小川信雄

日亜化学工業・元代表取締役会長

Ogawa Nobuo(敬称略)

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社長就任 1956年12月
生年月日 —
出自 —
社長就任までの出自
出自

1912年に徳島県阿南市長生町で生まれた。1932年4月に徳島高等工業学校応用化学科製薬部へ進み、同校で最初の陸軍依託生徒に採用された。1941年には蛍光板を使ったX線間接撮影装置を日本で初めて作り、太平洋戦争ではガダルカナル島やブーゲンビル島へ薬剤将校として出征した。1946年2月に復員して大協石油へ入り、1948年に退社して郷里で協同医薬研究所を興した。1951年に高純度塩化カルシウムの量産に成功し、協和醗酵へストレプトマイシンの原料を納めた。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1955年に焼成前の蛍光体原料を仕上げて東芝・松下電器産業・三菱電機へ持ち込んだが、無名でコネもなく、いずれにも採られなかった。1956年に新日本電気が試験採用し、限界とされた2,500ルーメンを超える2,800ルーメンを40ワット蛍光灯で発光させた。事業化の目途が立った同年12月23日、個人経営の協同医薬研究所を清算して資本金400万円・従業員17〜18名で日亜化学工業を設立し、自ら社長に就任した。株式の4分の3は、出資者・世話になった人々・従業員へ4分の1ずつ無償で交付した。

在任中の主な施策
施策

1959年頃からカラーテレビ用蛍光体の研究に入り、10年余りを費やして1971年からソニーのトリニトロン方式向けに供給を始めた。1976年12月期の年商は31億200万円で、従業員175名のうち約30名が試験研究に携わり、売上の4%弱にあたる約1億2,000万円を研究開発へ投じた。1977年4月には照明用三波長蛍光体の製造を開始し、希土類元素を使って赤・緑・青をほぼ同じ明るさで発光させた。その後、大手が量産態勢に入って価格競争へ進んだ赤色系LEDから退き、青色LEDの開発に着手した。 阿南市で蛍光体原料開発

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1932〜1989年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 2件
参考文献
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」

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