1948年〜 石灰石から取った塩化カルシウムを蛍光体の原料へ、通説を外して世界一の明るさに届く
日亜化学工業の業績推移:単体
- 1956年 塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立 硝酸カルシウムか、塩化カルシウムか——通説の外側にある原料をなぜ選べたのか
- 1964年 上中工場(現本社所在地)の操業開始
- 1966年 照明用蛍光体の製造開始
- 1966年 オリエンタル産業(後の日亜電子化学)の設立
- 1971年 カラーテレビ用蛍光体の製造開始
- 1972年 本社を阿南市新野町から上中町(現所在地)へ移転
- 1977年 照明用三波長蛍光体の製造開始
復員後に興した協同医薬研究所と高純度塩化カルシウム
1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた小川信雄氏[1]は、3歳で父を亡くし、1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進んだ[2]。同校で最初の陸軍依託生徒に採用され、陸軍軍医学校を出て陸軍衛生材料本廠に勤めた。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り、直接撮影方式に比べてフィルムの使用量を大幅に減らした。太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征[4]し、その途中に立ち寄ったミンダナオ島のダバオで、淡い光を放つゼネラル・エレクトリック社製の蛍光灯を初めて見た[5]。この印象がX線装置の開発経験とともに、後年に蛍光体へ向かう動機となった。3年におよぶ補給の途絶を生き延びて1946年2月に佐世保へ上陸すると、大協石油に招かれて四日市へ赴任した。そして1948年に同社を退いて郷里へ帰り、協同医薬研究所を興して薬局を開いた[7]。 [3][6]
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
- [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
- [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
- [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
- [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
- [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった
阿南市の周辺には良質の石灰石が産出する[8]。小川氏はその石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度の塩化カルシウム[9]を研究した。当時この原料は米国のメルク社から輸入されており[10]、国産化を試みていた協和醗酵が高品質な供給先を探していた。1951年に量産へ漕ぎ着けた無水塩化カルシウム[11]はメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受ける[12]に至った。ストレプトマイシンは当時、協和醗酵と明治製菓の2社だけが製造しており[13]、発注は急増して、協同医薬研究所はここで経済的な基盤を得た。ただし小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり[14]、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探した。そして塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った[15]。
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
- [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
- [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
- [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
- [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
- [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
- [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [1]小川信雄は1912年(明治45年)に徳島県阿南市長生町で生まれた
- [2]1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部(現徳島大学薬学部)へ入学し、同校最初の陸軍依託生徒に採用された
- [6]3年間の補給途絶を経て1946年2月に佐世保へ上陸し、大協石油の招きに応じて四日市へ赴任した
- [7]1948年、四日市での石油精製に許可の目途がついたのを機に大協石油を退社して故郷へ帰り、協同医薬研究所を設立して薬局を開業した
- [8]阿南市付近一帯には良質な石灰石が産出し、その石灰石に含まれるカルシウムと塩酸を材料に高純度塩化カルシウムを開発した
- [11]1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵からストレプトマイシン原料として多量の受注を得た
- [13]当時ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけだった
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [3]昭和16年(1941年)に日本で初めて蛍光板を用いたX線間接撮影装置を開発し、直接撮影方式に比べフィルム使用量を大幅に節約した
- [4]太平洋戦争中はソロモン諸島のガダルカナル島やブーゲンビル島に薬剤将校として出征した
- [5]戦地へ向かう途中に一時上陸したミンダナオ島のダバオで、初めて淡い光を放つGE社製の蛍光灯に出会い強烈な印象を受けた。この印象が蛍光板を使った間接撮影装置の開発経験とともに、のちに蛍光体へ取り組む大きな動機となった
- [9]高純度塩化カルシウムは結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料だった
- [10]当時この原料は米国メルク社から輸入されており、国産化を試みる協和醗酵が高品質な原料の供給先を求めていた
- [12]開発した無水塩化カルシウムはメルク社が使う原料の水準を超える最高純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた
- [14]小川信雄は薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と判断し、次の製品開発を目指して文献を探索した
- [15]塩化カルシウムから作られる燐酸カルシウムが、当時急速に普及しはじめていた蛍光灯に使用されることを知り、蛍光体の研究に移った
硝酸カルシウム系という通説を外した蛍光体原料
蛍光体の原料は当時アメリカからの輸入に頼り、家電メーカーが自社工場で焼成していて、国産化は技術的に至難とされていた[16]。しかも蛍光灯用の蛍光体には、硝酸カルシウムを主原料としたリン酸カルシウムでなければならないというのが通説[17]である。小川氏が選んだのは塩化カルシウムだった。1955年にほぼ自信のある原料を作れるようになり、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだが、当初はどこも取り合わなかった。無名でつてもなく、この分野で最も進んだ技術を持っていた東芝が硝酸カルシウム系だった[19]ことも重なる。1956年になって新日本電気が試験的に採用し[20]、日亜の原料から作った蛍光体で40ワットの蛍光灯を試作したところ、当時の限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを発光した。世界で最も明るい蛍光灯だった。 [18][21]
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
- [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
- [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
- [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
- [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった
驚いた新日本電気が技術提携先の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送ると、蛍光体生産で世界最大手だった同社も性能に驚き、日亜へ直接発注してきた[22]。この成功を受けて、小川氏は1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名で、株式の4分の1は協同医薬研究所の出資者へ、ほかにも世話になった関係者と従業員へ無償で交付[24]した。新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの1位を3年続けて取った[25]。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁といわれた3,200ルーメンを超えた[26]。1959年には蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを追い抜き[27]、硝酸カルシウムにとどまった東芝も1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた[28]。 [23]
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
- [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
- [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
- [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
- [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
- [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った
1961年に初めて渡米した小川氏は、ウェスチングハウス社やシルバニア社を訪ね、自社の蛍光体原料が商社を通ると出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されている事実[29]を知った。以後、日亜は商社を介さない直接貿易を取引の基本方針とした[30]。1962年には那賀川沿いの水と緑に恵まれた土地を選んで本社工場の建設に入り[31]、1964年12月に上中工場が操業を始めた[32]。1966年3月には照明用蛍光体そのものの製造を始め[33]、同月、蛍光灯用蛍光体の製造を専業とする子会社としてオリエンタル産業(後の日亜電子化学)を設立した。1967年には蛍光体の焼成工場を増設した。国内シェアが原料供給分を含めて80%近くに達していた時期の増設であり、落成式に来た新日本電気と東芝の関係者は工場の規模に驚いた。1968年には東芝に次いで、米ゼネラル・エレクトリック社からハロリン酸カルシウム蛍光体の特許実施権を取得[35]した。 [34]
- ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
- [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
- [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
- [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
- 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
- [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
- [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [16]日亜が蛍光灯用蛍光体を開発・発売するまで、日本の家電メーカーは原料をアメリカから輸入して自社工場で焼成しており、国内では技術的に至難とされていた
- [17]当時、蛍光灯用蛍光体には硝酸カルシウムを主原料とした燐酸カルシウムでなければ駄目だというのが通説だった
- [18]1955年(昭和30年)にほぼ自信のある焼成前の原料の製造に成功し、東芝・松下・三菱の各メーカーへ持ち込んだが、いずれも問題にされなかった
- [19]断られた理由は無名でコネが無かったことに加え、当時この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたことにある
- [21]1956年にNECが試験採用し、日亜の原料から作った蛍光体を使った40W蛍光灯は、当時の限界2,500ルーメンを上回る2,800ルーメンを発光し、世界一の明るさとなった
- [22]驚いたNECが技術提携先のシルバニア・エレクトリック社(蛍光体生産で世界一)へ製品を送ったところ、同社も優秀さに驚き日亜へ直接発注した
- [23]1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業株式会社を設立し、従業員17〜18名で出発した
- [24]株の4分の1は協同医薬の陰の出資者に、ほかに世話になった人々や従業員へそれぞれ4分の1を無償で交付した
- [25]1957年から1959年にかけて、NECは日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールに3年連続で第1位を獲得した
- [26]1958年末から松下、1961年から三菱電機への納入が始まり、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた
- [28]硝酸カルシウムを主原料としていた東芝は光度競争で苦境に立ち、1965年末から主原料を日亜製品に切り替えた
- [31]1962年に那賀川沿いの現在地で本社工場の建設に着手した
- [34]1967年の焼成工場増設の時点で、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて80%近くに達していた
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [20]小川信雄が開発した塩化カルシウムを原料とする燐酸カルシウムは、三菱電機・東芝・新日本電気のテストによって優秀性が証明され、新日本電気からは継続的な注文が出るようになった
- [27]1959年に蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用塩化カルシウムを上回った
- [35]1968年(昭和43年)に東芝に次いで、GE社のハロ燐酸カルシウム蛍光体の特許実施権を獲得した
- ジェトロセンサー 1994年5月号「日亜化学工業株式会社(徳島県)」
- [29]1961年の初渡米時、蛍光体原料が商社を介すると同社出荷FOB価格の3倍で現地企業に提示されることを知った
- [30]以来、日亜化学工業は直接貿易を基本方針とする取引姿勢をとった
- 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
- [32]1964年12月に上中工場(現本社所在地)が操業を開始した
- [33]1966年3月に照明用蛍光体の製造を開始し、同月オリエンタル産業株式会社(後の日亜電子化学)を設立した
カラーテレビ用蛍光体への10年と、輸出を前提にした生産規模
1959年頃から日亜化学工業は、蛍光灯の次の分野としてカラーテレビ用蛍光体の研究に入った[36]。この開発は予想を越える負担となり、製品が本格的に市場へ出る1971年1月まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要した[37]。再三の危機に耐えられたのは、良品は売れるという信念と従業員の結束による[38]と小川氏は振り返った。転機は1967年のソニーとの接触[39]だった。ソニーは3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており[40]、日亜はこの方式に適した蛍光体の開発に着手して1971年から供給を始めた。テレビ用の蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子の大きさをそろえる技術など、照明用より高度な特性が求められた。ソニーに続いて松下からも大量の受注が入った。 [41]
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
- [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
- [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
- [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
- [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった
1976年12月期の年商は31億200万円、子会社の日亜電子化学は6億400万円だった[42]。従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、1976年に研究開発へ投じた費用は約1億2,000万円と総売上の4%弱[43]に達した。工場には大学の研究室と見まがう実験器具と物性測定器が並び、事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊数十万円のドイツ語原書を含む化学関係の専門図書が置かれた[44]。この頃、蛍光灯用蛍光体の国内シェアは原料供給分を含めて70%程度、テレビ用蛍光体は約30%と推定[45]され、国内のカラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われていた。ソニーと新日本電気には全色で使用量の約半分、松下電器にはほぼ独占的に納めた[46]。1974年5月には徳島工場が操業を始め[47]、ゴム用のバナジウム触媒を作り始めた[48]。
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
- [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
- [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
- [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
- [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
- [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
- 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
- [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した
1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を始めた[49]。ハロリン酸カルシウム系の昼光色蛍光灯は赤色光が乏しく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があり[50]、イットリウムやユーロピウムといった希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させる[51]ことで、この欠点を補った。輸出先はアメリカ、カナダ、台湾、フィリピン、韓国、南アフリカ、イタリア、スウェーデン、西ドイツにおよび、年間およそ2億円の外貨を稼いだ[52]。社是には「より明るい世界のために限りなき研究を」という和文を添えた英文[53]を掲げた。カラーテレビ業界は米国と欧州の輸入規制で先行きが読めなくなっており、テレビ用蛍光体に業績を依存する構造への警戒から、小川氏は次の製品として発光ダイオードの開発に期待をかけた[54]。
- 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
- [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
- [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
- [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
- [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
- 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
- [36]1959年(昭和34年)頃からカラーテレビ用蛍光体の研究開発に着手した
- [37]製品が本格的に市場に出た1971年まで、多くの人材と資金に加えて10年余りの歳月を要し、会社にとって予想を越える負担となった
- [38]再三の危機に耐えられたのは「良品は売れる」という信念と従業員との結束だったと語られている
- [42]1976年の年商は3,102百万円、子会社の日亜電子化学は604百万円だった(別法人の並列表示)
- [43]従業員175名のうち約30名が試験研究などに携わり、1976年の研究開発費は約1億2千万円で総売上の4%弱にあたった
- [44]事務所から従業員食堂の戸棚まで、一冊何十万円もするドイツ語の原書を含む化学関係の専門図書が並び、誰でも自由に読めるようになっていた
- [45]蛍光灯用蛍光体の全国シェアは原料供給分を含めると70%程度、テレビ用蛍光体の全国シェアは約30%と推定されていた
- [46]国内カラーテレビ用ブラウン管の3分の1に日亜の蛍光体が使われ、ソニーとNECには全色で使用量の約2分の1、松下電器には全色のほとんどを独占的に納入していた
- [48]徳島市の徳島県製薬工業団地に約1万坪の敷地を確保して徳島工場とし、ゴムの触媒であるバナジウムの製造を始めた
- [52]蛍光灯用蛍光体の直接輸出先はアメリカ・カナダ・フィリピン・韓国・南アフリカ・イタリー・スウェーデン・西独におよび、年間約2億円の外貨を得ていた
- [53]1977年時点の社是は Ever researching world.(より明るい世界のために限りなき研究を)だった
- [54]カラーテレビ業界は米国・欧州側の輸入規制問題で先行きが読めず、テレビ業界が不況になれば業容に響くとして、ポスト蛍光体として発光ダイオードの開発に期待をかけていた
- 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
- [39]ブラウン管用蛍光体に本格的に取り組んだのは1967年(昭和42年)にソニーとの接触が始まってからである
- [40]ソニーは赤・青・緑の3本の電子銃を1本にまとめるトリニトロン方式を開発しており、日亜はこの方式に適した蛍光体を開発して1971年からソニー向けの製造を開始した
- [41]カラーテレビ用蛍光体は電子線で発光するため、剥離を防ぐ表面処理や粒子径をそろえる技術など照明用以上に高度な二次特性が必要だった
- [50]ハロ蛍光体による昼光色の蛍光灯は赤色光が少なく、マグロの鮮度が落ちて見える欠点があった
- [51]イットリウムやユーロピウムなどの希土類元素を用いて赤・緑・青の三原色をほぼ同じ明るさで発光させる三波長型希土類蛍光体を実用化した
- 日亜化学工業 有価証券報告書 第70期(2025年12月期)【沿革】
- [47]1974年5月に徳島工場が操業を開始した
- [49]1977年4月に照明用三波長蛍光体の製造を開始した