日亜化学工業塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立

硝酸カルシウムか、塩化カルシウムか——通説の外側にある原料をなぜ選べたのか

時期 1956年12月
意思決定者(推定) 小川信雄 日亜化学工業 社長
論点 次の製品と原料系統の選択
概要
1951年から協和醗酵へストレプトマイシン用の高純度塩化カルシウムを納めていた小川信雄氏が、硝酸カルシウム系という通説を外して塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料を作り上げ、1956年12月に資本金400万円で日亜化学工業を設立した経営判断。
背景
阿南市周辺の石灰石から作る高純度塩化カルシウムで経済的な基盤を得たものの、小川氏は薬のライフサイクルを5、6年と見積もり、この1本では数年で行き詰まると判断して次の製品を探していた。
内容
蛍光体用のリン酸カルシウムは硝酸カルシウムから作るという通説に対し、すでに量産していた塩化カルシウムを原料に選んだ。1955年に原料を完成させ、東芝・松下・三菱には断られたが、1956年に新日本電気が試験採用し、2,500ルーメンが限界とされた40ワット蛍光灯で2,800ルーメンを実現した。
含意
米シルバニア・エレクトリック社からの直接発注、国鉄主催の照明コンクールでの3年連続第1位、松下・三菱電機への納入が続き、1959年には蛍光体原料の売上がストレプトマイシン用を上回った。硝酸カルシウム系にとどまった東芝も1965年末に主原料を切り替えた。
筆者の見解

測られるまで証明できない選択

手持ちの塩化カルシウムを蛍光体原料へ振り向けた選択は、技術の飛躍ではなく、既存の工程の行き先を付け替えるものであった。硝酸カルシウムでなければ駄目だという通説を退けられたのは、小川氏が協和醗酵向けの量産を通じて、自分の作る塩化カルシウムの純度をメルク社の原料と比べて把握していたからだとみられる。東芝も松下も三菱も取り合わなかった1955年の時点で、判断を支える材料は市場の評価ではなく、自社の測定値しかなかった。

もっとも、この選択が正しかったと確かめられたのは、新日本電気が試験採用に応じ、2,800ルーメンという数字が出た1956年である。それまでの1年、原料は売れず、会社は個人経営の薬の研究所のままであった。薬の寿命を5、6年と見積もった読みにしても、外れれば次の製品を持たないまま本業が細る。通説を外す判断は、外した先の数字が誰かの手で測られるまで正しさを証明できないといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

薬の寿命を5、6年と見積もった技術者

小川信雄氏が郷里の徳島県阿南市へ戻り、協同医薬研究所を興したのは1948年である。小川氏は市の周辺に産する良質の石灰石に含まれるカルシウムと塩酸から、結核の特効薬ストレプトマイシンの主原料である高純度塩化カルシウムを研究した。当時この原料は米国メルク社からの輸入に頼り、国産化を試みる協和醗酵が供給先を探していた。1951年に量産した無水塩化カルシウムはメルク社の原料を上回る純度で、協和醗酵への納入を一手に引き受けた[1][2][3]

ストレプトマイシンを製造していたのは協和醗酵と明治製菓の2社だけで、発注は急増し、個人経営の研究所はここで経済的な基盤を得た。ところが小川氏は、薬のライフサイクルをせいぜい5、6年と見積もり、この1本に頼れば数年で行き詰まると判断する。次の製品を求めて毎日のように文献を探索し、塩化カルシウムから作るリン酸カルシウムが、当時急速に普及し始めていた蛍光灯に使われることを知った[4][5][6]

決断

硝酸カルシウム系という通説の外側

蛍光灯用の蛍光体は、当時アメリカから輸入した原料を家電メーカーが自社工場で焼成しており、国内での製造は至難とされていた。蛍光体用のリン酸カルシウムは硝酸カルシウムから作らなければ駄目だというのが通説で、小川氏自身もその製造に携わっていた。それでも選んだのは、協和醗酵向けにすでに量産していた塩化カルシウムを原料とする道であった。石灰石から高純度の塩化カルシウムを取り出す既存の工程が、そのまま新しい製品の入口になる[7][8][9]

1955年、小川氏はほぼ自信の持てる焼成前の原料を作り上げ、東芝、松下、三菱の各社へ持ち込んだ。どこも取り合わなかった。無名でつてが無かったことに加え、この分野で最も進んだ技術を持つ東芝が硝酸カルシウムを主原料としていたため、原料系統そのものが評価の対象から外れた。通説の外側で作った製品は、性能を試してもらう機会すら得られない状態であった[10][11]

2,800ルーメンと資本金400万円

1956年、新日本電気が日亜の原料を試験的に採り上げ、これを焼成した蛍光体で40ワット蛍光灯の試作品を作った。当時40ワット蛍光灯の明るさは2,500ルーメンが限界とされていたところ、この試作品は2,800ルーメンを発光した。新日本電気は技術提携先で蛍光体生産では世界最大手の米シルバニア・エレクトリック社へ製品を送り、同社も性能に驚いて日亜へ直接発注してきた[12][13]

事業化の見通しが立った1956年12月、小川氏は資本金400万円で日亜化学工業を設立した。従業員は17、8名であった。株式は4分の1を協同医薬研究所の陰の出資者へ渡し、残りも世話になった関係者と従業員へ4分の1ずつ無償で交付している。個人経営の協同医薬研究所は実質的な清算を迎え、蛍光体原料の本格生産は新会社が引き受けた。工場は阿南駅の南西およそ10キロの新野にあり、水と緑に恵まれた現在地への移転は1962年を待った[14][15][16]

結果

光度競争と原料系統の逆転

新日本電気は1957年から1959年にかけて、日亜の原料による蛍光灯で国鉄主催の照明コンクールの第1位を3年続けて獲得した。1958年末には松下から、1961年からは三菱電機からも発注が入り、両社は当時の壁とされた3,200ルーメンを超える製品を開発できた。硝酸カルシウムを主原料とする東芝は光度競争で苦しみ、1965年末に主原料を日亜製へ切り替えた[17][18]

社内でも売上の順序が入れ替わった。1959年、蛍光体用原料の売上がストレプトマイシン用の塩化カルシウムを上回り、薬の原料で立ち上がった会社は照明材料の会社になる。新日電の蛍光灯が世界一の明るさを記録した理由が日亜製のリン酸カルシウムにあることは、シルバニア・エレクトリック社のテストでも裏づけられ、松下電子をはじめとする新規の有力取引先が増えた[19][20]

出典・参考
  • 中小企業金融公庫月報 1977年4月号「技術開発に生きる小川経営――日亜化学工業㈱を訪ねて」
  • 商工ジャーナル 1994年7月号「快適な“色光”開発の最先端に挑戦(日亜化学工業㈱)」
  • 商工ジャーナル 1996年1月号「高輝度実現、夢の青色LED――小川信雄・日亜化学工業㈱会長」

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