日亜化学工業赤色系LEDの量産競争からの撤退と、窒化ガリウムによる高輝度青色LEDの開発着手

大手が量産に入った赤色を続けるか、実現は21世紀とされた青色へ移るか——中小の蛍光体メーカーが選んだ材料

時期 1989年
意思決定者(推定) 小川信雄・小川英治・中村修二 社長(1989年から会長)・社長・開発部主任研究員
論点 新規事業の材料選択と研究開発投資
概要
1989年、日亜化学工業が赤色系LEDの量産競争から退き、大学・研究機関・大手企業のほとんどが選ばなかった窒化ガリウムを材料に、高輝度の青色LED開発へ研究資源を移した経営判断。開発は中村修二氏が担い、1989年度には売上高の約3%にあたる5億円が開発費に充てられた。
背景
蛍光体で国内首位を取ったものの、世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり、市場規模そのものに限りがあった。1983年に赤外線LED用エピタキシャルウエハで半導体材料へ参入したが、大手企業から聞いてきた製品は2度とも価格競争に敗れていた。
内容
市販品を上回る高輝度に届いた赤色系は、大手各社が量産態勢に入って価格競争の段階へ進んでおり、中小企業の日亜が続けても利はないと小川信雄氏が判断した。青色の材料候補は窒化ガリウム・セレン化亜鉛・炭化珪素の3つで、大半の研究者はセレン化亜鉛を選んでいた。
含意
1990年夏のツーフロー法、1991年12月のp型化、1992年のインジウム混晶の導入を経て、1993年11月に明るさ1カンデラの青色LEDを発表し、翌1994年に量産へ入った。青色LEDの生産は2000年度に300億円を超え、世界のLED市場で首位に立った。
筆者の見解

届いた技術を売らずに畳むということ

市販品を上回る明るさに届いた赤色系LEDを、日亜化学工業は製品として押し出さずに畳んだ。技術で届くことと、事業として残ることが別だという見極めが、この撤退にはあった。量産設備と販路を持つ大手が価格競争に入った市場で、600人規模の会社に並ぶ手立ては乏しい。小川信雄氏が中小企業には利がないと判断し、10ミリカンデラしか出ていない青色へ資金が移った。届いた技術を手放せたことが、次の材料選択を可能にしたとみることができる。

ただ、窒化ガリウムを選んだのは中村修二氏であり、経営が材料を見極めたわけではない。小川信雄氏自身、自分が手を下したのではないと断り、材料選択が結果的によかったと語っている。開発費の額も期間も資料によって割れており、経営がどこまで勝算を持っていたかは判然としない。経営が担ったのは、勝ち目の薄い価格競争から資金を引き揚げ、常識外れの材料を選んだ研究者を止めなかったことであった。その抑制が、10年あまり後の世界首位につながったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

蛍光体で首位に立った後の探索

蛍光体で国内首位に立った日亜化学工業にとって、その市場は広くなかった。世界需要は照明用8,000トンを含めて約1万トンにとどまり、市場規模に限りがあった。同社は蛍光体事業から上がる利益を元手に、売上高の1割前後にあたる研究費を毎年投じ、蛍光体だけに頼る体質から抜ける道を探した。米モンサント社が1965年頃にLEDを開発すると小川信雄氏はこの素子に関心を寄せ、大企業の委託で半導体用ガリウムの精製も手がけていた[1][2][3]

1983年、日亜化学工業は赤外線LED用のガリウムアルミニウム砒素エピタキシャルウエハの製造と販売を始めた。ただし営業部隊が大手企業から聞いてきた製品を苦労して仕上げても、2度とも大手との価格競争に敗れ、ほとんど商売にならなかった。開発を担った中村修二氏に、多少のリスクがあっても大手と横並びの研究には取り組まないという考えが生まれたのは、この2度の敗戦を経てからである[4][5]

赤色で届いた高輝度と、青色をめぐる当時の相場観

日亜化学工業がまず取り組んだのは赤色系のLEDであった。最初の製品は暗く、やり直したすえに市販品を上回る高輝度の製品にたどり着いた。ところがその頃には大手各社が量産態勢に入り、競争の場は明るさから価格へ移っていた。先行して量産設備と販路を持つ大手に対し、蛍光体を主力とする600人規模の会社が価格で並ぶ手立ては乏しい。技術で届いた製品が、事業としては残らない位置に置かれていた[6]

一方の青色は、実用に遠い水準にとどまっていた。赤が数カンデラ、緑が500ミリカンデラの製品を出していたのに対し、青色LEDは10ミリカンデラ程度の光しか出せず、カンデラ級の青は20世紀中には実現しないとまで言われた。シャープ・ソニー・三洋電機・松下電器産業といった有力企業がこぞって開発に取り組みながら糸口は見つからず、研究者の間では実用化を5年先とみる見方が通っていた[7][8]

決断

赤色からの撤退と、少数派の材料を選ぶこと

高輝度の赤色系にたどり着きながら、日亜化学工業はこの製品を追わなかった。大手が量産と価格競争の段階へ入った以上、中小企業の同社が続けてもメリットはないと小川信雄氏が判断し、代わりに難しいとされた高輝度の青色LEDの開発へ向かった。小川氏は蛍光体の立ち上げに手一杯で余力のなかった時期から、蛍光体の次はLEDしかないと考えていた。蛍光体で稼いだ利益を、先行者と競う価格競争ではなく、誰も実用化していない領域へ振り向ける選択であった[9][10]

青色を発光する材料の候補は窒化ガリウム、セレン化亜鉛、炭化珪素の3つであった。炭化珪素は変換効率が悪く高輝度化が理論的に難しく、大学・研究機関・大手企業のほとんどはセレン化亜鉛を選んだ。セレン化亜鉛は砒化ガリウムと結晶構造が同じで原子間距離もほぼ等しく、結晶を育てやすい。中村修二氏が絞ったのは、同じエネルギーで発する光の量が最も多く寿命も長い一方、欠陥の少ない結晶膜を作るのが極めて難しい窒化ガリウムであった[11][12][13]

フロリダ留学と、売上高の約3%にあたる開発費

中村氏は小川信雄氏を説き、まだ誰も実用化していない青色発光デバイスを作って売ることを提案した。大企業なら誰でも作れる製品を二番煎じで作っても儲けは知れており、新しい市場を創らないかぎり中小企業は下積みのまま終わるという訴えであった。小川氏はこれを受け、1988年に中村氏を米フロリダ大学へ1年間送り出す。留学先を選んだのは、大学の2年先輩である酒井士郎氏が客員研究員として結晶成長を研究していたためである[14][15][16]

中村氏が帰国した1989年、小川英治社長は売上高の約3%にあたる5億円を、この年度の開発費に充てた。確実にものになるとは言えない研究にこれだけの資金を投じる例は大手では考えにくいと、前年にスタンレー電気から移った小山稔技師長は述べている。開発費は期間の取り方が資料によって異なり、4年間で5億円と記す誌面もある。小川信雄氏自身は、自分が手を下したのではないと断りつつ、窒化ガリウムを選んだことが結果的によかったと語っている[17][18][19]

結果

結晶が育たないという壁を越えるまで

帰国した中村氏は酒井氏に相談して市販の有機金属化学気相成長装置を購入し、その改造に明け暮れた。1990年夏、原料ガスを横から炉に流し込むと同時に、上から窒素と水素の混合ガスを大量に吹き付けるツーフロー法にたどり着く。成長温度が1,000度と高いため原料ガスが対流で上へ逃げ、サファイア基板に届かないという見立てから生まれた方法で、切り替えて一発で無色透明の窒化ガリウム薄膜を得た[20][21]

結晶成長には赤崎勇氏と天野浩氏のバッファ層技術を用いたが、約半年後に窒化アルミニウムではなく窒化ガリウムをバッファ層に使うことにし、これが日亜化学工業にとって最も強い特許となった。1991年12月には部下の岩佐成人氏とともに、マグネシウムを添加した結晶を窒素中で熱処理して水素を追い出し、p型化に成功する。最後に残ったインジウムの混ぜ方はNTTの松岡隆志氏に学び、1992年に青色発光ダイオードの実用化へ届いた[22][23]

1カンデラの発表から、世界のLED市場で首位に立つまで

1993年11月、日亜化学工業は明るさ1カンデラの青色LEDの開発を発表した。従来品の約100倍にあたり、1カンデラの実現は21世紀に入ってからとみられていたため、無名の中小企業による達成は大手企業を慌てさせた。翌1994年1月下旬には警察庁が小山稔技師長を呼び、信号機に採用できないかと打診する。半年に一度取り換えていた電球をLEDに替えれば、交換周期を10年近くまで延ばせるためである[24][25]

1994年に量産へ入り、製造歩留まり80%と月間数千万個の体制にめどをつけた。青が明るくなると緑が暗く見えたため同じ窒化ガリウム系で緑色にも取り組み、1995年9月に従来品の60倍の明るさを持つ純緑色LEDを完成させて三原色がそろう。青色LEDの生産は1999年度に200億円を超え、2000年度には300億円を突破して世界のLED市場で首位に立った。取得した特許を他社に開放しない方針は、後年に十数件の訴訟を招いている[26][27][28][29]

出典・参考
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
  • 日経ビジネス 1994年3月7日号「日亜化学工業 青色LED、初の実用化。大手の後追いせず成功」
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「中村修二氏[日亜化学工業開発部主任研究員]あえて大手と違う材料選択」
  • 週刊東洋経済 2003年3月22日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第1回 青色発光デバイスに挑戦した男たち」
  • 週刊東洋経済 2003年4月5日号「『巨人』たちの敗北――独創の構造 第3回 中村修二のセレンディピティ」
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
  • 季報ほくとう 第38号(北海道東北開発公庫, 1996年)「世界一企業を目指して――日亜化学工業株式会社」
  • 日亜化学工業 公式サイト「わたしたちのあゆみ」

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