日亜化学工業青色LED特許の囲い込みとライセンス供与の拒否、2001年の方針転換と発明対価訴訟の和解

特許を独占するか、開いて収入に変えるか——世界首位に立った会社が、発明者との訴訟のさなかに方針を改めるまで

時期 2001年9月
意思決定者(推定) 小川英治・田崎登 社長・常務・第二部門長
論点 知的財産戦略と職務発明の対価
概要
日亜化学工業は青色LEDに関する特許を100件以上取得し、ライセンス供与を拒んで市場を1社で占める方針をとった。2001年に相次いだ敗訴と特許無効の判断を受け、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出す方針へ改めた。並行して、発明者である中村修二氏との職務発明対価訴訟が2005年1月の和解まで続いた経営判断である。
背景
1993年に青色LEDを実用化した後、日亜化学工業は特許を武器に豊田合成と十数件の訴訟を続け、ローム・松下電器産業・三洋電機など十数社のライセンス要請を断った。競合が現れない分だけ単価が落ちず、2000年12月期は売上高営業利益率27%超に達した。
内容
2001年5月と12月の住友商事訴訟での敗訴、6月の層構造特許の無効判断を経て、三菱化学出身の田崎登常務を半導体事業の第二部門長に据え、優れた特許を持つ企業へのライセンス供与に道を開いた。発明者の中村修二氏は同年8月、20億円の一部請求と第2628404号特許の権利譲渡を求めて東京地裁へ提訴した。
含意
東京地裁は2004年1月に利益1,200億円・貢献度50%と認定して200億円の支払いを命じたが、2005年1月11日の東京高裁での和解は利益120億円・貢献度5%とし、遅延損害金を含め約8億4,000万円で決着した。算定根拠が不明確だという批判は、日亜化学工業側と中村修二氏側の双方から出た。
筆者の見解

守る道具として使い始めたとき

ライセンスを出せば田舎の小さな会社は一気につぶされる——十数社に繰り返されたこの説明は、日亜化学工業が2000年に世界のLED市場で首位に立った時点で、自らの成功によって成り立たなくなった。田崎登常務がもう小さいという言い訳はできないと述べたのは、その承認にあたる。100件を超える特許は市場を守るために設計されたものではなく、中村修二氏が個々に出願した結果の集まりで、守る道具として使い始めたときに偏りが露呈した。

ただ、囲い込みを誤りと片づけるのは後知恵に近い。競合が現れない分だけ単価は落ちず、売上高営業利益率27%超という収益はそこから生まれている。窒化ガリウムの研究では自社が先行していたと豊田合成が主張し、法廷でも勝ち始めた経緯を踏まえれば、早くにライセンスを開いていれば単独首位を保てたとも言い切れない。むしろ重いのは、発光効率で20%台にとどまり他社から特許を借りかねない位置まで来て、ようやく方針が動いた点にあるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

他社に作らせないという方針

日亜化学工業は青色LEDの特許を100件以上取得し、他社に製品を作らせずに市場を1社で占める方針をとった。製品を出したメーカーとは法廷で争い、1996年8月以降、豊田合成との訴訟は十数件に達する。そのほとんどは日亜側から仕掛けたもので、藤井章夫特許部長は2001年夏の時点でこれを8勝2敗と表現した。ライセンス供与も徹底して拒み、徳島の本社を訪れた各社には、田舎の小さな会社なのでライセンスを出せば一気につぶされる、と繰り返した[1][2]

ロームで半導体事業を率いた高須秀視取締役は1998年9月からたびたび徳島へ足を運んだが、そのたびに断られ、1999年秋に交渉は決裂した。松下電器産業や三洋電機など十数社も同じ扱いを受けている。競合が現れない分だけ単価が落ちず、高収益の事業になったと社内では見られていた。2000年12月期の売上高は700億円に迫り、売上高営業利益率は27%を超え、従業員は2,500人に達している。囲い込みは、少なくとも数字の上では働いていた[3][4]

網羅性を欠いた特許群と、先行を主張する側

もっとも、その100件余りは市場を守るために設計されたものではなかった。特許のほとんどを取得した中村修二氏自身が、バランスを考えて申請したわけではなく自分で勝手に出したものばかりで、網羅性があるとは思えず今となっては穴だらけではないか、と述べている。中村氏が開発に打ち込んでいたころの日亜化学工業には半導体技術に詳しい人間がほとんどおらず、将来の事業を見据えて網羅的に特許を取ろうという考えすらなかった[5]

日亜が一方的に有利だという当時の報道には、異議も出ていた。豊田合成社長補佐の田中裕副社長は、実用化でこそ日亜が先行したものの、青色LEDの材料である窒化ガリウムの研究に取り組んだのは豊田合成の方が早く出願も早かったとして、報道は実態とかけ離れていたと反論している。青色LEDの特許マップを作成したトムソンコーポレーションの栗原健一氏も、日亜の特許は分野を網羅しているというより偏りが目立つと指摘した[6][7]

決断

連敗と、ライセンスを出すという方針

2001年に入り、前提が崩れた。5月15日、米クリー社製の青色LEDを輸入・販売していた住友商事への訴訟で、東京地裁はクリー製品の構造が日亜の特許とは別物だとして日亜を敗訴させた。日亜は控訴したものの、同年12月にも敗れている。6月13日には東京高裁が、日亜の層構造に関する特許を公知として無効と判断した。7月にはロームが京都地裁へ、8月には豊田合成が大阪地裁へ、いずれも日亜による特許侵害を訴えて提訴した[8][9]

発光効率でも足元が揺らいでいた。学会発表で見る限り米クリーはすでに30%を超え、蛍光灯の40%に迫っていたのに対し、日亜化学工業は20%台にとどまる。同社はこの年、LEDを中心とする半導体事業を統括する第二部門長に、三菱化学で長く半導体開発に従事し1999年4月に入社した田崎登常務を据えた。田崎登常務は、世界のLED市場で首位に立った以上もう小さいという言い訳はできないとして、優れた特許を持つ企業にはライセンスを出したいと表明した[10][11]

発明者との訴訟という、もう一つの戦線

争いは社外だけではなかった。青色LEDを開発した中村修二氏は1999年12月に日亜化学工業を退職し、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校へ移る。本人が退職の理由に挙げたのは、待遇の低さと、研究の現場から引き離されたことであった。この発明で受け取った報奨金は2万円で、1994年ごろから国際学会で年収を話すと、米国の技術者に奴隷のようだと驚かれたという。退職時に迫られた秘密保持契約への署名は拒み、退職金も受け取らなかった[12][13][14]

日亜化学工業は2000年、営業秘密の漏洩とコンピューター詐欺の2訴因で、米ノースカロライナ州の連邦地裁へ中村氏を訴えた。米国で訴えられれば証拠開示にあらゆる情報を出さねばならない。自宅も研究室も調べられて疲弊したことが日本での提訴の引き金になったと、中村氏は語っている。2001年8月23日、中村氏は20億円の一部請求と第2628404号特許の権利譲渡を求めて東京地裁へ提訴する。代理人を務めた升永英俊氏は、貢献度を中村氏8割・日亜2割と主張した[15][16]

結果

帰属をめぐる中間判決と、200億円判決

米ノースカロライナ州の連邦地裁は2002年4月、コンピューター詐欺についての日亜化学工業の請求を棄却した。同年9月、東京地裁は中間判決で第2628404号特許の帰属を日亜と認めている。1985年に改正された社規が特許法35条にいう勤務規則にあたること、職務発明の権利譲渡について黙示の合意があったこと、個別の譲渡契約も成立していたことが理由であった。升永弁護士は、社規のどの条項が譲渡を示すのか明記がないと反論している[17][18]

日亜化学工業の側は、中村氏が帰属にこだわるのは特許を得た場合にクリーへライセンスを出す契約があるためだと見ていた。争点は相当の対価の算定へ移り、2004年1月、東京地裁は日亜が得た利益を1,200億円、中村氏の貢献度を50%と認定して200億円の支払いを命じる。産業界からは常識を無視した判決だという反発が一斉に上がった。同じ月には日立製作所の光ピックアップ訴訟でも1億6,300万円の判決が出て、職務発明の対価は経営の問題になった[19][20]

8億4,000万円での和解と、双方に残った不満

2005年1月11日、東京高裁で和解が成立した。和解は404号以外の発明も一括したうえで、一連の発明によって日亜化学工業が得た利益を120億円、中村氏の貢献度を5%として対価を6億円と算定し、遅延損害金を含む約8億4,000万円の支払いで決着した。青色LEDは無数の要素技術の総合体で日亜技術陣全体の成果だという会社側の主張に、地裁判決では顧みられなかった理解が示された形である。小川英治社長は、現場で働いた若い技術者たちの名誉が回復されたと述べた[21][22]

和解案の算定根拠が不明確だという一点では、争ってきた両者の批判が重なった。升永弁護士は具体的な根拠を示さないまま貢献度5%を上限とするような判断はおかしいと述べ、日亜幹部も、同じ算定式なら仮に10%といわれても反論できないと語っている。囲い込みが手放したものも小さくない。1994年当時に十数社から届いていた申し出に応じてライセンスを出していれば、年間100億円から200億円の特許収入になっていたはずだという見方が、社外にはあった[23][24]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「功労者激怒させた日亜化学、大ピンチに」
  • 日経ビジネス 2001年8月27日号「青色LEDの中村氏、日亜化学を提訴」
  • 日経ビジネス 2001年9月3日号「日亜化学、特許戦略を転換か」
  • 日経ビジネス 2002年1月14日号「激化する青色LED開発競争」
  • 日経ビジネス 2002年9月30日号「青色LED特許訴訟敗訴に中村修二教授が猛反発」
  • 週刊東洋経済 2002年10月5日号「青色LED裁判 発明者・中村教授が語る中間判決『敗訴』への疑問」
  • 週刊東洋経済 2004年2月14日号「巨額特許判決の衝撃 爆発する研究者の『恨み』」
  • 週刊東洋経済 2005年1月22日号「青色LED訴訟和解成立 中村教授『逆転敗訴』のなぜ」

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