U-Bixで事務機参入(1971年・コニカの決断)更新:2026/07/28論点写真材料から複写機事業へ参入するかコニカ:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所電子複写機の投入に合わせた八王子工場のカメラからの転換何をなぜ決めたか:電子複写機の投入に合わせた八王子工場のカメラからの転換概要1971年1月、写真材料とカメラを主力としてきた小西六写真工業が電子複写機U-Bixを発売し、事務機市場へ参入した判断。米ゼロックスが張りめぐらせた約900件の特許に一つも触れない設計で製品をまとめ、あわせて八王子工場をカメラから電子複写機の専門工場へ衣替えした。背景1968年3月期に無配へ転落し、無配は8期続いた。同年4月に創業家の世襲を破って社長へ就任した西村龍介氏は、天候に売上が左右されるフィルム依存からの脱却に再建の力点を置いた。感光材料の増強については、コダックの規模と技術の秘密性から後発に成算はないと見ていた。内容開発に先立って担当の全技術者をゼロックスのユーザーへ派遣し、半年をかけてクレームを集め、感光性の向上と解像力の強化に開発の焦点を絞った。八王子工場の転換では製品転換による人員整理をしないと確約し、1年間は賃金と職級に手を付けないと約束して労組の協力を得た。含意U-Bixの売上は1971年下期の19億円から半期ごとに増加し、1973年3月期には全社売上高の20%を占めて参入3年目でカメラを上回った。復配は1972年3月期に果たし、1976年までに7万台以上を出荷して売上の4分の1を稼いだ。写真材料一本だった会社に第二の柱ができた。いつ何が起きたか7件考察:特許の隙間に見つけた、二つ目の市場考察考察:特許の隙間に見つけた、二つ目の市場ゼロックスが張りめぐらせた約900件の特許に、一つも触れない。U-Bixはこの条件を満たして完成し、各国の販売業者から注文が殺到した。参入の競争の焦点は、複写の性能より先に他社の特許をどこまで調べ切れるかにあったとみられる。開発に先立って全技術者をゼロックスのユーザーへ送り、半年をクレーム集めに費やした手順も、同じ構えから出ている。冨岡弘社長が後年語った"抜け穴"を、U-Bixは特許の空白と利用者の不満という二か所で突いた。ただ、この参入で事務機市場の勢力図が変わったわけではない。7万台を出荷してなお、シェアは米国で2%、欧州で5%にとどまった。西村龍介社長が八王子工場の転換で人員整理を封じたことも、この入れ替えを支えた条件だったと推察される。救われたのは市場での順位ではなく、無配8期の会社そのものであった。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考証券アナリストジャーナル 1973年11月号(西村龍介社長 講演要旨)日経ビジネス 1976年6月21日号日経ビジネス 1978年4月10日号日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「OA-オフィスの自動化進む」小西六写真工業 有価証券報告書【沿革】次に読む決断コニカの意思決定1986年コニカコニカ米ロイヤル社の子会社化北米の事務機販売網を自前で持つための完全子会社化1986年1987年コニカコニカコニカへの商号変更輸出ブランドを社名に据え、「写真工業」を外した商号の一新1987年同じ問い:新技術による祖業の転換1970年象印マホービン象印マホービン電子ジャーの発売自社開発の製品を足がかりに、魔法瓶専業から家庭用電気製品部門への進出1970年1973年シャープシャープ液晶電卓EL-805発売電卓の価格競争から降り、半導体と液晶という独自デバイスに経営資源を集中した転進1973年1960年日本製鋼所日本製鋼所アンケル・ベルクと成形機提携技術導入によるプラスチック射出成形機事業の立ち上げと、一般産業機械部門の拡大1960年1960年クボタクボタ純国産トラクタT15形の発売耕うん機から完成機体系への農業機械の組み替え1960年1985年山之内製薬山之内製薬米メルクへの技術輸出自社創製のH2ブロッカー「ガスター」の発売と、技術を海外へ導出する側への転換1985年×出所