浜松ホトニクス の歴史

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創業 1953年
創業者 堀内平八郎
創業地 静岡県浜松市
創業
1948年9月、堀内平八郎氏が静岡県浜松市海老塚に東海電子研究所を設立し、電子管の製造と販売を始めた。堀内氏は浜松高等工業学校の出身で、日本で初めてテレビの映像受信に成功した高柳健次郎氏の助手として、光を電気信号へ変える光電変換管の開発を担っていた。1953年9月、業容の拡大に合わせて資本金50万円の浜松テレビ株式会社を設立し、研究所の業務をそのまま引き継ぐ。設立に参画した晝馬輝夫氏は、産業になる前段階の技術を追う『研究工業』を経営方針に据えた。ただしテレビ受像機向けの電子管は大手電機メーカーが量産する部材でもあり、同じ量産で並べば下請けに沈む位置にいた。
決断
量産品を避け、数の出ない製品だけを選んできた。1953年の設立にあたり、浜松テレビは受像機向けの量産部材ではなく、微弱な光を電気信号へ増幅する光電子増倍管に事業を絞った。1962年ごろ商品化した製品を携えて渡米し、不良品でも売り切る米RCAの隙を突いて顧客の指摘に逐一応え、そのシェアを侵食する。1979年には東京大学の小柴昌俊氏から口径20インチという前例のない光電子増倍管の開発を託され、神岡のカミオカンデへ納入した。1983年4月には社名から『テレビ』を外して浜松ホトニクスへ改め、受像機向け部材の会社から光技術全般を扱う会社へ自己定義を移している。数十台単位でしか注文の来ない製品を選んだことが、量産で原価を下げる大手の入ってこない領域を70年にわたって残した。
現況
営業利益は2年で567億円から161億円へ低下した。2025年9月期の売上高2,121億円は、光半導体795億円、電子管719億円、画像計測機器327億円、レーザ223億円で構成される。セグメント利益は電子管189億円、光半導体126億円、画像計測機器97億円である一方、2024年5月にデンマークNKTフォトニクスの全株式を取得して立てたレーザは43億円の損失を計上した。コロナ禍の研究予算増と半導体微細化が重なった2023年9月期は売上高2,214億円・営業利益567億円だったが、特需の剥落と半導体検査装置の在庫調整で2年続けて減益となっている。日本向けは479億円で全体の23%にとどまり、海外の研究機関と装置メーカーが売上の8割弱を占める構成が、国内の景気ではなく世界の研究予算で業績を振らせている。
競合
競う相手がいない代わりに、需要を増やす相手もいない。光電子増倍管は微弱な光を増幅する真空管で、製造が難しく需要規模も小さい。この二つが参入障壁となって世界シェア9割を守った一方、量産で価格を下げて市場そのものを広げる道も閉ざしている。カミオカンデとスーパーカミオカンデの観測成果は小柴昌俊氏と梶田隆章氏のノーベル物理学賞につながり、基礎科学に欠かせない部材を供給する地位が定まった。現在の売上を決めているのは同業の値付けではなく、米KLAや東京エレクトロンといった半導体検査装置メーカーの投資計画と各国の研究予算である。同業を排したのではなく買い手の限られる領域を選んだことが、価格競争のないシェアと、自社では動かせない需要の振れを同時に生んだ。
浜松ホトニクス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2001年9月期2025年9月期

創業ストーリー 浜松テレビとして電子管を起点に光技術メーカーの基盤を築いた創業期 (1948年〜)

堀内平八郎氏の創業と「東海電子研究所」

1948年9月、創業者の堀内平八郎氏が静岡県浜松市海老塚に東海電子研究所を設立した。電子管の製造・販売を事業目的とする小規模な個人事業として、戦後の混乱期に船出した経緯である。堀内氏は浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)の出身で、戦中に研究した電子管技術を戦後の民生用途に転用する道を選んだ。電子管は当時、テレビ受像機・ラジオ・通信機・産業計測装置・医療機器など多様な機器の中核部品であり、戦後の電子産業の立ち上がりに必要不可欠な部材であった。 [1][2][3]

  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [1]1948年9月 堀内平八郎が東海電子研究所を浜松市海老塚に設立(電子管の製造・販売)
    • [2]創業者の氏名は堀内平八郎
    • [3]設立地は静岡県浜松市海老塚

5年後の1953年9月、東海電子研究所の業容拡大に対応するため、浜松テレビ株式会社(資本金50万円)を浜松市海老塚に設立し、東海電子研究所の業務をそのまま引き継いだ。会社名に『テレビ』を冠したのは、当時テレビ受像機向け電子管(特に撮像管)が主力事業であったためで、後年の社名変更まで30年にわたり『浜松テレビ』の名で活動した。堀内氏は『テレビの父』と呼ばれた高柳健次郎氏の助手を務めた技術者で、高柳氏の出身地である浜松で、その研究開発精神を継承する形で会社を興した。堀内氏に誘われて設立に参画したのが、後に社長となる晝馬輝夫氏である。創業当時、テレビ放送が始まったばかりの日本では、撮像管・ブラウン管・各種真空管の国産化は重要な技術課題であり、浜松テレビは光電変換素子の技術開発に集中する独自路線を取った。 [4][5][6][7][8]

    • [4]堀内平八郎は「テレビの父」高柳健次郎の助手を務めた技術者で、高柳氏の出身地・浜松でその研究開発精神を継承して浜松テレビを設立した
    • [5]堀内平八郎(高柳健次郎の助手、現相談役)に誘われて晝馬輝夫が浜松テレビの設立に参画した
  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [6]1953年9月 浜松テレビ株式会社(資本金50万円)を浜松市海老塚に設立し東海電子研究所の業務を引継ぎ
    • [7]浜松テレビ設立時の資本金50万円
    • [8]設立地は浜松市海老塚
  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [1]1948年9月 堀内平八郎が東海電子研究所を浜松市海老塚に設立(電子管の製造・販売)
    • [2]創業者の氏名は堀内平八郎
    • [3]設立地は静岡県浜松市海老塚
    • [6]1953年9月 浜松テレビ株式会社(資本金50万円)を浜松市海老塚に設立し東海電子研究所の業務を引継ぎ
    • [7]浜松テレビ設立時の資本金50万円
    • [8]設立地は浜松市海老塚
    • [4]堀内平八郎は「テレビの父」高柳健次郎の助手を務めた技術者で、高柳氏の出身地・浜松でその研究開発精神を継承して浜松テレビを設立した
    • [5]堀内平八郎(高柳健次郎の助手、現相談役)に誘われて晝馬輝夫が浜松テレビの設立に参画した

光電子増倍管(PMT)の量産化と研究機関向け供給

1961年12月、東京都港区に事務所を新設して東京拠点を設置、1964年10月には浜松市市野町に新工場(現本社工場)を新設して主力工場体制を整えた。1966年7月にはニューヨーク市に駐在員事務所を新設(現ハママツ・コーポレーション 連結子会社)、米国市場への進出を本格化した。1967年12月には本社を浜松市市野町へ移転し、生産・研究・本社機能を集約した。 [9][10][11][12]

  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [9]1961年12月 東京都港区に事務所を新設(東京拠点設置)
    • [10]1964年10月 浜松市市野町に新工場(現本社工場)を新設
    • [11]1966年7月 ニューヨーク市に駐在員事務所を新設(現ハママツ・コーポレーション 連結子会社)
    • [12]1967年12月 本社を浜松市市野町へ移転

光電子増倍管(Photomultiplier Tube, PMT)は、微弱な光を電気信号に増幅変換する真空管で、基礎科学(高エネルギー物理学・天文学)から医療機器(PETスキャナ・血液分析装置)・産業計測装置(環境計測・半導体検査)まで幅広く利用される特殊部材である。世界の主要研究機関がPMTを必要としており、量産規模は小さいが付加価値の高い領域であった。浜松テレビは1950年代から1960年代にかけてPMTの量産技術を確立し、世界の主要研究機関への供給を始めた。1973年7月には静岡県磐田郡豊岡村に工場を新設(現豊岡製作所)、独国にハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・ゲー・エム・ベー・ハーを設立して欧州事業の起点を築き、欧州の研究機関向け販売網を整備した。 [13][14]

  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [13]1973年7月 静岡県磐田郡豊岡村に工場新設(現豊岡製作所)・独国にハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・ゲー・エム・ベー・ハーを設立
    • [14]独国子会社名はハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・ゲー・エム・ベー・ハー
  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [9]1961年12月 東京都港区に事務所を新設(東京拠点設置)
    • [10]1964年10月 浜松市市野町に新工場(現本社工場)を新設
    • [11]1966年7月 ニューヨーク市に駐在員事務所を新設(現ハママツ・コーポレーション 連結子会社)
    • [12]1967年12月 本社を浜松市市野町へ移転
    • [13]1973年7月 静岡県磐田郡豊岡村に工場新設(現豊岡製作所)・独国にハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・ゲー・エム・ベー・ハーを設立
    • [14]独国子会社名はハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・ゲー・エム・ベー・ハー

「光産業創成」構想と医療機器事業の起点

1978年、堀内氏に誘われて浜松テレビの設立に参画していた晝馬輝夫氏が社長に就任した。同年12月には事業目的に医療機器等の研究・試作・製造・販売を追加し、PMTのPETスキャナ等への医療応用に加え、医療画像装置への本格参入を見据えた事業領域の拡張を行った。1981年6月に天王製作所、1983年1月に常光製作所と、生産能力の拡張も進めた。 [15][16][17][18]

1983年4月、浜松テレビ株式会社を浜松ホトニクス株式会社に社名変更した。『テレビ』を外し『ホトニクス(光技術)』を冠することで、テレビ受像機向け部材メーカーから光技術全般を扱う研究開発型メーカーへの自己定義の転換を宣言した。創業者の堀内平八郎氏が掲げた『光産業創成』構想を組織アイデンティティに据えた瞬間である。同年6月には米国にホトニクス・マネージメント・コーポを設立し、米国事業会社としての受け皿を整えた。 [19][20]

  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [19]1983年4月 浜松テレビ株式会社を浜松ホトニクス株式会社に社名変更
    • [20]1983年6月 米国にホトニクス・マネージメント・コーポを設立
    • [15]1978年、晝馬輝夫が浜松テレビの社長に就任
  • 浜松ホトニクス 有価証券報告書(2025年9月期)【沿革】
    • [16]1978年12月 事業目的に医療機器等の研究・試作・製造・販売を追加
    • [17]1981年6月 天王製作所を新設
    • [18]1983年1月 常光製作所を新設
    • [19]1983年4月 浜松テレビ株式会社を浜松ホトニクス株式会社に社名変更
    • [20]1983年6月 米国にホトニクス・マネージメント・コーポを設立

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浜松ホトニクスの沿革1948〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1983年浜松テレビとして電子管を起点に光技術メーカーの基盤を築いた創業期堀内平八郎が東海電子研究所を浜松に設立★★
浜松テレビを設立し東海電子研究所の業務を引継★★
事務所を開設
新工場を新設
ニューヨーク駐在員事務所を開設
本社を移転
豊岡製作所新設・独逸子会社設立
晝馬輝夫事業目的に医療機器等の研究・製造・販売を追加★★
晝馬輝夫天王製作所を新設
晝馬輝夫常光製作所を新設
晝馬輝夫浜松テレビから浜松ホトニクスへの社名変更と、光子工学を軸とする事業領域の再定義

1983年4月、浜松テレビは社名を浜松ホトニクスへ改めた。ホトニクスは光子工学を指す語で、工業用撮像管に由来する『テレビ』を外し、光電管・光電子増倍管・フォトダイオードなど光電変換素子とその応用機器を軸とする事業の実態に社名を合わせた改称であった。翌1984年8月の株式店頭登録に先立つ整理でもあった。

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★★★
1984〜2010年株式店頭登録から東証一部指定とPMT世界シェア独占晝馬輝夫株式店頭登録
晝馬輝夫筑波研究所を新設
晝馬輝夫中央研究所を新設
晝馬輝夫コーア電子工業の営業全部を譲受★★
晝馬輝夫都田製作所を新設
晝馬輝夫東京証券取引所二部に上場
晝馬輝夫東京証券取引所一部銘柄に指定
晝馬輝夫産業開発研究所を新設
2011〜2025年半導体検査向けセンサ拡大と3代目体制への承継晝馬明子会社(浜松光子学商貿)を設立
晝馬明ベルギーに欧州統括会社を設立
晝馬明東京証券取引所プライム市場へ移行
丸野正デンマークNKTフォトニクスの子会社化と、レーザ・ファイバ光学領域への事業拡張

2022年6月、浜松ホトニクスはベルギー子会社を通じてデンマークのレーザ・ファイバ光学メーカー、NKT Photonicsの全株式取得を発表した。当初は2023年3月末の完了を見込んでいたが、デンマーク政府が国家安全保障を理由に一度承認を却下し、再申請を経て2024年5月31日に買収を完了した。取得価額は約2億4,700万ユーロ(約420億円)となった。

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★★★
出典・参考

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