した中村氏は、この攻撃を終わらせるために2001年8月23日、東京地裁へ日亜化学工業を提訴した[147]。求めたのは20億円の一部請求と、在職中に取得した青色LEDの製造装置に関する第2628404号特許の権利譲渡[148]である。中村氏が出願時と取得時に会社から受け取った額は、それぞれ1万円だった[149]。代理人を務めた升永英俊氏は、市場価値の算出も研究テーマの選定も中村氏が1人で行い、経営トップが研究中止を命じた後も続けて実用化させたとして、貢献度は中村氏8割に対し日亜2割だと主張した[150]。日亜側は、中村氏が特許の帰属にこだわるのはクリーへライセンスを出す契約があるからだと見ていた[151][146]

  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
    • [146]米国で訴えられるとディスカバリーとしてあらゆる情報を提供しなければならず、中村氏はサンタバーバラの自宅や大学の研究室を調べられ心身ともに疲弊し、日亜化学の執拗な攻撃をやめさせるために日本で裁判を起こしたと述べた
    • [151]日亜化学知財部は、中村氏が特許の帰属にこだわるのは特許を手に入れた場合にクリーにライセンスを出すという契約があるからだと見ていた
  • 日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」
    • [147]2001年8月23日、中村修二は東京地裁に日亜化学工業を提訴し、20億円の一部請求と在職中に取得した特許の権利譲渡を求めた
    • [148]対象は中村氏が取得した100件以上の特許のうち最も重要とされる青色LEDの製造装置に関する第2628404号特許(2フローMOCVD)だった
    • [149]中村氏は特許の出願時と取得時にそれぞれ会社から1万円を得ていた
    • [150]升永英俊弁護士は、青色LEDの市場価値の算出や研究テーマの選定は中村氏が1人で行い、一時は経営トップが研究中止を命令したが中村氏はそれを無視して研究開発を続け実用化させたとして、発明の貢献度は中村氏8割に対して日亜2割だと主張した

2002年9月、東京地裁は特許の帰属を日亜化学工業とする中間判決[152]を出した。1985年に改正された会社規則が特許法35条にいう勤務規則にあたること[153]、職務発明の権利譲渡について黙示の合意があったこと、個別の譲渡契約も成立していたことが理由である。升永弁護士は、社規のどの条項が譲渡を示すか明記されていないと反論した[154]。争点は相当の対価の算定へ移り、2004年1月、東京地裁は[155]日亜が得た利益を1,200億円、中村氏の貢献度を50%と認定して200億円の支払いを命じた[156]。産業界からは常識を無視した判決だとの反発[157]が起きた。訴訟は2005年1月11日、東京高裁での和解で終わった[158]。高裁は404号以外の発明も一括したうえで利益を120億円、貢献度を5%と認定し[159]、日亜は遅延損害金を含めて約8億4,000万円を支払った。

  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
    • [152]2002年9月19日に東京地裁が中間判決を下し、404特許の帰属は日亜化学にあるとされた。週刊東洋経済は9月20日と報じている
    • [153]三村量一裁判長は中間判決の理由として、1985年改正の社規第17号が特許法35条の勤務規則に該当すること、職務発明の権利譲渡について黙示の合意があったこと、個別の譲渡契約も成立していたことの3点を挙げた
    • [154]升永英俊弁護士は、昭和60年改正社規第17号のどの条項が社員が職務発明の権利を会社に譲渡することを示す条項か何も明記していないと反論した
  • 週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」
    • [155]2004年1月末の東京地裁判決は200億円の支払いを命じた
    • [157]あまりの巨額さに産業界からは「常識を無視した判決だ」と一斉に反発の声が上がった
  • 週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」
    • [156]地裁判決は日亜の利益を1,200億円、中村氏の貢献度を50%と認定した
    • [158]2005年1月11日に東京高裁で和解が成立した
    • [159]東京高裁の和解案は404号以外のすべての発明も一括したうえで日亜の利益を120億円、中村氏の貢献度を5%、対価を6億円と算定し、日亜は遅延損害金も含め計約8.4億円を支払う内容だった
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
    • [140]中村修二は1999年12月末に日亜化学工業を退職し、米カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授に転身した
  • 日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」
    • [141]中村氏が日亜化学を退職したのは「待遇の低さに加えて、研究活動の現場から引き離されたため」だった
    • [143]日亜化学は約6,000万円の特別退職金を支払う見返りに、青色LEDに使う窒化ガリウムの研究と特許出願をしないよう中村氏に求めたが拒否された
    • [147]2001年8月23日、中村修二は東京地裁に日亜化学工業を提訴し、20億円の一部請求と在職中に取得した特許の権利譲渡を求めた
    • [148]対象は中村氏が取得した100件以上の特許のうち最も重要とされる青色LEDの製造装置に関する第2628404号特許(2フローMOCVD)だった
    • [149]中村氏は特許の出願時と取得時にそれぞれ会社から1万円を得ていた
    • [150]升永英俊弁護士は、青色LEDの市場価値の算出や研究テーマの選定は中村氏が1人で行い、一時は経営トップが研究中止を命令したが中村氏はそれを無視して研究開発を続け実用化させたとして、発明の貢献度は中村氏8割に対して日亜2割だと主張した
  • 週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」
    • [142]中村修二はこの発明に対する報奨金として2万円を受け取っただけで、1994年頃から国際学会で自分の給料が1,000万円ほどだと話すと米国人の技術者に驚かれ、まるで奴隷ではないかと言われたことが会社を辞めるきっかけだったと語った
  • 週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」
    • [144]退社時に青色LEDの研究を禁じる秘密保持契約書への署名を会社から迫られたが、中村氏はサインを拒み、退職金も受け取らなかった
    • [155]2004年1月末の東京地裁判決は200億円の支払いを命じた
    • [157]あまりの巨額さに産業界からは「常識を無視した判決だ」と一斉に反発の声が上がった
  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
    • [145]2000年、日亜化学は米国ノースカロライナ州西部地区管轄の連邦地裁で、トレードシークレット漏洩とコンピューター詐欺の疑いで中村氏を訴えた
    • [146]米国で訴えられるとディスカバリーとしてあらゆる情報を提供しなければならず、中村氏はサンタバーバラの自宅や大学の研究室を調べられ心身ともに疲弊し、日亜化学の執拗な攻撃をやめさせるために日本で裁判を起こしたと述べた
    • [151]日亜化学知財部は、中村氏が特許の帰属にこだわるのは特許を手に入れた場合にクリーにライセンスを出すという契約があるからだと見ていた
    • [152]2002年9月19日に東京地裁が中間判決を下し、404特許の帰属は日亜化学にあるとされた。週刊東洋経済は9月20日と報じている
    • [153]三村量一裁判長は中間判決の理由として、1985年改正の社規第17号が特許法35条の勤務規則に該当すること、職務発明の権利譲渡について黙示の合意があったこと、個別の譲渡契約も成立していたことの3点を挙げた
    • [154]升永英俊弁護士は、昭和60年改正社規第17号のどの条項が社員が職務発明の権利を会社に譲渡することを示す条項か何も明記していないと反論した
  • 週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」
    • [156]地裁判決は日亜の利益を1,200億円、中村氏の貢献度を50%と認定した
    • [158]2005年1月11日に東京高裁で和解が成立した
    • [159]東京高裁の和解案は404号以外のすべての発明も一括したうえで日亜の利益を120億円、中村氏の貢献度を5%、対価を6億円と算定し、日亜は遅延損害金も含め計約8.4億円を支払う内容だった

2006年〜 光半導体と正極材料の二本柱、そして車載向けを見据えた垂直統合

日亜化学工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2006年 鳴門工場の操業開始
  2. 2009年 車載用リチウムイオン電池向け正極材料の採用
  3. 2015年 SmFeN磁性材料の自動車部品への採用
  4. 2019年 波長280nmの深紫外LEDの量産化
  5. 2022年 日信サファイアの設立
  6. 2022年 信光社からのサファイア基板事業の譲受
  7. 2023年 アルパッドの全株式取得

鳴門工場と横浜研究所、そして第二の柱になった正極材料

2006年2月、日亜化学工業は東京技術センターを横浜技術研究所に改称して新社屋を落成させ[160]、同月には日亜タイを設立した。同年11月には鳴門工場が操業を始めた[161]。2007年4月には日亜光デバイスを吸収合併し、2008年2月に日亜インド、2009年1月に日亜ロシア、2012年5月に深圳日亜化学有限公司を設立した[162]。この間、蛍光体で培った無機材料の技術を移した正極材料が伸びた。2008年の時点で、リチウムイオン電池の主要4材料のうち電池の性能を最も左右する正極材のコバルト酸リチウムで、日亜化学工業が首位に立った。三菱商事の担当者は、セパレータや電解液には大企業がいるが正極材は大きくても日亜くらいだと述べ[164]、中小の正極材メーカーの再編統合を促すことも視野に入れると語った。2009年には車載用リチウムイオン電池向けの正極材料が採用された[165][163]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [160]2006年2月に東京技術センターを横浜技術研究所(現横浜研究所)に改称して新社屋を落成し、同月に日亜タイを設立した
    • [161]2006年11月に鳴門工場が操業を開始した
    • [162]2007年4月に日亜光デバイスを吸収合併し、2008年2月に日亜インド、2009年1月に日亜ロシア、2012年5月に深圳日亜化学有限公司を設立した
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
    • [163]2008年時点でリチウムイオン電池の正極材(コバルト酸リチウム)の首位は徳島県に本社を置く日亜化学工業だった。正極材は電池の性能を最も左右する部材である
    • [164]三菱商事の三島公人・自動車関連事業ユニット室長は「セパレータや電解液の製造では大企業があるが、正極材は大きくても日亜化学工業ぐらい」と述べ、中小正極材メーカーの再編統合を促すことも視野に入れると語った
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [165]2009年に車載用リチウムイオン電池向け正極材料が採用された

2015年3月、小川英治氏は社長を長男の小川裕義氏に譲り、自身は代表取締役会長に就いた[166]。光半導体では波長を短い側へ延ばし、2019年に波長280ナノメートルの深紫外LEDを量産化した[167]。研究拠点も足しており、2016年11月に諏訪技術センターの新社屋が落成した[168]。財務の面では、連結売上高は2012年12月期の2,875億円から2022年12月期の5,021億円へ伸び、2023年12月期には5,071億円に達した。従業員数も2012年12月期の7,751人から2025年12月期には9,509人へ増えた。単一の顧客への依存も生まれており、2025年12月期はアップルへの売上高が395億円と連結売上高の10.9%を占め、その全額が光半導体事業だった[169]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【役員の状況】
    • [166]2015年3月に小川英治から子の小川裕義へ社長が交代し、小川英治は代表取締役会長(現任)となった
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [167]2019年に波長280nmの深紫外LEDを量産化した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [168]2016年11月に諏訪技術センターの新社屋が落成した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【関連情報】
    • [169]2025年12月期のアップル向け売上高は39,566百万円で連結売上高の10.9%を占め、関連するセグメントは光半導体事業である

セグメントの区分も動いた。2015年12月期の売上高は光半導体事業2,967億円に対して化学品423億円で、光半導体への依存が際立っていた。化学品は2019年12月期に1,265億円まで伸びたあと2021年12月期は1,105億円で、2023年12月期から呼び名が正極材料事業へ変わった[170]。同時に蛍光体と磁性材料はその他へ切り出され、遡って組み替えた2022年12月期の正極材料事業は1,969億円となる。電気自動車向けの需要を見込んだ増産が続いた時期で、正極材料事業の設備投資額は2021年12月期に536億円へ達した。ただし主力のコバルト酸リチウムは原料高が進み、2007年の正極材市場2,000億円のうち金属価格が7割以上を占めるまでになる[171]。住友化学がコバルトを使わない正極材の開発に成功する[172]など、脱コバルトの競争も始まっていた。

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【セグメント情報】
    • [170]2023年12月期より、従来「化学品事業」としていた報告セグメントの区分名称を「正極材料事業」に変更するとともに、蛍光体事業および磁性材料事業等を「その他」に含めることとし、前連結会計年度のセグメント情報は変更後の区分により作成された
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
    • [171]JPモルガン証券の推定では2007年の正極材市場は2,000億円程度で、コバルトの高騰により正極材メーカーの付加価値はせいぜい500億円程度にすぎず、コバルトを中心とした金属の価格が70%以上を占めるまでに高まった
    • [172]マンガンやニッケルを使いコバルト比率を下げた3元系の材料が現れ、住友化学は完全にコバルトを使わない正極材の開発にも成功した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [160]2006年2月に東京技術センターを横浜技術研究所(現横浜研究所)に改称して新社屋を落成し、同月に日亜タイを設立した
    • [161]2006年11月に鳴門工場が操業を開始した
    • [162]2007年4月に日亜光デバイスを吸収合併し、2008年2月に日亜インド、2009年1月に日亜ロシア、2012年5月に深圳日亜化学有限公司を設立した
    • [168]2016年11月に諏訪技術センターの新社屋が落成した
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
    • [163]2008年時点でリチウムイオン電池の正極材(コバルト酸リチウム)の首位は徳島県に本社を置く日亜化学工業だった。正極材は電池の性能を最も左右する部材である
    • [164]三菱商事の三島公人・自動車関連事業ユニット室長は「セパレータや電解液の製造では大企業があるが、正極材は大きくても日亜化学工業ぐらい」と述べ、中小正極材メーカーの再編統合を促すことも視野に入れると語った
    • [171]JPモルガン証券の推定では2007年の正極材市場は2,000億円程度で、コバルトの高騰により正極材メーカーの付加価値はせいぜい500億円程度にすぎず、コバルトを中心とした金属の価格が70%以上を占めるまでに高まった
    • [172]マンガンやニッケルを使いコバルト比率を下げた3元系の材料が現れ、住友化学は完全にコバルトを使わない正極材の開発にも成功した
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
    • [165]2009年に車載用リチウムイオン電池向け正極材料が採用された
    • [167]2019年に波長280nmの深紫外LEDを量産化した
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【役員の状況】
    • [166]2015年3月に小川英治から子の小川裕義へ社長が交代し、小川英治は代表取締役会長(現任)となった
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【関連情報】
    • [169]2025年12月期のアップル向け売上高は39,566百万円で連結売上高の10.9%を占め、関連するセグメントは光半導体事業である
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【セグメント情報】
    • [170]2023年12月期より、従来「化学品事業」としていた報告セグメントの区分名称を「正極材料事業」に変更するとともに、蛍光体事業および磁性材料事業等を「その他」に含めることとし、前連結会計年度のセグメント情報は変更後の区分により作成された

サファイア基板の内製化と、正極材料の急伸から反転まで

材料を自社の内側に抱える判断は、2020年代に基板へおよんだ。2022年4月に日信サファイアを設立し、同年7月、信光社から同社へサファイア基板事業を譲り受けている。窒化ガリウムの結晶を育てる下地であり[174]、青色LEDの実用化以来、日亜化学工業が使い続けてきた材料だった。欧州では2021年8月に日亜ドイツが商号をNichia Europe GmbHへ改め、日亜オランダを吸収合併している[175]。2023年3月には特許等関連事業を営むアルパッド株式会社[176]の全株式を取得し、同年11月、ドイツへ車載向けの研究開発拠点となるNichia Automotive Innovation Center GmbHを設立した。アルパッドは2025年11月に日亜化学工業へ吸収合併された[178][173][177]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [173]2022年4月に日信サファイア株式会社を設立し、同年7月に株式会社信光社より日信サファイアがサファイア基板事業を譲り受けた
    • [175]2021年8月に日亜ドイツが商号をNichia Chemical Europe GmbHからNichia Europe GmbHに変更のうえ、日亜オランダ(Nichia Europe B.V.)を吸収合併した
    • [177]2023年3月にアルパッド株式会社の全株式を取得し、2023年11月にドイツで Nichia Automotive Innovation Center GmbH を設立した
    • [178]2025年11月にアルパッド株式会社を日亜化学工業へ吸収合併した
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
    • [174]サファイア基板は窒化ガリウムの結晶を成長させる下地基板であり、青色LEDの実用化以来使われてきた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【関係会社の状況】
    • [176]アルパッド株式会社は東京都千代田区に本店を置き、主要な事業の内容は特許等関連事業である

二本柱のうち正極材料は、電気自動車の需要が鈍ると急速に縮んだ。売上高は2023年12月期の2,155億円から2024年12月期に1,081億円、2025年12月期には835億円まで落ちる。セグメント損益は2023年12月期に64億円、2024年12月期に76億円の損失で、減損損失も2024年12月期111億円、2025年12月期80億円を計上した[179]。ただし2025年12月期のセグメント損益は111億円の利益へ戻している[180]。連結売上高は2023年12月期の5,071億円から2025年12月期には3,640億円まで下がり、同期の光半導体事業は売上高2,753億円、セグメント利益341億円だった。2025年12月期の地域別売上高はアジア1,365億円、日本1,108億円、北南米733億円、欧州408億円で、海外が7割を占める[181]

  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【セグメント情報】
    • [179]正極材料事業の減損損失は2024年12月期11,147百万円、2025年12月期8,035百万円
    • [180]2025年12月期の正極材料事業のセグメント利益は11,118百万円である
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【関連情報】
    • [181]2025年12月期の地域別売上高はアジア136,466百万円、日本110,823百万円、北南米73,277百万円、欧州40,824百万円で、日本以外の合計は連結売上高の69.6%にあたる
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
    • [173]2022年4月に日信サファイア株式会社を設立し、同年7月に株式会社信光社より日信サファイアがサファイア基板事業を譲り受けた
    • [175]2021年8月に日亜ドイツが商号をNichia Chemical Europe GmbHからNichia Europe GmbHに変更のうえ、日亜オランダ(Nichia Europe B.V.)を吸収合併した
    • [177]2023年3月にアルパッド株式会社の全株式を取得し、2023年11月にドイツで Nichia Automotive Innovation Center GmbH を設立した
    • [178]2025年11月にアルパッド株式会社を日亜化学工業へ吸収合併した
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
    • [174]サファイア基板は窒化ガリウムの結晶を成長させる下地基板であり、青色LEDの実用化以来使われてきた
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【関係会社の状況】
    • [176]アルパッド株式会社は東京都千代田区に本店を置き、主要な事業の内容は特許等関連事業である
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【セグメント情報】
    • [179]正極材料事業の減損損失は2024年12月期11,147百万円、2025年12月期8,035百万円
    • [180]2025年12月期の正極材料事業のセグメント利益は11,118百万円である
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【関連情報】
    • [181]2025年12月期の地域別売上高はアジア136,466百万円、日本110,823百万円、北南米73,277百万円、欧州40,824百万円で、日本以外の合計は連結売上高の69.6%にあたる

日亜化学工業の沿革1956〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
小川信雄塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立硝酸カルシウムか、塩化カルシウムか——通説の外側にある原料をなぜ選べたのか 詳細を読む★★★
小川信雄上中工場(現本社所在地)の操業開始
小川信雄照明用蛍光体の製造開始★★
小川信雄オリエンタル産業(後の日亜電子化学)の設立
小川信雄カラーテレビ用蛍光体の製造開始★★
小川信雄本社を阿南市新野町から上中町(現所在地)へ移転
小川信雄徳島工場の操業開始
小川信雄照明用三波長蛍光体の製造開始★★
小川信雄赤外線LED用GaAlAsエピウエハの製造・販売開始★★
小川信雄台湾の連合照明股份有限公司に資本参加
小川英治赤色系LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発着手大手が量産に入った赤色を続けるか、実現は21世紀とされた青色へ移るか——中小の蛍光体メーカーが選んだ材料 詳細を読む★★★
小川英治リチウムイオン二次電池用正極材料の開発開始★★
小川英治高輝度青色LEDの開発に成功★★★
小川英治高輝度青緑LEDの開発に成功
小川英治純緑色LEDの開発と青系レーザーの発振に成功
小川英治辰巳工場の操業開始
小川英治白色LEDの開発に成功★★★
小川英治二次電池材料の量産製造開始★★
小川英治青系レーザーで1万時間の連続発振を達成
小川英治青紫色レーザーダイオードの量産販売開始★★
小川英治青色LED特許の囲い込みとライセンス供与の拒否、2001年の方針転換と発明対価訴訟の和解特許を独占するか、開いて収入に変えるか——世界首位に立った会社が、発明者との訴訟のさなかに方針を改めるまで 詳細を読む★★★
小川英治波長365nmの紫外線LEDの完成
小川英治鳴門工場の操業開始
小川英治車載用リチウムイオン電池向け正極材料の採用★★
小川裕義SmFeN磁性材料の自動車部品への採用
小川裕義波長280nmの深紫外LEDの量産化★★
小川裕義日信サファイアの設立
小川裕義信光社からのサファイア基板事業の譲受★★
小川裕義アルパッドの全株式取得★★
小川裕義ドイツに車載向け研究開発拠点を設立
小川裕義アルパッドの吸収合併
出典・参考
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
  • ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
  • 週刊東洋経済 2008年11月22日号「日本のリチウムイオン電池の強さは材料の力にあり!」
  • 季報ほくとう 第38号(北海道東北開発公庫, 1996年)「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」
  • 日経ビジネス 1996年3月11日号「横並び捨て『世界初』青色LEDで大手を抜き去る」
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
  • 日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」
  • 週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」
  • 週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」
  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
  • 週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【役員の状況】
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【関連情報】
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【セグメント情報】
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第68期(2023年12月期)【関係会社の状況】
  • 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【セグメント情報】

免責事項およびポリシー