コニカ電子複写機U-Bixの発売による事務機市場への参入と、八王子工場のカメラからの転換

感光材料を厚くするか、別の市場を持つか——無配8期の小西六写真工業が写真材料一本の会社をやめた道筋

時期 1971年1月
意思決定者(推定) 西村龍介 社長
論点 写真材料依存からの脱却と第二の柱づくり
概要
1971年1月、写真材料とカメラを主力としてきた小西六写真工業が電子複写機U-Bixを発売し、事務機市場へ参入した判断。米ゼロックスが張りめぐらせた約900件の特許に一つも触れない設計で製品をまとめ、あわせて八王子工場をカメラから電子複写機の専門工場へ衣替えした。
背景
1968年3月期に無配へ転落し、無配は8期続いた。同年4月に創業家の世襲を破って社長へ就いた西村龍介氏は、天候に売上が左右されるフィルム依存からの脱却を再建の柱に据えた。感光材料の増強については、コダックの規模と技術の秘密性から後発に勝ち目はないと見ていた。
内容
開発に先立って担当の全技術者をゼロックスのユーザーへ派遣し、半年をかけてクレームを集め、感光性の向上と解像力の強化に開発の焦点を絞った。八王子工場の転換では製品転換による人員整理をしないと確約し、1年間は賃金と職級に手を付けないと約束して労組の協力を得た。
含意
U-Bixの売上は1971年下期の19億円から半期ごとに増え、1973年3月期には全社売上高の20%を占めて参入3年目でカメラを上回った。復配は1972年3月期に果たし、1976年までに7万台以上を出荷して売上の4分の1を稼いだ。写真材料一本だった会社に第二の柱ができた。
筆者の見解

特許の隙間に見つけた、二つ目の市場

ゼロックスが張りめぐらせた約900件の特許に、一つも触れない。U-Bixはこの条件を満たして完成し、各国の販売業者から注文が殺到した。参入の勝負どころは、複写の性能より先に他社の特許をどこまで調べ切れるかにあったとみられる。開発に先立って全技術者をゼロックスのユーザーへ送り、半年をクレーム集めに費やした手順も、同じ構えから出ている。冨岡弘社長が後年語った「抜け穴」を、U-Bixは特許の空白と利用者の不満という二か所で突いた。

ただ、この参入で事務機市場の勢力図が変わったわけではない。7万台を出荷してなお、シェアは米国で2%、欧州で5%にとどまった。それでもU-Bixは、一雨ごとに1億円が消えるといわれた写真材料から収益を切り離し、参入3年目にカメラの売上を追い越している。西村龍介社長が八王子工場の転換で人員整理を封じたことも、この入れ替えを支えた条件だったとみられる。救われたのは市場での順位ではなく、無配8期の会社そのものであった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

無配8期と、初の非同族社長

1968年3月期、小西六写真工業は無配へ転落した。同年の株価は高値96円、安値は額面割れ寸前の51円まで沈み、抱えた赤字は資本金の20%に相当した。同年4月、会社は創業者の杉浦家から社長を出す慣例を初めて破り、技術担当常務の西村龍介氏を社長に据えている。西村氏より上位にいた役員は一掃され、若手が役員に登用された。無配はこの後8期続いた[1][2][3]

不振の一因は労使関係にあった。発祥の地である新宿に近い工場は戦後まもない時期から激しい争議の場となり、「小西六といえば年中赤旗が立てられている」と言われた。西村社長は就任にあたって組合三役と会い、一般従業員の首は切らないと宣言している。自身が工場長のときに人員整理を2度経験していたからである。一方で部課長には厳しく臨み、15%にあたる40名へ格下げか退社を求めた[4][5]

「お天気商売」からの脱皮という課題

西村社長が再建の柱に据えたのは、商品構成そのものの入れ替えであった。主力のフィルムや印画紙は「一雨ごとに1億円の減収」と言われる天候次第の商売で、そこから脱皮しなければ経営基盤は安定しないと会社は見ていた。「職場はなくなっても、雇用は確保する」という方針のもとで、社内はこの入れ替えを商品の「全天候型化」と呼び、白黒フィルムのように利益の薄い品目の切り捨てもあわせて進めた[6][7]

感光材料を厚くする道には、西村社長自身が見切りをつけていた。後発会社はどこも成功していないというのが見立てで、米スリーエムのフエラニア買収、デュポンのシュロイスナー買収、英ICIのイルフォード買収を、いずれも不調の例に挙げている。原因はコダックが大き過ぎることと、秘密性が高く技術者を引き抜いても事業が興せないことにあった。この壁は小西六を後発の参入者から守りもしたが、同時に自社の伸びる余地も塞いでいた[8][9]

決断

ゼロックスの特許900件を避けて作る

乾式の電子複写機は、米ゼロックスが押さえた技術であった。小西六は開発に先立ち、担当の全技術者をゼロックスのユーザーのもとへ派遣し、クレームを聞いて回らせている。陣頭指揮を執った栗田善一郎常務は「まるまる半年、その調査に明け暮れたために、感光性の向上や解像力の強化に開発の焦点を絞ることができた」と述懐した。使い手の不満を先に集めたことが、開発の的を絞り込んでいる[10]

1971年1月、電子複写機U-Bixの製造販売が始まった。ゼロックスは網の目のように約900件の特許を張りめぐらせていたが、小西六の技術はその一件にも触れずに作り上げられている。これが各国の販売業者に評価され、注文が殺到して代理店権の奪い合いまで起きた。売り込みに苦労するどころか、相手を選びながら世界の販売網を築くことができた。会社にとっては予想外の恩恵であった[11][12]

八王子工場をカメラから複写機へ

人員整理なしに体質を改められるかどうか。その試練は、まず八王子工場を電子複写機の専門工場へ衣替えできるかどうかにかかっていた。陣頭指揮を執った栗田常務は「カメラ一筋に生きて来た腕に誇りのある社員たちに、その技能を捨てろと言い含ませるのは非常につらかった。だが、再建のためにはそれしかないと説いて回った」と当時を振り返っている。八王子でつくるものを、カメラから複写機へ入れ替える作業であった[13]

会社はまず、製品転換による人員整理はしないと確約した。技能の転換には教育訓練を徹底し、「1年間は猶予期間として、賃金の補償はもとより、職級にも手を付けない」と約束している。ついていけない中高年には設備を簿価で譲ったうえで仕事も発注し、旋盤や研磨の腕を捨てられない者には関連会社への出向の道を開いた。労組の高野守委員長は分離による黒字化に協力し、このとき赤旗は1本も立たなかった[14][15][16]

結果

参入3年目でカメラを抜く

U-Bixの伸びは急だった。売上は1971年下期の19億円から、1972年上期34億円、同下期53億円と半期ごとに増え、1973年9月期には65億円から70億円が見込まれた。1973年3月期の全社売上高は266億円で前期比8%増、経常利益は15億8,200万円、税引利益は6億500万円である。売上構成比はフィルム40%、電子複写機20%、カメラおよび交換レンズ19%となり、参入3年目の複写機がカメラを上回った[17][18]

生産は月産500台で始まり、すぐに1,000台、1,500台へ増強されて、1976年までに7万台以上を出荷した。同年には売上の4分の1を占め、米国で2%、欧州で5%のシェアを得ている。複写機の輸出比率は56%に達し、国内の事務機市場だけを相手にした製品ではなかった。復配は1972年3月期の6%に始まり、同年9月期10%、1973年3月期には記念配2%を含む12%まで戻している[19][20]

巨大企業の抜け穴を突く

1973年11月、常務としてU-Bixの開発と輸出を担ってきた冨岡弘氏が社長に就いた。冨岡社長は1978年の取材で再建の柱を問われ、「カメラとフィルムに没頭していたら、水面上に出られなかったでしょう。ポコッと頭を出したのはやはり複写機ですね」と答えている。資金繰りについては「8期無配を続けたうち、6期は苦しみました」と振り返り、銀行の協力を得られたことを100年の歴史の効用に数えた[21][22]

1975年度の売上高は小西六が870億円、富士写真フイルムが1921億円、キヤノンが750億円で、税引利益はそれぞれ25億円、61億円、8億円だった。売上でも利益でもキヤノンを上回り、富士との規模の開きはなお2倍を超えた。冨岡社長は「まともに競争したら勝ち目はない」と見切ったうえで、「巨大企業には抜け穴がある。そのスキを突くんですよ」と語っている。複写機はのちに、各業界から企業が集まるOA産業の中核商品となった[23][24][25]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」(西村龍介社長 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号「小西六写真工業 再建・躍進の秘密は『人間尊重経営』に」
  • 日経ビジネス 1978年4月10日号「編集長インタビュー 冨岡弘(小西六写真工業社長)巨大企業には相手の仕方がある」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「OA-オフィスの自動化進む」
  • 小西六写真工業 有価証券報告書【沿革】

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